君のジャックになりたい

 

 意識してしまっているからかもしれないが、最近本当に『変わったね』と言われることが増えた。

 それは私を纏うものが学校の制服から青い軍服へと変わったからなのか、私自身の性格のことなのか、自分のことだから一体どの辺りが具体的に変わったのかなんて分からないけど、皆が口を揃えてそう声をかけてくれる程なのでやはり変化はあるらしい。サラサラとペンを動かしながらどこからともなく視線を感じて顔を上げると、少し先に此方を見つめる大佐ことロイさんの瞳があった。

 えっ、と思わずペンを落としそうになっている内にいつの間にかロイさんは無線を掛け始めている。相手はロイさんの更に上司だろうか、切れ長の瞳が更に鋭く光る瞬間が垣間見え、私もペンをぎゅっと持ち直して気合いを入れ直した。深い宵闇色の瞳が、初めは怖かった。けど今は怖くない。慈愛と優しさが見え隠れする彼の目はもう怖くない。

 そうだなあ、私が変わったというよりも、私の周りの環境なら、確かに変わった……のだろうか。今日ぐらい雑念を考えながらのんびり仕事をしても許してほしい。

「……ふう」

 ロイさんの部下になったとはいえ、何も知らない初心者のペーペーが軍に入って出来ることなんて限られている。今の私の主な仕事は皆が積極的にやりたがらない書類作業を請け負って勤しんでいる感じ。
 雑用に生きて雑用に死ぬ、そんな感じでとにかく忙しい役職持ちの人々に変わってデスクワークをするのみだ。この感じは私がかつて見ていた社会人の姿そのもので、日本人の私にはこのくらいの作業の方が合っているのかもしれない。やはりというか、やり方さえ教えて貰えれば馴染むのは早かったし、初めの方は主にロイさんのサボっていた仕事を回してもらっていたものも(当初は私に仕事を振るためにわざとサボったと信じていた)、近頃は他の人達にも頼ってもらえることが増えた。頼ってもらえることは嬉しい。エドは仕事を押し付けられていると思って怒ったりするけれど。

 壁にかかった時計を見れば、定時はとうに過ぎていた。続々と腰を上げて帰る準備をしていく人達に混じって「ん〜!」と伸びをしながら此方へ近付いてくるのはハボック少尉である。書類の束をまとめながら真っ直ぐと私の方へ向かってくる少尉にあたふたとしながらとりあえず立ち上がって敬礼してみた。慣れてきたとは言え、まだまだ不格好であろう私の敬礼にブッと吹き出すと「いらねえよそんなもん」と私の横に腰掛け、そのまま顎で私にも座るように促す。
 ちなみにお隣さんは定時とともに帰宅したようだった。良かった。

「お、お疲れ様です。ハボック少尉……」
「おう、お疲れ様さん。今日も一日真面目だったなあ」
「ありがとうございます……?」
「案外あっという間に昇進したりしてな」
「い、いやいや……たかだか雑用係に恐れ多いです……」
「俺の先見は侮れないぜ?」
「ええ……」

 たかだか下っ端にハボック少尉はこうやってたまに面倒を見てくれるのだから、凄いよなあ。少し買いかぶりすぎのような気もするけど、こうやって褒めてもらえて悪い気はしない。むしろハボック少尉は本当にペーペーもペーペーの時から妹のように優しく仕事を教えてくれたので、現時点で憧れの上司ナンバーツーである。

 否定しながらもニヨニヨと吊り上がる頬を押さえながらクリップを留めてデスクの端の方に寄せると、見通したように「この後帰るだけなら食事でもどうだ?」とまさかのお誘いを頂いた。まさか私に言っているのか。えっえっ、思わず左右を確認するけれど私の周りに人らしき気配もなく、ハボック少尉の瞳は自意識過剰でもなく真っ直ぐ私に向いていた。こんな入って半年の私にも親密に食指を誘ってくれるなんてどこまで出来た上司なのだろう。あそこのイタリアンが美味しいだとかお洒落なバーがどうだと話しているハボック少尉は、中々グルメなお洒落さんらしい。
 お酒は飲めないけどご飯なら断る理由もないし是非……そう頷こうとした時だ。

「ハボック少尉」

 凛と鐘を鳴らしたような声と共に黒い髪を視界の端で捉えた。まばたきをした次の瞬間にはハボック少尉の手元には分厚い書類が押し付けられていて、ロイさんが諌めるように眉を上げている。

「私の前で女を口説くのは早いんじゃないか?」
「た、大佐!」
「余程暇だと見える。仕事も熱が入るだろう」
「そりゃねえぜ……」
「書類の期限は君が決めていい。なるべく早い提出を期待する」

 上司にそう言われたら今すぐ取り掛かる他ないじゃないか。な、中々ロイさんも残酷な人だ……しっしと片手間でハボック少尉を追い払ってしまうロイさんを、私は同情と困惑の思いを馳せたまま見つめるのみだった。ていうか口説くとは一体……何度かハボック少尉が私以外の人にもご飯を誘っている現場は見たことがあるし、きっと彼は後輩へのお世話のつもりでしかないだろうに。
 申し訳ないというか居た堪れない思いで項垂れる彼の背中を見送っていると、真横からの視線を感じて顔を上げる。

「お、疲れさまです……マスタング大佐?」
「……ロイで構わないさ」

 そう言ってロイさんは私の頬へと手を伸ばしたので思わずビクリと構えた。耳の縁を掠める布地にドキリと心臓が大きく震えたが「大きいのがついていた」それが髪についた埃を払ってくれる行為であることを知ってまた何とも言えない気持ちになる。そう言えば、と彼の指の間からフワリと落ちていく灰色を眺め、思い返した。ロイさんとの関係性もこの半年間でグッと変わったなぁ。こんな風にちっぽけな埃をその手で取ってくれるほどには、彼の両腕を広げた身の内に入れて貰えるほどには。

「名前」
「はい」
「あまり隙を見せるのは実に良くない。男も付け上がるからな。双方に毒だろう」
「つ、付け上がる……?」
「しかしハボックのタイプは……いや、それはいい。図に乗らせる暇も与えず無表情真顔低音で追い返せ」

 無表情真顔低音のスリーコンボ。そう言われてふと頭に浮かぶ、憧れの上司ナンバーワンに当たる女性が一人。しかしロイさんも自分で言っておきながら思い当たる節があったのか、何とも言えない表情で少し固まった後、仕切り直すように咳払いをして「……とにかく」と口を開く。

「まあとにかく。君はそうだな……つまり、」










「危機感がねえ」

 あれ、どこかで聞いたことがあるぞ……と思った頃にはペチンと頭をはたかれていた。

「……いでっ」

 全然痛くはないのだけど、反射的に漏れた言葉にエドはフンッと鼻息を鳴らす。痛くも痒くもないというのは叩いた本人が一番分かっているんだろう。そのまま顎の先で座れやと指示を受けたのでおずおずと近くの椅子に腰掛けると、机を挟んだ向かい側に彼も勢いよく腰を下ろし、早速と言わんばかりにビシッと私に指をさした。

「まずこんな夜中に出歩くのも危機感がねえ」
「え、今何時?」
「22時38分」
「……」
「何だよその目は」
「……いや、そもそもそれってそんなに遅くないし、エドも出歩いてるなーって」
「22時までには帰れ」

 いや、待って。エドは私のお父さんか。今時の高校生でも22時門限は中々ないよ。

「……解せない。アルフォンス君は? 14歳でしょ?」
「アイツの見た目見りゃ分かるだろ。あの鎧に喧嘩売るやつはそうとうあたまがよわいな」
「……エドは」
「俺はいーの、でもお前はダメ」
「……その心は?」
「俺だから」
「……」
「……ジャイアン」
「あ?」

 ジャイアンなど知りもしないだろうに、私の表情やら声色やらできっとあまり良くない表現であることを悟ったんだろう。エドは中々に目敏い人間である。「おい名前何だよジャイアンって」言及してきそうな気配を察知した私は説明しても怒られそうだしそもそも説明自体も難しいし面倒くさいのでだんまりを決め込んでいた。アン? と未だにガンを飛ばしてきている様子を見る限りきっと正しい選択である。

 エドにバレないよう、こっそりと溜め息を吐いた。『あんまり心配させると毒よ』リザさんの言葉が脳内で再生されるけれど、心配しすぎてくれるのもどうかとは思う。年齢だけで言えば私はエドより約二つ程は年上なわけだし、一応軍に属して仕事を得ているし、これってつまり社会人なのでは?と思うのだ。日本と感覚は違うとは言え22時を回って外を歩いてるだけで年下に怒られるのは納得いかない。それも私なんかより数倍、危険な旅をしている、エドに。

「俺もアルも自分を自分で守れる」
「うーん」
「自分もろくに守れない人間は軍にいるべきじゃないんだよ、お分かり?」

 丸い机の上には食べかけのパンがあった。彼の言うとおり時刻は22時を過ぎているので、少し遅めの晩ご飯、あるいは夜食でも食べていたのかもしれない。私をじっとりとした目付きで見つめたまま、無造作にちぎった欠片をポイと口に入れている。モグモグゴックン、嚥下される男の子らしい喉仏をぼうっと見ていたら無言で新しいパンを差し出された。え、と彼の顔とパンを交互に見ていたら早く受け取れと言わんばかりの眼光が飛んでくる。
 え、えええ……私はきちんとリザさんと食事をしたので全くもってお腹は空いてないんだけどなぁ……。でも、受けとって口に運ぶまで許してくれないのは身を沁みて分かっていた。最近というか半年前から、エドは何かと餌付けするかのように私へ食べ物を差し出す傾向がある。まさか私をブクブクと太らせて食べる気じゃないか、一度本気で話し合う必要がありそうである。な、なんせ文化的価値観もまるで違うのだ、有り得なくもない。

「……いただきます」

 大人しくエドに倣って一口齧ってみると、口の中には仄かな小麦粉の甘みが広がった。美味しい、美味しいんだけどさ………。「スープいる?」ってそんな自然に話しかけないでよ頷きそうになるから。

「って、私はパンを食べに来たわけじゃなくてだね……」
「いいじゃん、食える時に食っとけ」
「そんなてきとうな」
「どうせ大したもん食ってねえだろ」
「ええ……ちゃんとリザさんとご飯食べたし」
「へえ。何食った?」
「サンドイッチ?」
「晩飯が?」
「うん?」
「ふ〜〜〜ん」
「無言でパンを出さないで」

 ススス、と新しく椅子の下から出されたロールパン詰め袋に本気でギョッとした。きっとエドは本当に私を太らせて食べてしまうか出荷でもする気なのだ。封を開けようとするエドを両手で阻止すれば「チッ」とチンピラ顔負けの舌打ちが飛んでくる。負けない、負けないぞ。私は意地でも首を横に振る。

「い、いいいいって、ホントにお腹空いてないから」
「明日には空腹で行き倒れるかもしんねーだろ」
「食べなくても2週間は生きれる!」
「馬鹿言えお前じゃ一週間で終わりだ!」
「水もあるよ、一ヶ月は生きれる」
「余計な知識ばっかつけやがって、まぁ……」
「だから大丈夫だよ」
「名前の大丈夫は信用ならん」
「……そうかなあ?」
「軍国主義に絶対的な平和も安全もねえ。そういう場所に名前は足を踏み入れかけてる」

 お分かり? てっきりもう一度そんな言葉が続くのかと思っていたら、急に真剣味を帯びた声になるのだから、私は目を眇めて見つめ返した。諦めたようにロールパンの入った袋からは手を離したものの、トントン、と手袋をつけた指先が一定の速度で机を叩いている。お、怒ってる……? 怒らせるつもりなんか毛頭なかったんだけどな。私がエドの宿にわざわざ訪れたのはこの間のことを謝ろうと思ったからだし……しかし結果的にまたもや不満にはさせてしまったようで、金色の瞳は細まり、眉間には深い皺が寄っている。見慣れた表情、と言ってはバチが当たるかもしれないが、本当に最近はこの顔を作らせてばっかりだ。

「……別にいいんだよ地方の事務とかいてもいなくても変わらねえような奴なら。大佐の直属ってのも気に食わねえ」

 ほらね、ほら、リザさん聞いた?
 やっぱり結局そこなんでしょうよ。ていうか私、それこそいてもいなくても変わらないような奴ですよ。だって任される仕事はあくまで居たら便利レベルの雑用だし、言い方を変えれば仕事を貰っているだけで私宛の仕事はないし、本来なら彼等が元よりやっていた仕事である。時短のために必要は必要かもしれないが、全体で見ればめちゃくちゃいらない人材である。リーマンショックでも起これば真っ先にクビを宣告される立ち位置だ。

「いやいや、」話題を逸らそうと軽口を叩こうとした時だった。コンコン、と優しく扉をノックする音が撫でらかに響き、私とエドもお互いピタリと動きが止まる。「兄さーん、名前さーん! 入るよー!」とアルフォンス君の声が続いたかと思えば扉はゆっくりと開き、光沢のある鎧が視界に入り込んだ。よ、良かった……と胸をなで下ろしたのは秘密である。

「こ、こんばんは。アルフォンス君」
「……え、うん、こんばんは名前さん……ごめん……なんか邪魔した?」
「ま、まさか! エドに今日のこと謝りに来ててね、それだけだよ!」
「そ、そう? ならいいけど……」

 エドのムスゥゥとした態度と妙な空気感に困惑しているアルフォンス君へ「大丈夫大丈夫」なんて席を立って、私の代わりに座るよう促した。
 当然のようにやんわり断ってくれるアルフォンス君の腕を引き半ば強引に座らせ、私はスタコラサッサとまだ僅かに開いている扉へと足を向ける。

「お邪魔しました、またね。エド、アルフォンス君」

 そうして足早に廊下へと身を翻した。
 ガチャン。

「……」

 エドは優しい、それだけは短い月日を過した私でも分かる。ロイさんが甘いと言ってしまう気持ちも分かるくらいに。
 でも今はまだ、軍から離れるつもりはない。
 両手を頭の上の高さまで翳し、何度か開いて閉じて、そしてキュッと唇を噛む。守られるだけなんて真っ平御免なのだ。
 
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