はみ出し者の死にたがり
久しぶりに、夢を見ていた。
緩やかに意識が浮上して、視界が明確になって辺りを見渡すと、私はどこか懐かしい場所にいた。三色の信号機がチカチカと色を変え、交差点ではクラクションが常に鳴り響いている。自分一人だけが横断歩道の真ん中でと立ち止まっているけれど、忙しなく通り過ぎる人々は、まるで私の事なんて気にも留めない。見えていないのかもしれない。
恐る恐る足を一歩踏み出すと、そこからは驚くほど勝手に動いていた。何かに導かれるようにある場所に運ばれ、そこに佇む人影に肩が上がる。そして目を疑った。胸元まで伸びる長い黒髪、虚無を映しているような真っ暗な瞳。目の前にいるのは、『私』だった。心臓がドクリ、と反応する。思わず不格好にも立ち竦んでいたものの、『私』が此方を振り向きそうになって、慌てて近くの電柱の裏に隠れた。見えないかもしれないとは分かっていても、私と対峙するのは少し怖かった。電柱の影から覗き見る『私』は今より型が綺麗に残った制服を着ていて、顔つきだって少し若い。それでも一般的な学生に見えやしないのは、全身が傷だらけだからだ。右脚はギプスに包まれ、それを支える両腕には包帯が巻かれている。首や膝には、赤紫色の内出血が堂々と主張していた。どう見たってボロボロの状態の私が、ジッと家の前に立ち尽くしている。中に入ることもせず、ただ何かを恨むようにじっと。私、こんな家に住んでたんだっけ。まるで他人を見ているような不思議な感覚なのに、そこにいるのは確かに私だった。そうしていると不意に彼女は家に背を向け、松葉杖を器用に使いその場を去ってく。
「……あ、待って……!」思わずそのあとを追い掛けるけれど、思った以上に距離があったのか中々追い付けない。そしてとある交差点まで来たとき、彼女は未だ迷い無く前進している。
信号は赤だった。
誰も止められなかった。迷い無く進む『私』は、あまりに堂々としていて、間違った行動とは思えなかった。
「……っあ、」突如として耳を割いた轟音、そして肉体が地面に叩きつけられる音。
クラクションは絶え間無く鳴り響いている。理解するまでに少し時間がかかった。これは事故なんかじゃない。彼女は、驚くほど簡単に生死の壁を越えてしまったのだ。『私』は、自分の意志で死のうとしていた。口を手で覆って吐きそうになるのを堪える。程度を超えた異常には、誰も気づけない。ドロリとアスファルトに流れる赤、どこまでも続く赤、救急車のサイレンが近づいてくる。気が遠くなるような点滅光が、真っ赤に視界を覆い尽くした。
目を開けると、視点が切り替わっていた。
頬には生温い何かが伝っていて、手で触ると濡れている。私はどうやら泣いているらしい。辺りを見渡すと薄暗い室内にいるのだと分かった。どうやらここはリビングだ。住んでいるのは家族だろうか、少し大きめのダイニングテーブルの上には放置されたお菓子や冷凍食品のゴミが散らばっている。床には埃が分厚く積もり、決して良好とはいえない環境に眉を顰めた。窓の外は空気が色を持つほどの曇天で、空には決して光を通さないような灰色が重なっている。雷を伴った大雨だった。道理で明かりが差し込まないわけだと、窓から離れるようにそのまま室内を歩く。
そして廊下の奥の一室に光がついているのを確認した。恐る恐るその部屋を覗いてみると、中には『私』がいる。少し大人びた顔つきになって髪も更に伸びていたが、その体に描かれる新鮮な傷痕がどうにも痛々しい。どうやらあの事故が起きても、私は生き延びたらしい。白い脚には赤黒く変色し、首には包帯が巻かれ、どこか諦めた表情の彼女が見据える先は、仏壇だった。
「……ッ!」
仏壇に飾られる写真を見た瞬間、呼吸が止まった。
目は限界まで開かれて、全身が震える。汗が絶え間なく流れ出て、心臓が五月蝿いほど鳴り響いていた。息ができない、苦しい、目の前が見えない。込み上げてくる感情に何て名前をつければいいのか分からない。
視界を覆う厚い涙の膜に、私はその場に崩れ落ちた。ガタン、と音が鳴った。私の存在は見えないと思っていたのに、その音に反応するように私がゆっくりと首を回す。そして終わりのない夜のような瞳と、目が合った。
あまりに無表情で生気のない顔つきの『私』は、その瞬間少しだけ瞳の奥が揺らいだ。ガクガクと震えながら涙する私を見つめ、そのまま散るように消えていく。
その子だけが、『私』だけが、この部屋から、私の前から、世界から、消えていく。
思わず手を伸ばすけれど何に触れることもなく、ただ宙を切った。あれ、と空振った空気に違和感を感じる。家の中は何も変わりやしないのに、突然訪れた圧倒的な違和感に身体が凍りついた。恐る恐る仏壇を見る、そして息を飲んだ。
「……っあれ、……やだ……なんで」
視界の四隅が段々と真っ黒に塗り潰されていく。やがて世界は途絶え、暗闇に飲み込まれてしまった。
他人のようだとどこかで思っていた。けれど、あれは、あの子は、紛れもなく私だった。少し前の、私だった。そして私はこの光景を覚えている。だって、あの子は私なのだから。
今とは逆の立場から、この光景を見ていた『私』は、今の私に、何かに縋りついていたのだ。
目が覚めると、見覚えのあるホテルの天井が見えた。目許は熱いし、睫毛は鋼のように重く、目蓋なんかは酷く腫れているように感じた。ゆっくりと身体を持ち上げて、ベッドから降りる。
床に垂直に立った途端、ぽとりと何かが木目調に弾けて、染みを作った。ぽとり、また落ちる何かは私から出ている。あれ、顔に手を当てると、しっとりと濡れていた。慌てて拭おうと顔を擦っても、顎に溜まっていた雫が更に水玉模様を作っていく。
私は泣いていた。夢の中でだけだと思っていたのに、感情はコントロールできないらしかった。けれど今、しないといけないことがある。この夢はただの夢なんかじゃない確信があった。私はしなくてはいけないことがある。
「……エド、」
ポツリと彼の名前を呼んだ。
見渡す限り、この部屋にはいなかった。どこにいるんだろう。今、私はあなたと会わなくちゃいけないのに。焦りが出てきて、扉へと足を進める。
けれど、私がドアノブに触れるよりも早く、ガチャリ──扉が開いた。
目を見開いて少し先にいる存在を確認する。それは向こうも同じだったらしい。少しだけ目線の低いところから、太陽を纏ったような黄金色の瞳が丸く大きく見開かれていた。
「名前……お前、泣いて……」少年らしいテノールが、耳を撫でた。
困惑したようにその場に立つ彼の手を両手で包み込みギュッと握りしめると、手袋越しに硬い金属が伝わってくる。驚く彼を他所に、私はやっぱり焦っていた。今すぐ彼に伝えなければいけないと感じていた。大きく息を吸って、そして吐く。彼の双眸に、泣きながら笑う私が映ってる。
「……私、エドに言わなきゃいけないことがあるんだ」
突然、私に記憶が戻った。
戻ったというよりも、夢の中で得たという方が正しいかもしれない。そう言うと、息を飲む音は静謐な空間に簡単に響き渡った。溢れ出る感情に胸が張り裂けそうになりながら、目の前に座るエドやアルフォンス君をじっと見つめる。程なくしてエドが目を細めながら口を開いた。
「……俺達もちょうど、聞かないといけないって思ってた」
たどたどしく記憶を辿っていく。
はじめに、あの夢の中で見た光景は紛れもなく私の過去だった。仏壇に映っていたのは私のお母さんで、虚ろな目をしてそこに座るの私だ。松葉杖を付いて車道に飛び出したのも、屋上から飛び降りたのも、夢じゃない。きちんとした私の正史で、事実だった。
「……お母さんがね、死んだの」
私が死にたいと思い始めたのは、そこから。
上手く笑えているだろうか、上げた頬が引きつっている気がして心配になる。エドの動きが止まったかと思えば、直後に目を見開いて、拳を強く握り締めていた。金色の瞳の奥が陽炎のようにゆらりと揺れ、隠しきれない感情が雪崩落ちていく。
どうしてエドが泣きそうになっているんだろう。きっと心優しい人なんだなあ。そう思って無理やり微笑むと、更にエドは唇を噛んで苦しそうな顔をする。
「死を受け入れられなくて、後を追おうとした」
いつからか、会いたいという気持ちを殺すようになった。全てを無かったことにすれば苦しくないと知った。でも私は馬鹿だから、忘れることなどできなかった。なら、苦しみごと自分が消えればいい。
その考えはすぐに自分を殺すことへと直結した。これだけ見れば随分と覚悟のあるやつだと思われるかもしれないけれど、本当に死ぬ以外の方法が分からなかっただけだ。私の存在を消す以外の方法が、苦しまないための道筋が、気持ちごと道ずれにする以外の方法が、当時の私には理解らなかっただけ。
苦しいのは嫌だった。限界だった。何も思い出したくなくて忘却しようとして、記憶に蓋をして、命を軽んじた。
「何回も死のうとした」
「……おまえ、」
「でも本当に死にかけただけ。結局は運が良くて毎回生きてた」
けど、ある日のこと。
車道に出て車に撥ねられても、それでもなお生に縋る自分に限界を感じた、その時、──声が聞こえた。
「……連れて行ってあげようか、って」
「……声?」
「私、馬鹿だから縋ったの。やっと解放されるって、全部消えちゃえば、もう苦しくないやって」
「……」
「けどね、違った」
大間違いだった。
人生最大の選択ミスで、愚直で、酷く愚かな誤算だった。
笑ったつもりだったのに、出たのは湿った吐息が漏れ、話しながら肩で大きく息をする。
私が見たのは、『私』が何かに縋り付く、決定的な瞬間だった。きっとあの日、あの場所で私は此処に迷い込んでしまった。私が夢の中で立っていた場所に、本当なら別の何かがいた。私の望みを叶えると言った何かが。
「それで私、いつの間にか真っ白な空間にいて」
「っ真っ白な空間!?」
今まで黙っているだけだったアルフォンス君が食い気味に私に尋ねる。小さく頷いて、私は瞑目した。
「私の望みを叶えてやる、って言われてね、でもそのためには通行料が必要だって」
「つ、通行料!? お前、一体なにを払って!」
エドが私の肩を強く掴んだ。こめかみにじっとりと汗が浮かんでいる。ニコリと笑って、手を重ねた。
「……私の生きてた事実が、無くなっちゃった……っ」それも、お母さんごと。
これらは仮説に過ぎない。けれど、確実に私はもうあの世界には存在しないと悟った。
私が消えてしまったあの後、仏壇に残る写真には何も映っていなかったから。そこにお母さんがいなかった。飾られた友達との写真には、私だけが消えていたから。
私の中の歪な記憶。私だけが一方的に覚えている記憶。あの違和感は、きっと、私が存在しない世界になってしまったからで。私と共に帰った友達の隣に私はいない。私の大好きなお母さんはもういない。
「おめでとう、君の願いは通じたんだ」
ああ、そうだね。本当に綺麗さっぱり消えてしまった、私はいない、死の概念すら超えて生まれてすらいない。文字通り私の存在は全て消失したのだ。
「ほん……っと、ばかだ」
私の願いは今も昔も変わらないのに。
たった一つだけだったのに。
その時、エドの腕が伸びた。力強く引き寄せられた身体は、彼の胸の中に収まっていく。背中に回った手が震えていて、耳許に聞こえる吐息は濡れている。やめてほしい、エドがそんな反応する必要なんてないのだから。やめてほしい、私まで顔の内側が熱くて溶けそうだ。ほんとに、やめてほしい。
「……っほ、んとは、」
「うん」
「消えたかったわけじゃ……なかった」
「……っ」
「わたし……わたしは、もう一度だけ、」
「……もういい」
「もう一度だけ……、」
どうして死のうとしたんだろう。
どうして幾度も、歯を食いしばっても消えない激痛を背負っても、それでも、命を絶とうとしたんだろう。痛かった、泣きたかった、それでも泣いたらいけないと思った。
どうして、どうしてだろう、そんなの、一つしかない。もう一度、私は、
「私は、」
──もう一度だけ、お母さんに会いたかった。
ただ、それだけだった。
「……ぁっ……うぁっ、……っ!」
思いが形になった瞬間、腺が弾けた。
ポロポロと大粒の涙が頬を流れ、顎を伝っていく。気づいてしまった。己のした罪の大きさに、愚かさに、ただひとつの思いの大きさに。
目の奥が熱くなって、世界が滲んで見えなくなっていく。次第に喉からは湿って引き攣った嗚咽が溢れた。言葉にならない叫び声を上げ、エドに縋りつく。まるで子供のように泣き叫んだ。
もう一度、太陽のような笑顔を見たかった。
私だけに向けられる柔らかい手に触れたかった。
それだけだったのに、それだけのために、何度も死のうとした。異国の旧人に祈りを捧げ、死後の輪廻転生を信じて、愚かに粘り続けた。けれど逢えなかった。意味がなかった。車に撥ねられても、屋上から飛び降りても、その度に命の重さを突きつけられただけな気がした。
限界だった、だからあの時聞こえた声に縋りついてしまった。
私は随分と遠回りをしてしまったらしい。あれだけ焦がれた人のために、私は選択肢を誤ってしまった。もう会えない、私の生きた証は無くなってしまった。もう世界が違う。私は向こうに存在しない。生まれてさえいない、生まれた歴史ごと消えて、私のお母さんはどこにもいない。
「……ひっぐ、ぁ、うわああ!」
苦しいほど強く引き寄せられて、反射的にぎゅうぎゅうと私も彼を抱き締めた。自分の泣き声がどこか額縁の外側で聞こえているような気がする。
あちらの世界で生きていた事実さえ消えてしまった私は、一体誰になるというんだろう。私が死にたいほどに会いたかった人は、誰になるというんだろう。
「……俺達も一緒だ」
──俺達も、母さんのために、禁忌を冒した。
ポツリポツリと、言葉を落とすエドの声が心臓に落ちていく感じがした。お母さんの死を受け入れられなくて、人体錬成という最もしてはいけない禁忌をおかした。アルフォンス君の肉体を持っていかれて、エドは手足を失った。
あなたと私は似てるようで、全然違うね。
最愛の人のために死を選んだ私と、最愛の人のために生きる道を選んだあなた。どちらも代償があった。願ってはいけない祈りだった。
私もあなたも、もう一度、お母さんに会いたかった、ただそれだけなのに。
ああどうしよう。
やっぱり、世界はこんなにも真っ黒だ。 ←/
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