リビングに置かれたテレビからは、動物番組の賑やかなナレーションが流れている。画面の中では、ゴールデンレトリバーが飼い主に尻尾を振って甘えていた。
 内容に興味があるわけではなかった。ただ、隣に座る嵐守が、ふとした瞬間に訪れる無音を恐れている事に気付いてから、その空白を埋めるためにヒロトが用意したノイズに過ぎない。
 嵐守は無音が苦手だ。彼女自身はそれに気付いていないかも知れないけれど、静寂の中に放り込まれると、その瞳はすぐに所在なく彷徨い、自身の欠落を探し始めてしまう。
 ソファの端で読書に耽る嵐守の隣で、ヒロトはその存在を確かめるようにべったりと身体を寄せていた。
 嵐守が纏っているのは、ヒロトが愛用していた何の変哲もない黒のパーカーだ。一度貸して以来、気に入ったらしい彼女が勝手にクローゼットから持ち出すようになった。自分のものを好んで着てくれるのは嬉しいけれど、華奢な体躯にはあまりに大きく、ぶかぶかの袖から辛うじて覗く指先が不器用にページを捲る。
 それがどうしようもなく愛らしくて、ヒロトは彼女の細い肩に頭を預けた。
「……ヒロト、擽ったいです」
 本に視線を向けたまま、嵐守が困ったように呟く。けれど、その声にはかつての凍てつくような拒絶はない。
 ヒロトは答えず、むしろ擽るように鼻先を首筋に寄せた。指先はパーカーの裾を弄り、時折その下の柔らかな肌に触れるか触れないかの距離で彷徨う。甘やかしたい気持ちの裏側で、彼女の体温を一方的に貪っているのは自分の方なのだと、ヒロトは自覚していた。
「だって、キミがなかなかこっちを見てくれないから」
 わざと子供のように甘えて見せながら、彼女の腰に腕を回して引き寄せる。一度失いかけた少女が今こうして傍にいる事を許してくれて、自分の匂いに染まって腕の中にいると言うのに、それでも拭えない焦燥感がヒロトの中に燻っている。
 嵐守は小さく溜息を吐き、ようやく視線をヒロトへ向けた。
「今のヒロト、なんだか……わんちゃんみたい」
 その言葉に、ヒロトの心臓が跳ねた。かつての彼女なら少し距離を詰めるだけで何かに怯えるように肩を竦めていた。それが今では自分を犬に例えて、揶揄う余裕さえ見せている。それだけで、ヒロトの中に沈んでいた鉛のような執着が、温かな幸福感に塗り潰されて行く。
「わんちゃん、か。光栄だな。……キミに飼ってもらえるなら、悪くない」
 冗談めかして返した言葉は、半分は本気だった。
 前髪の隙間から覗く碧い瞳が、テレビ画面とヒロトを交互に捉える。その瞳が悪戯っぽく細められたのを、ヒロトは見逃さなかった。
「じゃあ……いい子に出来る? ヒロト」
 それは悪戯と言うより、観察の延長だった。嵐守がこうした軽口に乗るのは珍しい。けれどヒロトは知っている。彼女が時折、他者の反応を観察し、その再現を試すような仕草を見せる事を。
「もちろん。キミの望む通りに」
 迷いなく答えたヒロトに、嵐守は本を閉じ、少しだけ背筋を伸ばした。
「……おすわり」
 躊躇いがちに落とされた声。
 ソファから音もなく降りたヒロトは、嵐守の足下、絨毯の上に片膝をついた。それは犬と言うよりも、最愛の主君に忠誠を誓う騎士の仕草に近い。
「どうかな。キミのわんちゃんは、お利口に出来てる?」
 ヒロトはわざとらしく微笑み、パーカーの裾から覗く彼女の膝にそっと顎を乗せ、下から覗き込む。
 見上げる視線の先、嵐守が呆気に取られたように瞬きを繰り返していた。微かな驚きで、頬は淡く赤みを帯びている。まさか本当に従うとは思っていなかったのだろう。細い指先が、恐る恐るヒロトの赤い髪に触れる。
「……本当にやるなんて、思いませんでした」
 その指先の震えすら、ヒロトにとっては愛おしい。
 彼は知っている。このまま忠実な犬を演じていれば、彼女は自分を拒まない事を。むしろ、その柔らかな支配権に陶酔してくれる事も。
 けれど、いつまでこの"ごっこ遊び"に付き合ってあげられるだろう。彼女の膝に頬を寄せながら、ヒロトは胸の裡で飼い慣らしていた飢えた怪物が、歓喜に震えて目を覚ます気配に気付いていた。それは彼女を救ったあの日からずっと、彼の心臓の裏側に爪を立てて居座り続けている独占欲の化身だ。
 嵐守が自分に向ける、微かな熱を帯びた眼差し。それを独占していると言う優越感が、理性と言う名の首輪をじりじりと焼き切って行く。
「……次は、何をして欲しい? 嵐守」
 嵐守は、自分の膝の上に乗せられたヒロトの頭を恐る恐る撫でていたが、彼の言葉に少しだけ悩む仕草を見せた。
 所在なく持ち上げられたぶかぶかのパーカーの袖から、小さな手のひらが差し出される。それから少しだけ恥ずかしそうに、けれど好奇心に負けたように唇を開いた。
「……じゃあ、おて」
 それは命令と言うにはあまりに頼りなく、そして甘やかだった。
 ヒロトは薄く唇の端を上げた。迷う事なく、自分の手を嵐守の手のひらに重ねる。それからそっと包み込んで、そのまま吸い寄せられるように指先に唇を落とした。
「わ、」
 一度では足りず、節々に。そして柔らかな手のひらに。彼女の冷たい手に、体温を分け与えて行く。手のひらの傷跡も、手首の点滴の痕も、全てを慈しむように。
「それは、おてじゃ、ないです……」
「そうかな。犬は、親愛の情を込めて主人の手を舐めるものだよ」
 親愛などと言う綺麗な感情はとうに淀み切っている。今のヒロトを突き動かすのは、どろりとした重たい情念だった。
 彼女の脈動が指先から伝わって来る。生きている。ここにいる。その事実だけで、怪物の空腹は一時的に満たされる。
「……いい子にしているから、もっと触らせてよ」
 指の間を割るように舌先でなぞれば、嵐守の肩が小さく跳ねる。ソファに座る彼女の腰に腕を回し、そのまま自分の方へと引き寄せた。
「ほら、次は?」
 熱を帯びた視線に見つめられ、嵐守は逃げるように視線をテレビに向けた。画面では、犬が仰向けになってお腹を見せている。
「え……あ、……ごろん、して」
 混乱した彼女の口から零れた、最後の悪あがきのような命令。
「いいよ。……ほら、おいで」
 ヒロトは嵐守を抱えると、ソファへと倒れ込んだ。たじろぐ嵐守の腰を抱き寄せ、そのまま自分の腹の上に乗せる形で仰向けに寝そべる。オーバーサイズのパーカー越しでも伝わって来る、彼女の頼りない体温と心音。
 けれど、嵐守は自身の胸がヒロトの鼓動に直接触れる距離に狼狽えて、身体を強ばらせた。自身の体重が全てヒロトに掛かっている事実に申し訳なさそうに身を捩る。彼女の「自分には価値がない」と言う呪いが、こんな些細な接触にさえブレーキを掛けようとする。
「あ、あの……重く、ないですか……?」
「まさか。むしろ、もっと体重を預けてくれてもいいくらいだよ。キミがここにいるって、痛いくらいに教えて欲しい」
 そわそわと浮き上がろうとする嵐守の背中に腕を回し、ヒロトは逃がさないように抱き竦める。そのまま、華奢な背中を、背骨の形を、ひとつひとつ確かめるように指先でなぞる。この線の細さ。壊れそうな脆さ。
 かつて高所から身を投げた彼女を受け止めたあの日の衝撃は、あれからずっとヒロトの心に呪いのような影を落としている。自分がいなければこの命は消えていた。歪んだ優越感と傲慢な自覚が、彼を彼女への執着へと駆り立てる。ヒロトにとって、この姿勢は世界で最も彼女を繋ぎ止めていると実感出来る形だった。
「や、擽ったい……」
「犬が、どうしてお腹を見せるか知ってる? 嵐守」
「……急所を見せるのは、相手を完全に信頼しているから、ですよね」
 ヒロトの胸に手を着いた嵐守が顔を上げた。碧い瞳が戸惑うように揺れる。
「そう。今のオレも同じだよ、嵐守。キミにならどこを触られても、何をされてもいい。オレの全部、キミのものだから」
 耳元で囁いた言葉に、嵐守の身体がびくりと震えた。
 嘘ではないけれど、それは最早建前でしかなかった。無防備を装って、実際は彼女を自分の身体と言う檻に閉じ込めている。差し出した献身で信頼を得ようとしている。傷付け合いながらようやく辿り着いたこのぬるま湯のような平穏の中で、彼女を二度と傷付けないように。
「どうして、そこまで……」
 お腹の上に乗せられたまま、嵐守がか細い吐息をこぼす。
「わたしは、まだあなたの事を思い出せていないのに」
 ヒロトの胸元に置かれた嵐守の指先が、心音をなぞるように小さく震えた。その呟きは、まるで自分自身に言い聞かせるようなひどく心細い響きを纏っている。
 記憶と言う確かな足場を持たない彼女にとって、自身に向けられる無条件の愛は救いであると同時に、いつ足下を掬われるか分からない底なし沼のように思えるのだろう。
 胸の上で戸惑うように瞬きをする嵐守の背中を優しく、けれど抗う余地を与えない力で抱き寄せて、ヒロトは上半身を起こした。
「オレはどっちも知っているんだ。昔のキミも、今のキミも」
 至近距離で視線がかち合い、嵐守の碧い瞳が大きく揺れる。吐息が唇を掠める。
「絶望してオレの腕の中に落ちて来たキミも、過去を失って自分を偽物だなんて思っているキミも」
 震える彼女の頬を、熱を帯びた掌で包み込む。親指の腹で左目の下にあるほくろをなぞった。
「だから……そのどちらも欲しいと思うのは、欲張りかな」
 嵐守の呼吸が、僅かに浅くなる。それが不安によるものなのか、別の感情なのか、ヒロトには分からない。けれど、目を逸らす理由にはならなかった。