紅に融けた声

 視線を本から目の前にいる兄に移してみた。
 睫毛を伏せ、目だけを左右に動かし、そしてペラリとページを捲るその姿は真剣そのもの。こうして黙ってたら兄さんもただ目つきの悪いだけの立派な科学者なんだけどなぁ。皆、初めて会う人は国家錬金術師は僕だと思ってくるけど、この兄さんの姿を見たらぐうの音も出ないに決まってる。真剣な兄さんはかっこいい。こんなこと言ったら調子にのるから絶対言わないけど。

 ジッと見つめていたら、己へと注がれる違和感に気が付いたのか兄さんは顔を上げずに視線だけを此方に寄越した。元々悪い目つきが更に悪くなって極悪人みたいになってしまってる。待って怖いよ兄さん余計目つき悪くなってるからそれ。絶対仲良くない人にやっちゃダメだよ、皆びっくりして逃げちゃうってそれ。
 そんな僕の心の叫びなんて露知らず「んだよアル」かったるそうに口を開く兄さんは、開いていた大きな本をパタンと閉じて大きく伸びをした。

「そんな見られたら集中力削がれるわ」
「ご、ごめん」
「で?」
「え?」
「で、何だよ。もしかしてただぼーっとしてた先に俺がいたとかじゃねえだろうな」
「そ、そんなのじゃないよ!」
「じゃあ何だ。言ってみろ弟よ」
「……なんか最近、すごく弟強調してくるよね」
「だってアルは俺の弟だろ? そうだろ? ん? 兄様に何か文句あるか? ん?」
「……はあ」

 せっかくさっきまではカッコイイと思ってあげてたのに。兄さんったらすぐこれだもんなぁ。

「何もないよ」そう言って、無造作に近くにあった書類を手に取ってみる。
 目の前で兄さんが喚いているけど聞こえない無視無視。

「何読んでたんだよ」
「これ? 気分転換にさっき買った雑誌だよ」
「最近よく雑誌読んでんのな」
「うーん。なんでだろ。ほどよく情報が載ってるからかな」
「ほう」
「あ、ちょっと! 読んでるページ閉じないでね!」
「分かってるって! ふーん、へー、ほー」
「別にその香水のページばっか見てるわけじゃないよ……」
「うんうん。分かってる分かってる」
「そ、そのトイレのページばっか見てるわけでもないからね!?」
「うんうん」
「兄さん!?」

 僕の手からするりと雑誌を奪った兄さんは時々「ほえー」だとか「ふぅーん」だとか、ちゃんと読んでいるのかわからない声を出しながら雑誌を眺めている。先ほどの真剣さはなく、本当にただ流し読みしているらしい。
 そうして、ピタリ。兄さんはとあるページで動きを止めた。
 左手を開いて閉じて、そして指折に何かを数えながら紙面を見つめている。なんだろ、急に。気になって上から雑誌を覗き込んでみれば、そこには『モデルになれちゃう!?完全無欠のダイエット☆』と大大と書かれたページが。目を疑った。

「兄さんんんんん!?」
「んだよ」
「んだよじゃないよ! どうしたの!? ダイエットするの!? 何でそんなページじっくり見てるの!?」
「べ、別にいいじゃねえか!」
「べ、べべべ別にいいけどさ!」
「深い意味はない! ただ見てるだけだ!」
「そ、そっか……そっか!?」
「身長160前後……50kg……」
「やっぱり兄さんダイエットするの!? やめなよ! ただのチビガリになっちゃうよ!? ていうか身長160もないでしょ!?」
「誰が今世紀最大のチビガリかあああ!」
「言ってない! けど良かった普通の兄さんだ!」

 目くじらを立てて僕を睨む兄さんに、ブンブンと大きく首を振って否定する。そのせいでガシャンガシャンと鎧の音が狭い部屋に響き渡ったけど、それでも兄さんは雑誌を手放すことはせず、ただじっとそのページに視線を留めている。
 ……ほんとどうしたんだろう。
 最近の兄さんの行動は眼を見張るようなものばかりで全く予測がつかない。時折眉を寄せて難しい顔をするもんだから、余計に訳が分からなくなってどうすることもせず兄の姿を見守っていた。明らかに女性向けの、それでいてダイエットというカテゴリの特集をそこまで真剣に見る意味はあるんだろうか。よほど太っていてダイエットを必要としている人ならここぞとばかりに目を通すかもしれないが、男の人が、加えて兄さんのような小柄で細身の人が熱心に黙読するような内容じゃあないだろうに。

 適正体重や目標体重、バランスの良い食事メニュー、ダイエットの気分転換に出かけると良いスポット。
 それらを上から下までじっくりと隅から隅まで目を走らせ、そうして漸く顔を上げた兄さんは相変わらず難しい顔をして「……あいつダイエットしてんのか?」そうポツリと言葉を落とした。
 あいつ? そう聞き返しそになったが、すぐに声を押し込む。一人の人物像がふわりと脳裏に浮かび上がったから。断定はできない。でも最近の兄さんが気にかけている人といえば、そんなのもう一人しかいない。

「あいつって、もしかして名前さん?」
「……ああ」
「でもどうして急に?」
「いや、あいつの身長とか考えたら普通50は絶対あんだろ。あいつ背高いだろ」
「そ、そうだね?」

 なるほど、兄さんが心配しているのはそのことらしい。ダイエット特集を見ていた理由も分かって少しホッとした反面、顎に手を当てて自分の世界に入り込んでしまった兄さんの言葉が頭の中をループする。確かに初めて見たときも随分と細くて華奢な人だとは思ったけど、昨日見た名前さんはその時よりも血色も良かったしそこまで心配する必要はないように思えた。

「でも元気そうだったじゃん」兄さんの膝に乗る雑誌を奪い返して、パタンと閉じる。

 名前さんの名前も覚えていなかったくせに、よくもまあここまで心配性になれたもんだ。時間ってすごい。一番最初に気にかけていたのは僕のはずだったのに、いつの間にか形勢は逆転、今となっては兄さんの方が名前さんとの関わりは多いんだろう。

「いや……まあそうなんだけどさ」
「軽いってどのくらい? 兄さんが女の人のことあんまり知らないだけなんじゃないの?」
「う、うううるせえな! つかそれ関係ねえ!」
「図星?」
「大体アルだって知らねえだろーが!」
「体重? 僕はウィンリィしか知らないよ」
「……そういやウィンリィは重かったな」
「うっわ! 兄さん最低! 女の子の敵! 言いつけてやる!」
「なんでアルが怒ってたんだ!?」
「無神経すぎるんだよ兄さんは! ウィンリィここにいたら怒るよ絶対!」
「おま、絶対言うなよ!」
「兄さん次第だよ」
「お前あの痛みを知らねえからんなこと言えんだ……!」
「ウィンリィが怒るのって大体兄さんが原因じゃん」
「あいつの怒りの沸点が低すぎんだよ」
「兄さん?」
「……はあ」
「ね?」
「……」
「それで?」
「……あ?」
「さっきの。そうなんだけどさ、の続き」

 言いづらいのだろうか。
 視線は僕の手にある雑誌のままどこか気まずそうにする兄さんは中々口を開かない。自分たちのことじゃなく名前さんのことだからか、何故か僕も催促できなくて黙って兄さんが喋るのを待っている。珍しい沈黙だった。

「……俺も分からん」そうポツリと吐き出したのは、この部屋にある時計の針が何周も回ってから。
 あまりにも覇気がない弱々しい声で、本当に兄さんの声なのかと疑ってしまいそうになるような声だった。静かな部屋じゃなかったら聞き逃してしまっていたくらいには。

「初めてあいつ抱えて病院まで走った時も、異様に軽いとは思ってたんだけどさ。あの時は必死だったから、こう……」
「……」
「今考えてみたら、あの重さは異常だって分かる」
「心配なの?」

 そう尋ねたら、小さく唸った後、頭をガシガシと掻いて困ったように眉を下げた。困らせるつもりはなかったからか、そんな顔をされてしまったらこっちが申し訳なくなって余計な気を遣いそうになる。
 心配なの? その質問は、その問いは、簡単に答えられないほど、複雑なものだったんだろうか。口を閉じてしまった兄さんは顔をあっちこっちに動かして、辺りを見渡している。どうやら例えるものを探しているらしい。けど人間くらいの重量感のあるものがこの書庫にあるはずもなく、窓の方まで歩いて、また本棚に戻ってキョロキョロの行ったり来たり。

 空を彩る夕暮れの陽が差し込んで部屋が紅く照らされる。床に伸びる影はスラリと長身だ。そういや電気つけてなかったっけ。
 暗い部屋の電気をつけるべく立ち上がって、パチリと電気のスイッチをオンにする。紅かった部屋が、白い人工的な光に様変わり。

「大体兄さん、いくら軽いっていっても密度の問題があるから身近なもので例えるのは無理だと思うよ」
「なぜ思考が!?」
「でも前より明るくなってたし……そんなに心配することかなあ……これから沢山食べてもらえれば解決するんじゃ?」
「……まあ、そうなんだけどよ」
「それ二回目」
「……」

 納得のいかない顔をする兄さんは動き回るのをやめて、窓に背を預けて黙り込んでしまった。
 だから何で僕が罪悪感を覚えなくちゃいけないんだ……あれ、間違ったこと言ったっけ? 不安になって自分の落とした言葉を思い出してみたけど、うん、別におかしなことは言ってない。むしろ圧倒的に正論だと思う。兄さんの反応こそ大袈裟すぎるような気もするのだ。心配性、というか、なんというか。

 今日ももう終わりを迎え始めている。相変わらず兄さんは黙りこくったままで窓の外を見つめていた。

「そんなに気になるならまた行ってあげたら? 病院」
「……んー」
「僕に内緒でもいいよ」
「んなっ! おま、まだ気にしてたのか!」
「内緒にしなくてもいいことを内緒にしてるから怒ってるんだよ」
「……」
「そうやって目を逸らしたってもう騙されないんだからね!」
「今も今までも騙したつもりねえ! ただ、」

 ただ、
 その後に続くであろう言葉はガチャリと開く扉の音で掻き消された。

 2人揃って音の鳴った方へと顔を向けると、そこに立っていたのは見たことのない顔をした若い男の人。青い軍服を着ているからここの軍人で間違いはないと思うけど、どうして此処に? この書庫はあまり人に見られてはいけない重要な資料が入っているから彼のような軍人が来るような場所じゃないはず。真新しく見える軍服は汚れ一つなく、雰囲気やら若さやら、全てにおいて初々しく感じ、失礼ながら少佐以上の立場を担う人には見えない。歳だって僕たちとそこまで離れていないんじゃないだろうか。
 そんな人がどうしてここに? 単純な疑問である。

 そのまま放置するのもどうかと思い「あの、」と話しかけたらビクリと大きく肩を揺らした彼は目を見開いて僕たちの方に体ごと意識を向けた。人がいるとは思っていなかったのだろうか。信じられないものを見たような瞳で僕を見ている。そして湧きあがろう違和感。
 ……もしかして、僕たちのことを知らない?
 決して自分たちが有名だと高言するつもりはないけど、ここに常勤している人なら僕たちのことは見たことくらいあるだろう。
 兄さんも疑問に思ったのか身を預けていた窓から離れ「あんた誰だ?」と声をかけた。ギィ、古くなった地面が音を立てる。

「なあ。聞いてんのか?」
「……クソッ!」
「!? な、ちょ、待てよ! おい!」

 唐突に背を向けて走り出した男の人に、兄さんも追うように入り口まで走る。けどやけに足が早かった彼の姿はもうなかったらしく、唖然と外を覗いていた。

「んだ今の……怪しすぎる……なんだあいつ、ぜってえ侵入者だろあれ」
「ど、同感だよ。変だったね」
「変どころじゃねえだろ。くっそ! 捕まえときゃよかった!」
「何で逃げたんだろう」
「んなの、まさか資料室に俺たちがいるなんて思ってなかったんだろ。鍵開いてるラッキー! と思ったら俺たちがいて慌てて逃げた、そうだ絶対そう」
「じゃあすぐに大佐に連絡しなきゃ!」
「はあ……また大佐のとこに行くのか」
「当然! 早く捕まえないと大変なことになるかもしれないし!」
「ちぇっ。しゃあねえ」

 散らばっていた本を乱雑に本棚に押し込んで、同じように床に捨てられていた赤いコートを兄さんに渡す。そしたら、あるはずのない心臓がどくりと鳴った気がした。胸騒ぎだろうか。

「アル?」
「あ、うん、ごめん。行こう」

 嫌な予感がする。当たらなきゃ、いいけど。
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