終焉と夜明け
絶望の淵に立ったことのある人は強い。
一歩先の景色すら見えない真っ暗の世界を抜け出した人は、灯火を己でつけることのできた人は、屈強で靱やかな心をきっと手に入れることが出来る。下を向くな、前を向け。藁をも掴む勢いで、それでいて光輝の剣で闇を切り裂く心持ちで、我武者羅に縋りつけ、そう言われている気がした。
いつか暗闇でもない曖昧な世界で見た、小さな白い点。薄くてぼんやりとして、今にも消えそうだった一筋の光は、どんどんと大きくなって、いつの間にかひとつのシルエットになっていた。太陽とも見間違えるほどの優しさを束ねた光は、依然として眩い気配を残したまま、私の世界を照らしている。
──どうやら、時は満ちたらしい。
それから、どのくらい経ったんだろう。
涙も大方引いて、呼吸だって随分楽になった。話し終えて、それでも尚傍にいて支えてくれるというエドにどれほどの感謝を述べたらいいか分からない。時折ポンポンと宥めるように私の背中を叩いてくれていたエドから、やがてゆっくりと距離をとる。離れていく体温に少し名残惜しいなんて思いながら顔を上げた時だ。エド越しに見える扉の奥に、見覚えのある青色が映った。考えなくても分かる。あの軍服を、あの黒髪を、あの威厳ある立ち姿は忘れもしない。
気がつけば無意識にゴクリと息を飲んでいた。そうだ、私が向き合わないといけないのは決して自分自身だけじゃない。ましてやエドやアルフォンス君だけじゃない。私を守り続けてくれていた人が他にいるじゃないか。
「……ロイ、さん……リザさん」
私の声に呼応するように、部屋の中に入ってきていた二人は、ふと足を止めた。
「……やあ、名前、アルフォンス。そして鋼の」
心身の四隅にまで染みる低い声だった。これによって初めて彼等の存在を認知したらしいエドは「うわぁぁ!?」と声を上げて大袈裟に私か距離をとると、あたふたと顔を真っ赤にしてロイさんを睨みあげている。
「な、ななななななんで大佐が! つーかアル! なんかこう……言えよ!」
「だって兄さんったらすっかり二人の世界に入ってたし……」
「ふ、二人の世界!?」
「やかましいぞ鋼の」
ふう、と息を吐いたロイさんは静かに、それでいて力強く私を見つめていた。
「さあ、 私とも話をしようか」
話をしようか。そう言ったロイさんに少ししてから頷き、見つめ返す。
それからは、あっという間だった。あくまで私の体内時計での感覚に過ぎないけれど、それにしたってあっという間だった。記憶が戻ったこと、お母さんのこと、私のこと、全てをロイさんに、そしてリザさんに話した。先程の流れをなぞるように、一言一句誤解を与えぬよう言葉を選びながら声を出す。ロイさんは私が記憶を思い出したことも全て分かっていたのかもしれない。目を丸くして固まっていたのは初めの一瞬だけで、後半からは酷く冷静な顔で私の話を受け入れていた。私があっという間だと感じたのはロイさんのおかげなのかもしれない。
そうして全て話し終えた時には、彼はフッと脱力した。眉間を軽く指で押さえた後に、ポトンと落とすように言葉を吐く。
「……これで嘘に損得はないな」
──私、悪いうそはつきません。
それはいつか言った、記憶のない私の、精一杯の真実だった。鋭く黒い、笑わない瞳。存在を疑われる居心地の悪さ、そして悪魔の証明にしかなり得ない記憶の有無。あれほどまでに怖くて苦しくて、声を上げて泣いた夜。
それがどうだろう。目の前に立つロイさんの瞳は依然として黒曜石のようぬ深みはあるけれど、そこに懐疑の念はない。目許に皺を寄せフッと笑いかけてくれる笑みに、不純物など交じりもしない。それを向けられた瞬間、とうに水分なんぞ流れきったはずの目奥が熱くなっていく気がした。私は天井を見る振りをして、グッと溢れる何かを堪える。一度エドにぶつけ切ったからだろうか、もう涙で視界が濡れることは無かった。けれど、心臓を迫り上がるような言い表せぬ感情ばかりが止まらなかった。
ずっと仕方がないと思っていたのに。疑われたって仕方がない。どうしようもない。そう思っていたはずなのに。
「話してくれてありがとうね、名前」
リザさんがそっと私の頭を撫でる。何度か往復する優しい手つきは、まるで真綿で心を包まれるような感覚だった。
ああ、みんな私のことを拒絶しない。受け入れてくれている。迫るような思いで言葉が出ない私を一瞥すると、ロイさんは仕切り直すように二度ほど手を叩いた。
「さて、」と言葉を続けながら、その視線は私の横に立つエドに注がれている。エドもその視線を真正面から受け止めているけれど、あれ、むしろ睨み返しているような気がする。
「鋼の」
「……んだよ」
「次は君の番だ。これからどうする」
「どうするっつったって」
「ずっとここにいるわけにもいかないだろう」
「んなこた分かってる」
「分かっているなら是非とも計画を聞かせたまえ」
「それは……」
押し黙るエドに、ロイさんは軽くため息を吐いた。けれどそれも想定の範囲内とでも言うように、間髪入れずに言葉を紡ぐ。
「ひとつ、私に提案がある」
「は?」
「名前を私の部下とする」
「…………………………………は?」
「…………………………………え?」
そんなロイさんの言葉に、今まで黙っていたアルフォンス君とエドの声が重なった。
非常に長い空白の後、口をあんぐりと開けロイさんを見上げているエドと、ガシャンと動揺したように鎧を揺らすアルフォンス君。けれどそれには私も激しく同意である。
……ぶ、部下? 部下ですか?
未だに頭を撫でてくれているリザさんとロイさんを何度も見比べるけれど、リザさんはただ微笑むだけで何も応えてくれなかった。いやいや待って、部下とは? 私がロイさんの部下? きっと今の私とエドは全く同じ顔をしているんだろう。ポカーンと暫くロイさんを見つめていたエドは、少し経ってからブンブンと首を横に降り、水をかけられたようにギャンギャンとロイさんに噛み付いている。
「ハァァァア!? 何で名前が大佐の部下に! っつーか軍の人間じゃねえだろ! 意味がわからん!」
「犬のように吠えるな。言葉の通りだ」
「名前が軍に入るわきゃねえだろ! しかも大佐の部下ァ!? 俺なら一生かけてもごめんだね! 牛乳6パック飲んだ方がマシだわ!」
「……何を言っている」
いや牛乳6パックも飲んだら絶対お腹壊すよ……。
ギャアギャアと今にも大佐に掴みかかろうとせんエドを後ろから羽交い締めにしているアルフォンス君。突如として訪れた日常感にホワホワとした気持ちになりながらも、少し苦笑いする。
けれど当の本人であるロイさんは、呆れたように「そもそも鋼のの意思は関係ない」と一蹴した。そして再び私と視線が絡み合う。ロイさんの部下になる、そんな想像もつかない未来に、ゴクリと生唾を飲んだ。
「名前」
「……はい」
「本当の世界は想像よりもはるかに小さい」
「……へ、」
「君が今後どんな道を歩もうと、応援はしよう。しかし私はいずれ国のトップを掴む男だ。世界を知ろうとするのなら、この世界で生きるというのなら、恐らく後悔はさせない」
「……ロイさん」
「頂上から見える景色は格別だろうが、当然決断するのは名前、君自身だ」
リザさんが「お言葉が過ぎますよ」なんて呆れ顔で注意しているが、当の私はグルグルと頭の中が回っていて、何が正解なのか分からなくなっていた。だからか、正常な判断ができなくなっていたに違いない。気がつけば私は食い気味に彼の手首を両手で掴み「……なります!」と少し掠れながらも宣言していたのだ。
途端、瞬きをするような一瞬の時が止まったような錯覚に陥った。否、止まっていたに違いない。永遠のような長い刹那の後、ロイさんは少し驚いたように私を見遣り「……歓迎しよう」そしてニコリと笑った。それはあまりに優しい笑顔だった。先程から感じていた、言い表せぬ感情が再び湧き上がってくる。彼にこんな顔を向けてもらえる日がくるなど思ってもいなかった。ロイさんはこんなにも穏やかな笑みを浮かべる人間だったのか。彼等との心の距離がグッと近づいた気がする。ああ、それがこんなにも心地良いなんて。
「なっ! おい、名前!?」
石像のように固まっていたエドがグン、と私とロイさんの間を割いた。というより無理やり私の腕を掴み、ロイさんからひっ放した。バランスを崩し後ろに大きく偏った私を支えたのはアルフォンス君で、かと思えばそんなアルフォンス君からも私を強く引き寄せると「しっし!!!」と手で払い除けながら、高らかに吠えている。背後から抱え込むように首に腕を回され固定されている私は、傍から見れば人質のような有様だった。あれ、なんでこうなった?
エ、エド……? ドックンドックンと鳴る心臓が背中に当たって、こっちまで釣られて鼓動が早まってしまう。何でこんなに顔を真っ赤にして興奮状態なのか……と思ったけれど、そう言えばエドは初めからロイさんに対しては敵対心がとても強かったような気もする。シャー! と猫のように威嚇しているエドはそのまま言葉を続けた。
「いつかの言葉忘れてねえだろーな……俺はコイツの主人なの、決定権は俺にあんの!」
「……ほう? 確かにいつかの鋼のは思春期を剥き出しにして喚いていたな」
「な、ななな! うっせえ!」
「それにアレは例えだ。彼女の決定権は彼女にしかない」
「それは……っ!」
……お、驚いた。これでは私は人質どころか、ペット扱いじゃないか。ググ、と奥歯を噛むエドの力が緩まった。その隙をついてスルリとエドの腕から抜け出すと、そのまま対面で向かい合う。真っ向からは言いたいことが山ほどある、とでも言いたげな強い金の瞳があった。けれど私だって計算無く言っているわけじゃないのだ。
「……き、聞いてエド。私、お金が欲しいの」
「…………………ハアン?」
「いや、ごめん! 違う! あの、単にお金が欲しいんじゃなくて……えっと、その……」
明らかに言い方を間違えた。これじゃあ説得どころかあらぬ誤解を招きかねない。自分の言葉のチョイスに項垂れそうになったが、深呼吸をして息を整える。頭の中ではいつかアルフォンス君と学んだ知識を引っ張り出しながら、先程よりも慎重に選んでいる。
「……病院にいた時に、思ったことがあるの。エドやロイさん達にばかり頼っちゃダメだって」
「……んなこと気にしてねえよ」
「ううん。でも、今私がいくら感謝したって恩は返せない。ならせめてお金っていう形あるものの借りは返したい。私が働いて、汗水流して手に入れたものを対価にして」
エドが軍属というのも分かっている。階級の地位だって、軍のお給料事情だって、国家錬金術師のことだって、全部まるっと私はアルフォンス君との勉強会で履修済みだった。こんな風に私が言うとは思っていなかったのか、私がここまで知識を得ていたのが意外だったのか、エドは鳩が豆鉄砲を食らったような表情のまま固まっている。
「ほう……」と少し感心するようなロイさんの声を耳に留めながら、そのまま連ねるようにいかに私が働きたいかの思いを伝えていた。
最後には後押しするように「ね、アルフォンス君」と巻き込んでやった。突然話を振られたアルフォンス君は動揺しながら「え!?う、うん!?」とアタフタとしていたけれど、エドのことだ、きっと弟であるアルフォンス君をこちらにつけてしまえば納得せざるを得ないはず。少し卑怯とも言える戦法ではあるけど、それでもこれはとっても良い機会だと思ったのだ。望んでもいないチャンスだった。私が前を向くための、大きな大きな第一歩。
「ね、エド」もう一度彼の両目をしっかりと見つめた。
嵌め込まれた少しつり目の大きな瞳はゆらゆらと虹彩を揺らしながらも、私を映している。ああ、本当に綺麗な色だと改めて思ってしまった。空高く煌めいた太陽そのもので、悩ましげに垂れる眉だって、切なげに被さる睫毛だって、全部が作り物みたいに美しい。
「……わーったよ」低く吐き出されたテノールの後、ガシガシと頭を掻いたエドは「ただし!」とロイさんに力強く指をさした。
指を突きつけられたロイさんはその指を丁寧に折りながら「人に指をさすな」と静かに怒っている。
「手出すなよ、スケコマシ」
「牽制のつもりか?」
「うっせえ! そういうことだかんな! ケッ!」
いやいや、待ってくれとツッコミたくなるのは私だった。私なんかロイさん相手にしないから。それ以前の問題だから。いっそ恥ずかしいから!顔を覆い隠したくなるこの気持ちはなんだろう、共感性羞恥?いやでも話の中心は私だから普通に恥ずかしいだけなのかな、とにかくやめてほしい、早急に!
ひぃ……と堪らず下を向いてしまう私に、ヤイヤイと言い合っていたロイさんから「名前」と声が聞こえる。
「先程も言ったが正式に軍に入るのならならば手続きが山のようにある。後で君の時間を貰えるかな?」
「早速言い方が気色悪ぃんだよ、そういうとこだよ大佐」
「……鋼の、そろそろ言わせてもらおう。男の嫉妬は見苦しいぞ」
「うっぜぇぇぇ…………」
ロイさんに頷きながら、私はトクトクと高鳴る鼓動を感じていた。今まで経験したどの鳴り方とも違う。苦しくて? 違う、悲しくて? 違う、緊張して? ううん、違う。何だろう、この高揚感は。まるでこれから冒険に行くような子供のようなわんぱく心が騒いでるような不思議な感覚だった。
「っ、はい! 宜しくお願いします!」
少し前の私が今の私の状態を知れば、目を見開いて卒倒してしまうかもしれない。あれだけ真っ黒な世界しか見えなかった私へ、今の私は驚くくらい有り余るほど活力が漲っているよ。不思議だね、今なら何だって出来るような気するんだ。だってこんなにも満ち足りている。未来は明るい、そう信じ抜ける気がしている。
ああ、きっと。
私は静かに瞑目した。
そう、きっと、時が満ちたのだ。道は必ず拓ける。生きて生きて生きて、もがいて、縋りつけと、運命がそう言っている。
私というストーリーの幕は、まだ上がったばかりなのだ。 ←/
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