空っぽの行方をご存知ですか
目が覚めたとき、部屋は奇妙なほど静かだった。四隅のぼやけた視界が寝起きの余韻を引きずって、また閉じようとする瞼を必死にこじ開ける。まだ重たい瞼を擦りながら上半身を起こすと、身に覚えのない毛布が肩からバサりと床に落ちた。2人の内どちらかがかけてくれたんだろう。柔らかい毛糸が床にぶつかる、その音でぼんやりと宙をさまよっていた意識は弾けるように醒める。
……ん? 待て。何で誰もいねえんだ。二人ともどこいった。昨日の夜はいたよな? どこ行った? うん?
だんだんと冴えてくる思考を前に、よたよたとソファから立ち上がる。俺の視界の範疇にいないだけであって、この部屋のどこかにはいるのかもしれない。もしかしたら朝シャンでもしてるのかもしれないな。
ソファに残る己が沈んだ跡に毛布を乗せ、そのまま風呂場まで行きチラリと覗いてみる。電気はついていなしい水音もしない。風呂場にはいないらしい。
ああ、かくれんぼでもしてんのか。テーブルの下、いない。
もしかして寝ているのかもしれない。ベッド、いない。なんなら狭いところじゃないと寝れない派か。押し入れの中、いない。玄関、いない。窓の外、いない。
「……」
いない、この空間にはいない。
物音一つしない部屋をぐるりと見渡して、ようやく理解した。そう認識するやいなや、全身の毛穴が開くような気持ち悪さが襲い、一筋の冷や汗が肌の上を流れていく。
ま、待てよ俺。別に消えたわけじゃないんだ、落ち着け。今は何時だ。朝の9時か、そうか。別に俺より先に目が覚めて出かけてたって何らおかしくない時間じゃないか。それに名前だけが消えたわけじゃないし、もし出かけてるんなら恐らくアルも一緒だろう。仮に一人で出かけていたとしたって、子供じゃないんだ。アルに至っては心配する必要さえないし、名前に関しても俺より年上なんだから、もしもの時はきっとどうにかできるはず。俺は何をこんなにも気にしているんだか。そうだ、どうにかできる。どうにか、できる。……どうにかってなんだ?
次に息を吸い込んだ時には、もう両足は床を蹴っていた。ハンガーにかけられているコートを乱雑に引っ張り、走りながらそれを羽織って廊下を全力疾走する。
ああ、もうほんとあいつらさぁ……!
エレベーターの前まで来たあと、下へ降りるボタンを押して一瞬考える。とりあえず部屋は出てしまった。けれど宛先はない。予想もついていない。無鉄砲でらしくない非効率な行動に、自分でも苦笑いする。まずは行きそうなところといえば無難に司令部あたりだろうか。あんまり選びたくない選択肢ではあるけど、この際仕方ない。まあた大佐に皮肉を言われるんだろうが、今この瞬間なら、仕方ない。
エレベーターに点滅している数字は未だ1から動こうとせず、どうやらさっきから誰かがエレベーターを止めているらしい。どうしたものか。エレベーターを待つか、待たないか。
「……いや、」
考えるまでもなかった。なかなか上がってこないエレベーターにもどかしくて耐えきれず、階段の方へ駆け出した。あ、これは初めから階段で降りる方が絶対早かったちきしょう。
ぐるぐると手すりを使いながら、3つ飛ばしで一気に階段を駆け下りる。そのあまりの勢いに、途中ですれ違ったじいさんが腰を抜かしていたが知ったこっちゃない。いや、ほんの少しは悪いとは思っている。すまん。
そうして1階まで降りてきて、そのまま外へ飛び出そうとした時だ。
「兄さん」声が聞こえたような気がした。
それは人の名前を呼び止めるにはあまりにも小さな声で、本当に聞こえたかも分からないような曖昧なものだった。とりあえずは立ち止まってはみたが、声の正体は見当たらない。首を傾げてもう一度走り出そうとした時「……兄さん!」今度は確信を持って立ち止まる。声がしたのは食堂の辺り。
急いでUターンし、数段の階段とも言い難い段差を下りてそろぉと中を覗いてみると、なんとお目当ての銀色の巨体を発見した。
「……」
「兄さんが飛び出すのが見えて、もしかしたら僕達を探してるんじゃないかと思って」
「……」
「あれ、違った?」
「……いんや、合ってる」
「そっか、なら間に合ってよかった」
「なあ」
「ん?」
「……お前さ」
「何?」
こんなとこで何やってんの?
ヒクヒクと頬が引き攣るのを感じながら、文句の一つでも言ってやろうと口を開けば、奥の方に座っているアルは口に指を当てて「静かに」なんて小声で囁いた。思わず白目を向きそうになる。
こいつはさっきまでの俺の焦りと緊張感を何一つ分かっちゃいない。
音をたてないように気を遣っているアルの横にゆっくりと近づいて、俺と同じ毛布がかけられた人影を覗き込む。自身の両腕に顔を埋めているのは、俺が探している名前に違いなかった。どういう経緯で食堂で寝ているのかは知らなんが、見てみろお前ら。そこの食堂のおばさんちょっと迷惑そうな顔してんだろ。公共の場とはいえ、一応食堂だぞ食堂。食べるためにある場だぞおい。どうしたらいいんだろうみたいな顔してんじゃねえか、気づいてねえのかまさか。
「兄さん、もうちょっと静かに歩いてよ」ああ、こりゃ気づいてねえわ。
「昨日遅くまで起きてたから寝かせてあげなきゃ」
「お前らほんと何してたの」
「秘密だよ」
「……ふーん」
「とりあえず起こさないでね」
「ここでずっと寝かせるつもりか?」
「運んであげたいけど、それで起こしちゃったら……」
「そんなんで起きなさそうだけど」
「女の子は繊細なんだよ」
「今その台詞はお前から出たのか? お前だよな?」
「女の子は丁寧に扱わなきゃ」
「!?」
驚きである。口をあんぐりと開けてアルを見つめると、プイッと顔を背けられた。
「兄さんとは違うからね」と口にするアルの声は少し拗ねているようにも感じられる。この間から弟の俺に対する態度に何かあると感じていたが、最近は一層それが顕著に見える気がしないでもない。
斜め後ろから刺さるおばちゃんの視線にはぁ、と溜息を吐いて名前に近づく。
いくら起こすのが可哀想だからといってこのまま食堂で寝かせるわけにもいかない。第一に迷惑、第二にこの体勢は首を痛める。目覚めた時首に痛みがあるのは誰だって嫌だろう。
「とりあえず運ぶぞ。部屋でまた寝かせてやれ」
「……でも」
「アル」
「……うん」
「おし」
肘までコートを捲くって名前の肩に手を置くと、少しだけ呻くような声が漏れた。けれど、それだけ。それきりまた寝息を始めた名前にホッと安心して、そのまま膝の裏に手を差し込んだ。途端にふっと浮く体。相変わらず気味が悪いくらい軽くて細っこい体だった。
突っ立ってるアルに向かって、帰るぞと目で合図する。
「兄さんってその運び方好きだよね」
「は、はあ?」
「それお姫様抱っこっていうんだよ」
「お、おひめさま……?」
「王子様がお姫様にするような抱き方」
「!? はあ!? ちが、これは単に持ちやすいってだけで!」
「しー。名前さん起きちゃうよ」
「……おまっ!」
何だこいつは! 言うだけ言って俺を追い越したアルの背中は、してやったりと文字が浮かんで見える。
ぷるぷると震えだす両手を必死に押さえ込んで、すーっと深呼吸。チラリと俺の真下にある名前の顔を見てみると、目を閉じて眠っている。……よかった。幸い、俺の声で起きてはいないようだ。そのままなるべく揺らさないように階段を上がっていく。しかしなんだったんだアルのやつ。知らねえわ、この持ち方がおひめさまなんとかだってことなんか。意識してもねえわ。つかなんでそんなこと知ってるんだアイツ。
「……んっ」
「!?」
「……」
「名前……?」
「……」
「起きては、ねえな」
前髪の隙間から覗く額には、服の跡がついていた。白い肌についたデコボコとした赤い模様はあまりに不釣り合いで、思わず笑ってしまいそうになる。
……こいつがお姫様ねえ。アルの言葉が頭を過ぎって、まじまじと顔を見てしまう。そういや、前も一度こんなふうに名前を見たことがあったか。病的なまでに白い肌。その上に伸びる長い睫毛。前と違うのはふんわりと仄かに赤みを帯びた頬と、緩い三日月を描いた唇。何で寝ながらにやけてるのか不思議で仕方ねえけど、きっといい夢でも見てるんだろう。うん、幸せそうでなによりだ。
「いい夢見ろよ」
聞こえているはずがない。
そう分かっていても、返事をするように身じろぎ、またスヤスヤと眠りだした名前に思わず笑みがこぼれる。
太陽が昇っているうちに起きればいいけど。
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