君が育てた無形の怪物

「……ま、いいけどさ? エンヴィー様は心が広いからね」

 眼力だけで人一人殺せそうな雰囲気さえ出していたエンヴィーと名乗る男は嘘くさい笑みを浮かべ、そう言い放つ。けれど私と彼を纏う空気はまるで軽くはならず、それどころかむしろねっとりとした重力に押し潰されてしまいそうだった。ドクンドクンと肌を突破ってしまいそうなほどの心臓は、腹の上に乗る彼にも気づかれかねないほど大きく脈打っている。

 だって、ありえないのだ。
 私の渾身の一撃は、シュウと蒸発するような音とともに一瞬で治ってしまった。信じられない、傷がそんなふうに治るわけが無い。夢でも見ているのかのような光景に目を反らせない。けれど、夢なんかじゃない、ここはどうしようもなく現実だった。だって、治るわけもない私の右手は、ズキズキと未だに燃えるように熱いのだから。
 
 完全に塞がってしまった、傷だった箇所をペロリと舐め私を見下ろす男はあまりに異質で、人間らしくない。浮世離れしたその姿は絵本から抜け出した悪魔のようだった。こめかみからは嫌な背が吹き出て、今にも苦痛の声を漏らしてしまいそうだ。

「アハッ? 手、痛いんだ」
「うる……っさ、い!」
「強がっちゃってさあ〜大体あんたが悪いんだよ? 大人しく見とけばいいのにこんなとこまで来ちゃって」
「……あ、なたは一体何なの……」
「ボク? ん〜、それはまた次会った時」
「ライは、」
「は? ライ?」
「ライのことは、知ってるの、知らないの」
「あんた意外と強気なんだねえ。この状況でそんなこと聞けるなんて」
「ッ質問に答えて!」
「あのさぁ……知ってどうすんの?」
「……それは、」
「は〜やだやだ、これだから人間はさあ。お友達ごっこするなら他所でやってくんない?」
「……っ違う!」

 焦る私を見て、エンヴィーはまた嗤った。
 黒曜石のような瞳が弧を描き、どろりとした視線を向けられる。心の中まで読まれているような気がしてゾクリ、背筋が粟立った。
 お友達ごっこなんかじゃない、違う。心配だから、死んでほしくないと思ったから、そう心の中で叫ぶけれど、何故か声にはならない。そのまま手首を痛いほどの力で捕まれ、床についていた私の上半身が引き寄せられる。

「何が違うの?」

 違う。違う違う、友達ごっこなんかじゃない。そんなものじゃない。違うのに、違うのに。
 何故か私は図星をつかれたように震え上がっている。声が出ず無言で首を振る私をエンヴィーは「違わないさ」真っ向から否定した。あんたは何かに縋りたいだけだ。そう言われ、全身の力が空気のように抜けていく。素直に痛いところをつかれたと思った。
──縋るしかできないなんて弱っちいよねぇ。縋られる方も可哀想だよ。
 否定できなかった。だってその通りなのだ。身に覚えがある。誰でもいいから縋りたかった前例がある。
 ……何だっていうんだ、私が一体何をしたっていうの。気が抜けて後ろに倒れそうになる私の背を抱き寄せ、無邪気な悪意を込めて私を見据えるエンヴィーは、耳許に顔を寄せ甘い声で囁いた。
 時折思うのだ。純粋すぎる悪というのは時に酷く艶やかしく、蠱惑的な甘味さがあると。

「そんなに何かに縋りたいなら、このエンヴィーがあんたの拠り所になってやろうか?」

 そうやって甘い飴を投げて、掴もうものなら沼に引きずり込むのだろう。ごきゅりと息を飲む。やがてエンヴィーの身体が眩い光に包まれていくのを見ながら、生死を握られている恐怖ってこういうことかと、遠い意識の中思った。







 いつからか、気が付けば死にたかった。

 けれど、一体いつから、どうしてそう思うようになったのかは分からない。理由を忘れ、ひとつの目的に一心不乱に歩む微かな記憶上の私は、電源を切り損ねた壊れたロボットみたいで。虚無を抱えるだけで心は空っぽで。とても大切だったであろう何かを、私からすっぽりと抜け落ちた何かを、私はまだ思い出せずにいる。
 
──ヒュウヒュウと風が切る音が響く中、私は一人で仰向けに倒れていた。

 締め切られていたはずの空間で、不自然に開いた窓。いつの間にか腹の上に跨るエンヴィーの姿はもうないし、遠くの方では相変わらず何かがぶつかり合うような音が響いている。

 ……なんかもう、疲れたな。ふとそんな感情が思考を覆い尽くした。
 何も考えたくない。疲れた。眠い。しんどい。もうやだ。全部やだ。──いや、なのに。

「名前!!!」それでも聞き覚えのある声が私を無理矢理呼び起こす。身体を起き上がらせる気力はまるでない。もう、全部、疲れてしまった。

「名前! いきなり飛び出すやつがあるか! 何やって、」

 勢いよく続くはずだったであろう言葉は、何かを境にゴクリと生唾に変わるのを感じた。

「お、おい……名前……?」困惑が帯びた声で私を呼びながら、ゆっくりと足音の主が近づいてくる。影が私の顔を覆った。

「お前……何して……」
「……エド」
「な、んだよ」
「……正しいことって、なんだろね」
「……は、はあ? 正しいこと?」
「何かに縋ることってさ」
「……」
「そんなに悪いことかなあ」

 私の突拍子もない言葉に、あからさまに当惑し眉をひそめた。このまま放置していればやがて黒い何かに塗り替えられそうな、燻った何かが胸の奥からじくりじくりと溢れ出していく。
 エドは押し黙ったまま、私の頭上に立ち尽くしていた。床に背を着いた状態から見上げるエドの顔は何かを考えるような、それでいて堪えるような複雑な表情だ。こんな状況で聞くべきことではないのは私も存分に理解している。呑気なものだと、エドもきっと呆れて出す言葉もないのだろう。その心の声に応えるように金色の横髪がハラハラと揺れている。
 生糸のように繊細に揺れるそれを思わず目で追っていると、彼は徐ろに私の頭横に膝をつき、覆い被さるような至近距離で私を見据えた。
 目を細めて探るようにその瞳の奥を揺らし、少しかさついた唇は何度か開いては閉じるを繰り返している。やがてギュッと噛み締めるように一度閉じた。そんな顔をさせたいわけじゃない。私はなんて嫌なやつなんだろう。心の底から自分を軽蔑する。

「名前……」それは空気と共に吐き出された、小さな声だった。

「……お前な、知ってたか」
「……何を?」
「こうやって勝手に飛び出すのは2回目だ」
「……」
「あの時はビビったぜ。土砂降りで雷鳴ってるのに全力疾走しやがって」
「そ、うだったね」
「俺も気づいたら反射的に飛び出してたよ。何で俺が必死なってんだって思ったりもした」
「……」
「でも、今分かった」
「……」
「俺はきっと、お前が馬鹿みたいに飛び出す度にこうやって追いかける」
「……なにそれ」
「お前が変なとこに行っても、急に走り出しても、俺が後ろから何度でも追いかける」
「……なんで」
「理屈はねえ。なんでもだ」
「……」
「縋るのは悪いことじゃねえよ」
「……」
「縋って縋って、可能性があるなら糸一本にでも死ぬ気でぶら下がれ。それで例え糸が切れても」
「……切れても?」
「糸が切れても、その下には俺がいる」

 だから安心して縋れ。
 光が見えた。思わず刮目する。けれど光はない、ただそこにあるのは、この場に相応しくない太陽のような煌めく瞳だけだ。彼が言えば不思議とどうにかなる気がする。不思議な現象だった。眼球の奥が熱く、湿気った吐息が唇の隙間から零れ、魂が震撼する感じがする。
 エドはそう言いきると、額に布地越しの温もりが重ね、壊れものに触れるかのように何度も何度もその手を往復させた。
 あったかい。あったかくて優しくて、煤けていたものがだんだんと泡になって消えていくような心地さえした。誰かに頭を撫でてもらうって、こんなに気持ちいいものだったんだ。あれ、こういう気持ちってどういう風に表現するんだったかな。そこまで考えて、強烈なまでの眠気に耐えきれずそっと重い目蓋を閉じる。縋ることは、悪いことじゃない、か。

 よかったあ。
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