閃光
「中尉」
「何でしょう」
「私の魅力はどこだと思う」
「……」
「……」
「黙って仕事をしてくだされば魅力的かと」
「これまた手厳しい」
いかにも傷ついたと言わんばかりに肩を上げるが、その表情は悲しみのかの字すらないほど飄々としている。ああ、これはきっと本題に入るための前振りだ。リザはそう思って書類に走るペンの握る力を弱めた。顔は上げぬまま、それでも意識は最大限にマスタングに寄せつつ作業を続ける。
この間は酷い嵐にあった、街中に綺麗な女性を見つけた、部下のひとりが浮気をしていた、その相手がまさかの知り合いだった、そんな暫くたわいもない、一見いつも通りの世間話を続けた後、案の定「君はエルリック兄弟をどう思う」本題であろう話題が振られた。何も変わらない声音に、意識していなければ聴き逃していたかもしれない。
あまりの落差に数秒固まったのちに、その問い掛けの意味を考える。
「どう……とは」
「そのままの意味だ。小さい頃に唯一無二の母親をなくし、禁断とされる人体錬成を行った。その結果兄は片手片足を失い、弟は魂だけの存在となった」
「存じておりますが」
「そんな彼等を、君は今どう思う」
「……」
時刻は夕暮れ。
空には落日が広がり、そのお零れが存分に司令室に差し込んでいる。シャッターを下ろしていない分、その斜陽は容赦なくマスタングのことを照らしていた。机の上に肘を付き、両手で顎を支えるマスタングには翳りができ、どんな表情かも察することは出来ない。
そんな彼等をどう思うか。
リザは目蓋を閉じて彼等の存在を思い浮かべる。年齢とはかけ離れた精神力を持ち、自分達のためなら何でも踏み台にしてやろうとする知識欲、そして身の内に入れた者への情の熱さ。マスタングはそれを甘いと一蹴するけれど、リザ自身は決して悪いものではないと考えている。さて、どう返すべきか。即座に答えるには、その問いはあまりにも重く、唐突だった。
「……二つ、思うところがあります」
「ほう、二つか」
「軍人としての意見と私個人の意見です」
「続けてくれ」
「……親を無くした彼等のことには少なからず同情します。彼等の年齢を考えると耐え難い苦痛があるかと」
「それは君個人の意見かね?」
「はい」
「軍人としての君は?」
「自業自得、とまでは言いませんが。罪を償うべく前を向くしかないでしょうね」
「……なるほど」
ふむ、とマスタングは少し先の書類を片付けるリザを見据えた。
背を向けて座る彼女はペンこそ握っているものの、その動きはあまりに遅くぎこちない。その様子に気付いたマスタングは目を細め、その回答に頷く。彼の問い掛けに応えた彼女の答えは、模範解答とも言っていい。
親を無くし蘇らせようと禁忌を冒した彼等には同情こそすれど、その行為まで認めるわけにはいかない。けれどそれは軍として、国として、世界の軸としての話で、一個人はやはり人間だ。感情を捨て鬼になれるものなどごく一部。特に彼等は当初のエルリック兄弟を見ている。
絶望に打ちひしがれ、目の前が真っ暗で、光など無いと思っていた彼らを。その時、ふとリザは「……ただ、」と言葉を続けた。
「彼等は少なからず錬金術師としての才があった」
「……悔しいがその通りだ」
「あと、どんな形になろうと彼等は兄弟です。その魂は無くなりません。幸せを分かち合い、苦しみは分け合える」
「そうだな」
「たまに思います」
アルフォンスの魂だけでも鎧に定着させたのは、エドワードの天才とも言える知性による不幸中の幸いだろう。
けれど、あの子達が、もし一人だったら。あの子達のように禁忌を冒し、重い罪に苦しみ、それでも誰とも苦しみを分け合えることができない存在がいるのなら。
「……きっと、耐えれないでしょうね」
パタン、とファイルを閉じ、リザは席を立った。そのままくるりと身体を反転させると、そこでようやくマスタングと視線がぶつかる。翳りの向こうにある両目は、いつにも増して漆黒の色を帯びていた。
「名字名前」
いつか、マスタングはリザに尋ねたことがある。『何か感じたかね』その問いには確か『……馴染んでいないように、思えました』そう答えたはずだ。これに関しても誤ったことを言ったとは思っていない。初めて名前を目にした時、その異質な存在感に奇妙な感覚を覚えたものだ。
けれど、関わってみれば至って普通の女の子だった。人混みに紛れてしまえば一瞬で根負けしそうなほど弱々しいのに、目をギラギラさせて、果敢にも戦場のような昼時の食堂で席を確保したのは記憶に新しい。そして彼女は知りもしないだろうが、あの場で自身を庇うような真似をしていたのも、彼女は知っていた。
過去の記憶を辿りながら、リザはフフ、と思わず笑みを零す。そんな様子をマスタングはじっと見つめながら、言葉を吐いた。
「……彼女は非常に不安定だ」
「そうですね」
「鋼のがどういう思いでいるのかは知らないが」
「……」
「私は思うのだよ、中尉」
「何を?」
「彼女は、初期の彼等と同じ目をしている」
「……それは」
「あれは大切な者を失った者の眼だ」
カタン、と不意に扉が開いた。
二人してその扉の先を辿れば、ある一人の部下が「報告です」とマスタングに視線を向けている。「続けてくれ」そうして机についていた肘を解き、彼は瞬時に上司の顔をして、くるりと椅子を回転させた。
──大切な者を失った者の目。
その言葉は酷く重く、説得力があった。
友人を、同僚を、仲間を失ってきた彼だからこそ分かる。戦場をくぐりぬけ、生命を垣間見た彼女だからこそ、その言葉はすんなりと受け止めることができた。
虚空を見つめるような、それでいて何かに縋るような瞳の奥にはどんな感情が隠されていたのだろう。
報告が終わり立ち去った部下を見届け、椅子と床が擦れる音が響いた。無言でその場に立ち、司令室を出ていくするマスタングを数秒見つめた後「……大佐の魅力は、」その先の言葉を飲み込み、彼女も大人しくそのあとを追った。どこに向かうのかは聞かなかった。なんとなく彼女自身も、思い当たる節があったから。
大佐の魅力。
それは貴方の言う"大切な人を失った者の眼"をした彼等を、決して見捨てないところなのではと、リザは確かにそう思った。
「何この世の終わりみたいな顔してんだよ」
真っ黒に染まりかけていた思考に、ピシャリと水が掛かる。勢いよく意識を引き戻したのは、エドのそんな一言だった。
頭上から降り注ぐ彼の声に、目を細める。この世の終わりみたいなって、実際この世の終わりなんだからどうしようもないじゃないか。そう思っても声にはならなかった。
子供のように泣いていたせいで、きっと喉が傷んで、痰も絡まっている。私を抱き締め続けるエドの優しさと、その言葉の裏を読んだら苦しくてて痛くて抜け出そうとするけれど、背中に手を回された腕の力が緩まることはなかった。私の肩を掴んで、鼻がくっつきそうな距離で、金色の瞳が力強く私を射抜いている。その目の奥には確かに強い意志が垣間見えて、私の未来を、これからを本気で信じているように見えた。
「まだ終わりじゃねえだろ」
「……っおわり、だよもう……だって……」
何をどう見たら終わりじゃないと言えるんだろう。空っぽの手持ち無沙汰になった私を見て、終わりじゃないなんて言えるのは貴方だけだ。
元の世界に帰れない。
元の世界に帰ったとて何も無い。
この状態を終わりじゃないと言うなら、これ以上の地獄がまだあるというんだろうか。絡まっていた視線を思わず逸らしてしまう。部屋の床に積もる埃を見ている私に、それでも声は続いていた。
「終わりじゃねえ!」
「……」
「終わりなんかにさせねえ!」
「……っ」
心が苦しくて堪らない。そう叫んでいるのは私だけじゃない気がした。自分に言い聞かせているように、噛み締めるように言葉を吐き出すエドの声は、少し湿っている。
──だって、でも、そんなこと言ったって、
卑屈な私の心の中ではそんな否定ばかりが浮かんでは消えていた。決して空気に触れることの無い思いを喉に含ませたまま私は黙りこくることしかできない。彼の言葉は正しい。正しいが故に苦しい。受け入れる心の広さがない私には、正しいことを選びとれなかった私には、その正しさが酷く重くて耐えられない。
「……俺は、アルと約束した。自分自身に誓ったんだ。アルの体を必ず取り戻す。そのためなら何だって糧にしてやるって」
「……」
「俺達のこの姿は禁忌を冒した当然の報いだ。泣き言なんて言ってられねえ、前を向くしか道がねえ。前を向くことしか許されねえ」
「……報い、」
「俺達と同じようにしろなんて言わないし言えない。けど、今お前が絶望を見るのはあまりに早すぎる」
耐えられない、やめてほしい。ねえエド、今どんな顔をしているか分かってる? なんでそんなに苦しそうな顔をするんだろう。
どうして、どうして、そんな思いばかり渦になって心を乱していく。どうしてエドがそんな顔をするのか本当に分からなかった。きっと本当に優しい人なのだ。私なんてどうなったって構わないだろうに、彼は私を叱咤して正しい方向へ導こうとしてくれている。言葉の一つ一つが噛み締めるように吐き出されて、ずっしりと心に沈んでいく。
いつの間にか吸い込まれるように彼とまた目が合っていた。私の考えを読み解こうとするかのように、重厚な睫毛の奥が揺らめいている。
「……言っただろ」
「……」
「縋るのは悪いことじゃねえ」
「……っ」
「今改めて言う」
「……エド、」
「縋るもんがねえなら血眼になってでも探すんだ」
「……」
「糸みたいな可能性でも、縋れよ」
ああ、またあの光だ。
眩しいそれに瞑目し、記憶を辿る。この光を見たのは多分二度目だ。目を閉じているはずなのに、真っ暗闇のはずの目蓋の裏には眩しい光が見える。遠くにあったはずのそれはどんどん大きくなり、やがて深海のような宇宙を照らしていく。
曖昧な世界が、輪郭を帯びていく。
いつか見たその光景に、いかなきゃと、今度は私から手を伸ばした。温かい。この間は分からなかったこの気持ちが、やっと分かった気がする。いつの間にか瞳はしっかりと目の前を見据えていた。
氷漬けされたみたいに固まっていた心が、じんわりと溶けていく気がした。
「名前……、」
『縋れよ』その言葉は酷く乱暴で、雑なものだ。世界が違う彼に縋ったって、どうなるか分からない。なのに、エドが言うと、こんなにも救われる気がする。手を伸ばして、縋りたくなってしまう。
「……わたし、」
人には無意識に焦がれるものがある。それは大概が手に届かない不相応なもので、私は自分にとって慕情とも言えるその存在を、今目の当たりにしていた。
──ずっと真っ暗な世界にいた。
暗くて、じめっぽくて、動くだけで息が上がるような酸素の薄いところに。
小さい内に親を無くし、成人もしないまま一人で生きていく道しかない、可哀想な子。
ずっと可哀想というレッテルを貼られ続けて、光の浴びない世界を選んで、それでも大切な存在のいない世界に耐えられず願ってはいけないことを願った。この世界の言葉を借りるとすれば、禁忌に縋ってしまった。そしたら一番大切だったはずのものを失った。
可哀想で、哀れで、未熟で、どうしようもなく愚かで、それなのに。
それなのに今、心臓が掴まれるような強い羨望で満ちていた。
どうして君達は前を向けるんだ、どうして、どうして。
人には無意識に焦がれるものがある。
私にとってのそれは、眩しい太陽の光だった。
いつだってお天道様の下を堂々と歩くことは出来なかったから、逃げるように、隠れるように陰を歩んでいたから。焦がれてしまうのだ。朝日を含んだような柔らかな瞳に、死線を潜り抜けたような強い炎の宿る金色に、思わず手が伸びてしまいそうになる。
「言っただろ、例え糸が切れても」
「……っ」
「その下には俺がいる」
縋っていいのか。私なんかが。自分のために全てを捨てたような人間が。『身の程知らずの馬鹿野郎』子供ような甲高い声が脳内に木霊する。幻聴だと分かっているのに、その言葉が今更こびり付いて離れない。
「名前」
全てかき消すような力強い声だった。
覚悟を決めろ、そう言っているにも聞こえた。
床に落ちていた視線がゆっくりと持ち上がり、曲がっていた背筋が正されていく。どうしてだろう、酷く重かったはずの目蓋が軽く感じる。不意に伸びてきた手が、強く肩を掴んだ。そのままま口を開いて、訴えるように、言い聞かせるように投げかける。他でもない、私へと。
「俺達は生きて自分の手で道を拓かねえといけない……」
「……っ」
「けどそれはお前もだ、名前!」
「……エ、ド」
「俺達もとうに地獄を見てる! 後は上るだけだ、這いつくばってでも身体を取り戻す! だから……っ!」
だから、そう続いた言葉に息を飲んだ。
目の奥が燃えるように熱い。何度も何度も辿られた涙のあとに、再び溢れ出た温い液体が伝っていく。
ひとたび、目を閉じた。
そして今度は強い意志を持って、彼を見た。メラメラと瞳の奥には紛れもない太陽がある。
ずっと死ぬしか方法がなかった。
私さえいなくなってしまえば、私さえいなけれは、死んでしまえたなら。そう思って生きてきた。けど、私は、本当は、
「一緒に道を作ろう、名前。お前は」
私は、
「生きるべきだよ」
──そうか、本当は、生きたかったのか。
ただ、もう一度お母さんに会いたかった。だからどうしようもなかった、死ぬことは私にとって手段だったのだから。
ずっと眠っていた深い溝に、その言葉は確かに届いた。
爛々とした光輝で靄が晴れていく。フッと頬が上がり、視界がキラキラと滲んでいく。吹くはずのない風に背中を押された気分だった。死ななければならないと思っていた。
それが正しいと、ずっと自分に言い聞かせてきた。本当は痛かった、痛くて苦しくて、辛かった。誰かに許してほしかった。生きていいんだよって、言って欲しかったのだ。死ななくていい。死ぬな。死のうとなんて思うな。生きろ。生きて、生きて、
「……っう、ん」頷く度にボロボロと玉のような大粒の涙が何度も何度も溢れて頬を伝っていく。
知らなかったのだ。焦がれていた光は、見ないようにしていた太陽は、こんなにも温かくて美しかったのだと。
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