きみの隣と隣のきみ

 ようやく業務が終わったと思えば、時刻は既に21時を回ってしまっていた。慌てて机の上を軽く整理して、そのまま席を立つ。もう皆退勤してしまっていたので、執務室に残っているのは私だけだ。電気を消して戸締りを確認した後、駆け足で人気のない廊下を進んでいく。
 結局私の仕事がまだ残っているという理由でエドの元へ行く時間は変更となり、「じゃあ夜に」とざっくりとした待ち合わせとなってしまった。19時も21時も同じ夜とは言え、あまり遅くに訪問してしまうと迷惑になってしまうだろう。
 東方司令部から数分と聞いていた彼等の宿は、いつか私もお世話になったホテルである。フロントの男性に軽く会釈してから階段を昇り似たようなドアの前を幾つか通り過ぎていくと、エドに渡されたメモと同じ部屋番号を見つけた。
 
 スー―ッと大きく息を吸って深呼吸を繰り返す。
 覚悟を決めて部屋を数回ノックするが、返事は無かった。あまりに遅くなったせいで眠ってしまっただろうか。長旅から帰ってきたばかりの上、ずっと本を読んでいたのだから、疲労も溜まっているに違いない。もう一度だけノックして反応が無かったらまた後日にしよう。そう思って再度コンコンと扉を叩けば今度はガタガタと物音がし、数秒後に「入れよ」と声がする。
 …………起こしてしまったかな。申し訳ない気持ちになりながらも、私は恐る恐る扉を引いた。

「ごめん。遅くなっ、て……」

 段々と尻すぼみになっていく。
 アルフォンス君と一緒に泊まっているのだろうか。一人用にしては広い部屋の奥にはトランクが無造作に置いてあり、机の上には何冊かの本が積み重なっている。浴室に繋がるドアが開けっ放しになっているせいで、奥からは湯気がむくむくと覗いていた。そして部屋の中心にあるソファに座っているのは、当然というか、エドワードエルリックご本人様である。

「……よ。悪ぃな、風呂入ってた」
 
 この調子だと私の訪問に気付いて急いで上がってくれたんだろう。いつもより赤みの差した頬はしっとりと潤い、普段は三つ編みに束ねられている金糸の髪も解かれていた。十分に吹かれていないせいで、毛先から滴り落ちる水滴が絨毯に水玉模様を作り出している。初期の頃は同じホテルに居させて貰っていたのだからエドのお風呂上りなんぞ珍しいものでもなかったというのに、妙にドギマギとしてしまうのは何故だろう。
 やはり無理やりにでも早く終わらせて来ればよかった……ドアの前に突っ立ている私に彼は「座れよ」と不思議そうに口にする。私はこくりと頷いて、向かい側の一人掛けの椅子に着座した。

「随分遅くまで仕事してるんだな」

 座って早々、エドが水を飲みながらそう呟いた。その様子は至って普通で、決して怒っている訳ではなさそうだけれど、どことなく刺も感じる。彼の喉仏が嚥下するのを見、私は一呼吸置いた後「私のスピードが遅いから」とぎこちなく笑って返した。それに対して「ふうん」と興味があるのか分からない相槌を打った彼は、艶を含んだ睫毛を持ち上げ、奥にある瞳をこちらに向ける。
 空気が変わったのを肌で感じた。
 そうだ。元よりこんな雑談をするために私を呼んだわけではない。きっと本題は別のところにあるし、私もそれを分かった上で赴いている。エドはその長い髪を鬱陶しそうに耳にかけた。濡れた質感の横上が、部屋の照明に当たって玲瓏に光沢を放っている。
 どちらともない、ゴクリと息を飲む音が引き金となった。
 
「単刀直入に言うけど」先制を切ったのはエドである。言葉通り真っすぐに私を金瞳で射抜かれ、私は自然と背筋が勝手に伸びる。

「おまえ、何も思わなかったの」

 その言葉の意味を紐解こうと必死に脳へ血液を巡らせた。何も思わなかったの。具体性も何もない。あまりに言葉足らずで短絡的な台詞だったが、細められた双眸から寄越される視線は曖昧な返答をするな、と釘を刺すようだった。
 カタン、とコップをサイドテーブルに置いたエドは続ける。

「俺もあのまま旅に出たのは悪いと思ってるし、こっちから連絡しない限り連絡の取りようもないってことも、まあ分かる」
「……うん」
「でも今朝のは納得いかねえ」
「…………」
「コソコソ後からやって来たと思えば巻き込まれかけてるし、俺と一切目も合わせねぇし。タッカーさんの家に俺等を迎えに来たのは良いけど、俺が呼ばなかったらずっと避け続けて腹割って話そうとも思わなかったんじゃねえの」

 いっそ笑えるくらいに弁解する余地が無い。
 本当にその通りだと、おっしゃる通りとしか言い返せなかった。どうやって謝ろう、次会ったらこうしようと考えてはいたけれど、私から行動を起こしたわけじゃない。ロイさんに気を回して貰って、ハボックさんにも気を遣わせて、それで漸く今に至るのだ。
 やらかしてしまったのは私だ。私の自業自得でエドに勘違いされてしまったし、私が追いかけて必死に弁明でもしていたら、きっとこうはならなかった。彼が納得するかは別として、こんな形で拗れることは無かっただろう。

「名前のことを考えてたのは俺だけか?」

 矢継ぎ早に吐き出されたその言葉には急いで首を振った。「まさか、私だって……」そうして視線をソファの肘置きにずらすが、上手く言葉を紡げない。「……ごめんなさい」結局何も言葉が思い浮かばず謝るだけとなってしまう。
 怒ってるんだろうな。今までお世話になりっぱなしだったのは私なのだから。腹が立って当然、ぐうの音も出ないほどには彼は怒りは真っ当で、私を責める権利がある。愛想を尽かしてそのまま嫌われてしまってもおかしくない。
 そんな思いは簡単に伝わってしまったようだった。瞬きをした次の瞬間、グウンと身体が前に勢いよく引っ張られる。「う、わあ!?」音を立てて着地した先は向かいにあったはずのソファだった。

「え、な、エ、エド……!?」
「…………めろよ」
「え?」
「いい加減、そういうのやめろ」
 
 首を横に回すと、私の腕を掴む機械鎧が見えた。お風呂上りにわざわざそれを隠す手袋をつける必要はないだろうが、間近で雫を弾く光沢に言葉が出ない。隣にいるエドを思わず見遣れば、近距離で視線がかち合う。

「お前が隠してることも大体想像ついてる」
「……エド、」
「何で頑なに言わねえのかは分かんねえけど、大佐に言えて俺に言えない理由って何」
「…………」
「そんなに俺じゃ頼りねえかよ」
「ち、違う」
「じゃあ俺でいいだろ」

 そんなこと言われたら、勘違いしてしまいそうだ。何をと問われれば即答できないが、そんな言葉を掛けてもらうほどの価値は私にないと思った。私の腕を掴む力が徐々に抜けていく。完全に私から彼の機械鎧がソファに落ちたと同時に、背もたれを前にしていた私は、ゆっくりとエドの方に向き合う形で体制を変える。二人掛けのソファで、私達は正面からお互いの視線を受け止めていた。しかし想像以上に力強い目力に、私は「あ、」だの「え、」だの単語にもならない声を発しながら、眩い虹彩を見つめ返す。
 …………これはもう、無理だと思った。
 何が無理かって、私の意地を通すのがだ。あの日、優しい彼等に余計な重荷を背負わせたくない、せめて同じ土俵に立てるまではと、その一心でロイさんと2人の秘密にしてほしいとお願いしたけれど、たった今元も子もなかったと実感した。そんな言い訳は、彼等が、エドが、こんな顔をしているうちはまるで通用しないのだ。

「…………エド、」

 根負けである。
 私とエドの頑固勝負は、私の負けで終わるらしい。全てを話すとなると長くなってしまうし、口下手な私となるとより長くなってしまう。
──と、いうわけで。こういうのは論より証拠だ。
 両手をパン! と合わせてソファに掌を付ける。風が吹いたようにエドの前髪がさざめいた。青い閃光が散ったと同時にゆるゆると布地が盛り上がったかと思うと、見る見るうちにテディベアの形を成していく。そして光が収まった時には、私の手元には小さなくまのぬいぐるみがチョコンと転がっていた。ゆっくりとそれを拾い上げて、ちらりと上目遣いでエドの様子を観察する。しかし思っていたよりも冷静に私を見遣るエドと目が合い、私は謎の羞恥心でぬいぐるみを彼に押し付けた。

「……と、いうわけです」
「……おう」
「て、手触りどうでしょう?」
「…………悪かねえな」
「良かった」

 私はへらりと笑いかける。

「勉強した。エドが旅に出てる間、私なりに」
「……そっか」
「実は半年前からアルフォンス君とお勉強会とか開いてもらってて」
「……ふうん」
「私ね。元の世界で生きてた事実を、私の存在を対価としてこっちに来た。それだけだと思ってた」
「……」
「でも勉強しただけでエドみたいに使えるのっておかしいよね。何で私が錬金術を使えるのかは全く分からない」

 天性的な才能とセンスと血の滲むようような努力が出来る奴ならなれるんじゃねえの。
 そうかつて、私はエドにそう言われたことがある。加えて対価さえ渡せば何でも治せるんですかと尋ねた私に、錬金術は万能じゃないとも。

「私みたいな紛い物が錬金術を使えるって、きっと何か裏があると思う。それはもしかしたらエドが探してる賢者の石に近づける何かかもしれない。でも確証がないから。下手なこと言って気を散らせたくなかったし、余計な心配も掛けたくなかった。……こんな形にはなってしまったけど。気分を悪くさせて本当にごめんなさい」

 そこまで言って、もう一度エドの様子を伺った。精悍な眉毛を顰め、眉間に深い皺を刻み、何やら考え込んでいる。暫く動かなかった彼は、やがてビシッと人差し指と中指を立てたかと思うと、そのまま私の方を指した。

「二つ訂正」
「は、はい」
「まず一つ。俺等の目的は俺等で何とかする。当たり前だろ、俺達は誰でもない自分自身の罪を背負ってる。従ってお前が確証がないやらなんやらでウジウジする問題じゃない」
「……はい」
「二つ。さっき自分のことなんつった?」
「え」
「なんつった」
「……えっと……紛い」

 もの。そう言い切る前に、エドの手が伸びてくるのが見えた。生身の左手が私の顔の半分を覆い隠し、もう片方の機械鎧がガッシリと後頭部を固定している。口を塞がれたことに驚けばいいのか、何に驚けばいいのか分からない中、私は唖然と目の前の太陽を見つめ返す。厚い睫毛の下で、それは赫々と燃えていた。
 半乾きのエドの髪が視界の端っこで揺れ、目を白黒させるしかない私に「二度と言うな、そんなこと」不機嫌度マックスの声を落とす。

「自分を過小評価すんな。少なくとも俺の前では二度とそういう事は言うな」
「……ん、んんー!」
「余計なとこばっかいっちょ前に成長しやがって……」
「……」
「お前も今ここに生きてるじゃん。ここに! 俺が見える? その目は偽物か? 分かる? お分かり?」
「……みへまふ」
「宜しい」

 そうして漸く口から手が離れたかと思うと、するりと後頭部に回る手が頬に移動していく。二度ほど肌の表面を撫でたかと思えば、両頬を押さえられた。何をされるのかと構えた数秒後、ガツン! と恐ろしい音が鳴る。
 一瞬だった。とんでもない痛みが額に襲いかかり、私は「いっっっっっ!?!?」悲鳴を上げてソファに倒れ込む。火花でも散ったんじゃないかという衝撃だった。脳天がぐわんぐわんと横揺れしている。自由になった両手でおでこを押さえるが、目蓋の裏は宇宙である。自称石頭のエドからえげつない頭突きを食らったのだ。何で。痛い。何で。両足をじたばたさせなかまら生理的な涙を流す私をフンッと見下ろすと、彼は「これでおあいこだな」と言い切った。
 お、おあいこなもんか。こんなところでも等価交換を徹底しなくてもいいじゃん……割に合わない……何も対等じゃない……痛すぎる……絶対アザ出来る……。

「で、名前も一緒に行くぞ」
「う、うぅ……どこに……」
「タッカーさんとこ。名前も錬金術学ぶなら俺等と一緒にいた方がお前の為にもなると思うけど」
「…………行く」
「ん」

 エドは満足そうに笑っていた。ああ、いつものエドだ。兎にも角にも仲直りは出来たらしい。

「エド、早く髪の毛乾かしなよ……」しかしこの額の痛み分を少しでも返したくて、そう嫌味っぽく言えばエドは「今からやろうとしてたんだよ」と舌を出して笑ったのだった。耳の端が少し赤いのは、きっとシャワー上がりだからだろう。
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