空っぽの僕らが愛おしい

 人為的に開かれた窓から煙たさの混じった生温い風が流れ込む。
 エドワードは自身の腕の中で眠る名前をじっと見つめ、彼女が目蓋を落とす前に吐いた言葉の意味を紐解いていた。

『縋ることってさ』
『そんなに悪いことかなあ』

 一体どんな気持ちでその発言をしたのかだけが気になって、モヤモヤが募っていく。目を細めて左手で頬を撫で、そこで初めて不健康なまでの白肌にまるで不釣り合いな存在に気がついた。親指でそっと拭うと、べったりとつくのは紛れもない鮮血だ。あまりに似合わないそれは絵の具を散らしたと言われた方がまだ頷けるのに。

 それでも怪我をしているという事実が、嫌な形で背中を駆け上がる。極めて冷静に名前の身体を改めて確認し──そして見つけた。
 少し開いた右の掌は深い切り傷が刻まれ、ドクドクと血が流れて固まっている。なんで、こいつこんな怪我……少し先に転がる少し大きめの角張った硝子の破片を見つけ、様々な推測が頭の中を巡った。透明なはずのガラスは、真っ赤な液体に濡れている。
 ああ、つまりそういうことか。

「……頑張ったんだな」

 エドワードは一言そう呟いた。
 誰にも聞こえるわけでもない空間で、しかし届けばいいという矛盾した思いで。名前の右腕を自身の首に巻き付け、不安定な姿勢で強く抱き締めた。ンッと少し苦しそうな声が聞こえるがそれを完全に無視し、これ以上力を込めれば本当に二つに折れてしまいそうなほど質量感のない名前の存在を、噛み締めるように腕の中に収める。
 ……やっぱ細っせえの。でも、温かい。生きてるんだ、そう思ったら安心した。
 コイツの目が覚めたら死ぬほど怒鳴り散らしてやる。怒鳴り散らして、怒って、最後にちょっとだけ、ちょっとだけ無事で良かったと、褒めてやる。そう心に決め、エドワードは窓の方へと歩いた。
 彼女がどうして駆け出したのかは分からないが、この様子だともう病院に用はないはずだ。大佐と合流しようとも考えたが、こんな状態の名前を置いていくのはあまりにも危険だし、連れていけば足手まといになるのは分かりきっている。なんせコイツも一悶着も二悶着もあったに違いない。

 バチン、と両手を合わせ、錬成する。小さく光が溢れ、外への道及び少し雑な階段を創り出した。そしてふと思い出す。
 ……そういえば名前が駆け出した時、どうやって2階も高さのある場所へ潜入できたのか。あの場にあったその痕跡は、一瞬見えた光は……。ゴクリと生唾を飲んだ。一瞬動きを止めて、密着する名前に一度目を遣る。
 ……やっぱ寝てる顔は暢気だな。そして少し目を泳がせながら外へと脚を動かした。






 結局、後から聞いた情報をまとめると、病院の連続殺人犯は大佐がしっかりと捕まえたらしい。複数人での行動だったらしく、例の如く奴等の目的は人の命だった。相変わらず気分が悪くなる。俺達が東方司令部で目撃した怪しい男もやはりメンバーの一人だったようだ。
 そりゃそうだ、と俺は深く頷いて納得する。
 いかにも怪しいヤツです! って顔に書いてたようなもんだったんだから。しかし何故あの資料室の前にいたのかは口を割らないようで、大佐も頭を抱えているらしい。病院のみを狙った犯行ならまだしも、国家の機密情報も狙っているとなれば大きく話は変わるからだ。
 元から大佐が張らせていた部下達が犯人を取り押さえた末に戦闘に発展、相手には錬金術師もいたようで爆発音の響く中々派手な戦いとなったらしい。帰ってきた大佐は黒い炭が頬につき軍服も所々が破れていて、その汚さはなんだか笑えた。

「ぶっひゃーー! 大佐の顔きったねえ!!」「うるさい鋼の!」大爆笑かましてやったら凄い顔で怒鳴られたけど。

 そんな具合で犯人達の話が一通りまとまると、次に話題になったのは名前だ。
 名前が無茶に病院に飛び込んだことは、当たり前に問題視されている。そもそも軍が止めたにも関わらず無断で立ち入ったのだからそりゃそうだ。冷酷な言い方をすれば、もし名前が命の危険を感じたとしても、それは自業自得だった。けれどそれはあくまで文面上の話でしかなくて、俺が連れ帰った名前を見たアルは飛び上がって不安そうにしていたし、この怪我は何だ!? と騒いでいた。

 そこで疑問が二つほど。
 なんせ、病院ジャックを目論んだ犯人達は複数人とはいえど、全員が交戦中だったため名前に怪我をさせる人物の特定がまるで出来ないらしい。どれだけ尋問しようと、奴等は知らねえの一点張りのようだ。これが一つ目。
 けれど名前の傷は決して不注意のものは見えず、かと言って自身をわざと傷つける意味もない。それに、と俺は皆の前で声を上げた。俺が駆けつけた時の名前とその空間は、明らかに誰かと揉めたような痕があったと。

「……武器になりそうな割れた硝子も落ちてた」
「……この子が?」

 勿論、それも血に濡れていた。
 それを聞いた大佐は目を細め、複雑な感情の入り混じった瞳は名前を映している。そうして頬に手を触れるものだから、なんだかムカッとしてその手を叩き落とした。目を真ん丸にした大佐が俺を見る。
 しかし数秒後、何かを悟ったように不敵な笑みを浮かべるのだ。「取られたくないのなら、きちんとリードでもしておくんだな」そう笑って。

 そして名前は俺達が全く知らない、何かと戦ったのだという事実だけが沈黙の中、伝達された。一先ず場は解散となり、名前を抱えた俺とアルはいつもより少しゆっくりと歩いて帰っている。
 ……帰り際に大佐の手に名前が渡りそうになったので、急いで奪い戻した。
 俺にはただの運びやすい持ち方でしかない"お姫様抱っこ"をすると、大佐は何か言いたげな顔をする。漆黒の双眸をこちらに向けて、俺の嫌いな大人の顔をして、言う。

「……そのままだと、いつかその子を支えれなくなるぞ」

 その言葉は想像よりも殺傷力が高く、深く深く心臓に突き刺さった。じゃああんたなら支えられんのかよ。そう言いたかったがグッと堪え、大佐を背に俺達は司令部を出る。あっという間に時は過ぎたようで、空は茜色に変わり斜陽が細長く俺たちの影を伸ばしていた。

 当の名前はと言うととりあえず一旦ホテルで休ませている。寝ているのか気を失っているのか分からないが目覚めるまで待つことになり、ホテルのロビーでアルとソファに並び、ぼうっと天井を眺めていた。何だか今日はとんでもなく短かった気がする。放心している俺と、さっきからどこか落ち着きのないアル。
 アルは何か言いたいことがあるようでチラチラと俺の方を見ては逸らすを繰り返していた。

「……言いたいことがあるなら早く言え」
「えっ、あ、うん。そうだね、ごめん」
「いや謝るんじゃなくてだな」
「ご、ごめん! ……なんていうか、上手く言葉に出来ないというか」
「何だよそれ」
「……」
「……何」
「……名前さんのことなんだけどさ……」
「……おう」
「兄さんは、見たよね?名前さんが」
「……」
「その……使うところ」

 錬金術を、使うところ。
 フラッシュバックする。名前の手元から光が見えたこと、どこか聞き覚えのある音がしたこと、名前が一瞬で二階の窓へと消えたこと。

「……ああ」
「僕、名前さんが錬金術を使うなんて思ってなくて……その、だって彼女錬金術どころか国のことも知らなかったじゃないか」
「そうだな」
「なのにどうして彼女が錬金術を……って。それに錬成陣なんてどこにも……」
「……本人に聞くしかねえだろ」
「でも、」
「でもじゃねえ」
「……っ分かってる!? 錬成陣無しで錬金術が使えるってことは……名前さんは……っ!」
「……」
「名前さんは……」

 困惑と焦燥が限界まで圧縮されて、今にも弾けそうな不安定な声だった。鋼の鎧がガシャンと揺れ、アルは俺の肩を掴む。アルが言いたいことは分かる、存分に分かる。当たり前だろ、何年お前と兄弟やってると思ってんだ。俺とアルの心の中に浮かんでいるのは、ある可能性だ。

「……何で兄さんはそんなに冷静なんだよ」アルが再度俺を責めるように呟いた。

「僕は……名前さんの過去が知りたい」
「……知りたいつって知れるもんじゃねえだろ。記憶ねえだろアイツ」
「っなんとかして、僕が思い出せる」
「お前なあ!」
「もしかしたら、もしかしたら……」

 アルが言いたい言葉の先は、いやでもわかってしまった。俺達が求めているもの、俺達の生涯の目的、追い続けているもの。
 忘れてはいけない咎、背負い続ける罪科。
 きっとアルは名前に少しの可能性を信じたいのだ。けど、俺は首を縦に振らない。

「なんで……兄さん……」そんな消えそうな声で言うなよ、アル。何でそんなに焦ってんだよ、どうしたんだよ。お前は混乱しているんだ、一回落ち着けよ。いや、落ち着いたからこそこの考えに思い至ったのか。
 あれ、じゃあ今おかしいのは俺か?

「……可能性は二つ、だろ」
「それは、」
「俺達と同罪か、もしくは」
「……僕達と同じ」
「もしくは、お前が望むもんだ。けどその線はねえだろうなあ」
「……でも名前さんは異世界からって!」
「アル」
「……なに」
「冷静になれ」

 俺の肩を掴むアルの手を払い、俺は言い切った。やがて目の前の大きな体からは「……ごめん」か細い声が発せられる。

 名前は異世界から来た。じゃあ何で錬金術が使えるのか。名前が失ったと言う過去には一体何があるのか。俺からは踏み込んではいけない気がして、今まで触れなかった。深入りしてしまうと、今度こそ名前は泡となって消えてしまうような気がしたから。

「……勝負どころ、だな」

 名前の秘密を知らなければならない時がきたらしい。
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