犬養
 暖簾を潜って店の引き戸を開けると店員の声が飛んでくる。
 待ち合わせであることを告げて名乗るとテーブル席を囲むように配置されている小上がりの個室へ通された。
「お疲れー」
 店員が中に声をかけて引き戸を開けると、中にいた人物がグラスを掲げて労いの言葉を掛けてくる。
「悪い。遅くなった」
 素直に謝罪してから和室に上がり、入り口で控える店員に「ビール」と注文する。
「いいよいいよー。忙しんでしょ。むしろよく来れたよね」
「まぁ、今は帳場立ってないからな」
「そうなんだ。そりゃなにより」
 軽く会話を交わしながら正面に座る。
最後に会ったときより少しだけ老けた気はするが、それを口にするや否や「お互い様」と言われるだろう。
 犬養と山口の出会いは俳優養成所時代まで遡る。
 互いに夢を語り合い――などということは正直なかった。
 戦友というわけでも仲間というわけでもない。犬養にとって山口は〈居心地のいい相手〉。
 養成所時代、犬養は所属する女優の卵達の目を引いた。整った目鼻立ちに男振りが良いとくれば大抵の女が寄ってきた。肉体関係のあるなしに関わらないならばほとんどの女と関わった記憶がある。
 その中で唯一、どちらもなかったのは山口だった。
 犬養が養成所を辞めた日、送別会が行われた。本心から参加した者、下心があって参加した者、嫌々参加した者。
 山口は本心から参加した者だったが、犬養より先に辞めていた為、わざわざ会場に足を運んだことになる。当然、山口が参加する理由を邪推する者も居たが、そういった見解を示すのは比較的新しい者ばかりで当人を深く知っている者は誰も疑わなかった。好奇心満載で話題には登るが最後には全員一致で噂を否定するに落ち着くのだ。
 その理由は簡単なことだった。
 犬養は山口の趣味には若過ぎるからだ。
 山口の好みの男性は当人より年上。それが当時共に辛酸を舐めたものの認識だ。
監督、脚本家、演出家など様々な男性と噂が立ったが、そのどれもが山口より一回り、二回り上であることがザラだった。そのため、犬養に好意を寄せる者も山口がライバルになることはあり得ないと思っていたようだ。
 犬養自身、山口からの視線にそれらしきものは感じていなかった。
 送別会の後、二次会三次会と重なり、時間が深くなるにつれ段々と人が減って行き、まだ飲み直すという者たちにとうとう犬養は別れを告げた。これ以上付き合ってはいられない。それが本音だった。
 犬養よりも先に帰宅することを告げていた山口を送る形となったのは、すでに警察官の採用試験に受かっていたからというのも理由だったがあわよくばという気持ちが全くなかったわけでもない。
 犬養も酔っていたのだ。
 その帰路で、犬養は山口と話をした。
 そしてポツリポツリと話す山口ともう少し話したいと思った。
 自分がどういう表情をすれば相手がどんな反応を示すかは心得ていたため、承諾してもらえるように眉を下げて頼んでみると少しだけ逡巡して頷いた。
 入ったのは二十四時間営業のファミレスで、ドリンクバーだけで同じ時を過ごした。
下心を感じない、色気のある視線も寄越さない。
 そう言った相手は犬養にとって希少だった。
ただ話をした。
 山口の方に男女の中を一切期待しているような様子はなく、気が付けばそちら方面の期待をしていたことを忘れていたことを思い出すくらい、ただの友人として話し込んでいた。
 空が白み始めたころに店を出た。
 家の近くまで送り、その別れ際、連絡先を交換した。
 それからは、暇が出来ればどちらかが飲みに誘い、どちかが乗るようになった。
ただ、それも犬養が刑事になるまでの話。
 刑事になってからは電話で少し話すことはあれど飲みには行かなくなっていた。
 更に成美と出会ってからは疑われるのが嫌でその回数も減っていく。
 一度目の結婚の際は連絡したが、子供が産まれた際も、一度目の離婚の際も、二度目の結婚の際もその離婚の際も、連絡をしていなかった。
 それらを教えたのは今回会うことになって、成美の許可が下りるかと聞かれたからだ。
 成美とは離婚したから誰の許可も得る必要はない。強いて言うなら上司だ。
 そう伝えると、山口はそれ以上聞いてこなかった。ただ、付き合いの長さと深さからこれは直接聞こうと思っての行動だと理解する。
 山口に隠すつもりはないので、今日は正直に話すつもりだった。
 そのような間柄だから友人、というには軽いし、かといって親友というほど密でもない。
 この関係に名前を付けられる日が来るのだろうか。
 すぐに運ばれてきたビールを手に取れば、手に持ったグラスを山口が傾けてきた。どうやら合わせたいらしい。犬養は素直に従った。
「はい、お疲れ。刑事さん」
「お疲れ――いや、今は何してるんだ」
「今? 今はね、ドラマのアシスタント」
 養成所を辞めた後、山口は仕事を転々とした。とはいっても業種がまるで変わるというわけではなく、養成所からの伝手を頼ってテレビ番組制作会社へ。そこから今度はテレビ局のスタッフとなり、バラエティ番組のスタッフ。それから先を知らなかったが、恐らくはあちこちを巡って今はドラマの現場に居るのだ。
「最近、なんのドラマやったんだ」
「言わない。オフレコ。それに恥ずかしい。私、たいしたことしてないし」
 テーブルの上には所狭しと料理が並んでいる。あちこと食べた後があるので山口が頼んで摘まんでいるようだ。その中の一つである枝豆に手を伸ばして一房摘まむ。
「犬養だって事件のこと聞かれたら困るでしょ」
 その通りだった。捜査上知り得た情報を話すわけにはいかない。お互い、仕事の話は出来ないらしい。
 そうなってくると話せる内容は互いのプライベートなこととなる。
 山口は妙な遠慮をせずに聞いてきた。
「なんで離婚したの。原因はなに」
 一瞬だけ言葉を詰まらせる。山口の言葉に責めるようなものを感じ取った気がしたからだ。
 浮気を悪だと思うのは当然だと理解はしている。してはいるが、犬養にも言い分はある。まあ、どう言い訳をしたところでやった事実と不誠実であることに変わりはないし、もとより言い訳をするつもりないのだが。
 それでも山口に責められるのは辛かった。山口を唯一の理解者だと思ってしまっているからだ。
「俺の浮気」
「なんで浮気したの」
「成美とはその前から醒めつつあった。そんなときに出会ってそのまま」
「長く続けたの」
 珍しく、やたらと質問攻めにしてくると思った。山口はどちらかと言えば淡泊な方だと思っていたが、どうやらそれは犬養の思い違いで、こういった話題のときは饒舌になるようだ。
「二ヶ月くらいかな」
「なんですぐ醒めなかったの」
「お前だから正直に言うがな。よかったんだよ、アッチの相性が」
「うわ、サイテー」
 わざとらしく軽蔑の表情を浮かべてこちらを睨む。しかし、山口は一瞬黙り込むと小さく溜息を吐いた。これも山口にしては珍しい。
「と言いたいところだけど、ちょっと分かるかも」
「何が」
「身体の相性の話」
 その言葉に犬養は面食らった。
 男に関して悩み事があるのだろうか。普段の山口ならこういった話題には乗ってこない。なのに今日はあちらから言い出した。 犬養は問い質す。
「今の彼氏か」
「そう」
 どうやら読みは当たったらしい。
「よくないのか」
「違う」
 今の彼氏との夜事情であることは間違いなかったが、方向性を読み間違った。
「今付き合ってる人と、正直めちゃくちゃ相性いいの。だから本音を言えばもっと頻回にしたいって思っちゃう」
「してくれないのか」
 なるべく冷静に、平坦な声を心掛けた。安心して話させる為だがこちらの動揺は感じられずに済んだらしい。
「彼氏、一回り以上年上なんだけど」
 頭の中で相手の年齢をはじき出す。
 山口の年齢は犬養とさほど変わらないはずだ。山口が三十代半ば。ということは、相手は五十前、といったところか。
 なるほど、性欲の減退か。
「そこまで必要としてなさげなんだよね。そういうの」
 ただでさえ年齢的に性欲が減退する頃で、かつ本人がその行為に積極的でないのであれば、相性がいいのを知ってしまっているので辛いものがあるだろう。
 犬養には心当たりがある。
 成美と別れる原因となった相手とのことを思い出す。あの時得られた充足感。あれがあったから何度も逢瀬を重ねたし、離婚の原因ともなった。
「淡泊な人なんだな」
「うん、まぁ多分そう。あと忙しそう」
「仕事か」
 五十代前。会社でそれなりの地位を得て、責任もあるだろう。
 思わず上司である麻生の顔を思い出す。
「あちこちから仕事頼まれてて大変そうなんだよね。だからその時間取っちゃうのが申し訳なくて、構ってくれるのをずっと待ってる感じ」
 ふと山口の目が不安に揺れる。
 思わず胸の辺りに何かが刺さりそうになる。厚焼き卵に箸を伸ばして誤魔化す。
「本人には言ったのか」
「言えない言えない。多分私のベタ惚れだし、困られた挙げ句捨てられそう」
「そんな取り付く島もないような相手なのか、そいつ」
「そういうんじゃなくて、私が迷惑掛けたくない」
 彼氏に迷惑を掛けたくなくて言いたいことを我慢する。
 なんといじらしいことか。
 しかしそれでは何の解決にもならない。
 そういったことの不満も共有している方がいい。
 会話がなくなれば相手との関係を立て直せなくなる、どうすればいいかも分からなくなる。
 これは一般論ではなく、経験則だった。
 そのとき、テーブルに伏せて置いてあった山口のスマートフォンが震えた。
 ゆったりとした動きでそれをひっくり返した山口は次の瞬間目を見開いた。
「ごめん。出るね」
 言うが早いか山口がスマートフォンをタップしてそれを耳に当てる。
 キラキラとした目が、僅かに上気した頬が相手が渦中の彼氏だと告げていた。
 相手の話を聞いている山口に口パクで「トイレ」と告げながら引き戸の外を指差すと、嬉しそうな顔のまま頷いた。
 トイレから戻ると電話は終わっており、山口は少しだけ晴れやかな顔でほっけの塩焼きを突いているところだった。
「電話、大丈夫だったか」
「うん」
 その声の上がり調子に悪い電話ではなかったのだと知る。
 それにしても、今日は自分と飲みに行くと伝えているのだろうか。
「仕事が早く片付いたから、家に来ないかって」
 その言葉に傾けかけていたビールジョッキをテーブルに戻す。
「じゃあ、早く行けよ。待ってるんだろ」
「いいのいいの。今日はそもそも友達と飲みに行くって言ってあるんだから」
 きちんと男友達だと言っているのかと尋ねる前に山口が答える。
「今日は男友達と会う日だよ、って言ったらそういえばそうだったね、って感じだったし」
 いや、それにしても誘いを断られたに等しいわけだから相手の気は悪くなっただろう。
「本当によかったのか」
「いいの。呼べばすぐ来るって思われるのも嫌だしね」

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