後悔が迎えにくるまで

 最近また兄さんの機嫌が悪い。
 少し前まで謎に上機嫌な時があったと思えばこれである。普段ならブチッと切れて怒鳴っていたであろう場面でも大人顔負けの余裕の表情を見せたり、牛乳に挑戦しようとする気概を見せたり、それはもう機嫌がいいなあ、と純粋に思う時期があったのだけど、いつの間にか儚い波も終わっていたらしい。情緒不安定ぶりが安定している。元から怒りっぽいし短気だし決して性格が凄くいいとは身内ながら言えなかったがそれにしたって最近の不機嫌さは顕著すぎる。
 牛乳が出ようものなら睨み散らすし、ぶつかって謝らないおじさんはボコボコにしてしまうし。まあ後者に関しては完全に相手が悪いんだけどさ。
 きっと今兄さんの頭の中は賢者の石とは別ベクトルの事で埋まっているはずなのだ。

 以前と違って兄さんの方をじっと見つめていた訳じゃない。しっかりと僕も小難しい錬金術の本を読んでいたというのに、僕の心の内をまさか感じ取ったのだろうか。兄さんはアンテナをピン!と天井に向けながら怪訝な顔をして僕の方へと振り返った。

「……ど、どうしたの兄さん?」
「……俺の悪口センサーが反応した」
「悪口センサー?」

 僕は本気でビビっていた。兄さんが錬金術師とはまるで無関係とも言えるような能力ばかり手にしているような気がしたからだ。
 ついこの間名前さんと兄さんが読心術を使える説、というのを割と本気で話し合ったことを思い出す。読心術にピコンとアホ毛が揺れる悪口センサー。目指す先は一体どこなの兄さん……兄さん……。

 僕は何とも言えない気持ちになったまま、とりあえず冷静を装って否定しておいた。こういう時に鎧というのは便利だと思う。分かりやすく表情がコロコロと変わる兄さんと違って、ポーカーフェイスを突き通すことができるから。
 それでも真意を見抜こうとする金の眼から逃れるように手をヒラヒラさせると、漸く疑いが晴れたのか面倒くさくなったのか、兄さんはグッと両手を組んで猫みたいに伸びをしていた。

 僕はパラ、と頁を捲りながら今だ! と問い掛ける。

「兄さんはどうしてそんなに嫌がるの?」

 主語を入れなかったのはわざとだった。これでしらばっくれるのならもうそれでいいやとも思ったし、素直に答えてくれるなら純粋に知りたいと思った。僕の投げかけに兄さんはチラリと視線をこちらに遣ってからパタン、と分厚い本を閉じる。勢いが強かったのか、表紙に積もった埃がぶわっと兄さんの頭上まで雪みたいに舞っていた。
 ケホケホと咳き込む兄さんを見つめながら、さて、どうくるのかなと様子を見ていれば思いのほかあっさりとその答えは返ってくる。

「あいつは女だろ」

 短い言葉だった。僕の主語も脈絡もへったくれも無い問い掛けの意味はちゃんと伝わっていたらしい。

「でも中尉は? 受付の人とか図書館勤務の人とかも女の人だよ」
「アル……お前までアイツと同じこと言うなよ……」
「同じことって名前さんと?」
「あのなぁ……」
「何さ」
「お前だって知ってんだろ」

 今度は僕が兄さんの言葉を紐解く番だ。

「それは知ってるけど……」
「それはじゃなくてそれが問題なんじゃねーか」
「……でも名前さん使わないよね」
「使えねえのか使わねえのか俺には分からん」
「意識的に使えるのかな?」
「分かんねえよ。アイツの過去は聞いたけど真理やら錬金術に関しては知らねえし」
「でも僕達は見たもんね、錬金反応」
「そ。アイツがまた錬金術を使ってみろ、あっという間に軍内に広まって扱き使われて終わんぞ」
「扱き使われて……」
「もし俺達と同じ国家錬金術師なんかになったらそれこそ終わりだ、終わり」

 そうして眠そうにふぁ……と欠伸をした目の下には薄いクマが出来ている。何だ、やっぱり色々考えてるんじゃないかと、僕は色んな思いを込めて兄さんを見た。兄さんと同じ国家錬金術師。それは即ち、国家の為に戦場に赴かなければならないことを意味している。立場も生まれも女も男も関係無く、等しく平等に。
 終わり、と言った通り、兄さんはこの話も終わりにしたいらしい。強い眼光を感じ取った僕は少し息を吐いて仕切り直すように「兄さん、少し休んだら?」話題をすり替えた。
 
「あ? 何でだよ急に」

 これに関しては急でも何でもないんだよなぁ。
 僕達は司令部に常駐しているわけじゃないから、滞在している時に知識を詰め込まなきゃいけない。その気持ちが人一倍強いであろう兄さんは無茶をすることがよくある。今回も正しくその通りで、僕はこっちに来てから兄さんが長時間睡眠を取っているところを見たことがなかった。そりゃあイライラも加速するだろうよ。だって兄さんはちゃんと生身の人間なんだから。

 僕の提案に兄さんは「いんや、大丈夫」と断ってたけど、それでもと一押しすれば困ったように悩んだ素振りを見せた。しめた、これは後ちょっとで落ちる。

「兄さんはちゃんと寝なきゃいけない体なんだから。それで倒れたらもっと時間の無駄だよ!」
「それは分かってるんだけどさぁ」
「大体寝てないからそんなに意識が分散するしイライラもしちゃうんじゃない? ほらさっさと寝る!」
「あ? イライラ……って、押すなよアル!」

 どうやら兄さんは自分がイライラしているのにも気付いていなかったようだ。何で自分のことにはそんなに疎いんだよ……はぁ。小さいけれど頼もしい、それでいてもどかしい背中を見ながら、半ば無理やり図書館の外へと押し出す。本当に今は元気がないんだろう。
 されるがままの兄さんはやがて諦めたように溜息を吐いて「……悪ぃな」ポツリとそう口にした。

「今日は僕が頑張るから! 兄さんはさっさと寝て体力回復させて、戻ってくるんだよ! 中途半端な隈を残して戻ってきたら次は容赦ないからね!」
「……ハハ。俺の弟は怖ぇな」
「ほら行った行った」
「……おう」
「兄さん」
「あ?」
「後でね」
「……おう」






 アルに分かりやすく書庫を追い出され、欠伸を噛み締めながら宿舎までの道のりを歩く。アルの申し出自体は正直有難かった。身体的に無理をしている自覚はあったものの、アルの手前、俺だけ眠りにこけるというのは憚られるものだったから。
 ずんずんと銀時計を揺らしながら歩いていれば、驚いたように挨拶をしてくる軍の人達。それに軽く手を上げて返していれば、少し前に司令室と書かれた室名札が見えた。
 いつもなら素通りするところだが、中の明かりが零れて中途半端に開かれた扉がやけに気になって足は自然とゆっくりになっていく。
 随分とガバガバなセキュリティじゃねえか。大佐の野郎本当に仕事してんのか?

 なんとなく、本当になんとなく立ち寄ろうとした俺の足は、中から聞こえる声で立ち止まることになる。起伏の少ない、それでいて澄み切った女の声。聞き慣れた声だった。10cm程開いた扉隙間から見えるのは黒髪を束ねた後ろ姿だけだったが、恐らくその影の前には大佐が座っているんだろう。
 大佐は軽薄に見えてあまり自分の懐に多くの人間を入れたがらない人だ。扉の奥には多分、大佐と名前の二人きり。

「……錬…………………な………で」

 話している内容は聞き取れはしなかったが、真剣味を帯びた声色であることは分かった。ゴクリと息を飲む。
 何話してんだ……? 仕事の話か? 名前と大佐の二人だけで?
 気付けば聞き耳を立てるように身体は扉の方へ引き寄せられ気配を消している。部屋の中からは男女の声がふたつ。怪しいことでも話してんのかと勘繰っていたら、通り過ぎた軍人に変な目で見られた。まるで怪しいのはテメェだって言われているようでムカついた。キッと睨んだら顔を青くして小走りで消えていったので清々する。ケッ、下っ端め。
 そんな時だ。

「……エドやアルフォンス君達にはまだ秘密でお願いします」

 そして俺は司令室の文字を見て立ち止まったことを、名前と大佐の会話を聞いてしまったことを、むしろアルの提案に従ったこと自体を後悔した。何で肝心なところは聞こえなかったくせに。俺が近付いたからなのか、中にいる名前の立ち位置が変わったからなのか、やけにハッキリと耳に届いたその言葉は、心の隅々まで響き渡った。

 俺やアルにはまだ秘密で……………? は?

 モヤモヤと湧き上がるものが一体どういう感情なのか分からない。怒りもあるし、それだけじゃないような気もした。あいつがそんな奴じゃないというのは十二分に分かっているつもりだが、俺がこんなにも心配してやってるというのにそれを仇にされているみたいだった。
 何で俺には言えなくて大佐には言えるんだ? 意味が分からん。初めは大佐のことビビってたくせに。ほんっとうに、意味が分からん。

「はぁ……分かった。君は頑固だからな」
「……ありがとうございます、ロイさん」
「可愛い部下のためなら屁でもないさ」

 そんでもって、大佐とも随分仲良くなっているようで。心臓を包み込む嫌な感覚は未だに消えず、普通に気分が悪い。コツコツとブーツの鳴る音が近付いてくるのが分かっているのに、どうしてか身体は動かなかった。そうして僅かだった隙間が開かれた時、目の前に現れた黒い瞳は大きく見開かれる。

「あ、え、エド!?」

 まさか俺がこんなところにいるとは予想もしていなかったんだろう。鮮やかな艶のある虹彩に俺の姿がハッキリと映り混むと、徐々に眉を八の字に曲げていく名前。その表情は分かりやすく動揺を孕んでいた。突然硬直した名前の様子を見に来た大佐も、俺の存在を認めると少し驚いたように立ち止まる。

「えっと……エド、あの……」
「俺に聞かれちゃ困る話をするなら、戸締りも気をつけた方がいいんじゃねえの? ガバガバだったけどもしかしてわざとか?」

 渾身の皮肉をぶつけてやった。そりゃそうだろ。何でたまたま立ち寄っただけなのに俺が嫌な思いしなきゃいけねーんだ。理不尽すぎて話になんねえ。
 しかし幾分かスッキリしたと思ったのは一瞬で、何故か酷く傷ついた顔をした名前を見て一気にそんな気持ちも冷めていく。

「……じゃ、俺寝るから」

 名前が追いかけてくることは無かった。必死こいて言い訳でも弁明でもしようもんなら許してやらんでもないと思ったが、俺の肩を叩く白い手は現れない。代わりに俺の足音だけが廊下に反響している。何かを誤魔化すように歩きながら大きく息を吸い、宿舎に着いたら着いたで睡眠を貪ってやった。起きたらお腹の辺りがムカムカしたのでシチューをヤケ食いした。腹が膨れても違和感は消えなかった。

 その後、まさか一言も話さずに旅に出ることになるとは、俺だって思いもしなかった。
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