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「羽根ペンに、替えの靴下に、羊皮紙でしょ、それから零れないインクと……」

「カザリ、教科書が一冊ベッドの下に落ちてるけど?」

「え?あ、あ!危ない、危ない」

「……ねえカザリ、今更心配になってきたのは僕だけ?」


意気揚々と荷物を詰めるカザリを、カザリのベッドの上に寝転がりながら僕は一人溜め息混じりにそう問いかける。ベッドの下から見つけ出した魔法史の教科書は一週間前までカザリが毎晩眠りにつく前に僕に一緒に読もうと飽きずに持ってきていたものだったが、ゆっくりと声に出して朗読する僕のそれはカザリの睡魔に力を与えてしまっていたらしい。僕との時間が持てない!と嘆いたきり姿を消したそれは、どうやらめそめそと泣くカザリの手によってベッドの下に放り投げられていたようだ。
埃をふう、と息で払って、カザリは僕を振り返りながら教科書を他の荷物と共に詰め込む。振り返ったその顔は僕の考えることをちっとも理解していないらしく、相変わらずカザリの部屋にふわふわと浮かぶ花に直ぐに気をとられ、へにゃへにゃと笑ってその花を捕まえた。カザリの部屋に浮かぶ花は、白く小さな花に変わっていた。


「トム、トム、良い匂いだわ。ほら」

「カザリ、授業中は寝ちゃ駄目だからね。ちゃんと先生の話をよく聞いて、分からないことは授業が終わってからでも良いからちゃんと訊くこと」

「うん、うん。はいトム、嗅いでみて」

「……今みたいに全く話を聞いてない返事は駄目だよってこと、分かってる?」


カザリは三日前にダンとハツが選んで買ってきたその花をえらく気に入ったらしい。僕の話を聞いているのか聞いていないのか、彼女は両の手で包み込むように捕まえた花を僕の方に近付けて、ほら、と笑う。仕方なくカザリのその柔らかな手を包み込んで鼻先まで引き寄せれば、カザリの指の間から微かに甘い蜜の匂いがして、そうだね、と僕は答えた。甘過ぎないそれは、僕の鼻にも合ったようだ。なんて、三日前からカザリにこの匂いが染み付いていたのだから、そんなことはとうに知っていたのだけれど。


「これ、ホグワーツに持っていけないかな?」

「持って行かなくても良いよ。僕が手紙と一緒に送る」

「本当?じゃあ持って行かない」


僕がゆっくり手を離せば、カザリは再度匂いを嗅いで、それから花を逃がした。ふわりと浮かんで漂うそれを指で弾けばカザリは何が可笑しいのかくすくすと笑って、僕はまた心配になる。こんな脳天気で、彼女は上手くやっていけるのだろうか。ホグワーツには四つの寮があると本で読んだが、どうかカザリはスリザリンに入りませんようにと柄にもなく祈ったりしてしまう。


「トム、トーム!」

「なに、うっ」


そんなことをぼんやりと考えていれば、荷物を詰め終えたらしいカザリが勢い良く立ち上がり、そのままベッドの上に寝転がる僕の上にダイブしてくる。突然の重みに思わずくぐもった声を上げれば、カザリがもぞもぞと僕の上からおりて隣に寝転がり、ふふ、と小さく笑った。カザリのシングルベッドに二人が寝転がるにはやはり狭く、その微かな吐息すら頬に感じる程。しかし、僕は動く気になれなかった。
目の前にあるカザリのダークブラウンの髪を撫でれば、カザリが口元を手で隠しながら目を細めて僕を見た。緩やかなこの時間を酷く愛おしく思うが、彼女は明日、ホグワーツに向かうのだ。


「……授業はちゃんと聞くんだよ」

「うん」

「カザリはきっとスリザリンとは合わないから、スリザリンの人間には近付いちゃ駄目だ」

「うん」

「何かあったら、何もなくても、手紙は書いて。必ず直ぐに返事をする」

「うん」


口元を押さえて笑う彼女は、きっと明日になれば僕の話なんて忘れてへにゃへにゃと笑って行ってしまうのだろう。それが少し腹立たしくもあったが、それがカザリなのだと思うと何故だか僕の頬は緩んでしまう。それは一種の諦めであったが、嬉しそうに目を細める彼女を目の前にするとそれすらどうでもよくなってしまう。きっと、今の僕をミセス・コールが見れば、トムがもっとおかしくなったと泣き叫ぶのだろう。カザリに毒されていることなど、とうに理解していた。


「……ねえカザリ」

「うん、うん。なあに、トム」


きっと、明日には忘れてしまうこと。分かってはいるが、一縷の望みと願をかけるように、僕はカザリの髪を一房握る。花とは違う優しいカザリそのものの匂いがするそれは、僕の鼻に一番合う。


「僕は、いつもカザリを想うよ」


それから僕はカザリの髪から手を離し、カザリの右手をとり小指を絡めた。ハツが教えてくれたユビキリは約束を誓う魔法らしいので、今これをしても何の意味もないことは分かっている。それでも僕は、カザリの小さな小指と僕の小指をしっかり絡め、目を閉じる。
窓の外では、来たかどうかも分からない夏が消えようとしていた。






「トム、トム、カートから荷物が落ちちゃう!父さんも走っちゃ駄目!」

「何言ってるの。ダンは走ってないよ。カザリが付いて来れてないだけ」

「母さん、トムが意地悪!」

「カザリ、ダンもトムもゆっくり歩いてくれてるから早く荷物をちゃんと乗せて」


キングス・クロス駅の改札を抜けた先で立ち止まる僕とダンを恨めしそうにカザリが見つめるのを見ながら、本当にやっていけるのだろうかと昨日の心配がぶり返す。そして、彼女は本当に僕より年上だろうか、とも。
ハツに言われるがまま荷物をカートに乗せ直すカザリを、父親であるダンはどう思っているのだろうか。僕と同じように心配したりするのだろうか。ふいにそんなことを考えて、僕はちらりとダンを見上げる。今日は太陽が出ていないからと言って持ってきたグレーの薄いトレンチコートは脇に抱えるように持たれ、その意味を成していなかった。きっと人混みに揉まれたせいで暑くなったのだろう。ダンの頬は、いつもより赤らんでいる。そして、何故かその瞳も。


「……一年。一年の辛抱だ。そしたら来年からトムがホグワーツに行くから、きっと大丈夫だっ……」


すらりと背が高く如何にも賢そうな顔をした彼を、一体誰が娘を心配して泣きそうになっているだなんて思うだろうか。背筋を伸ばして真っ直ぐカザリを見つめるその姿は誰が見ても程良く威厳のある良き父親であるが、今の呟きを聞いてしまった僕からすればカザリの次に心配なのは彼なのだと理解する。いつかハツが僕はダンに似ると言っていたが、僕は泣くほどカザリを心配したくない。


「トム、早いよー」

「カザリが遅いだけ。ダン、カザリとハツも来たしもう行こう」

「あ、ああそうだな。ほら、ハツ」

「はい」


漸く改札を抜けて追いついたカザリとハツにダンは我に還り、すぐさまハツに向かってコートを持っていない方の腕を出す。まるで当たり前のようにハツがその腕に自らの腕を絡め歩き出したのを見送って、僕はカザリを振り返った。カザリは前を歩く二人の背中を見て、くすくすと笑っている。


「笑ってる場合じゃないよ。ほら、僕達も行かなきゃ」

「うん、分かってる、分かってる」


ふにゃ、とカザリが笑ってカートを押そうとしたので、僕はカザリがまた荷物を落としそうになってはいけないとカザリからカートを奪い歩き始める。あ、と声を上げたカザリに、早く、と声をかければ、カザリは嬉しそうに頷いてから僕の隣に並んだ。小さな左手が、一緒にカートを押すかのようにカートの端に乗せられた。マグルの人混みを縫うように歩くダンとハツを追って、七番線と八番線を通り過ぎ、九番線に入り込んでいく。カートの端を握るカザリの手に微かに力が込められた気がして、僕は黙ってその手に自分の右手を重ねた。カザリが何か言おうと僕を振り返ったのが視界の端に映ったが、僕はその手に黙って触れたまま前を見る。九番線のプレートがぶら下がる大きな柱の前に、ダンとハツは立っていた。


「さ、カザリ」


ダンの肩に寄り添うように立ちながら、ハツが優しく笑ってカザリを手招きする。カザリはオレンジ色のカーディガンの裾を一番きつく握りしめ、それから少しの間を置いて小さく頷いたので、僕はカートから手を離す。カザリがゆっくりと柱の前までカートを推し進めば、ハツはまた優しく笑ってカザリの頬に触れた。


「母さん達はカザリが通ったら直ぐに行くわ。だからカザリはここを通ったらそのまま汽車に沿って歩きなさい。後ろがつっかえちゃう」

「うん。空いてる席を探すんだよね?」

「そうよ。トム、カザリの直ぐ後について行ってあげてね」


カザリの背中を撫でながらハツが言ったので、僕は頷いてみせた。ホグワーツ特急への乗り方を僕は本で読んで知っていたし、カザリのように特別緊張をしたりはしない。そもそも、昔から緊張というものとは無縁だったように思う。それ以上に、いつもと違い大人しく頷くカザリを前に自分が緊張した素振りを見せてしまうのはとても悪いことのように思えた。
へにゃへにゃとした笑みが顔から消えて、カザリはゆっくりと柱に向かって進んでいく。それに続いて僕が歩き出せば、ダンが小さく笑って僕の頭を撫でてきた。何をするの、と少し気恥ずかしい気持ちで振り返った瞬間、僕は大きく目を見開く。もうそこに、二人の姿は見当たらなかった。


「と、トム、トム!」

「うわ、」


その代わり、興奮したカザリが僕に飛びついてきたが。
慌ててカザリを抱き止めて僕は辺りを見回すが、直ぐに先ほどハツがカザリに言っていた後ろがつっかえるという言葉を思い出し、僕はカザリを引きずるようにして少し離れた場所にぽつんと置かれていたカートに歩み寄る。ぎゅうぎゅうとしがみついてくるカザリと、そんなカザリに何も言わず歩く僕はどうやら異様だったらしい。カートにたどり着くまでのたった数歩の間、これでもかというほどの沢山の視線を受けた。


「カザリ、ハツに言われた通り空いてる席を……」

「トム、トム、凄いね!一瞬で世界が変わったの!ドアを開けて丘に行くより早いよ!煙突飛行より楽だよ!」

「……ホグワーツまで通路で立っていたいのなら、此処でこのまま話を聞くけど?」

「あ、」


僕がそう言った途端、カザリは花が萎むより早く口を塞いで、僕から離れカートを押して歩き出した。それに呆れて思わず肩を竦めていれば頭上からくすくすと聞き慣れた笑い声が聞こえてきて、僕はカザリの後を追いながら振り返る。いつの間にか来ていたらしいハツが、僕の背を軽く押しながら笑っていた。


「ハツ、ダンは?」

「向こうで魔法省の部下に捕まってるわ。カザリを見送れないかもしれないわね」


ふふ、と小さく笑ってハツが言うので、僕はハツの向こう側にいるであろうダンの姿を探すが、人混みに邪魔されて見つけることは出来なかった。ただ、時折娘を見送りにきたんだ、という訴えは聞こえてきたが。それでも彼の姿は現れないので、本当に見送れないかもしれないらしい。


「と、トム、トムー!」


先ほどと同じようにカザリが僕の名を呼んで、僕は弾かれるように振り返る。緑や黒のローブの向こうに、オレンジ色のカーディガンに身を包んだカザリが荷物を汽車に乗せようとしていたが、一番大きなトランクが腰を上げる気配は無かった。
仕方なくカザリに歩み寄って、トランクを汽車に乗せてやる。するとカザリがへにゃ、と笑ってありがとうと言ったので、僕は別にと首を振る。


「これ、コンパートメントに入れなきゃ。カザリ、どこに入れるの?」

「あ、此処、此処、空いてたの!」

「そう。カザリ、ドアを開けて、僕が入れるから」

「うん、うん、分かった」


ぱ、とコンパートメントに駆け寄ってドアを開けたカザリを確認して、僕は妙に重いトランクをそのコンパートメントに入れながら一体どれだけの無駄な物が入っているのだろうか、と考える。カザリのことだ、きっとお気に入りのカーディガンを山ほど詰め込んだに違いない。
カザリがコンパートメントの隅にちょこんと小さくなって座り込んだと同時に、発車を知らせる汽笛が鳴り響く。微かに伝わってくる振動を感じながらホームにかかる時計を見れば、それは発車一分前を指していて、僕は慌てて汽車から下りた。そしてカザリのいるコンパートメントの窓の前にいるハツを見て、僕は辺りを見回す。ダンは未だに魔法省の部下とやらに捕まっているらしい。


「ハツ、ダンは?」

「もう無理ね。さっき姿が見えたんだけど、深緑色のローブの人に捕まって消えちゃったわ」


一体ダンは魔法省でどんな仕事ぶりを発揮しているのだろうか。特に気にとめていないように言ってのけたハツに妙な関心を覚えながら、僕はカザリがいるコンパートメントの窓に走り寄る。するとカザリは直ぐに僕に気付き、いつの間にか開け放されていた窓からその小さな手を伸ばしてきた。僅かに身を乗り出したカザリの髪が風に吹かれて揺れて、僕の頬を撫でる。掴んだ手は少し熱くて微かに汗ばんでいたが、それでも離そうとは思わなかった。
僕を見るカザリの目が、微かに濡れている。こんな時に思うのはあれだが、カザリとダンはやはり親子なのだと改札の前に立ち目を赤くしていたダンを思い出した。


「トム、私、私、ちゃんと友達、作れるかな……?」

「大丈夫だよ。カザリなら直ぐに作れる。ハツがそう言ってた」

「じゃあ、ちゃんと授業聞くから、手紙、書いてくれる?お花、送ってくれる……?」

「……書くよ、それに、ちゃんと花も送る。カザリが好きそうな花を選んで送る」


潤んだ瞳で嬉しそうに笑った彼女は、僕の言葉をちゃんと聞いていたらしい。ふにゃふにゃへにゃへにゃと笑いながら、ベッドの下に放り込まれていた教科書を詰めながら、ちゃんと聞いていたらしい。
カザリの指が僕の指に絡んで、カザリはぐっと身を乗り出してくる。それ以上乗り出しては窓から落ちてしまうと思いとっさに空いた左手でカザリを受け止めれば、カザリの額が僕の額に触れ、僕は一瞬息を止めた。遠くから、ダンがカザリの名を呼ぶ声がする。カザリはそれに振り返らない。


「クリスマスには、クリスマスには帰るから、それまで私のこと忘れちゃ駄目」


彼女がこれほどまでに真剣な顔をして僕に何かを命令したことが今までにあっただろうか。決して彼女といた時間は他の家庭のそれよりも長くはないが、それでも僕はこれから先一度だって彼女がこんな風に真剣な顔をして命令することは無いと確信する。それ程に、彼女はいつも笑顔だった。そして、今目の前にいる彼女は真剣だった。
だと言うのに、何てくだらない命令なのだろう。


「カザリ、僕の話、ちゃんと聞いてなかったの?」

「……聞いてた。ちゃんと、聞いてたよ」

「じゃあ、分かってる筈だよ」


響き渡る汽笛の音を聞きながら、カザリの肩から手を離す。ゆっくりと離れていく額に妙に胸が締めつけられるのを感じて、僕はカザリの手を離せなかった。
ほんの少しだけ窓から身を乗り出したカザリの頭をハツが撫でて、その額に唇を落とす。悔しいことに今の僕ではまだカザリにそうしてあげることが出来なくて、僕は代わりにカザリの指をほどき、小指を絡めた。カザリの瞳がまた、涙で潤む。


「カザリ、」

「トムっ、」


昨日の言葉を再度言おうとして口を開いた瞬間、カザリが僕の手を引き寄せる。きつく絡まった小指に、カザリは涙を乱暴に拭いながらへにゃりと笑った。


「私も、私も、いつもトムを想うから」


何だ。やっぱり、聞いていたんじゃないか。
引き寄せた僕の小指に唇を落として、カザリはハツの頬に自身の頬をすり寄せた。孤児院から出て行く子供達を二階の窓から見送った時とは違う感情に、僕は奥歯を噛み締める。この感情を何と呼ぶのか知らないが、早くクリスマスが来ることを願わなくてはならないのは確かだ。
カザリの小指がゆっくりと離れ、汽車が動き出す。隣の窓からプラチナブロンドの髪をした男子生徒が家族に手を振るのを見て、僕はその場で黙ってカザリを見つめた。カザリはもう、泣いていなかった。


「じゃあ、またね!」


カザリの手が大きく振られると同時に、汽車はゆっくりとホームから離れていく。オレンジ色のカーディガンから伸びる小さな手がますます小さくなっていって、僕はたまらず奥歯を噛み締めた。


「トム」

「……なに、ハツ」

「早くクリスマスになって欲しいわね」


遠ざかっていく汽車を見送りながら、ハツが呟く。僕は彼女がそう言いながら笑っていることに気付いていたし、彼女が半ば僕をからかっているのだということにも気付いていた。


「…………うん。早く、カザリに会いたい」


それでも残りの半分に隠された感情が僕と同じだということも分かっていたから、僕はハツの手をそっと掴んで小さく頷く。カザリの下手な感情の隠し方は、きっとハツ譲りなのだろう。僕にしがみついて怖くないと声を震わせたあの日を思い出しながら、そんなことを考えていた。

走り去っていった汽車を見つめて、僕は思う。どんな花を贈れば、彼女は笑ってくれるのだろうかと。


1937年、短すぎた夏のこと。


初めての手紙の内容は、勿論泣きながら汽車を追い掛けようとしたダンについてである。






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