秘め事3
 祭り囃子が聞こえてくる。あちこちから出店が出す食べ物の食欲をそそるいい匂いがしている。
 夏休み。どの学生も心踊らさずにはいられない長い休み。ただ、洋子にとってそれは退屈だった。
 やることは決まっている。夏休みの課題を片付けた後、脚本の構想を練る。そのために図書館に通い、何かネタになるものはないかと探し回り、夕方には帰宅。家政婦の幸恵が作った食事を食べる、もしくは彼女の作った食事を温めて食べ、風呂へ入り、就寝までの時間は机に向かい、図書館で借りてきた資料を読むか、パソコンを用いて脚本を書いているか。
 近くでイベントがある日はその限りではない。そういった場の雰囲気や、匂い、それに集まってくる人々は脚本のヒントになり得るからだ。
 だから毎年、七月末日に行われる街の祭りには参加していた。
「すみません、お待たせして」
 人波から離れて立っていた洋子に話し掛ける中年の男性。その両手にはからあげと缶ビールが握られている。
 彼は洋子の担当だ。テレビ局で彼女の脚本を読んだり、連絡を取ったりするのはもっぱら彼の役目である。今日は脚本の使用許可と脚本そのものを取りに洋子の地元までわざわざ訪ねてくれたのだ。
「大丈夫ですよ。菅浪さん。それより私も持ちます。さっきもビール買ってたから重たいでしょう?」
 彼の両手にはからあげと缶ビールがあるが、その腕にはすでに焼きそばやたこ焼きが入ったビニール袋、缶ビールが数個入ったビニール袋がぶら下がっていた。ビールを始め彼が買った物が大半であるが、洋子が買った物もある。それら全てを持つと菅浪が申し出た為、洋子はそれに甘えることにしたのだ。
「いえ! 絶対ダメです! 洋子さんにそんなことさせた日にゃ、俺、山口先生に殺されますよ!」
 菅浪は慌てた様子で洋子の言葉に首を振った。大きくリアクションをしたために、彼が持ったビールの缶が揺れて中から水音が聞こえた。
 菅浪は新入社員だった頃、あるドラマでADをしていて、そのドラマの脚本を書いたのが洋子の父だった。詳しく何があったのかは洋子も知らないが、どうやら彼は父に大層世話になったらしく、現在洋子の脚本がテレビのドラマや、系列のラジオで採用してもらえるのは一重に彼のお陰だった。
「すみません、色々買ってしまって」
 祭りに来ると適当に出店で食べ物を買うのはもう毎年のことで、それに慣れてしまった幸恵はこの日に限り食事を作らない。作り置きもその分減らされている。
 毎年あちこちで食べ物を買うのには理由がある。もちろん脚本の為だ。出店によって微妙に味が違うのと、その感想が薄れないように毎年感想は塗り替えることにしている。脚本には出来るだけ臨場感が欲しい。
「全然問題ないですよ! 俺も毎年楽しみなんで!」
 細いのに食べるのが好きらしい菅浪は、毎年この日は用がなくとも洋子を訪ねてくる。そして家に寄って、仏壇に手を合わせた後でその前にテーブルを出して二人でそれらを食べる。供養の意味もあるし、感想を言い合うことで別の表現が見えることもあるので洋子もこの日は楽しみにしているのだ。
「他にもっと買いますか?」
 菅浪は洋子に敬語を使う。それは彼なりの敬意らしい。いつだったか、年上だから敬語で話さなくても、と言った洋子に「山口先生とこうやって話したかったので。洋子さんはその代わりです。あ、すみません。失礼なことをっ」と謝ってきた。クルクルと表情を簡単に変えるこの人生の先輩のことを、洋子は好いていた。男性としてではなく、人間として。
「いえ、結構買いましたから。そろそろ帰りましょうか」
「そうですね」
 食欲を刺激され続けていたからか、菅浪は洋子の「帰る」という提案に、汗を垂らしながら嬉しそうな顔をした。こういうところが彼の憎めないところなのだ。
 ところが、不意に彼が怪訝そうな顔をする。
そして突然身体をもじもじと動かし始めた。
「どうしたんですか?」
「いや、スマホが鳴ってるみたいで。リュックの中なんで音は聞こえませんけど、振動が」
「あ、私、持ってます」
「す、すみません」
 リュックサックを下ろすには両手を肩紐から抜くか、手を背中に回さなければならない為、洋子は荷物持ちを申し出た。
 さすがにこの時ばかりは菅浪も両腕のビニール袋と缶ビールを洋子に渡す。そして背負っていたリュックサックを前に回すとその背面部分のポケットからスマホを取り出した。
「うわ、局からだ。嫌な予感」
「出て下さい。緊急かも」
「そうですね。すみません」
 そう言い残して菅浪は人波の向こうへ消える。ここでは周りの声が大きくて聞こえないからだ。
 一人残された洋子は脚本のことを考え始めた。
 今年は不作だ。
 そう思って洋子は苦い顔をする。
 毎年、図書館に通って資料になりそうなものを見ている内に一つ二つは思い浮かぶのだが、今年は全くだった。それもそのはずで、そもそも図書館行けたのが数える程だった。一人のときがないに等しい。洋子の家には、すっかり野良猫が入り浸るようになってしまったからだ。
 野良猫とは、あの二階堂大和に他ならない。彼は家政婦の幸恵がいない日は毎日のように洋子の家で一日を過ごしていた。
 毎日出掛けていて親は心配しないのかと聞くと、「別に」といいのか悪いのか良くわからない返事をして不貞寝してしまったのでもしかすると親と不仲なのかも知れないと洋子は考えていたが、本人に聞いたところで適当にはぐらかされてしまうことだろうということは予想が付いた。
 洋子にとってこれほどの時間を他人と共有するのは初めてのことで、誰も言わないだけで普通のことなのかも知れないと辺りを見渡す。
 浴衣を着た数人組の女子が仲良さげに洋子の前を通り過ぎる。洋子と同い年くらいの彼女達はこのまま祭りを堪能してそれぞれ自宅に帰るのだろうか、それとも誰かの家にこのまま泊まるのだろうか。どちらの経験も洋子にはない。想像するしかない。もしも後者ならば、性別が違うだけで大和がしているのはそういうことなのかも知れない。そう考えて洋子は気付く。
 そうか、これが友達なんだ。
 どうしてそんなことが分からなかったのか。彼は友達だ。学校の人達には秘密だけど、洋子には二人の関係がそれに見えた。
 改めてそう思うと少し照れくさい。彼は洋子にとっての初めての友達だったからだ。
 そういう考えに至ってからもう一度彼女達が去って行った方へ目を向けた。彼女達は友達同士で、仲良く祭りに繰り出しているのだと思いながら色とりどりの帯で彩られたその背中を見送った。
 彼女達が去った方向に神社へと続く石段が見えた。幸い、洋子に見える下段部分には誰も座っておらず、また誰も座る様子がない。洋子はそちらへ脚を進めた。
 液体の入ったビニール袋が重く感じたことと、蒸し暑い中をずっと歩いていたので疲れを感じた為だった。
 石段に辿り付いた洋子はビニール袋を石段に置き、その横に缶ビールを置く。身を屈めて袋の中身を整理し、食べ物を二つのビニール袋に分けた後、缶ビールを一つにまとめたところで斜めに掛けていた鞄の中でスマホが鳴っていることに気が付いた。
 荷物整理のためにかがめていた身体を起こして、鞄を漁り、それを取り出すと画面に目をやる。菅浪からの電話だった。
「はい」
「洋子さん、すみません。局でトラブルがあったらしくてすぐ戻らなくてはいけなくなってしまいました」
 慌てた様子がその声から伝わってくる。
「分かりました。あ、食べ物とか……」
「すみません。結構離れた位置に移動してしまっていて、取りに戻ってる時間ないんで洋子さんの方で食べてもらってもいいですか?」
「それは大丈夫なんですが……」
「お願いします。あ、くれぐれもビールは飲まないように。適当に置いといてもらったら次にお邪魔したときに持って帰りますから。もし誰か欲しい人が居たらあげてしまってもいいですけど」
「分かりました」
 洋子に話す隙を与えない辺り、相当急いでいるらしい。それならば適当に電話を切り上げるべきだと洋子は考え、返事を手短に済ます。そんな洋子の考えを知ってか知らずか、菅浪は会話を締め始めた。
「今日はありがとうございました。山口先生の未発表脚本ドラマ、必ずや企画通してみせます!」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
「任せてください! では!」
 そう言って菅浪は電話を切った。電話を切る直前に「タクシー!」と聞こえたので無事に彼はテレビ局へ行けそうである。
 菅浪が洋子を訪ねてくる理由の一つが、彼が「山口先生」と呼ぶ洋子の父親の脚本だ。
 洋子の家には父親が書いた未発表の脚本がまだまだ沢山存在する。それら全ての権利は洋子に譲られてる。とはいっても未成年なので実際は後見人の幸恵に譲られているのだが、幸恵は洋子の思うようにすればいい、と形だけの後見人であるため、実際の使用許可などは洋子が出すことになっている。だから菅浪は洋子を訪ねてくる。
 最初は父の脚本目当てに親切にしてくれているのかと思ったが、洋子の観察眼を持ってして、菅浪はお人好し、と判断を下している為、今はなんの疑いもない。仮に実際そうだったとしても何かしら理由があってのことだろうとすら思えてしまうのだ。
 通話を切った洋子はスマホを鞄にしまってから石段に置かれたそれらを見た。
 食べ物類は帰ってからいくつか食べ、残りは冷蔵庫に入れて明日にでも消費するとして、問題は酒だ。
 飲む気があるわけではない。ただ、酒というものに興味はある。それは知的好奇心の類い。話を作るにはありとあらゆる経験がものをいうことを洋子は知っている。そのものの経験、もしくは似た経験を経てそれが描写、展開への糧となる。酒は洋子がまだ得ていない経験の一つだった。
 だが、菅浪から釘を刺されている以上、飲むわけにはいかない。玄関か、もしくは押し入れにでも入れて置いておこう。
 そんなことを考えながら石段の方を向いていた洋子の背に人影。
「なぁーにやってんの?」
「わっ!」
 後ろから半ば覆い被さるようにして問い掛けてきたのは、この夏休みの間、洋子の家に入り浸っている大和だった。
 突然背後に感じた熱と気配と声に洋子は思いっきり肩をビクつかせて振り返るとその場から数歩後ずさって離れた。
「び、びっくりした……」
「驚き過ぎだろ」
「突然真横から声がしたらびっくりするよ!」
 身長差の関係から、大和が腰を折るだけで彼の唇は洋子の耳のすぐそこに着くことが出来る。その状態で話をされたら当然、直接声がそこに入り込むので真横から聞こえた形となるのである。
 心臓の辺りを押さえて鼓動を収めようとしている洋子と違い、今日も大和は飄々としてる。
 周りには浴衣の人も大勢いるが、大和は洋子がこの夏休み中に何度か見た私服を着ていた。
「で、なにやってんの?」
「か、帰るところ。や――二階堂くんこそ、何してんの?」
「いつもの面子で祭りに来てる」
「そ、そう……」
 危うく、普段の慣れから「大和くん」と呼んでしまいそうだったのを洋子は踏みとどまった。
 大和の言ういつもの面子≠ニは普段教室で彼を囲っている男子達のことだろうと、洋子は辺りを見渡してその姿を探す。一向に見当たらなかった。
「お友達は?」
「はぐれた」
「え、早く合流しないと……」
「いや、もう疲れたからこのままバックれようかなーって」
「だ、ダメだよ! そんな失礼なこと!」
 なんてことないことを言うように笑っている大和に洋子が焦る。
「平気だって。いつものことだから」
「せめて帰るくらい言わないと、探すかもだし!」
 この人混みの中、彼らがすでにそこに居ない大和を探し回るのを想像しただけで洋子は疲れを感じてしまう。もしも探しているのが自分だったら、せめて一言連絡を入れてから帰って欲しいと思っただろう。
「連絡入れなよ、今!」
「えー」
「早く!」
 ブツブツ文句を言いながら、大和は裾が幾分か短めのジーンズのポケットからスマホを取り出して誰かに電話をし始めた。
「おー、今どこ?」
 友達と電話し始めた大和を見ているのもどうかと思ったので、洋子は辺りに目を向けた。
 浴衣を着た女性の視線がこちらに向いていた。目は合わない。その視線を辿って納得した。彼女達が見ているのは私でも神社でもない。大和だった。
 確かに、彼はとびきりのイケメンというわけではないが、どこか顔立ちが立ち振る舞いに色気がある。祭りという非日常の中で彼女達は彼のその色気に惹かれているのだろう。色気ということに注目して大和を見る。汗をかいたしっかりした首筋を眺めていると、なんだか顔に熱が集まってしまう。
 その視線を感じたのか、大和が突然こちらに振り向いた。洋子は驚いて目をしばたかせる。
 電話の向こうの声を聞いてた大和がニッと笑う。何故笑っているのか疑問に思っていると、
「そうそう。女の子ナンパしたからこのまま抜けるってこと」
 大和の言葉に洋子は己を指差すと、彼は一つ頷く。ナンパされたわけではないので洋子は眉を寄せたが、何か理由が欲しかったのだろうと思い直す。男の子の間では普通のことなのかも知れない。
「ばーか。……じゃあな」
 電話の向こうの相手と何か軽口をたたき合っていたらしい大和はスマホをタップして通話を切り、洋子に向き合う。
「ちゃんと連絡した」
「うん。えらい」
「じゃあ、行くか。これ、そう?」
 彼の言っていることがどれ一つ理解出来なくて首を捻る。石段に置いたままのビニール袋を二つ彼が持ったので、後半の「これ、そう?」とは、これは洋子の荷物かという意味らしいと理解して頷いたが、「じゃあ、行くか」の方はよく分からないままだった。
「ど、どこ行くの?」
「山口の家」
「えっ、なんで?」
 歩き出そうとした大和は洋子の声を聞い足を止めた。
「まだなんも食ってなくて腹減ってるから。山口は? 食った?」
「まだだけど」
「これ、全部一人で食うの? 多くないか?」
「本当は二人で食べる予定だったの」
「へぇ……彼氏?」
 悪戯に大和が笑う。洋子は半ば慌てて否定した。
「ち、違うよっ。脚本関係の、テレビ局の人。でも急用入ってさっき帰っちゃった」
「なるほどな。だから酒が入ってるんだ」
 そう言って大和は持っていたビニール袋をカサカサ揺らした。それは缶ビールの入った袋だった。
「てっきり羽目を外して飲むのかと思った」
「飲まないよ。興味は、あるけど……」
 言ってから変な伝わり方をしていないか不安になった。案の定大和は洋子の言葉を洋子が不安に思った通りの意味に受け取ったようだ。
「真面目ちゃんかと思ったら……」
「違う! そういう意味じゃなくて……脚本のヒントになるかなって」
「ふーん。真面目だな」
「それしか、知らないから」
 それしか知らない。自分で言っておいて洋子は少しだけショックを受ける。それしか知らないのに、それの着想すら上手くいっていない。唐突に不安に襲われた。
「あ、ヤベっ」
 珍しく焦った声を出した大和が突然洋子の手を取って走り始める。慌てて石段に一つ残されたビニール袋を取って彼に手を引かれながら走る。しばらくそのまま走って人混みを抜けたところでようやく大和は足を緩め、洋子の手を掴んでいる方とは反対の手を膝に付いて大きく息を吐く。
「焦ったー」
「どうしたの? 急に」
 何かを探るように辺りに目を走らせた大和に、少しだけ息を切らせた洋子が尋ねる。
「近くにあいつら来てた」
 大和の言うあいつら≠ニは彼の友達のようだ。彼らには「ナンパした」と言っていたので、その相手が自分だ思われたら困るのだろうと洋子は思う。
「なんか、ごめん」
「なんで山口が謝るんだよ」
「いや、なんとなく?」
 明確な理由は言いたくなくて濁す。もっと自分が魅力的だったならば大和はあの場から逃げなくても良かったかも知れないと思ったから謝ったのだが、それを口にするのはなんだか嫌だった。そんなプライドがあることに自分で驚きながら洋子はまだ繋がれたままの手を見て慌てた。
「大和くん! 手!」
「なに?」
「手! 手!」
 名字で呼ぶことも忘れる程に大いに慌て、キュッと繋がれたそこと、大和の顔とを交互に見ながら「手」としか言わない洋子が何を訴えたいのか察した大和は再び悪戯に口角を上げる。
「手≠ェどうした?」
「つ、つつ――」
 大和が入り浸るようになってから、至近距離に彼の存在を感じることは増えていた。
 洋子の家にある、父が集めた数々の著書をしまい込んだ宝箱と呼ばれる部屋に共に行ったときや、洋子の背後から彼女の前にあるものを取るときは必ずといっていいほど彼は洋子の背中にその身を寄せて取るからだ。
 だけど、彼とこうして触れ合うことはなかった。唯一そうだと言えるのは初めて彼を家に入れたあの雨の日だけ。それでも、あの日はお互いに服を着ていた状態で抱き合っただけで、彼の肌質を感じたのは今日、今は初めてだった。
 だからこそ、洋子は慌てているのだ。現状を言葉にすることを躊躇うほどに。
 慌てる洋子と対比すると、大和はいつもと変わらない。飄々と、慌てふためく洋子を見ていた。言葉に詰まって何も言えず、目で現状を訴える洋子を見ていた大和が、洋子から繋がれたそれへと視線を移す。するとその手は持ち上がり、洋子の目の高さへ。上げたのは洋子だった。
 じっとその手を見ていた大和。目だけで「これこれ!」と訴え続ける洋子。大和の視線が手から洋子の目に移る。目が合った瞬間。洋子は息を呑んだ。大和の目をこれほどの距離感で覗き込むことが少なかったからだ。
 その反応を見ていた大和は繋いだ状態で掲げられた手を一度パッと開いた。それを見た洋子は彼に倣って同じように手を開く。それは、それを離す為に他ならない。
 ところが、洋子が手を開くことによって出来た指と指の隙間。そこに大和の指が一本一本滑り込んだ。先ほどのよりも、より密着度を増したそれに驚いた洋子が目を見開くと、恋人繋ぎとなった手の向こう側には悪戯に笑う大和の顔があり、洋子はそれを振り解こうと力の限り、腕を振り上げては下ろすという行動を繰り返した。
「痛い、痛い。痛いって」
 そういう割に、大和の声は楽しそうだった。所々笑いが含まれていた。
「こ、これは、さすがに、無理ッ!」
 いくら力を込めて洋子が腕を振り回しても、当の大和が離れないように力を込めて洋子の手を握っている為、一向にそれらが離れる気配はない。洋子が腕を振る度に二人の持ったビニール袋がガサガサと音を立てていた。
「恥ずかし過ぎるっ!」
「いいじゃん。手くらい。減るもんでもなしに」
「減る! 正気が減る!」
「正気って……」
 とうとう堪えきれず、ククク、と声を抑えて笑った大和が何かを思いついたような顔をした後、洋子によってされるがままになっていた腕に力を込めてその動きを止め、一気に自分の方へ引いた。
 突然動きを止められ、腕を引かれた洋子は大和の方へ傾いて、すぐに彼の方へと倒れ込み、足を踏ん張る余裕もなく大和の肩口に頬を付けてしまった。角張ったそこに打ち付けた為、少し痛い。それを自覚するより早くその耳元に大和が唇を寄せ、息を吹き込む。
「正気がなくなったらどうなんの?」
 一瞬で、洋子の顔が熱くなった。その場でヘナヘナとへたり込む。大和と繋がれたままの方の腕だけが持ち上がっていて、反対の腕はダラリと地面に垂れ下がってしまっていた。その腕にあった食べ物が入ったビニール袋もガサリとアスファルトの上だ。
「あらら、刺激強すぎた?」
「――強すぎデス……」
 へたり込んでしまった洋子の両腕を向かい合った自身のそれで掴むと、大和はいとも簡単に彼女を引き上げて立たせる。その力強さに、改めて彼は男性であると認識する。対異性経験値が圧倒的に違う彼にこうしてからかわれるのは今に始まったことではないが、洋子は一向に慣れないでいた。それもその筈だ。洋子にとってそういった経験は初めてのことなのだ。
「悪い悪い」
「絶対思ってない」
「そんなことないって」
「声が笑ってる」
「本当に思ってるよ。……ちょっとは」
 そう言ってまたもや悪戯な笑みを見せた大和に対し、洋子は呆れた表情を見せる。
 自分の何が彼にこうさせるのかは分かっている。男慣れしていない反応が楽しいのだ。だが、いますぐどうこう出来る問題ではないの明白。なぜならば、洋子にとって彼は、今現在唯一接する男性なのだ。
 菅浪は、男性と言うよりも仕事絡みの人であり、父の知り合いであるが故に男性だとか異性だといった概念で接していない。洋子がそういった概念を持ち合わせ、かつ接触するのは大和が初めてのことだった。
「悪かったって。……ほら、帰ろうぜ」
 機嫌を直さない洋子にもう一つ謝罪をして、大和はビニール袋を持っていない方の手を差し出した。握手をしようという出し方ではない。これはまさに。
「ほら」
 大和が差し出した手を揺らして催促するが、それでも洋子は動こうとしない。戸惑いから動けない洋子に大和が助け船。
「ほーら。俺たち友達だろ?」
 しばし戸惑っていた洋子だったが、とうとう観念して大和が出している手とは反対の手を差し出す。
 その手と大和の手が絡む。再び恋人繋ぎとなった手から顔を逸らしている洋子の頬は染まっている。それを見た大和は一つ微笑むと歩き出し、彼の手に引かれて洋子も歩き出す。
 彼の行動に意味はない。洋子からすれば異性への行動にしか見えないそれも、彼にとっては友達に対するそれでしかない。
 そう考えてチクリと痛んだ胸。そんなはずはない。気のせいだ。
 痛みを取り去るために大きく息を吐いた洋子はそれを考えないように大和の背中を見る。
 友達の背中を。/swing/novel/4/?index=1