まがいものの夜明け
目が覚めた時にはもう日が昇っていた。
窓から入ってくる陽光は寝起きの目には少し明るすぎる。閉じているのか開けているのか分からない状態で格闘して数分間、ようやく太陽に慣れたと思ったらコンコンとタイミングよくドアを叩く音がした。
慌てて顔を両手でこすって少しでもむくみをとって、スンと構えていると、何度も見たことのあるナースさんが入ってくる。彼女は慣れたようにトレーを机の上に置くと「今日は八割は食べてくださいね」とだけ言ってあっという間に背を向けて出て行った。
ぼーっとそういえば昨日のご飯は何だっけと思い出していると、温かい味噌汁の湯気が頬を濡らす。ゆらゆらとワカメが踊っていた。病衣の上からお腹を撫でてみると、タイミングよくグゥとお腹が鳴る。鳴りは、するのだけれど。
「……いただきます」
お粥のようなご飯を何度か咀嚼して、そのままスプーンを元の位置に戻した。ゴクリとお水を飲んで流し込んだら、体の中から迫るような吐き気がして思わず口を押さえる。食欲が何かに蓋をされているようだった。
ベッドの隣の机の上には、ロイさんが持ってきてくれたフルーツがまだ鮮やかなまま籠に入れられている。まだ手もつけてないし、このままじゃ腐らせてしまうかもしれない。常温でも腐りにくい果物ばかりだったのがせめてもの救いだろうか。 食べれないのを寝起きのせいにして、まだ温かい食事を隣の棚の上に移動させる。作ってくれた人に申し訳ないけれど、吐いてしまうよりマシに思えた。足を通したスリッパはヒンヤリと冷たい。
さて、歯磨こう。寝起き特有の不快さは、どうにも気持ち悪いから。
「名前?」
「ふぁ、エフォ……?」
少し長い病衣を着てモゴモゴと舌足らずな、それでいて驚いたような声を発している彼女は、確かに名前だった。右手に歯ブラシを持って、シャカシャカと口を泡だらけにしながら歯を磨いている。腰に手を当てて子供みたいに磨き続けている名前の周りには誰もいない。そりゃそうだ。こんな真っ昼間から本気で歯を磨く人なんて珍しい。仮にいたとしても、こんな人に見られるような場所でしないだろうし、せめてトイレとか行くだろ。
……そういえばなんで公衆の手洗い場で歯磨いてんだ、こいつ。
「もしかしてさっき起きたのか」
「……ふぁんでわふぁったんふぇすか」
「目やねついてる」
「!?」
「ちょ、歯ブラシ咥えながら目こすんな! 危ないだろ!」
「げぼげぼ」
「うわぁ!? 泡、おま、ちょ!」
ガラガラと急いで口をゆすぐ名前を見て何だ元気そうじゃねえかと拍子抜けした。ここ最近病院に来る時間もなかったからどんなもんかも思ったけど、思ったより元気そうである。そのまま顔を洗っていたから、傍にかけてあったタオルを差し出してやる。
顔を上げた名前は、急に目の前に現れた布に驚いたのか、キョトンとした顔で「え?」と口にした。状況がよく分かっていないらしい。タオルと俺の顔を何度か視線が行き来した後、ようやく名前は両手を差し出して受け取る。
「あ、ありがとう」
「……別に」
「お見苦しいものを見せてしまって……」
「これからは歯ブラシ咥えて何かすんなよ」
「……うん」
側にあったソファに座ると、思いのほか勢いがあったのかお尻が少し痛かった。
膝に肘をついて、じーっと名前を観察する。俺が最後にここにきたのは一週間とちょっと前か。遠慮がちに顔を拭いている名前はこの間よりも少し変わったような気がした。それが良い変化か悪い変化なのか俺には分からない。雰囲気? 何? ……分からん。
まじまじと見る俺に名前はギョッと上半身を反らして、自分を守るように両肩を掴んでいる。ゆったりとした病衣から覗く腕と足首はやけに白くて細い。この間よりも細くなったか?いや、前も十分細かったな。軽く力を入れただけでもポキリと骨が折れてしまいそうだ。
「なあ」
「はい?」
「お前ちゃんと飯食ってる?」
「……どうして?」
「なんかより一層骨だけになった気がする」
「……変わらないよ、前と」
ああ、何が変わったか分かった。「敬語とタメ、混ざりすぎだろ」フッと鼻で笑って、腰を上げる。
「元気そうじゃん」
「……おかげさまで」
「歯磨き粉ついてる」
「!?」
タオルで口元を拭き取ろうとする名前の手首を掴む。ギョッとした名前は上半身を反らして逃げようとするが、それでもめげずに近づいて、コートの袖でゴシゴシと拭き取ってやった。辛そうな体制の名前はされるがままである。
「とれた」
「あ、ありがとうございます」
「なあ、今日の予定は?」
「予定……?特には……」
ふむ、と顎に手を当てる。
ご飯も食べずに引きこもってるようだったら半ば無理矢理にでも連れ出そうだなんて考えていたけれど、こうしていざ会ってみれば予想以上に普通だった。また泣いてるようだったら、今度こそ慰めてやろうと思ったのに。
ガラガラ。重そうな音の聞こえる先に目を向ければ、長い長い廊下の向こう側に回診車を押している看護師が見える。そんな俺につられたのか、少しして名前も振り返った。そして同じく看護師を視界に捉えたのか「あ、」と言って手を打つ。
「知り合いか?」
「その、最近食事運んで来てくれる人」
「へえ。病院食って味薄いだろ」
「まあ我儘は言えないので……」
「……飯食いに行くか」
「へ?」
「俺そういや昼飯まだなんだよな。付き合え」
「え? 今?」
「今」
「でも……お腹そんなに……」
「いいから付き合え」
「……」
「……」
「はい」
「おっしゃ行くか!」
「何食べるんですか」
「決まってねえ」
本当に特に決まっていなかった。というか何でも良かったのだ。まあでも一応考えとくか。そう思って歩いていれば、後ろから「あの……」と何かを思い出したような声が聞こえる。
「……何だよ。やっぱり用事とか無しな」
「そうじゃなくて、その」
私、外、出ていいのかな。
まるでたった今思い出したように名前は立ち止まる。静かな廊下で響くはずなのに、そのまま消えてしまいそうな声で、危うく聞き逃してしまいそうだった。
ゆっくりと歩んでいた足を止めて、名前を見る。先ほどまで元気そうに見えていた顔は、申し訳なさそうに眉を垂らして俺を見つめていた。
「医者に言われたのか?」
「いや、お医者さんじゃなくて」
「はあ? じゃあ誰?」
「……」
「何だよ」
「……さん」
「聞こえねえ! 声が小せえ腹から声出せ!」
「ロ、ロイさん!」
「大佐?」
ロイさん。もう一度名前は言った。
大佐が? 名前に? 何を? 外に出るなって、そういう類のことを? おそらく今の俺の表情はかたい。怒っているようにも見えるかもしれない。それよりもなぜ大佐が?というハテナマークが頭上に飛び交っていた。
そういや、名前は一度病院を飛び出したことがあった。土砂降りの雨の中、傘も持たずに、体力が尽きるまで走り続けて。その時のことをまだ大佐は気にしてるんだろうか。俺と同じように部屋を飛び出して名前を追いかけた大佐は、また同じようなことが起こらないように、制限をかけてるのか?
ガラガラ。その時どっかの病室から出てきたらしい看護師が、回診車を引く音がした。ゆっくりとキャスターと床の擦れる音が遠ざかり、やがて聞こえるのは蛇口から時折落ちる雫の音だけ。やっぱり病院っていうのはやけに静かだと思う。
「だからその……」
「……別にいいけど」
「ごめんなさい」
「謝んなって」
「でも、 」
「なんだよ」
「代わりに、食堂で食べよう」
「は?」
「ここ、食堂あるって聞いたから」
「ああ、一階の」
「そこで、食べよう」
ついさっきまでお腹空いてないって言ってたのは誰なんだよ。長い黒髪を揺らしながら名前は俺の横を過ぎて行く。ちなみにさっきからタメ口やら敬語が入れ混じっているのは、名前なりに距離を縮めようと努力しようとしているらしい。それでも何も言わずに着いていく俺も、どうやら完全に名前に情が移っているのかも。
「あー腹減った」
俺を案内しようとしているのか、名前は小走りで階段へと向かっている。しかし場所をちゃんと把握は出来ていないようで、踊り場でキョロキョロと辺りを見渡す名前は病院の重い空気には不釣り合いだった。
右クイッと人差し指を立てて、降りろと合図する。けれど名前は降りる気配はない。どうやら俺を待っているようだ。
「……行くなら早く行こ」
「何食べるか悩んでたんだよ」
「何があったかなあ」
「そういや俺、病院の食堂で食べたことねえわ」
「多分、無難にパスタとか定食とか」
「定食ねえ……牛乳が出るとかじゃなかったら何でもいいわ」
そう言うと名前は笑いながらそっか、と小さな声で呟いて、また早歩きで俺の前に進む。俺と同じか高いくらいの身長のはずの名前の背中はやけに小さく見えて、思わず手で頭の位置を測ってみる。やっぱり対して変わらない。もう一回測ってみる。今度は俺の方が僅かに高かった。ちなみに名前の背中は物理的に小さくなっていた。あいつ歩くの早いわ。
思わず笑いが零れる。
それが意味する気持ちはまだ俺にも分からない。 ←/
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