泪に溺れる夢を見た

 息を吸って飲み込んで、それだけの行為を馬鹿みたいに繰り返していた。記憶が思い出せない、それは本当であるはずなのに、迷う必要はない、ただ「そうです」の四文字を声にすればいいだけ。たったそれだけのことであっても、彼の目を前にしたら寸前で飲みこんでしまう。
 彼の瞳は酷く黒く吸い込まれてしまいそうで、私が彼に感じた小さな恐怖は間違っていなかったのだと今更ながら思った。
 ……怖い。射抜くような瞳が、どうしようもなく怖い。嘘をついてなんていないのに、もしかしたら嘘をついているのかもしれない、そう勘違いしてしまうくらいに。
 小さく開いている窓から風が不定期に送り込まれる。ふわりと髪を申し訳程度に揺らした風は、そのまま彼との間を駆け抜けた。見えない壁が見えたような、それでいてこの壁は崩れない、そんな気がした。

 いつまでも経っても口を開かないのを見てか、ロイさんはフッと口元を綻ばせる。そして手にしていた籠を持ち上げて「一度落ち着きなさい」と困惑する私の手を掴んで、ポンとみかんを乗せられる。半ば無理やり持たされたそれをしげしげと眺めてみると、甘酸っぱい匂いがツンと鼻についた。食べろということだろうか。
 ロイさんの行動にどうすればいいか分からず固まっていれば「みかんは嫌いか?」と聞かれて慌てて首を振る。違う、そうじゃない、そういうことじゃない、けれど。
 じっとロイさんの視線を辿ると、真っ黒な瞳が私をじっと見つめている。そして、ふと何かが腑に落ちた気がした。
 ……ああ、そっか。目が、笑ってないんだ。
 なるほど、気付いてしまえば全てが繋がるような気がした。
 私を見る彼の目は最初に会ったときから何も変わってない。信用されていないなんて息をするよりも自然で当然のことで、変に期待してしまった自分が馬鹿みたいで、彼の瞳が怖いのも、微笑んだ時に感じる違和感も、きっとそういうことなんだろう。
 また心の中がぐにゃりと形を変えて歪んでいく。握りしめたみかんがプツリと真ん中で大きく割れて、より一層甘酸っぱい匂いが広がった。

「……わたし」
「?」
「悪いうそは、つきません」

 それは自分が思っていたよりも、ハッキリとした声だった。恐る恐るロイさんを見ると、少し驚いたように目を見張っている。

「ということは……嘘はつくと?」
「嘘もつか、ないです……けど、誓います、ロイさんやエドワードさん達が不利になることは、絶対にしません」
「ほう」
「だから、」
「……」
「……ッ、だから」

 信じてほしい、
 そう言ってしまいたい。けれどその言葉だけは、どうしても喉に張り付いて声にはなりはしなかった。

「……私も分からないんです……どうしてここにいるのかどうして思い出せないのか、」
「ほう」
「……自分でもわからないそれを嘘じゃないって主張する手段もなくて、」
「だから君を疑っても構わないと?」
「……それは」
「……」
「でも、嘘じゃない証明もできない」

 グッと唇を噛む。
 ロイさんの眉間に薄くシワが寄るのが分かった。でも、だって、どうしても信じてほしいなんて、そんなこと言えやしなかった。嘘じゃないって、言えやしなかった。断言できなかった。私だって分からないのに。私だって思い出したいくらいなのに。私でさえ、まだ受け入れきれてないというのに。

 考えれば考えるほど泥沼に陥って、気付けば鼻の奥がツン、と沁みてくる。彼はきっと試したいのだ。私が彼等にとって害を与える存在ではないということを。でもそれだけは証明したい。私はエドワードさんを、アルフォンス君を、ロイさんだって悪い目に合わせようなんて欠片も思っていないのだ。けれど容量の良くない私はそれを伝える術が分からない。

「……貴方達になら疑われてもいい」零れ落ちた言葉は本音だけど本音じゃない。けれど、ロイさんの足を表情を動かすには十分なようだった。

「……もう少し話したいたが中尉に内緒で寄っただけだから怒られてしまう。突然訪ねてすまなかった」
「……いえ」
「また会おう」

 ガラガラ、あっという間に誰もいなくなってしまった病室は相変わらず静かで、どうしようもなく胸がざわついた。まだロイさんの残像が離れない。あの鋭い瞳がグルグルと目を瞑っても回り続けて、思わず口を押さえる。
 貴方達になら、疑われてもいい。それは嘘じゃない。だって疑われたって仕方ない。私だって彼等の立場だったらそうするだろう。

 でも、けど。
 出来ることなら、信じてほしい。

 疑われることがこんなにも苦しいだなんて知らなかった。記憶が中途半端にしか戻っていない、何が何だか自分でもよく分かっていないこの状況で、帰る場所がないのが、こんなにも辛いなんて思っていなかった。

「……どうしろ、っていうの」

 一体、私に。
 ポツリ、こぼれ落ちた言葉は一筋の雫と共に弾ける。それはこの世界にきて、初めて流した涙だった。そう言えば衝撃的な毎日すぎて、泣くことすら忘れてしまっていたなあ。視界が薄い膜に覆われて、じんわりと滲んでいく。
 ポタポタ。どうやら涙は一度出てしまったらしばらく止まることを知らないらしい。糸が切れたように流れ出る涙を拭うこともせず、その日私は嗚咽をあげて泣いた。







「おお、エドワードエルリック殿! これは奇遇ですなぁ!」
「お、おお! 久しぶり……うわぁあ来るな来るな!」

 迫り来る筋肉を前にして、逃げるように壁に体を隠して顔だけを覗かせる。
 その目はキョロキョロとあらゆる方向を忙しなく動き回っていて、ヒラリと宙に翻る赤いコートが視界に揺れた。まるで猫のようだ。金色の三つ編みを尻尾のように揺らしながら壁の向こう側の様子を伺っている。それが猫の逆毛を立てて威嚇している姿と重なって、ますます猫にしなみえなくなってしまった。
 
 けれどそんな彼は、紛れもなく国家錬金術師のエドワードエルリックである。つい先ほどまでロイの指示というよりむしろ強制的な上司命令を受けて、ボロボロの部屋を清掃していたエドワードエルリックである。

「エルリック殿! どこへ行くのです!」
「どこも行かねえよ! 報告するために大佐探してんの、大佐! 行かねえから服着てくれ!」
「なんと! 大佐なら先ほど病院の方へ向かいましたぞ!」
「病院…?」
「それよりエルリック殿、この更に磨き上げた肉体美」「うおお、そ、そうだな、また後でいくらでも聞くから! じゃあな、さんきゅ!」

 やっべえ、絡まれるところだった。
 逃げるようにそう言って走り出す。少佐の言っている病院って、あの病院だよな。この辺りの病院で、ましてや大佐が行くような病院なんて限られている。きっと名前がいる軍病院だ。
 本当に病院そのものへ用事があったのか、俺に掃除させてる間に名前に会いにいったのかは分からない。もしも後者であれば、俺は人払いされたということだろうか。そこまで考えて、本当に何気無く後ろの少佐を振り返ってみると、違う誰かを捕まえてポージングをとっている。思わず、さっきあんなこと言って大丈夫だったか…...と不安になった。後でいくらでも聞くから、なんて言ってしまったことに対してである。い、いや別にそれは嘘じゃない、後でっていうのが少し長いだけであって。

 うんうんと頷きながらエドワードは足を進める。東方司令部から例の病院は軍と連携していることもあって、五分も掛からない。だからこそ、この間は病院から抜け出した名前を見つけられたのだけど。
 少し早歩きで向かっていれば、あっという間に病院のロビーへと着いた。キョロキョロとあたりを見回しながら階段を上がり、病室の間をくぐり抜ける。やがて一つのドアの前で立ち止まると、スーッと息を吸い込んで背筋を正した。いつもはノックをしても返事を聞かずに押し入るし、なんならノックすらせずに入る時だって多い。
 だと言うのに、エドワードは何故か今それをするのは良くない気がして、とりあえずコンコン、控えめにノックしてみる。
 ……返事がない。普段はしない分、逆に不審がられているだろうか。いいや、もしかしたら控えめすぎて聞こえていなったのかもしれない。
 2回目、今度は少し大きめにノックしてみることにした。コンコンコン、それでも中にいるはずの名前からの返事は一向に聞こえない。もう一度鳴らしてもやっぱり返事はなかった。これはおかしい。寝ている、とか? もしかしてまた脱走したか?
 眉間に薄くシワを寄せると、ドアを横に引いて僅かな隙間から目を覗かせる。はたから見ればただの覗き魔にしか見えないだろうが、エドワードは大きく目を見開いた。そして慌ててドアの隙間を閉じる。

──泣いてた?

 明らかエドワードは動揺していた。病室の中、この白いドアの向こう側にいるはずの人間が、確かに両手で顔を覆っていたのだ。シーツに点々とまだらにできた染みの正体なんて言わなくても分かる。泣いていた。名前が。
 どうすればいいのか分からなくて呆然とドアの前で立ちすくむ。すると不思議なもので、扉の向こうから小さな嗚咽が耳に届いた。さっきまでは全く聞こえなかったのに。

「……どうすんだこれ」

 大佐はいなかった。別に名前に用があったわけでもないのだから、このまま引き返してもいい。けれど何故かここを離れる気にもなれない。大佐に泣かされでもしたのだろうか。中にあった果物はきっと大佐が持ってきたに違いない。いつか女性に渡すプレゼントについて話していた大佐のことを思い出して、ゲッと舌を出す。

「……」

 どうしよう。
 エドワードはドアを背にズルズルと座り込むと、小さく聞こえる嗚咽を耳にしながらハアと息を吐く。廊下に窓はない。そのはずなのに、どこからかくる風が冷たくて、静かにコートを羽織り直した。
 赤い夕焼けはもうない。
 もうすぐ、夜が来る。
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