たった一つのおしまい
私はさよならを伝えたかったわけじゃない。
誰か、あの日のさよならは、夢であると、そう言ってくれ。私が見たものは、根も葉もないただの記憶の寄せ集めなのだと、言ってくれ。根拠なんて何もない、ただの幻想であるのだと、言ってくれ。
「分かってるくせに」
「……っ」
直接脳に送りつけられているような声が、囁いた。笑っているようにも聞こえる。分かっているくせに。ぐわんと思考が揺れた。肩の力が抜けてフラリとその場に倒れ込む。分かっている?ああ、そうだ、そうだね。確かに本当は分かっている。何も知らないふりをして、盲目の振りをしているだけで、本当は。
気付いているよ、過去が消えないことくらい。
理解しているよ、過去はやり直せないことくらい。この身を持って痛切に、失ったものは取り返せないことくらい、そんなこと私にだって、
「……っ分かってる!」
ギシ、と音がした。
途端に、真っ黒だった世界はだんだんとヒビ割れて、崩れ落ちていく。バラバラと崩れていく先に、白ではない何かを見た。足元がぐらついて不安定で、それでもじっと見つめていたら、それは振り返る。目が合った。金色の双眼は黒一色のこの世界ではとても異質で、それでいて惹きつけられてしまう。綺麗だ、思わず手を伸ばしたくなった。その光に触れたい。あともう少しで腕は上がりそうなのに、何故見ることしかできない。視線はぶつかっているのに、触れることができない。
不意に、彼の唇が小さく動いた。
──彼?
何かを伝えようとしているわけでもない、ただ紡いだだけのような動きに、一瞬体が固まる。その間にも、彼はどんどん見えなくなっていく。目を細めて見失わないようにしていると、もう一度唇が開いた。
「名前」
そして、目が覚めた。
早速、アルフォンス君と秘密の勉強会が始まった。
場所は宿の食堂。時刻は真夜中。アルフォンス君はあまり夜はほとんど寝なくていい性質なのだそうで、エドが寝室にこもった時を狙って2人で部屋をこっそり抜け出した。私を夜遅くに連れ出すことに少なからず抵抗を持っていたようだけど、私だってアルフォンス君を夜中に連れ出すのは気が引ける。けど、2人は私と違ってやるべきことがある。日の出ている内は動いていないといけない。私なんかとは違う。寝なくてもいい体質だとは言っているけど、正直怪しい。眠らなくていい人間なんているものか。私のために変な気を遣わせてしまっているんじゃないのか。
じーっとアルフォンス君を見つめると、彼は「本当だよ」と困ったように両手を顔の前で振った。そうして私がまた口を開こうとしたら、それよりも前にアルフォンス君は持ってきた本を何冊か机に広げる。
バサリ。表紙のくぼみに少しだけ埃を被っているそれは、私のために探してきてくれたという証拠だった。アルフォンス君はこの話はあんまりしたくないのかもしれない。ふとそんな気がして、喉まで出かけていた言葉はグッと飲み込んだ。もしかしたら、本当に悩んでる病気だったのかもしれない。そう思おう。触れられたくない話なのなら、触れないほうがいい。
「そういや、あれからロイさんと会った?」
「ロイさん……? 会ってないけど」
「そっか」
「何で?」
「ううん、何でもないよ」
「何かありそう」
「ほ、ほんとに特に何もないんだ」
「そっか」
「あ、名前さんこの飴食べる?」
「いいの?」
「うん、そのために持ってきたから。苺とレモン味」
「じゃあ……レモンで」
「レモンが好きなの?」
「口に入れたときじわーってなるのが好き」
「酸っぱいの食べたときの感じ?」
「そうそう! 口の中がもどかしくなる感じが好きかな」
「僕あの感じ嫌いだったな……」
「えーまだまだ子供だね?」
「……名前さんだって子供でしょう」
「ずっと気になってたんだけど、アルフォンス君って何歳?」
「14だよ。兄さんと一つ違い」
「そっか」
「名前さんは?」
「私は17歳」
「……見えないね」
「やかましい」
「あと、変わったね、名前さん」
「変わった?」
「うん。初めて会った時より砕けた感じ」
「……直したほうがいい?」
「そ、そういう意味で言ったんじゃなくて!明るくなった? っていうか、とにかく良い意味で!」
「ほんとに……? 自覚なかったなぁ」
それに、もしそうだとしたら、君たちのおかげだ。
貰った飴の包み紙を開いて、口に入れる。じんわりと口の中で溶けていくレモン味は、やっぱりキュウっと締め付けられるようなそんな感じがした。もどかしくなる感じが好き、とは言ったけど別に好きじゃないかもしれない。でも嫌いじゃない。ただ甘ったるいピンクより、こっちのほうが好きなのは本当だから。
早速アルフォンス君が開いてくれているページに目を通してみると、そこには私が知りたかった軍の階級の説明が載っていた。なるほど、やっぱり大佐は偉いのか。
「エドとかアルフォンス君もここに来てるってことはやっぱり何かしら軍と関係あるの?」
「うん。国家錬金術師は政府直属だから」
「え……政府直属?」
「うん。国家錬金術師の資格も毎年更新しなきゃいけないんだけどね」
「……そうなんだ」
ちなみに国家錬金術師は立場的には中佐と同じのようだ。分かりやすく教えてくれるアルフォンス君にうんうんと頷く。一番偉いのが大総領。そしてその大総領に座にいるのは、キングブラットレイという人物らしい。キングブラッドレイ。大総領であるだけある、名前からして強そうだ。
思わずポツリと呟いたら、アルフォンス君には笑われてしまった。本当だね、なんて言いながら。
そうして時間は過ぎていく。
時計の短針が3を過ぎたあたりで、さすがに私もまぶたが重くなってきていて、時々ウトウトとうたた寝してしまうくらいには眠かった。その度にアルフォンス君に肩を叩いてお越してもらっていたけど、何度目かの目覚ましでさすがのアルフォンス君も「そろそろ終わろっか」と苦笑を交えた声で言う。
……終わろっか。さすがに朝まで起きているわけにもいかないので、素直に頷いてキリのいいところで切り上げた。普通に眠い。1日くらいあまり寝なくたって平気だろうと思っていたけど、予想以上に夜更しは負担が大きいらしい。私には向いていないみたいだ。欠伸を噛み殺しながら二階の部屋に戻ろうと腰をあげる。けど、アルフォンス君は動こうとしない。
「アルフォンス君は寝ないの?」
「僕はもう少しここにいようかな」
「眠くないの?」
「うん」
「体に悪いよ?」
「あはは、それは名前さんにそのまま返すよ」
「もしかしていつもこの時間帯まで起きてたり……?」
「そうだなぁ、起きてる」
「……何してるの?」
「眠れないからぼーっとしたり、本読んだり、兄さんに悪戯したり」
「そっかぁ」
「名前さん、眠いなら早く寝ないと朝起きれないよ」
「……うん。そだね」
「おやすみ」
おやすみ。
そう言って手を振ってくれたアルフォンス君に私も手を振り返す。外は真っ暗、猫の鳴き声だって聞こえない真夜中の3時。椅子と床の擦れる音さえも響くような、静かな世界だ。たくさん寝ている私でさえ既に眠いのに、本当に寝なくて大丈夫なのかな。あまり寝なくていい、と私には言っていただけだから寝ている時もあるのかもしれない、けど。アルフォンス君の言い方じゃ、まるで毎日のように聞こえる。毎日、いつもアルフォンス君はたった一人で夜を過ごしてるように思えてしまう。眠れない夜をたった一人で。
急にアルフォンス君が小さく見えた気がした。本を読んでいるアルフォンス君の背中が小さい。姿は大きいけど中身はやっぱり14歳なんだと思わせられて、階段へと向かっていた足はいつの間にかUターン。くるりと足はさっきの場所へと戻って、まだ少し温かい椅子に腰掛けていた。隣から視線を感じる。何やってるの、そんな視線。聞かなくても分かるというのはこのことか。
「……あの……名前さん?」
「んー」
「寝ないの?」
「ここで寝る」
「!?」
「おやすみなさい」
「え、名前さん!? 座って寝たら体痛めるよ!?」
「……」
「名前さん!」
「おやすみ」
「……もう、風邪ひくよ」
「おやすみ、アルフォンス君」
静かになったアルフォンス君を見届けて、そっと目を閉じた。思いのほか簡単に眠りに落ちていく意識に、夜型ではないんだと再確認する。
私のエゴでしかないこの行為だけど、少しでもアルフォンス君の寂しさがなくなりますように。
「……おやすみ名前さん」
少しでもアルフォンス君が、笑顔になれますように。
←/
top