毒島さん
この部屋から出て行く彼女達を引き留めようとしてドアに手を伸ばした姿勢のまま静止していた。
咄嗟に引き留めようとはしたものの、彼女達が怒って出て行くことになったのはある意味彼女らの自己責任であり、彼女達が部屋から立ち去るのを止める言葉を見失ってしまったのだ。
そりゃ、あんな言い方しなくてもいいんじゃないかとか、たかだか十代の女の子に掛けるには辛辣過ぎる言葉だとかを思わないでもなかったけれど、彼の作品を講評するには彼女らはあまりに幼稚で未熟であることも確かだった。
そしてそれを推察し切れていなかった私にも非はある。なぜなら私は彼女達のマネージャーなのだ。
数秒、いや数分経っていたかも知れない。ようやく手を下ろした私はカタカタとパソコンのキーボードのタイピング音が鳴る背後を振り向いた。そこには私が彼女達を引き連れて来た時と変わらない姿勢、表情でタイピングする作家・毒島真理先生がいた。
「先生、すみませんでした」
開口一番そう告げて頭を下げた。もちろん彼女達の代わりに謝罪をしたのだ。
それと同時にこれは私個人の謝罪でもあった。わざわざ忙しい売れっ子作家である毒島先生の時間を割いてもらったにも関わらず、お互い時間の浪費をしてしまった。私達は毒島先生にお伺いを立てる側で、怒って追い返すのは毒島先生の方であるべきなのだ。なのに怒ってここを立ち去ったのは私達の方。完全に立場が逆である。
私の謝罪に先生は一瞬タイピングの手を止めたようだ。それまでずっと続いていた音が止み、再び再開された。
「いいですよー、別に」
間延びした声。それに顔を上げれば、毒島先生は先ほどと変わりない姿でタイピングを続けていた。
穏やかで柔和そうな見た目、年齢は四十代前半にしか見えないがこれで五十を超えているのだから恐ろしい。若見えの秘訣を教えて欲しいくらいだ。
「原作者である毒島先生にお会いしたいと申し出たのは私どもの方でしたのに、あのような失礼な態度を取ってしまい本当に申し訳ありません。後日改めて本人達を連れて謝罪に訪れます」
もう一度謝罪を述べ、今後のことを話した。
作家・毒島真理の小説の実写ドラマ化。それに伴い、作中の女子高生役に抜擢されたのは私がマネージャーを勤める七人組アイドルグループだった。
グループでの抜擢であることと、全員が話の中枢に関わる役柄であることから私達の事務所としても絶対に落とせない仕事だった。原作者の機嫌を損ねて降板などとなれば彼女達の今後はもちろん私の今後も危うい。どうにか謝罪の機会を手にして事務所に戻るのが最善策だ。
「本当にいいですよー。僕が言うことにあんな過剰な反応してるようじゃ、より距離の近いマネージャーさんの意見なんて聞かないでしょ」
鋭い指摘にグッと言葉が詰まる。その通りだった。こういったトラブルは初めてではない。生意気で世間知らずな彼女達はいつも、残りカウント一の爆弾だった。いつどこで、誰のどんな発言で爆発するか分からない。今回は毒島先生の言葉に爆発してしまったわけだ。
更に、私は彼女達から舐められている。アイドルになれなかった女、と認識されているのだ。そしてそれは悲しくも事実だった。本来はアイドル志望。だが、芽は出ずに年ばかりが過ぎ、限界を感じたのが二十三。それから十年以上アイドルを支えることに努めてきた。
まだこちらの様子を伺っていた頃の彼女達と少しでも近付けたら、打ち解けられたらと身の上話をしたのが間違いだったのだ。翌日から私は下に見られるようになり、一応話は聞いてくれるが念頭に「アイドルになれなかった女」があるようで舐めているのが空気で、時折は態度で分かる。こと説教となると露骨に現れるだろう。考えて思わずため息が出た。
「はっきり言って舐められてますよね、山口さん。そりゃため息も出るよねぇ」
ニコニコと笑顔を貼り付けて毒島先生が言う。たった数十分の邂逅で分かられてしまうなんて、余程彼女達が態度に出しているのか、それとも毒島先生が鋭いのか。
前者ならば考えものだ。あらゆる業界人との信頼関係に関わる。マネージメントの対象であるアイドルに舐められているマネージャーなんて頼りないにも程がある。彼女達の元を去ることも考えなければならないかも知れない。
そうは思いつつ後者の方が可能性が高いことは明白であった。
毒島先生の人物描写はまるで本人がそうであるかのように緻密で的確なのだ。読んでいて思わず、「こういう人いる」だとか、「こんな人いるかも知れない」だとかこちらが納得出来るだけの説得力がある。それは毒島先生の観察眼の為せる技であろうと読む度に考えている。
そう、何を隠そう私は作家・毒島真理のファンである。
だから彼女達が毒島先生の作品の実写化に抜擢されたと聞いて叫びたくなるのを堪えて対応して、帰宅後枕に顔を埋めて叫びまくったし、もう何度も読み返したその小説を再び何度も何度も読み返して七人それぞれに「あなたの役所はこうだよ」と説明して回った。
なぜなら七人とも私が人数分購入して渡した原作をろくに読んでいなかったからだ。放っておけば「誰が一番読んでいないか」なんていう失礼極まりない競い合いを始め兼ねない。
尊敬する毒島先生の作品に裏方とはいえ関わる以上、半端なことはしたくなかった。
だからこそ、彼女達に舐められていると毒島先生に知られて恥ずかしいと思った。それと同時に更に申し訳なくなり文字通り縮こまる。
「お恥ずかしい限りです」
意図せずして語尾が消え入りそうになって、顔も俯いてしまった。
「うふ、うふふ。どうしたらあんなに舐められるんですか。今後の作品の参考にしたいんで、教えて下さいよ」
毒島先生にそう言われてしまうとファンとして逆らえず、私は自身がアイドル志望だったことと、夢破れて支える側に回ったことと、それを馬鹿正直に彼女達に話してしまったことまで打ち明けた。
話してる途中で毒島先生から「あ、そこのソファ座って。ごめんなさいね、気が利かないで」と話を遮られたのでお言葉に甘えてソファを使わせてもらっていた。
「じゃあ、山口さん昔はアイドルだったんだ」
「はい。今となってはそんなの夢見るなんて身の程知らずだと思いますが」
そう自嘲する。可愛くも美人でもない私がアイドルになるなんて夢物語だった。結局手に入れたのは「アイドルを目指していた」という過去だけだったのだ。
「身の程知らずねぇ。そーんなことないと思うけど」
「え?」
彼女達に辛辣な言葉を浴びせていた人と同じ言葉とは思えない言葉に失礼な反応を示してしまう。
相変わらずタイピングは止めないで毒島先生は言う。
「だって、山口さん可愛いよ」
思いもしなかった言葉に全身の血が重力に逆らって顔に集中する。
「へ、あ、ありがとうございます……」
鏡を見なくとも耳まで真っ赤になっていることが分かる。一気に体温が上がって手の平が汗ばんだ。
「あー、今ってこういうのセクハラになるんでしたっけ」
「ふ、不快じゃないので、大丈夫、と思います。大丈夫です。はい」
「そう。うふふ」
タイピングをしたまま毒島先生がこちらを見た。
真っ赤になった顔を見られたと気付いたときにはすでに遅かったらしい。
毒島先生の目元が弧を描いていたから。
と、突然、社用スマートフォンが着信を告げる。
表示を見れば同じアイドルグループのマネージャーを務める先輩からだった。
毒島先生に断ってから電話に出る。
反射的にソファから立ち上がったのはマネージャーの性だ。
電話の内容はこうだった。
彼女達は毒島先生の事務所からタクシーで直接事務所に戻ったらしい。先輩は事務所待機だった為、予定時刻より早々に帰着した彼女達に事情を聞き、今確認の電話を掛けてきたようだった。
些か毒島先生の印象が彼女達により誇張されているが毒島先生が放った言葉は間違っていなかったため、懐疑的な先輩の言葉を否定しつつ彼女達の言葉を肯定する。電話向こうの先輩は辛辣な毒島先生の言葉を信じられない様子だったが事実なので仕方がない。
そして渋々納得したらしい先輩からこの後は事務所に残っている面々や、本人たちで今後の仕事に対応するので、私には毒島先生の機嫌を取って欲しいと告げられた。
そうは言われてもなかなか独創的な感性の持ち主のようだからどうやって機嫌を取ればいいのやら。
「事務所からでした?」
「あ、はい。すみません。突然電話に出てしまって」
「いえいえお仕事ですから。さては僕の機嫌を取ってこいとかそんな電話でしたか」
受話口の音量が毒島先生に漏れないように音量を小さくして話していたから、聞こえたはずはない。
なぜわかったのだろう。
そう思っていたのが顔に出ていたのだろう。
「あんな帰り方してるんだもの、絶対あの子達事務所で愚痴愚痴言ってるよね。それを聞いた別のスタッフ――別のマネージャーさんかな?が事実かどうかの確認をしてきて、あなたはそれを肯定する。そしたら事務所としての方針はただ一つ、彼女達の今の知名度的になんであれテレビに出れるって機会を失いたくないだろうからまだこの事務所にいる山口さんにご機嫌取りを指示するだろうなって」
「す、すごいです。全部当たりです」
思わず素直に感心してしまった。その通りだったのだ。
「考えなくても分かりますよ、これくらい」
間延びした言い方で誤魔化されているが、なんとなくこちらを馬鹿にしているように聞こえるのは思い違いか、果たして。
「毒島先生って作品にも現れてますけど、本当に観察眼が鋭いんですね。刑事さんみたい」
毒島先生の方から時々砕けた話し方をされるせいか、ついついこちらも心情的に距離が近くなってしまい、特に何も考えずに放った言葉だった。
それまで何があっても続いていたタイピング音がぴたりと止み、パソコンの画面に向けられていた瞳が再びこちらを見遣ると口が言葉を発した。
「まるで刑事と会ったことがあるみたいな言い方ですねぇ」
「以前、ドラマ撮影の現場で。別のドラマの撮影と時間帯が被ってて監修に来られていた元・刑事さんと話したことがあるんです。その方も全部言ってないのに前後のやり取りからあらゆることを推察しておられました」
「ふぅん、そう」
私の答えを聞くや否やそこにはさして興味なかったのか再び毒島先生はパソコンに目を向けてしまった。
静かな部屋にタイピング音だけが鳴る。
帰るタイミングを失ってしまった気がしてソワソワと壁面の本棚へと目を走らせると一角に毒島先生の本が並んでいたのだがその中に私の知らないものがある。
思わず立ち上がってそちらに歩み寄った。
毒島先生の作品は全て買い漁ったと思っていたが抜けていたらしい。初めて見るタイトルの書かれた背表紙を指先でほぼ無意識下に人差し指の腹でツツッと撫ぜると声が掛かった。
「気になる本でもありました?」
「っはい。私、毒島先生の作品は全て持ってると思ってたんですけどこの一冊だけ持ってなくて」
言ってから恥ずかしくなる。私が毒島先生のファンであることはまだ伏せたままだ。毒島先生にも、彼女達にも告げていない。舞い上がっている、などと思われたら恥ずかしいからに他ならないが、実際は舞い上がりっぱなしである。
「なんてタイトル?」
毒島先生にそのタイトルを読み上げると「ああー」と納得した声。
「それ今度出る新刊」
「えっ!?」
ここの事務所へ来て初めての大きな声。それと共に毒島先生を振り向き、慌てて手を引っ込めた。新刊が神聖な物に思えたからだ。
「ちょうどいいや、読んでみて感想聞かせてよ」
「ええっ。いや、さすがに悪いですよ。まだ書店に並んでいない物なのにっ」
「いいって。作者がいいって言ってるんだよ。他に誰の許可がいるのさ」
「そ、そりゃそうかも、ですけど。怒られない、ですか。出版社の方に」
言ってから毒島先生の編集・辛坊の顔が浮かぶ。バレたら文句の一つは言われそうだ。
「平気平気。言わなきゃバレないよー。それに、読みたいでしょ?それ」
毒島先生の言い草に、この人には私が彼のファンであることがバレていると思った。必死に覆い隠したつもりだったがどうやら滲み出てしまっていたらしい。毒島先生の顔にニヤニヤとした笑みが広がる。
「山口さん、僕の作品のファンだよね。さっきあの子達に代わって原作の感想伝えてくれたとき細部まで読み込んでるのが分かったよ。だからかなー山口さんがどう思うか知りたくなっちゃった」
再び赤面。今度は毒島先生を見ていられなくてまだ中身を知らない作品の背表紙に目を向けた。そこに他意はないと分かっていても一ファンとして嬉しい言葉だった。
「読んでくれない?」
それが最後の一押しとなった。
気がつくと毒島先生はかなり砕けた話し方になっており、その話し方に私は翻弄されていく。
「よ、読ませていただきます」
私が小さくそう言うと毒島先生は「よろしく」と言って再びタイピングを開始する。
私はやや間を置いて神聖なそれに指を掛けるとゆっくりと丁重に棚から引き抜いた。すると見たことない表紙、見たことのないタイトルが現れる。今回もタイトルだけでどんなことが起こるのかと期待に胸が膨らんだ。
ハードカバーのやや重たいそれをソファへと運び、毒島先生に一言「読ませていただきます」と改めて断りを入れると「どうぞー」と間延びした返事が返ってくる。一つ大きく息をついて、慎重に表紙を捲って一枚一枚、まるで花びらを触るようにそっと捲っていった。
毒島真理先生の新刊は、これまでの作品同様、いやそれ以上に素晴らしい作品だった。上げては落とされのジェットコースターのような展開、誰も欠けることの許されない登場人物の一人ひとりがそこに息づいていた。
時々姿勢は変えたもののほぼ身動きせずにハードカバーを読み切ると、最後も丁寧にそれを閉じ、ついでに目も閉じた。少しでも浸っていたいと思ったのだ。
「あ、終わった?」
気がつくと、タイピングの音が止んでいた。それどころか、声は真横から聞こえた。
「ぶ、すじま先生、い、いつから、そこに……」
「結構前かなぁ。山口さんって読み始めたら周りが見えなくなるタイプなんだねぇ。びっくりさせちゃいけないと思って音を殺さないようにここに来たのに全然気付かないんだもん」
毒島先生はいつの間にソファの端に腰掛けていた。恐らく彼が座った際に揺れたり音がしたと思うが全く気付かなかった。こうなるから外で本は読まない。夢中になって周りが見えなくなるのは昔からのことだった。
「で、どうでした?」
「完璧でした。何もかもが」
全体を全肯定してから読んでいた時同様に夢中で感想を毒島先生に伝える。毒島先生は私の様子をニコニコ、ではなくニヤニヤと眺めていた。
思いの丈をぶつけ続ける。誰よりも――もちろん出版社の方は別として――早く新刊を読み、尚且つ作家本人に感想を伝えるなんて、こんな夢みたいな話があるのかと思いながら。
ひとしきり伝え終わっても毒島先生はニヤニヤとこちらを眺めていたので、目が合っていることが急に恥ずかしくなった私は足の上で組んだ自分の手に視線を漂わせ、「終わりです」と溢すように言った。
「うん、ありがとう」
「あの、どうして私なんかに感想を求めるんですか。先生も不安になったりするんでしょうか」
今更な疑問を口にするとすぐに隣から返事が来た。
「いや、全然。これは面白いだろうなーってものしか書かないから。山口さんはマネージメントするときに「これはダメだろうなー」って思いながらマネージメントするの。しないよね。それと同じだよ。それに、もしそもそもネタがダメなら辛坊さん辺りからストップが掛かってる」
それなら尚更何故私に思うのだが、それには答えてくれなかった。どう言えば伝わるのかと考えあぐねていると、毒島先生が立ち上がる。
それでふと我に返った。
この部屋には窓がない。
「あれ、今って」
社用スマートフォンを見ると時刻はすでに夜。ここに来たのがお昼過ぎだったので少なくとも6時間はここに居座ってしまっていることになる。
「すみませんっ。私帰ります」
「何か用事でもあるの」
「い、いえ、私に用事なんて。こんなに遅くまで居座ってしまってすみませんっ」
先輩マネージャーから連絡があった際、今日の私の仕事は毒島先生の機嫌を取るのみとなった。だから毒島先生と話す以外に今日の仕事はない。そして明日はオフだった。
「僕の方は全然構わないよ。話しながら書けるから仕事してたしね。それより、山口さん」
言いながら毒島先生は上着を羽織った。
「お腹空かない?」
その言葉の意味が瞬時に理解出来なかった。やや間を置いて、これは食事に誘われているのだと気付く。受けた方がいいのか遠慮した方がいいのか考えを巡らせていると、選択を後押しするようにお腹が鳴った。
「空いてるみたいだねぇ」
何がそんなに面白いのか毒島先生は再びニヤニヤを顔に貼り付ける。
「はい……」
私は観念して頷いた。
メニューはなんでもいいかと問われて頷けば、毒島先生はどこかに電話を掛け始める。しばらくやり取りが続いた後、電話を切った毒島先生は「じゃあ行こうか」と先を歩き始めた。
正直に言うと先生の事務所の一階部分にある天麩羅屋も気になっていた。来た当初からいい匂いがしていたのだ。
だが毒島先生は階段を降りるとあっさり反対方向に曲がってしまった。なんだか名残惜しい気がして少し振り向いてしまったのは言うまでもない。
「少し歩くけどいいかな。タクシー拾ってもいいけど」
「いえ、歩きます。大丈夫です」
「そう。じゃあこのままで」
それからは沈黙。ただひたすら前を歩く毒島先生を追いかける。
タクシーを捕まえる、などと言い出したからてっきり遠いのかと思ったが、三十分も歩かない内に毒島先生が、ある店の軒にヒョイと足を踏み入れた。
その佇まいに私の方は足が止まる。明らかに高そうなお店だったからだ。瞬時に財布の中身を思い出すもさすがにここを払えるほどは入っていない。まぁ、そもそも毒島先生の機嫌を取ることが私の仕事でもあるわけだから会社宛に領収書を切ってしまおう。特段問題はないはずだ。
「どうしたの」
暖簾を手の甲で押し上げて毒島先生がこちらを見ている。
「今行きます」
私がそちらへ足を進めると同時に毒島先生は重そうな引き戸に手を掛けて開けた。
靴を脱いで通された部屋は個室だった。
向かいに並べられた半月盆の上にちんまりと先付けが載っていることからすでに料理は決まっているようだ。頼んでくれたのはもちろん毒島先生だろう。
「勝手に頼んじゃったけど、よかったかな」
そう言いながら下座に毒島先生が胡座をかいて座る。
ここでダメだと言えばどうなるのだろうとバカな考えが頭を過ったが先になんでもいいと答えている手前そんなことは言えない。それにそもそも懐石料理は嫌いではない。
「大丈夫です。ありがとうございます。それより私そっち行きますよ」
ぽかりと空いた上座に座ることが出来ず、立ったままでいると毒島先生は両の手の平を上に向けてそちらを指し示す。
「いいよいいよ。僕が誘ったんだし、どうぞ座って」
「でも」
「うーん、こういう不毛なやり取りって僕、苦手なんだよね。お偉いさんたちとの食事の席ならともかくそういうわけでもないしねぇ。山口さんには僕の機嫌を取るっていう仕事があると思えば僕を上座にって考えちゃうかも知れないけど、僕自身がそれを望んでないわけだから必要ないよ」
「……わかりました」
粘りのある口調に思わず閉口する。どうやら毒島先生に言い返すと言う行為は無駄なようだ。
大人しく上座に座り腰を落ち着けると同時に声が掛かり、障子が開く。
「毒島様、ようこそお越し下さいました」
「女将。すみませんねぇ、急に」
「いえいえ、毒島様でしたらいつでも歓迎いたします」
そこに現れたのは、着物姿の年配の女性だった。品がよく、所作のひとつひとつが洗練されている。美しい。
品定めをするような視線を知らず知らず送ってしまっていたのか、女将と目が合ったので会釈する。
「いらっしゃいませ。ようこそお出でくださいました」
「よろしくお願いします」
「お飲み物は何になさいますか?」
「えーっと」
「なんでも好きなの飲んでくださいね。僕はビールで」
「じゃあ同じものを」
「畏まりました」
かくして、毒島先生との思いがけない会食が始まった。
食べている間の会話は、出された料理についてと昨今の小説についてと私がマネージメントするアイドルグループについてが主だった。
特に毒島先生の興味を引いたのはなぜかアイドルグループ、というか芸能界のようで、私達の仕事の取り方や関係者への宣伝の仕方などを聞かれるがままに答えていった。隠すことは何もないので素直に答えたのだが、特に面白いことは何もないと思う私とは裏腹に毒島先生は楽しそうにしている。
恐らくは取材の一環だったのだろう。私のこの話がいつどのように先生の作品に活かされるのか楽しみだ。
食事中、お酒の量は嵩み、ビールで始まったものの終盤になると内容は日本酒に切り替わっていた。
料理の途中で女将から勧められたからに他ならないが、毒島先生とお互いに注いで注がれてでどんどん飲んでしまった自覚はある。
店を出る頃には足元が覚束なくなってしまっていた為、近くの店の壁に手をついて身体を支えなければならなかった。こんなに深酒をしたのは久しぶりだ。
私の後から暖簾を潜り出た毒島先生に向かって頭を下げた。
「すみません、結局ご馳走になってしまって……」
「いえいえいえ」
驚いたことに、私がデザートを平らげている間に支払いは毒島先生が終わらせてくれていた。
とてもスマートな行いに思わず面食らってしまったのは失礼かも知れないが、なんだか意外に感じたのだ。
少しの間またこちらが持ちますだなんだと押し問答をしてしまったが、またも無駄なやり取りだとネチネチ言われてしまったため結局折れた。
「そんなことより山口さん、大丈夫?」
「んー」
お酒のせいで少し頭の回転も悪くなっている。早めに解散した方が毒島先生に迷惑を掛けなくて済むかも知れない。
「大丈夫です」
気丈にそう言ったつもりだったが、「大丈夫れす」と舌が回らなかった。
「相当酔ってるね」
「普段はこんなんじゃないんです。本当です」
毒島先生に呆れられたくなくて少し前のめりに否定して念押しするが、やはり舌が回らずに説得力は皆無だ。
「はいはい、分かりましたよ。タクシー捕まえましょ」
そう言って大通りの方へ出ようとする毒島先生に続いて行こうとするものの、壁から手を離すと頭が引っ張られるようにあらぬ方向へ揺れる。
「あらあらあら。ふらついてるじゃない」
「んー、大丈夫です」
先ほどと同じ口調になってしまったのは言うまでもない。
「あの、毒島先生」
「なあに」
私の側まで戻って来てくれた毒島先生に話しかけると優しげな声が返ってくる。なんだか胸に不思議な温かみが広がる気がした。
「本当に大丈夫なんで、先に帰ってください」
「なぁに言ってるの。こんな状態の女の人置いて帰るなんてそんなこと出来るわけないじゃない」
「これ以上、先生のご迷惑にもご厄介にもなるわけにいかないですから」
「そんな風に思ってないから。さ、悪いけど少し触るよ」
そう言うや否や、毒島先生は私の肩に手を乗せて自身の方へ引き寄せる。壁から手が離れて一応は立ってはいるが、縋る先が壁から毒島先生に変わっただけだ。
毒島先生の身体に私の身体が触れる。服越しとはいえ自分のものではない暖かみを感じて気恥ずかしい。
更に驚いたことに毒島先生の身体は意外にもしっかりしていた。偏見だが、小説作家の先生は細くて力が弱いイメージがあったのだ。私が少し凭れたくらいではビクともしなさそうだ。
そんなことを考えたからだろう。
思わず手を伸ばして毒島先生の身体に触れてしまった。
「わぁ、すごいです。しっかりしてます」
そう言ったつもりだったが実際は間延びした話し方になっていた。
「あのね、山口さん。一応僕も男だから」
「はい。だからなんですね。男の人ってすごいですねー」
心底感心して言った私の言葉を毒島先生は否定する。
「いやいやいや、そういう意味でなくてね。気軽に触るのはどうかなってこと。人によったら誘われてるって思う人もいるかもだから気を付けた方がいいよ。そういう意図がないなら特に。今もあなた、無意識でしょ」
「誘われてる……?」
なにに。そう尋ねようと毒島先生の顔を見た。見ようとした。
当然だが、今は毒島先生に抱き寄せられているのだ。先程までは距離を取っていたため少し見上げるだけでよかったが、今は完全に首から見上げなければならず、しかもかなりの近距離に毒島先生の温和そうな顔があった。
男女のこの距離が意味する関係。
毒島先生に触れていた手の平の温かみは毒島先生の体温だということが突然頭の大部分を占めて、その手を思わずキュッと握った。そしてそのままその手を突き出すように押す。
「すみませんっ」
支えを失った身体は再びグラリとバランスを失う。しかも背中側に勢いが付いているため背後から倒れて行く。
「わ……」
自分から突き放したはずなのに、咄嗟に助けを求めた先は毒島先生だった。
なんとか自分の足で体勢を整えて自身を支えようとしているのに思っている通りに力が入らない。
結局、助けを求めた手を毒島先生が引いてくれて私の身体は再び毒島先生とぶつかる。今度は正面から抱き止められる形となった。
「す、すみません……」
「なにやってんのさ。危ないよ、そんな状態で後ろにのけ反るなんて。後頭部強打なんて打ちどころ悪かったら最悪死ぬんだからね。学校で習わなかったのかしら」
「申し訳ありません」
至近距離で聞く毒島先生の声、先程より近く、多く感じる体温、アルコールの匂いと恐らくこれは毒島先生自身の匂いであろうものが混じり合って鼻腔を擽ぐる。どれも不快に感じなかった。
「ほらほらほら、大通りまで歩くよ。支えてあげるから」
そう言うと毒島先生は私の肩に腕を回し、手を回した方と反対の肩を自身の胸元に押し付けた。
確かに横からは支えられているし、後ろにも倒れない。だが、前にはふらりと倒れ込みそうになる。なんとか足を踏ん張ってみるが頭は相変わらず右へ左へ動いてしまう。
「もうー、本当に手が掛かるねぇ。腕も貸してあげるからしっかり立って」
肩を抱いてる方とは別の腕が目の前に差し出される。それに捕まるように両手を掛けるとようやく姿勢が安定した。
「安定したら歩く歩く。こっち凭れてていいからさ」
言うが早いか毒島先生は私の身体をグッと自身に引き寄せた。毒島先生にしなだれ掛かるようにしてようやく私は歩き始める。
「先生」
回らない頭を無理やり回して言うべき言葉、伝えるべき言葉を捻り出す。
「お手間を掛けてしまって申し訳ありません」
「まぁ僕も飲ませ過ぎちゃったしね。平気な顔してパカパカ飲んでたから強いのかと思ったらそうでもなかったのね」
「昔は強かったんですよ。でも、あの子達のマネージャーになってからこんなに飲むことなかったから……」
いつ何があってもいいように酒の席があっても控える生活が続いていた。
時々、タチの悪い大人が未成年の彼女達に酒を飲ませようとすることもあったので私が代わりに飲んでその場を収めたときもあったが、最近は早々そういうこともなくなってきていたので本当に久しぶりの深酒なのだ。
普段ならそれほど時間の掛からないであろう道則をたっぷり時間を掛けて歩いた。
毒島先生も相当飲んでいるはずなのにそんなことを感じさせないくらい平気な顔をして私を支えて歩いている。
「先生はお酒、お強いんですね」
「そうでもないですよ。人並み」
「またまたー。全然酔ってないじゃないですか」
そう言って揶揄うように毒島先生に触れている肩を自分で押し付ける。不意に押し付けたのに毒島先生はびくともしなかった。それを逞しいと感じてしまう。
当の毒島先生は私を優しく諌める。
「危ないからね。これでも結構酔ってますよ。山口さんほどじゃないけど」
「すみません」
「謝罪はもういいから歩く歩く」
謝罪、と聞いてふと仕事を思い出した。そうだ、私には仕事があった。
「あの、毒島先生」
「はいはい」
「もう怒ってないですか?」
「怒るってなにに怒るっての。別に僕なにも怒ってないけど」
「あの子達があんな失礼な態度取ったのにですか」
「あーその話かぁ。うん、別に最初から怒ってないよ。僕の気に入る気に入らないに関わらずドラマ化は出版社側がオッケーしてる話だしね」
「でも」
「山口さんはさぁ、気負いすぎだよね。そりゃ彼女達のためを思って行動してあげてるのも分かるんだけど、彼女達がそれに感謝するのは当分先か永遠に来ないよ。だって舐められてるんだもん」
不意に言葉のナイフを突き付けられる。
「自分がなれなかった理想を彼女達に託しているんだろうけど、あなたと彼女達は別の人格だ。あなたは彼女達になれないし、あなたの気持ちを理解してはくれない。彼女達のやりたいようにしかやらないし、山口さんがいくら気を揉んでも手を回してもそれを有り難がってなんてくれない。今こうやって僕の機嫌を取って、次会うときに僕と彼女達が円満になってても、あちらさんにとってそれは当然、当たり前。だから感謝なんてされないし、評価が上がることはない。見直されることはない」
ドスドス遠慮なく放たれるナイフが刺さって、刺さって、とうとう最後の一本が深く突き刺さった。
自覚していたことだった。だからこそ痛い。
誠心誠意尽くしていればいつか見直されるのではないか。感謝されるのではないか。そんなことを考えている自分を見ないようにしてきた。
どこかで分かっていたのだ。彼女達が私を見直すことも評価することもない。それを認めたくなかった。
それでもやっぱり評価して欲しいと思ってしまう。
酒に酔うと感情の箍が外れるのなんて分かっていたはずだった。もっと警戒しておくんだった。
そう思っても後の祭り。
深く刺さった最後の一本は私の奥のスイッチを押した。
「すみません……」
毒島先生の腕を掴んでいた手の甲に涙が落ちた。それをそのまま目元にやって、溢れ出る涙を自分の服の袖に染み込ませる。
「ふ、普段はこんなことで泣いたりしないんですよっ。でも今日はなんか……」
その先は続けられなかった。続けたら余計に涙が出てしまうことが予測出来たからだ。
私にナイフを刺した毒島先生は慰めるでも謝るでもなくジッと私のしたいようにさせてくれた。
泣かされた相手に支えられながら涙を拭っているのはなんだかチグハグな感じがして、段々それが面白く思えてくる。
目から出る塩辛い水が収まるころ、とうとう私はくすくす笑い始めた。
「あの、毒島先生。ありがとうございました」
「お礼を言われるようなことしたかなぁ」
毒島先生の顔を見ることは出来ずに、その腕の中でくすくす笑いを漏らしながら答える。
「自分で見ないように、気付かないようにしてたので言ってもらえてすっきりしました」
「そう」
「はい。足止めてすみませんでした。行きましょう。そう言っておいてなんですが、引き続きエスコートお願いします」
「はいはい。お願いされました」
その頃には少し酔いも覚めて、頑張れば自分で歩けないこともないようにはなっていたが敢えてそれを進言しなかった。この腕の中の居心地を覚えてしまったから。
もう少し、タクシーを捕まえるまではこのままで。
翌日は休みだった。
毒島先生と別れたのは夜の十時過ぎ。帰宅したのは十一時前。そこから入浴を済ませ、寝る準備に入り布団に入ったまではよかった。
目を閉じると浮かぶのはなぜか毒島先生ばかりで、毒島先生が触れていた肩にはその手の感覚、反対側の肩には毒島先生の体温、耳には至近距離で聞いた毒島先生の声、鼻腔に残るは毒島先生の香り。
そんなことを思い出していたら寝られなくなってしまい、結局日付変わってもごろごろと布団に転がっていた。
翌朝も同じようなもので、気がつくと本棚に並んだ毒島先生の本の背表紙を眺めている。
そして仕事を思い出す。
毒島先生はもう、というか最初から怒っていないと言った。信じられないことだが、昨日の彼女達の所業によりドラマの抜擢がなくなるわけではないようなので、事務所に報告を入れようと鞄を漁った。だがどこにも連絡手段、すなわち社用スマートフォンがない。
一度全ての荷物を出すも見当たらない。
となれば、どこかで落としたのか。
昨夜使ったタクシーの領収書を取り出して乗り降りの際に落としたのかも知れないとプライベートのスマートフォンで連絡を入れてみる。
忘れ物の問い合わせをかけるといくつかヒットしたようだが該当の機種はない。
ということはあの料亭か、と思い浮かぶがタクシー同様取り出した記憶はない。最後に取り出したところを思い出して勝手に口が「あ」と声をあげる。それと同時に視線が本棚へ。
『毒島真理』
間違いなく、最後に使ったのはあの人のところだ。
そう気が付いたのにすぐに社用スマートフォンに電話を掛けられなかった。
本当にあそこに忘れていたなら出るのはその部屋の持ち主である毒島先生だ。昨日の今日で再び毒島先生と話して会わなくてはならないことを冷静に受け入れられない。
たった一日関わっただけなのに、私の中に毒島先生が溢れている。それがどういう意味なのかなどいちいち考えるまでもない。
元々憧れの人だったのだ。
それが直接会ってみて、容姿も声も話し方も好みの範疇だったらそうなっても仕方がない。話していると時々痛いことは言われるけれど、それは決して間違っていないのだ。
知らぬうちに早鐘を打つ心臓をなんとか深呼吸で落ち着かせようと試みる。
心臓はどうにもならなかったが繰り返す内に頭の方は話をまとめていた。
社用スマートフォンに電話を掛け、電話口に出た毒島先生にそれを取りに行きたい旨を伝えて事務所へ向かう。そして玄関先でスマートフォンを受け取って終わり。
そうだ、これでいい。
私の中で息付き始めたこの気持ちはどうにもしない。
もとよりどうにも出来ないものだから問題ないはずである。というより、どうしようがあるというのか。
毒島先生と自分の年齢差を鑑みればすぐに分かる。二十近くも差があるのだ。毒島先生からすれば小娘だろう。私なんかを相手にするはずがないのだ。
意を決して自分の社用スマートフォンの番号を呼び出して掛ける。
しばらくコールが鳴ったのち、これがプツリと切れた。
「もしもし」
沈黙が流れたのでこちらから声を上げた。すると間延びした声が聞こえてきた。
『はいはぁい』
「あ、毒島先生ですか」
分かりきったことを尋ねる。これも段取りの内だ。
『そうですよー。やっぱりこれ山口さんのだったんだ』
「そうですそうです。昨日忘れて行ってしまったみたいで」
『連絡してあげたかったんだけど、他に連絡先知らなかったからさ。とりあえずもう少ししたら事務所の方にでも連絡しようと思ってたんだよ。まぁ、それも辛坊さんに聞かないと分からないんだけど』
矢継ぎ早に飛び込んでくる言葉の切れ目を見つけて口を開く。
「あの、今日そちらに伺ってもいいでしょうか。そのスマホを取りに伺いたいのですが」
『いいよいいよ。今日はここに缶詰だからいつでもおいで』
「ありがとうございます」
『うんうんうん、じゃあまた後でね」
「はい。失礼します」
通話を切って深く息を吐く。
昨日も毒島先生の事務所へ赴く際は緊張していた。マネージメントするアイドルグループがお世話になる方だし、マネージメントするアイドル達は突拍子もないこと言い出しかねないし、失礼なことも失礼と思わずに言う。実際にそれをして、毒島先生にやり返されていた。
今日の緊張は昨日とは少し違う。
念入りに鏡を見てしまう理由と、服装に悩む理由と、髪型に悩む理由が新たに出来たからだ。
納得が出来るわけではないが、自分の見た目にある程度の妥協をして家を出た。
せっかくなので手土産の一つでもと思ったのでとりあえず駅前のデパートまで出掛ける。
なにが好きだろうか。昨夜の会食では特に好き嫌いがあるようには見えなかったが。
年代的に洋菓子より和菓子の方が好きかも知れないなどと少し失礼な考えに至り、和菓子屋を覗くことにした。
小説を書く合間に食べてもらうことを考えると破片の落ちないものが望ましい。周りに粉の付いたものも汚してしまうので却下。
どんなものを毒島先生にあげたらいいか考えながらショーケースの前を通っているとある和菓子の前で足が止まった。
これなら破片は落ちにくいし片手で食べられる。
店員さんに声を掛けて、六個入りの箱を包んでもらった。
デパートへ寄っていたこともあるが、お昼前には着くつもりにしていたのにもう十二時を回っていた。
様々な本屋が立ち並ぶ通りを歩き、昨日も訪れた毒島先生の事務所を訪ねる。
たった一日で景色が変わるわけもなく、昨日とほとんど変わらない景色をなぞった。
天麩羅屋が見えてくる。その横にある階段を登った先が毒島先生の事務所だ。
本日何度目か分からない深呼吸。
軽く髪を整えていざ。
階段を登り、軽く指を曲げた手でノックすると昨日と同様のんびりとした声で「どうぞー」と聞こえた。もう一度深呼吸して扉を開く。
「こんにちは」
「山口さん、いらっしゃーい」
パソコンから顔だけ振り向いて毒島先生が歓迎してくれた。だが、私の視線はソファに釘付けになる。女性が座っていた。
「あ、その人、僕のもう一つの仕事の方の後輩で高千穂さん。ほら高千穂さん、挨拶挨拶」
毒島先生が兼業作家であることは知っているがまさかその後輩の方と会うことになろうとは全く思っていなかったので面食らう。
挨拶をせかされた女性は少し嫌な顔を毒島先生に向けるが当の毒島先生はもうパソコンの方を向いていて彼女の顔を見ることはなかった。
「高千穂明日香です」
立ち上がった女性が綺麗な所作で頭を軽く下げた。
「山口洋子です」
私も倣って頭を下げる。
「山口さんは、今度僕の小説をドラマ化するんだけど、そこに出てるアイドルグループのマネージャーさん」
「そうなんですか」
「はい、先生にはお世話になっております」
私の言葉に、高千穂さんはなんと言ったらいいのか考えているようだった。
仲がいいわけではないようだ。
「あの、今日はどういったご用件で」
「え、あの」
高千穂さんの言葉が理解できない。
秘書よろしくなその言葉になんと返せばいいのか分からなくなった。なんとなく、敵意というか邪魔者扱いされている気がする。
戸惑う私の声を受けてか否か、私達の間に毒島先生の声が割って入る。
「山口さんは、スマホ取りに来ただけだから。そんな威嚇しないであげて。高千穂さんの話を先に聞くからそんな焦んないの」
「威嚇なんてしていませんし、焦ってもいません」
「そんな怒ってたら犯人取り逃がすよ。もっと冷静にならないと、刑事はさ」
「怒ってませんっ」
目の前で繰り広げられる会話に付いていけない。
犯人?取り逃がす?刑事?
なんだかまるでドラマで聞くようなセリフの数々に目を白黒させていると私の様子に気が付いたらしい毒島先生が口を開いた。
「これオフレコなんだけど、僕のもう一つのお仕事、警察官なの」
「えっ!だ、大丈夫なんですか。公務員って副業禁止なんじゃ」
「大丈夫大丈夫。例外もちゃんと認められてるから。表現の自由ってやつでね」
「は、はぁ」
高千穂さんをチラリと盗み見ると毒島先生の背中を軽く睨みつけていた。その目がこちらへと向く。
「部外者の方に捜査内容を聞かせるのは、ちょっと」
「あ、そうですよね。あの、高千穂さんお急ぎの用みたいですので、私出てます」
前半は高千穂さんへ、後半は毒島先生へ向けて言う。
「すみません」
「いえいえ。当然ですよ。犯人、捕まえてくださいね」
「はいっ」
「山口さん」
高千穂さんの気合いの入った返事を受けて、外へ出るべく入って来た方を振り向いた私を毒島先生が呼び止める。
そちらを見れば毒島先生が手招きしていたので、頭を軽く下げて高千穂さんの前を通り歩み寄った。
「はい」
毒島先生がタイピングの手を止めて机の上で手をスライドさせて眼下に出されたのは社用スマートフォン、ではなくメモ帳とボールペンだった。
「終わったら電話するからそこにスマホの番号書いといてくれるかな」
「あ、私の、ですか」
「他に誰がいるのよ。知らない人のなんか教えてもらってもこっちが困っちゃうよ」
「まぁ、そうですよね」
特になんの疑いもなく自分の私用スマートフォンの番号を書く。
そうしている間にも毒島先生はパソコンに小説を打ち込んでいたので画面を見ないように意識しなければならなかった。
「書けました」
「はいはいはい」
「じゃあ失礼します」
一つ頭を下げて部屋を辞すために振り向いて扉へと向かう途中、何やら言いたげな高千穂さんと目が合った。何か言われるのかと足を止めたが、高千穂さんは数秒思案の後、首を横に振って見せたので言うのをやめたのだと理解した私は「失礼します」と言って部屋を後にした。
階段を降りて脇へ退き、スマートフォンを鞄から取り出して握る。いつ電話が着てもいいように。
私用スマートフォンの番号を毒島先生に教えてしまった。
なんだかそれだけで胸がいっぱいになってしまう。
昨日とは別の意味で舞い上がっているのが分かる。少し恥ずかしい気もするが、久しぶりの感覚に高揚しているのも確かだった。
それほど時間は掛からなかった。
だが二人の話が終わったと知ったのは電話ではなく階段を降りて来た高千穂さんに気付いたからだ。
「あ、高千穂さん」
「こちらの用は終わりました。どうぞ」
「ありがとうございます。お疲れ様です」
そう言って高千穂さんの脇を通り過ぎたとき、
「あの」
声を掛けられた。
「はい」
振り向いて高千穂さんの言葉を待つ。
「あの、毒島さんのことですけど」
「はい」
そう言ったきり、高千穂さんは口を閉ざす。硬く口を噤んで言うべきか言わざるべきかを考えているようだ。
そして意を結した様子で一つ息を吸い込むと、
「気を付けてください」
はっきりとそう言われた。
何に気を付けろと言われたのか分からず、顔中に疑問符を浮かべているにも関わらず、高千穂さんはそのまま「では」と会釈をして行ってしまう。
「あ、え、な」
呼び止める言葉も、戸惑いの声も、疑問文も、全てが発せられる前に落ちていく。
そうこうしている間に高千穂さんの背中はどんどん遠くなり、とうとう視界から消えた。
なんだったのだろうか。毒島先生はそんなに悪い人には見えないけれど、仕事の同僚ともなると話が違うのかも知れない。
そんなことを思案していると手にしていたスマートフォンが着信を告げる。
画面に目をやるも表示されている番号は知らないものだ。となるとこれはあの人だろう。
「はい」
『あ、山口さん?高千穂さんの話、終わったから戻って来ていいよ』
「ありがとうございます。実はずっと階段の下に居てさっき降りて来た高千穂さんにお会いました」
『そっかそっか。じゃあ上がってきてね』
それだけ言うと電話がプツリと切れる。
一瞬、さっきの番号を登録しようかどうか迷った。恐らくは毒島先生の私用の番号であろうそれはもう二度と使うことも見ることもないかも知れない。だが記念に置いておきたい気もする。
そんなストーカーじみたことを考える自分が怖い。
結局、なにも弄らないことにした。自分の気持ちはどうにもしないと決めたのだ。このまま流れるままにいこう。
決意を新たに階段を登り始める。
来た時と同様に扉をノックすると「どうぞー」と同じく来た時同様の返事。
「失礼します」
「ちょっとそこに座って待ってて」
事務所へ入ると毒島先生はこちらを見もせずにソファを勧める。
大人しくそこに腰掛けると、落ち着くのを待っていたかのように毒島先生が話し始める。
「待たせて悪いねぇ。こっちの仕事も締め切り前だってのに、事件起こっちゃってさ。もうちょっとしたら終わるから。あ、時間大丈夫かな」
「大丈夫です。お休みなんで」
「そういえば昨日言ってたね」
毒島先生の口から「昨日」と聞いてはたと気が付く。昨日は散々迷惑を掛けたと言うのにお礼の一つも言っていない。
本当はここへ来たと同時に言うつもりだったのに、思わぬ先客がいたことですっかり抜けてしまっていた。慌てて謝る。
「あの、昨日はすみませんでした」
「あー、きみのとこのアイドルグループの暴言失言のことかな。それとも食事をご馳走したことか。はたまた酔った山口さんを僕が介抱してタクシーに乗せたことかも知れないなぁ。いやー心当たりがたくさん」
こうやってあげつらわれるとその多さを実感する。毒島先生には迷惑を掛けっぱなしだ。
「全部です、かね。本当にすみませんでした。あ、あの、お詫びの品と言ってはなんですが、どら焼きを買って来たので創作の合間にでも召し上がってください」
「えー、別にどれも気にしてないからいいのにー。わざわざありがとね。あとでいただくよ」
ちらりとこちらを覗ってどら焼きの入った紙袋を確認した後、毒島先生は「そこにでも置いといて」とソファの前にあるローテーブルを指差した。それに従って紙袋を置いている間に毒島先生はタイピングに集中したようなので、私は失礼ながら部屋をキョロキョロ見回す。
とは言ってもこの部屋には窓もなく、三面の壁は本棚で埋まっているのだから見るものは本棚になってしまうのだが。
「よぅしっ、終わりー」
あれは読んだことある、読んだことないと一人で考えていると突然毒島先生は万歳をした。そのまま両腕をダラリと下げる。作品は完成したらしい。
「お疲れ様でした」
「お待たせー」
椅子から立ち上がった毒島先生の手には私の社用スマートフォンが握られている。
「いえ、お忙しいのにお邪魔してすみません」
「ぜーんぜん。本当なら締め切りだけだったんだから。事件は予定外」
言いながら社用スマートフォンを私に差し出す。両手で受け取り画面を付けようとするが電池がなくなっているらしく画面は点灯しない。
「山口さん待ってる途中でバッテリーなくなったのは分かってたんだけど、充電はしなかったよ。あ、電気代をケチったわけじゃないからね。今してくれても全然いいんだけど」
自分はケチではないと宣言してくる毒島先生がなんだか可愛い。
毒島先生は喋りながら私の隣に腰を落とす。ソファがそちら側に沈んで私の身体も傾いたので慌てて起こす。
「僕の手元にあるときに色んなところから連絡きても困るだろうと思ってさ。バッテリー切れの方が先方にも伝えやすいんじゃないかなって」
「お気遣いありがとうございます。その通りです。助かりました。バッテリーは持って来ているので大丈夫です」
恐らくそうなっているだろうとモバイルバッテリーを持って来ているので問題はない。鞄の中でさっさと繋いで社用スマートフォンを復活させる。
「若者にしては準備がいいねぇ。感心感心」
「そんなに若者ではないですけどね」
「いやいやいや、僕からすれば十分若者だよ」
「子供でもおかしくない、ですかね」
「うん、そうだろうねぇ。学生の身分でって前提なら」
子供でもおかしくないと肯定されて凹んでしまう。やはりそういう対象にはなり得ないのだろうか。
「なんで凹んでるのさ」
「凹んでません」
「いーや凹んでるね。大丈夫だよ、全然子供っぽくないよ」
子供に見えるかどうかを心配しているわけではないのだが、とりあえずはそういうことにしておこう。
目的は果たした。忘れ物を受け取ったら帰るつもりだったのだからここで辞すのが正解だ。
なのに毒島先生がわざわざ隣に座ってこちらに視線をくれている状態で「帰ります」という気にはなれず、かと言って間を持たせるだけの話題も話術もない私はどうしたものか辺りに視線を走らせる。
なぜか毒島先生はそんな私をニコニコと穏やかな顔で眺めている。まるで初孫が初めて掴まり立ちしたのを見守る好々爺のような笑みだ。
「山口さんはさぁ」
毒島先生から話し掛けられた。漂わせていた視線とともに顔をそちらに向けると穏やかな目とかち合う。
「結婚してる?」
思わぬ質問に絶句。こちらの反応などお構いなしに毒島先生はニコニコした顔のままだ。
「な、なんでですか」
「うーん、山口さんって三十代でしょ。以前結婚相談所の運営側、利用者側、両方から話を聞く機会があったんだけどさぁ。三十代に入るとそういうことを真剣に考えるみたいだったから」
「そうですね、女性は男性と違って子供を持つリミットがあると考えているのが一般的です。もちろん男性にもリミットはあるんでしょうけど、女性程意識は高くないかと」
「うん、だから結婚してるのかなーって思ってさ」
「し、てないです」
「結婚する気はあるの」
一体なんなんだ。なぜそんな質問をするのか。ぐるぐる渦巻く思考。毒島先生の意図が全く見えない。
「する気は……どうでしょう。相手もおりませんし、それ以前の問題ですね、私の場合」
今現在、手の届かない人を想ってしまっているので、それはより遠ざかっているに違いない。元々結婚願望が高いわけではないので、縁があれば程度に考えていた節はある。そのままだらだら現在に至る。
そしてまたもや、はたと気がつく。
「毒島先生はご結婚は……」
そうだ、どうして毒島先生が独身だと思い込んでいたのだろう。結婚している可能性なんてあるに決まっている。
こんなに普段は穏やかで紳士的な人なのだから結婚していても不思議ではない。まぁ、毒舌には目を瞑るとして、ではあるが。
「僕? 僕は独身だよ。オールドバチェラーって言うんだっけ今時」
「そうっ、なんですね」
しまった。声に嬉しさを滲ませてしまい、慌てて取り繕う。気付かれてしまったかと不安になるが毒島先生の表情に変化はない。
「でもなぜ、そんな質問を」
「ただの興味かなぁ」
興味。色々な捉え方のできる言葉だ。
油断すれば期待してしまう心を律する。
それにしても、独身なのか。いや待て、独身、というだけだ。もしかするとお相手はいるかも知れない。いや、この風貌だからいるだろう。そう思ってまた凹む。
「バチェラーって言葉には恋人の不在という意味もあるらしい。ね、僕にピッタリ。いやぁ、いつの時代も時代に則した新しい言葉が出てくるものだね」
ということは恋人はいないということか。よかった。
安堵したところで何をどうするわけでもないのだが、気持ちを後ろめたく思う必要がないと知ってホッとした。
「なんでホッとしてるの」
「え、してませんっ」
毒島先生に顔を覗き込まれ図星を指摘された。盛大に慌てる。
なんだか楽しそうな毒島先生から目を逸らした。
どう誤魔化せばいいのか全く分からない。
「そう。ならいいけど。まぁ僕に特定の相手はいないからさ、こうやって会ってても不倫だなんだと騒がれることはないと思うよ」
「そう、ですか。そうですね」
なるほど、毒島先生は私がスキャンダルを恐れていると思ったのか。
そう気が付いて深いため息。
私の気持ちに気付いたわけではないようだ。毒島先生からしても、まさか昨日の今日で私から想いを寄せられているとは思わないのかも知れない。
私だって思いもしなかった。たった一度会って、たった一度食事を共にして、たった一度介抱してもらって。たったそれだけで、恋に落ちてしまうなんて。
でも今度こそ終わり。社用スマートフォンも返してもらった。もう用はない。もうここに来ることは──。
「だから、これからも来ていいよ」
「は?」
予想外すぎる言葉が理解出来ずに聞き返す。
頭の中の言葉と真逆の言葉。それを他ならぬ毒島先生自らが言ったのだ。
「え、は、なんで」
「あれれれれ、もしかしてもう来ないつもりだったの」
「は、い」
当然だろう。私と毒島先生は友達ではない。仕事の関係者だ。
来たいかどうかと問われれば間違いなく来たいのだが用もなく来れるわけもない。それにここは毒島先生の仕事場だ。遊びに来る場所でもない。
「山口さん、僕の蔵書に興味あるみたいだったから読みに来たいかなと思ったんだけどなぁ」
「蔵書」
そう呟いて周りを見渡す。壁を覆う本、本、本。
毒島先生の言っている意味に合点がいった。毒島先生の仕事の終わりを待つ間、私が見るとなしに本棚を見ているからだ。でもそれは別に読みたいからではない。いや、もちろん興味はある。好きな作家先生の読んでいる本がどんなものなのか知りたいと思うのは当然だ。だが、本棚を見ていたのは他に見るものがないからであって、読みたいから見ていたわけではない。
正直に答えるべきか否か。頭の中で天使と悪魔が拮抗する。
「……読みたいです」
勝負の結果、悪魔が勝った。
私の返答を聞いて毒島先生は満足そうににんまりする。
「うん、じゃあ遠慮なくいらっしゃい。僕はいつでも歓迎だから」
「ご迷惑じゃないですか。先生の仕事場なのにそんな、遊びに来るような真似をしてもいいんでしょうか」
「うんうん、いいよ。山口さん本読んでる間、静かにしてるでしょ。すごい集中してて周りなんか見えてないくらい。僕は人がいても書けるから構わないよ。さすがに今日はダメってときは断るけど、それでもいいなら」
「もちろんです。先生がいいっていう時しか来ません」
舞い上がりそうな心を押さえつけてはいるもののきっと顔には嬉しさが出てしまっている。その証拠に毒島先生のにんまりが深くなる。
「素直で可愛いねぇ、山口さんは」
「かわっ、いくはないと思います。あの、普通です。多分」
突然投げかけられた甘い響き。褒められ慣れてなくて反射的に否定してしまった。それでも毒島先生はにこにこしたままだ。
「来る時は電話してね。メールでもいいけど。その方が無駄がないでしょ」
「電話……。あ、番号、さっきの」
鞄から私用スマートフォンを取り出して履歴を開くと毒島先生の声を届けてくれた番号がある。
「うんうんうん、それ、僕の番号。登録よろしく。僕の方も登録しておくから、来る時は一報もらって来てもらう形で」
「はいっ」
「週に一回は警察官の仕事の方で登庁してるから不在なんだよね。それがいつか分からないのと、山口さんが来たいタイミングが重なってたら悪いからさ」
「はい、分かりました。ご迷惑にならない範囲でお邪魔します」
それから毒島先生に本名をうかがった。
なんと先生の本名はペンネームのままだった。字面はそのまま「真理」で「マサト」と読むらしい。
「これでマサトって読むんですね」
「うん、そうだよ」
「マサトさん……」
ここぞとばかりに口出してみた。なんだか特別な響きに思える。
「なあに」
思いがけず返事がきた。
「よ、呼んだわけじゃないのでっ」
「あらあらそうなの。なぁんだ」
至極楽しそうにそう言った後私の方も名前を聞かれたので漢字と響きを伝えると、毒島先生はスマートフォンを操作して登録を終えたようだった。
「今日も何か読んでく?」
スマートフォンをジャケットの内ポケットにしまった毒島先生の手が次はローテーブルの上の紙袋に伸びる。
「そう、ですね」
昨日は信じがたいことに新刊をいち早く読ませていただいた。これ以上、ご厄介になるのは憚られるが、ここでもやはり天使と悪魔が拮抗する。
お暇しろと言う天使と、少しでも一緒にいるために読めという悪魔。
そんな私を尻目に毒島先生はどら焼きの箱を取り出して蓋を開けると、その中から一つ取り出して封を切る。
「いただくね」
どら焼きを見せつけて断りを入れると私が頷くのを待ってぱくついた。
「うん、美味しい」
「お口に合ったみたいで良かったです」
「ちょうどお腹空いてたんだよね。山口さんも一緒に食べようよ。お腹空いたでしょ」
「い、いいんでしょうか」
「いいよいいよ、山口さんにあげないで全部食べちゃったら僕が鬼みたいじゃない。それに一人じゃ食べきれないよ。一人で食べるのもなんだし、一緒に食べようよ」
「ではお言葉に甘えて」
私の言葉に頷いた毒島先生は食べかけのどら焼きを持つ手と反対の手で新しいどら焼きを取り出すと私に差し出した。
お礼を言って受け取ると封を切って「いたただきます」と言ってから一口齧った。
ふんわりとした食感の皮から優しい甘さが広がってくる。咀嚼すると奥からあんこの上品な甘さが追いかけて来て思わず笑顔になってしまった。
「幸せそうだねえ」
同じようにどら焼きを食べている毒島先生が笑いを含んで言う。
「はい、幸せですっ」
どら焼きの甘さも、同じものを食べられている事実も、隣に毒島先生がいることも。
そんなことを伝える勇気は当然なく、幸せなのはどら焼きが美味しいからだとでもいう風にもう一口齧る。
私よりひと足先に食べ終えた毒島先生は膝に頬杖を突いてこちらを見遣った。
私の方はというとまだ半分ほど残っているため、毒島先生に見守られながらそれを食べる羽目になった。
「あの、なにか変ですか」
そう尋ねたのは毒島先生がずっとニコニコ、というかいっそニヤニヤしているからだ。
「変なところなんてないよ」
「でもなんかずっと笑ってるじゃないですか」
「うんうんそりゃあね」
一度そこで言葉を切った毒島先生は更にニコニコ──ニヤニヤを深くして続ける。
「どこがいいのかなぁと思ってさ。こっちは向こう何年もそういうことなかったから、久しぶりにそういう反応を見せる女性が現れたらそりゃあ頬も緩んじゃうよねぇ」
一体何の話をしているのだろう。どら焼きの話、には思えなかった。それ以外どこがいいのかを問われるようなことといえばと思考する。何度始めからやり直しても考えつくのは一つしかない。みるみる顔が熱をもつ。
気付かれている。確実に。
「あ、あの」
「んー」
「見ないでください」
「なんでさ」
心なしかこちらを見据えてくる目が輝いて見える。輝いているというか、獲物を前にした鷹のような視線だ。
とりあえずどら焼きを平らげてしまおうと目の前のそれに集中する。
「今、食べてるので」
「ふぅん。じゃあ終わったら教えてくれるの?」
「お、おしえるって、なにをですかねぇ」
どら焼きはあと三口ほど。
全力で惚けてみる方にシフトする。ここで誘導されるがままに気持ちを伝えたり披露するのはごめん被りたい。なにせ昨日の今日。早すぎるのだ。
「はっきり言われたいのかしらん」
なんのことやら、と首を傾げた私の方に手を突いて毒島先生がずいっと身体を寄せてくる。
嫌でも視界に入る優しげな顔。下から上目遣いに覗き込む温和な顔。だがその目は鷹のそれだ。
「幸せだって感じてる理由。どら焼きが美味しいからってだけじゃないよね」
スッと鼻腔に忍び込んで来たのは昨夜嗅いだ毒島先生の匂い。今日はアルコールの匂いはしない。酔っていない。
ただただ近い。蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。
向けられる表情、視線、どちらもを見守るしかない。
徐々にその穏やかな顔が近付いてくる。声を発しようと薄く口を開く。対して毒島先生の口は弧を描いている。
「ぶ──」
眼前の鷹の目が、黙れと言っていた。
「毒島先生」と紡ごうとした吐息が、その口に食べられる。近い。唇の熱を空気越しに感じる。
突然、二人の間にスマートフォンのバイブレーションが響き渡った。静かな張り詰めた空気の部屋にそれは大きく自己主張を繰り返す。
深く息を吸いながら毒島先生は身体を離すと、胸元に手を差し込んでスマートフォンを取り出した。そしてソファから立ち上がり、パソコンの前まで行って電話に出た。
「はいはい、毒島。あぁそう。うんうん。うんうん、そうでしょう。はいはい、はあい、ご苦労様」
スマートフォンを耳から離した毒島先生は画面をタップしてそれを机に置くとこちらを振り返る。
「わぁ、真っ赤っかだぁ」
この上なく面白そうに笑った毒島先生をポカンと見ていた。
今さっき自分の身に起きたことが何度も何度も頭の中で再生されていた。
さっき私はキスされそうになった。
その事実だけでパニックになる。
なんで、どうして。
考えても一人では答えが出ない。その答えを持っているのは目の前で遠慮なく人を笑うこの男の人だけ。
どら焼きが収まっている紙の箱。その蓋はローテーブルに置いたままだ。それを慌てて手に取ると毒島先生から見えないように顔を隠した。
「あっあっ、隠さないでよ。見せて見せて」
「嫌ですっ」
握ったままのどら焼きを全て口に放り込み、全力で咀嚼する。恥ずかしさを誤魔化す為だ。
さっきのキス未遂でいつの間にか力を入れてしまっていたらしく、どら焼きの皮は一部潰れていた。それを渾身の顎の力ですりつぶす。
蓋で顔を覆った私に毒島先生は再び近付いてきた。
なんとか蓋の隙間から表情を見ようとしてくるが、鉄壁のガードを決める。
「からかってごめんなさい。可愛かったからつい」
言いながら再びソファに着地。さっきより近い距離に座られた。
蓋で真横からの視線をガード。「可愛い」と言われてまた身体が熱くなる。
「なんなんですか」
どら焼きを飲み込み終えて独り言のようにごちる。全く理解が追いつかない。
恥ずかしさと嬉しさと戸惑いがない混ぜになっている。
「だってだってだって、山口さん、僕のこと好きでしょう」
サラリと告げられる私の気持ち。やはりバレていた。
真っ直ぐそう言われると言葉が出ない。
否定も肯定も出来ない。
「好き、ですよ。尊敬する作家さんです」
なんだか悔しくて、そう誤魔化す。
「あっはっは。違う違う違う。そういうのじゃなくてさ、僕のこと男として好きだよね」
正直いって誤魔化せるとは思っていなかった。
顔を覆っていた箱から目だけを出して毒島先生を見る。
相変わらず、温和な顔がそこにあってその目は全て知っている、と言っていた。
見透かされていることが恥ずかしくて涙目になる。
「落ちた瞬間も知ってる。昨日の食事の後でしょ。それまでは単なる仕事上で会えた尊敬する作家だった。たまに痛いことは言われる。でも言っていることは間違いじゃない。酔っ払っても介抱してくれる。僕が男だとは分かっていたけれど、君にとっては男じゃなかった。僕が君に触れるまではね。自分たちが側から見れば男女であることを指摘されてようやく僕は君にとって男になった。ほとんど抱き締められているのに近い形になってようやく君は意識した。だからもう一人で歩けるのに僕にタクシーまでエスコートさせた」
当たってるでしょうと言わんばかりに首が傾く。素直に頷くことは出来ず、再び蓋で防御する。
そうだ。全て当たっている。
憧れの人が男性で、自分は女性で、叶うかどうかは別にして男女の仲になろうと思えばなれる。面倒見が良くて優しくて。その優しさに触れていたいから酔いが覚めていないフリをした。
手にした蓋に圧がかかったのを感じて、知らず知らずのうちに閉じていた目を開く。蓋には毒島先生の指が掛かっており、ゆっくりと、だが確実に蓋が下に押しやられる。
その向こうにニンマリと笑う毒島先生の顔が現れた。
「全部分かってる。隠しても誤魔化しても無駄。観念して、落ちておいで」
温和な笑顔が一瞬、歪んだように見えた。
それを見て、なぜだか身体から力が抜けた。意地を張っても仕方がないと思った。
無意識に身体が毒島先生に倒れ込む。
軽い衝撃と共に私は毒島先生の胸に身体を預けてしまった。私の肩に毒島先生の手が乗る。
「昨日、お会いしたばかりなんです」
毒島先生の穏やかな心音。それとは対照的に私の心音は早い。悟られやしないかと不安になったが、きっとそんなことは触れなくとも承知なのだろう、この人は。
「なのに、好きになるなんてどうかしてますよね」
本来これほど惚れやすい方ではない。なのにここまで早く好きになってしまったのは元々の憧れゆえか。
「確かにねぇ」
頭上から声が降ってきている筈なのに振動を体感するのは私がその身体に触れているからだ。
「でも、好き、なんです」
言ってしまってから、これは言わなくても良かったのではと思い直す。たがもう声は届いてしまった後だ。どうすることも出来ない。私に出来るのはただただ返事を待つことだけ。
「好きになるなんてどうかしてるって山口さんは言ったけど、それを言うならそんな君を憎からず思ってる僕もどうかしてる」
思わず顔を上げた。温厚そうな顔がそこで笑みを作っていた。
「さて、これで拒む理由はなくなったかなぁ」
なにを、とは聞けなかった。間に合わなかったからだ。
私の口は開くより先に塞がれる。
触れるだけのそれに目を閉じる余裕はなかった。
あっと思っていると、すぐに離れていく。名残惜しくて追いかけてしまったが、追いつかなかった。
案の定、正面から忍び笑いが聞こえる。
「なあに。山口さんって積極的なんだねぇ」
呆れたような声色にすぐさま俯く。恥ずかくて顔を上げられない。盛っているように見えただろうか。
「心配しなくてももっとしてあげる」
言いながら毒島先生は俯いた私の顎に指を掛けて上を向かせる。
怪しげな光を放つ毒島先生の目があった。
「今度は目、閉じてからしようか」
まるで催眠術に掛けられたように、すぐに私は目を閉じた。
くすくす笑いが聞こえたかと思うと再びそれが降ってくる。さっきより長く、しばらくは角度を変えて触れ合っていただけだったが、やがてそれは啄むようなものに変化する。
こちらを指摘するときのあのネチネチした執拗な口調に似ていると思った。
何度も何度も啄むだけに留まる。
もっとして欲しくてこちらから動けば逃げていくのに、辞めようとはしない。それより深くならない口付けがもどかしい。
「今日はここまで」
更にこちらから動くべきかと考えていたところで唇が離された。
自分の鼓膜を震わせる程に心臓が激しく動いている。
「そんな物欲しげな目をしないの」
至近距離で優しげな顔に見つめられて目を逸らした。そんな表情をしていたつもりはないが、もっともっとと思っていたことは事実だ。目は口ほどに物を言うというから雄弁に語っていたのだろう。
ここまでしておいてそれ以上手を出して来ないのが不思議だった。
二人ともいい歳をした大人で、誰に何の責任も負わせることはない。とうの昔に何があっても自分達で責任を負う歳である。
なのに何故。
「これから先はゆっくりね。女性は色々と気を付けたいこともあるでしょう」
そう言われてようやく気が付いた。
好きな人と夜を共にする際、下着の種類やら色やら全身の手入れを行っていた。そのことをすっかり失念していたのである。裏を返せばそれだけ必死だったということだ。
「それと僕はちょっとアクの強い人間だから、その辺りもおいおい考えておいて」
「アク?」
「うん。すでに片鱗は見えてただろうけど」
「はぁ」
時々痛いところを突くあれのことか。それとも私の気付いていない他の何かがあったのだろうか。
「じゃあ僕はもう一本仕上げなきゃいけないから、ここでゆっくりしててね」
そう言うと、スッと立ち上がりスタスタとパソコンの前の椅子に腰掛けた。
しばらく固まって再びタイピングを始めた背中を見守っていたが、ようやく〈ゆっくり〉の意味を理解して私も立ち上がると壁を覆う本棚へ歩み寄り、端から三番目の本に手を掛ける。
それを選んだのはタイトルに惹かれたからに他ならない。
書かれていたタイトルは〈堕ちるときは一瞬〉。
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