隔てた先にあるもの
かの有名な日本のことわざがある。
塵も積もればナンタラカンタラ、些細なことでも積み重ねていけば報われるよ、広大なものになるよって昔の人が作ったアリガタイお言葉だ。
今思えば不思議で仕方がない、どうしてよりによって塵なんかに価値を見出そうどしたんだろう。だって塵なんて所詮ただのゴミでホコリで、それ以上もそれ以下もきっとなくて、チリツモなんて言葉はあまりに不安定で、塵が山になったところで一風吹けばすぐ崩れ散ってしまうのに。
そこに何の意味があるのか、分かっていても、きっと自分達を慰めることに必死で仕方なかったんだ。
幼少期にいやでも教え込まれるその言葉を今さら有り難がって聞けやしないし響きもしない。泥沼でも一生懸命歩き続けたら、働き蟻みたいに四六時中動き続けたら、魂を削りながら頑張り続けたら、いつか。そんなゴミみたいな努力で私達が望むいつかなんて、きっとどこにもありやしないのに。
私にとっての世界は残酷だった、
残酷で無常で冷酷だった。
必死に掴もうと手を伸ばしても、他国の旧人に十字架を掲げて祈りを捧げても、積もった塵は誰かの笑い声に吹かれて消えてしまった。神様だって助けてくれない、ちっぽけな一人の願いなんて相手にされない。
──じゃあ誰が私の願いを叶えてくれるの。
分かってたのに、
願いなんか届くわけが無いことなんか、そんなこと分かってたというのに。絶望を見るだけだと分かっていたのに、どうして、どうして。どうして、それでも祈り望むことを止められなかったの。
そんなちっぽけな言葉に縋るのをやめれなかったの、姿の見えない何かに期待することを止められなかったの、どうして、ねえ、伸ばし続けた腕はとうに限界を迎えていたよ。
馬鹿みたいに、その言葉を信じたせいで。
ああ、どうしよう、
こんなにも世界は真っ黒だ。
真っ黒だった世界は、簡単に色を変えた。
不自然なほど自然に意識がふわりと戻って、重いまぶたが持ち上げられる。いつのまに眠っていたんだろう。ムクリと上半身だけを起こすと、視界に入ったその光景に心臓が勢い良く脈打った。
「……ここ、どこ」
視界が白い。
目が痛いくらいに眩しい白に、理解は追いつこうとしなかった。どこまでも、どこまでも純粋な白だけが続いていた。終わりが、壁が一向に見えないほどに。
待って、ここ、どこ。何なのここ、入口も出口も物も車もビルも人も、何もない。白が永遠に続いているだけの空間だった。
どうしてこんなところに私はいるの。どうやって私はここに来たの。痺れ上がるような恐怖が絶えず心臓に刻まれて、何かを思い出そうと両手で頭を抱え込んでも、引っ張り出す記憶の糸すら見つからない。思い出せない。さっきまでの記憶がぽっかりと抜け落ちている気がする。
目の前が真っ暗になった。
頭がおかしいくなるほどの白い空間の中で、目の前が、自分の未来だけが真っ暗で先が見えない。全身でだんだん早くなる鼓動を感じていた。なんで、わたし、こんなところにいるの。混乱と恐怖で停止していた意識を奮い立たせて、その場で立ち上がる。
ここはどこなの、そうして辺りを見渡した、その時だった。
背後に言い表せない奇妙な気配を感じて背筋が泡立つ。それと同時に、私を包む空気の温度だけが下がったような気がした。不安と恐怖とがごちゃ混ぜになった心は、感情がダラダラと溢れて破裂しそうだ。膝の力も抜けて、足がガクガクと情けなく震える。なに、これ。こわい、こわいのに、振り向け、そう脳内に謎の声は囁く。
「ようこそ迷いウサギさん」
「っ、だれ!?」
「こわいねえ」とおどけたような声が聞こえたかと思うと、唐突に現れた"それ"は腹を抱えて笑う。
背後にいたのはヒト、じゃない。ひ、と喉から小さく悲鳴が漏れた。人のような形はしている。けれど影はない。それでいて目もない、髪もない、何もない。それはヒトと呼ぶにはあまりにもあやふやで曖昧なものだった。
「……ッひ、」
「ハハハ、新鮮だなあ、そういう反応」
「な、に」
「何じゃないでしょ。あんたが望んだんだよ?」
──消えたい、って。
子供みたいな高い声で、男の子かも女の子かも分からない輪郭をした影は甲高く笑う。私を見て、今更何を言うんだと馬鹿にするように。
「消えたいんでしょ?
「今の世界から存在を綺麗さっぱり抹消していなくなって。
「このまま消えてしまいたいって。
「できることなら楽に静かにって。
「あんたが望んだんだ。
「だからこんな世界を挟んだ場所にまで来ちゃったんだよ。
「仕方ない、自業自得だよね。でもさぁ
「それだったら、
「こっちの世界のルールに従ってもらわないと、いけないよねえ」
捲し立てるように言うと、影は声を上げて笑った。叶えてあげる、と。
「なん、で」
「何で? 変わったこと言うなあ。君が望んだんでしょ? 強く願った、でもそれは叶えられない。だから代わりに別の形で叶えてあげる、それだけだよ」
「……っ」
「まあ嫌って言っても、もう通行料はもらっちゃったからねえ」
先払いだよ、先払い。
私の前にピョンと跳んでくる人形のそれは、心底楽しそうな声をしていた。逃げなきゃ、直感的に感じて足を動かそうにも、動いてくれない。何で、何で動かないの、何で……ッ!
「追加料金は何貰おうかなあ。やっぱ無難に足? 腕? あ、目玉とかいっちゃう?」
「ひっ……や、やだ……」
「あー、でも目に見えて分かっちゃうものはつまらないなあ」
ヒヤリ、逃げ腰になっている私の頬に影の手が触れた。冷たいのか温かいのか分からないそれは体温なんてものを感じさせない。ただ無機質な物体に触れているようだった。ドロドロと恐怖が身体中から溢れてくる。
こわい、こわいこわいこわい。このまま頬の肉を引きちぎられたらどうしよう。ぐちゃぐちゃにされたらどうしよう。何をされるの、私はどうなるの、これから一体私は――、
心音がどくどくと皮膚を突き出てきそうなくらい勢いを増している。それは明らかな私の弱さだった。無力で非力な自分の、情けない姿だった。
「アハハ! その顔、サイッコウに無様だよ!」
「ひ、……っ」
「決めた。あんたの大切なもの、貰ってくよ。……ああ、ちなみに後ろのソレは真理の扉って言うんだけどね」
「……っ! どういう、」
「まあ、とにかく行ってらっしゃーい」
パチン。
指がこすれた。マジシャンが種明かしするような優雅で不調和な動作で、それに導かれたように何もなかったはずの背後から黒い扉が姿を現す。大きく不気味な瞳をつけた、扉が。見た瞬間理解した。夢なんかじゃ、ない。どうしようもないくらい、これは現実だ。
「ッ、や、だ…………いやだっ、嫌だ嫌だ!」
「こんなとこまで来といて今更何なのさ」
「や、だ……嫌だ、嫌だよ……やめ……ッ」
「おめでとう、君の願いは通じたんだ」
無数の黒い手が身体中を這い回る。力強く引き込まれる暗黒に、息が止まった。
「ひ、ぐ……ッい、あ―――っ!」
「さようなら? 身の程知らずの―――馬鹿野郎」
伸びてきた手が目の前を覆い尽くして、一気に引き摺り込まれる。パタリと閉まった扉の中は何もない。真っ暗で何も見えない。
けれど苦しかった。
涙が出そうになった。
大声で叫んだ。
誰の声も帰ってこなかった。
頬に生温かい何かが伝った。
それが汗なのか涙なのか、はたまた自身の唾液なのかは分からない。
最後に見えるのは、どこまでも続く 黒 だけだっ、 ←/
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