あの夕焼けを待っている

 その日は突然やって来た。

「鋼の達が乗っている列車がトレインジャックに遭った」

 ロイさんの言葉にギョッと目を見開き、渡されたばかりの書類をバサリと床に落としてしまう。その音に驚いた人達が一斉に此方を見たので、愕然とその場から動かない訳にもいかず、私はいそいそと身体を丸めて書類を掻き集めた。

 トレインジャック。トレインジャック……? トレインジャックって、トレインジャック? なんてことなくロイさんの口から放たれた言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡るけれど、生憎私にピンとくるワードでは無かった。ただ一つだけ分かるのは、この世界における事件というのは私が想像しうる遥か上をいくことだけである。
 遅鈍な動きで最後の一枚を取ろうと手を伸ばせば、それよりも早く誰かが拾い上げる。しゃがんだまま顔を上げた先にいるのは、口角を少し吊り上げたロイさんだった。

「ははは、そこまで分かりやすく動揺されると妬けてしまうな」
「ど、動揺というか……なんというか……」

 拾い上げた書類に軽く目を通した彼は、げんなりした表情のまま「……随分気合いの入った声明だ」と吐き捨てた。そのまま差し出された書類を受け取れば、余白も見えない程にギッシリと文字が詰まっている。

「どうせ軍部の悪口だ、読まなくていい」

 ……決して読もうと思えるような精神状態では無かったので私は大人しく頷いたまま四隅を揃えた。今にも破り捨てたい気持ちだろうが、きっとこれも上層部に提出しなくてはいけなくなるだろう。ロイさんはそのまま背中を向け、あれこれといつもより賑わう司令室にて指示を出し始める。
 私だけが、その空気感に着いていけていないようだった。

 これは……本当にトレインジャックじゃないか。

 理解とは程遠かったそれが、じわじわと輪郭を帯び始める。それでも私のように突っ立っている人はどこにもいない。皆がどこか慣れた様子であって、この司令室にいる彼等は、特に驚くこともなければ慌てる様子もない。ハボック少尉なんかに至っては「家族でバカンスなんて羨ましいっスね〜」といつも通り煙草を蒸かしている始末である。
 バカンス? と分かりやすく首を傾げる私に、将軍閣下のハクロさんという方が乗車していることを教えてくれた。なるほど、確かに人質がいるからこそのトレインジャックだとは思うけれど……思いはするのだけれど。
 無意識に眉間には皺が寄って怖い顔をしていたらしい。「シワッシワだぞ」ハボック少尉によってツン、とつつかれたかと思えば「大丈夫だって」と背中を叩かれる。

「で、でも……この電車には……」
「鋼のが乗っているから心配か?」

 ……いつだって核心をつくのは、やはりロイさんなのである。そりゃあ、心配に決まっている。私はトレインジャックなんて小説なんかでしか読んだことがないし、遭遇だってしたことがない。当たり前のように武器が流通するこの世界で心配しないわけがないというのに。
 それでも仕事中という手前、なんと返せばいいかとごにょごにょと口を窄めていれば、部下に指示を出し終わったらしいロイさんがカツカツと此方へ再び歩み寄ってくる。

「その逆だ、名前」
「逆……?」
「鋼のが乗っているから、安心していい」
「……え」
「不本意ながらアレは中々に動ける。我々も早く帰れるし何より残業しなくて済む」
「あ、のロイさん……?」
「名前も一緒に来るか。……久しぶりなんだろう?」

 そうして私は漸くロイさんの言いたいことを汲み取るのだった。久しぶり、か。そう、そうだよ。私と彼等が嫌な別れ方をしてからもう二ヶ月以上が経っている。アルフォンス君とは本当にまともに話す間もなく会えなくなってしまった。ちゃんと元気かな。変なことに巻き込まれてないかな。また旅路の途中で野良猫に一目惚れしてこっそり飼おうとしてエドに怒られたりしてるだろうか。
 久しぶりに聞いた「鋼」という言葉。
 湧き上がるこの感情は一体何なのだろう。

「というわけで名前。今日の夕方からのデートはまた次回に持ち越しだ」
「デ、デートですか!?」
「おや?私はデートの約束だと心得ていたが」
「……な、え、」

 自分でも奇妙な声が喉から漏れた。その精悍な顔をくしゃりと緩ませながらロイさんは笑っているけれど、私としては予期せぬ出来事の連続で色々と着いていけない。た、確かにご飯に連れていってくれる約束はしていたけれど、デートなんて甘い誘いだとは聞いていない。
 え、デート……違うよね!? 皆に勘違いされても嫌なのでハッと周囲を見渡すけれど、これもまた慣れているようで「大佐〜そろそろセクハラで訴えられますよ」とハボック少尉なんかは呆れたように煙草の灰を落としていた。

 ……乙女の心を弄ぶのは本当にやめてほしい。非常に罪深い。追い討ちをかけるように遠くにいたリザさんが大股でこちらに歩いてきてはロイさんに大量の書類を渡している。その重さに驚いたらしいロイさんが背中を少し丸めるのを見て、私は漸く小さく笑った。
 
「……行きます。是非お供させてください、大佐」

 彼は、元気にしているだろうか。








 お供させてください、とは言ったものの私には早急に提出しないといけない書類があった。私自身も信じられなかった。この流れで嘘でしょ……と自分の立ち位置に改めて絶望した。なんせ私は彼らのような階級もないペーペーであるので、事前にある仕事を無為には出来ない。雑用係の悲しき宿命だった。項垂れながらそれを終わらせてから行きますと言えば、ハボック少尉もロイさんも「真面目娘が……」と頭を抱えていたけれど、そんなの私だって出来ることなら頭を抱えたい。

 そうして現在は、漸く書類も提出し終わったので急いで駅へと駆けつけている次第である。予め教えて貰っていた情報を頼りにしながら辿り着いた駅は恐れていたよりは普通で、しかし少し怯えたような、それでいて興奮したような乗客が出入りしている。やっぱり本当にあったんだ、トレインジャックが。やけにドクドクと心臓が跳ねているのは体力が無いくせに走りすぎたせいだろうか。
 目を凝らし息を整えながら歩いていれば、遠目でも分かる青い集団を視界に捉えた。列車を取り囲むようにしているのは、紛れもなく私達東方司令部の人々で、こうやって外巻きに見るとその圧巻たるや。私なんかがあの中に加わっていいのだろうかと、そんな風にさえ感じてしまう。その中心部に見慣れた黒髪を見つけたのでいそいそと人の波を縫って近付いていけば、不意打ちで耳に届く懐かしい声。

「くあ〜〜〜〜〜! 大佐の管轄なら放っときゃよかった!」

 そしてそれに油断した私は、私は勢いよく誰かの背中に頭をぶつけて静止することとなった。「いで、」僅かな痛みと共に、コツン、と爪先にぶつかった小石が乾いた音を立てている。
 
「おいおい思ったよりも遅い到着だったな」
「わ、ハ、ハボック少尉……すみません!」

 なんとぶつかってしまった相手はハボック少尉だったらしい。見知った顔が見えてホッとするのも束の間に、近くからは相変わらずロイさん、そして──エドの声がする。約二ヶ月ぶりであっても、その声色は何ら変わらない。ああ、良かった、無事だった。特に何もしていないのに疲労と安堵感がどっと押し寄せてくる。
 それでいて、完全に出る幕が終わっていた。……ていうかめちゃくちゃあの中に入りにくい。周囲を見渡してみても犯人らしき人は後ろ手を縛られたまま連行されている。今更来なくても良かったかな。彼等がここに居るということは暫くこの辺りには滞在するのだろうし。私などが来たって何の役にも立たないだろうし。なんやかんや理由をつけてここから離れようとしている自分に笑いそうになる。黙り込んだ私にハボック少尉が「どした?」と声を掛けてくれるが、私は苦く笑い返すことしか出来なかった。

「もしかしても、もう私の出番なんかないですよね?」
「私のつっーか俺らの出番すら大してなかったよ」
「そっか……じゃあやっぱり私先に戻っときますね! 人が少ないと大変だろうし」
「戻るって……今来たばっかじゃねえか」
「ま、まあ……でも大丈夫そうだったので。後はまあ……」

 後はまあ、彼等が元気であることは確認出来たので、大丈夫。そんな言葉はかろうじて自分の心だけに留めておいた。ハボック少尉が軽く引き止めてくれるのを聞きながら、私はもう一度いそいそと元来た道を歩き始める、つもり、だったのだけれど。

「貴様! 待て! ぐぁぁ!!!」

 雄叫びにも似たような声が聞こえた直後、守衛さんらしき悲鳴が後を追う。突然の出来事だった。その動揺は風のように広がり、周囲の人々我先にとその身を駅の出口へ走らせていく。待って、何、今度は何が起きたの。あまりの勢いに押し流されそうなところを必死に踏ん張りながら、せめてその正体を確かめようと背伸びをするけれど、慌てふためく人々の前ではあまり意味もない。それでも軍の人間なんだから……と声を上げようとした時だった。「……うえっ!?」気付けば私はポン!と人の波から弾き出されていた。異なる身動きをすればどうしても輪からは外れてしまうらしい。そうして目の前に見えたのは、恐ろしい表情で叫びながら此方へ走り出してくる男の姿。
 直感で分かった。この男がきっとトレインジャックをした主犯であると。そのくらい全身から悪者オーラが存分に湧き出ていた。フーフーと荒い息を隠すこととなく、機械鎧からは血の滴る仕込みナイフを振りかざしている。きっと最後に報復出来るなら誰でも良いんだろう。しかし運が悪いことに、その標的となったのは、タイミング良く弾き出された私だった。

「……最悪だ」

 雄叫びを上げる男と、立ち尽くす私。さてどうしようなんて考える間も無かった。今から走り出せば逃げられるだろうか、でも逃げてしまったらその後ろには一般の乗客がいる。それは軍の人間としてしてはいけないことで。
 渦を巻く思考が爆発しかけた時、視界の中央で焔が弾けた。本当に爆発音が鳴り響いた刹那、男は苦しそうな声を漏らしながら地に転がり落ちている。熱を孕んだ空気が、呆然とする私の髪の毛を揺らしていた。

「手加減しておいた。まだ逆らうというなら次はケシ炭にするが?」
「……なっ、名前!?」
 
 懐かしい声が私を呼んでいる。ああもう、こんな状況でまさか存在を知られるとは、本当に、本当に私は運が悪い。
/top
ALICE+