指先で弾ける

「雨が強いな」
「そうですね」

 こういう時は仕事をする気が滅いる。手を組んだ上に顔を乗せると、ロイは小さく息を吐きながら窓の外から視線を外した。そして目の前の山のように積まれている白い書類を見ると、もう無理だとでも言うように握っていたペンを机の上に転がしてひらひらと両手を上げる。それを近くで見ていたリザは慣れているのか「いつもでしょう」とただただ正論を口にし、ポットを手にとった。

 コポコポ……熱い湯がカップに注がれ、コーヒー豆の匂いが部屋に拡散する。流れるような動きでそれを上司の前に置くと、ロイは感動したようにリザを見つめた。

「中尉、君もついに私の魅力に気づい」「てません」
「ふむ。そうか」
「冗談も程々にしてください。書類が終わるまで今日は帰しませんので」
「手厳しいが仕方ない」

 淡々とした物言いにロイは数回首を横に振ると、白い湯気の出たカップへと手を伸ばす。2人以外いないこの部屋では、ザーザーと激しく雨の落ちる音が妙に部屋の静謐さを強調させるのだ。全く、真面目なところは簡単には変わらないか。凛とした佇まいで書類を数えるリザに部下として良かったのか複雑な思いを抱きながらソっとコーヒーを一口含むと、味わい慣れた苦味が全身に染み渡っていく。

「……雷が鳴りそうだ」
「そうですね」
「女性というものは雷が苦手だと聞いたが」
「一般女性と私を比較しないでくれますか」
「ハハ、それは失礼。強気な女性も私は好きだよ」
「減らず口が」
「ブッ、」

 コーヒーを吹き出したロイには見向きもせず、やはりリザは淡々とした様子で書類をまとめている。ただし、無言でタオルを差し出すあたり、一応上司ということは忘れていないらしい。最もロイはまたそれに目を光らせ、先程と同じやり取りを何度も繰り返すのだろうが。

 その時だった。
──バン!遠慮という文字の欠片も見当たらないような音を鳴らしながら、司令室のドアが壁に叩きつけられる。それは開けるというよりも、力ずくで張り倒したというような類だった。しかし、当の二人は驚くこともせず、むしろ厄介な者が来たとでもいうように目の色を変えた。ハァ、あからさまに溜め息を吐くロイだが、そんなことどうでもいいとばかりに来訪者はガンガンと中へと足を進める。

 相変わらず眉間には深い皺が刻まれている。なるべく見ないように目線を下げていたものの、金色の長い三つ編みが視界の端に映ったところで、ようやく諦めたのか「……静かに出入りも出来ないのか、鋼の」とカップを机に置いた。

「だからいつまでも経っても子供だと言われるのだよ」
「っ! だぁれが成長期のまだ来てないスペシャルドチビだぁぁぁ!」
「そこまで言っていないが」
「言ったね! 俺には聞こえたね!」
「はぁ……怒鳴ってばかりだと身長が縮むぞ」
「こんなんで縮んでたまるか!」

 と、ここらでいつもの展開を繰り広げている間に、ガシャンガシャンと鎧の音を鳴らせながらアルフォンスはリザへと軽く挨拶をする。リザも「アルフォンス君も大変ね」と上司には見せない柔和な雰囲気で口角を上げた。

「はい」
「へ? あ、ありがとうございます!」
「いいのよ」

 渡されたタオルとリザを見比べながら、アルフォンスは慌てて頭を下げた。どうやら鎧についている水滴をリザは見逃さなかったらしい。
 ロイが見たら確実に勘違いしそうな優しい笑みを浮かべながら、リザは再度書類へと手を伸ばす。ザーザーと雨の音は相変わらず聞こえているというのに、先程までの静けさはあっという間に姿を消してしまっていた。

「あ、雷」

 呟くと同時にゴロゴロと嫌な音が空気を震わせ、激しい閃光が部屋に広がった。この辺りに落ちたのかしら……窓の外をじっと見つめるリザをアルフォンスは不思議そうに見つめている。灰色の曇天の下で、木々の葉がざわざわと風で揺れた。

「え?」
「どうしたの?」
「あ、え、その、えっと……、あの人は、」
「……アルフォンス君?」

 一瞬アルフォンスの方を振り返ったリザも、すぐにその視線を辿って窓の外に目を向けるが、別に先程と何も変わりはない。ただ、あるのは激しく音を立てる灰色の曇り空だけ。眉間に皺を寄せ、もう一度アルフォンスを振り返ろうとしたとき、リザはある違和感に気づいた。
 音が、しない。
 よく見れば、先程までギャンギャンと騒いでいたはずなのに。珍しく動揺したリザは、慌てて部屋を見渡す。しかし、視界に映るのは中途半端に開いたドアと窓を静かに窓の外を見つめているアルフォンスだけだった。







 ただ、走っていた。

「ッ……はぁ、っ!」

 雨が地面を濡らしているせいか、いつ転んでもおかしくないような状況で、私は無心で足を動かしていた。すれ違いざま、不審な顔をした人達の視線が背中に刺さるのが分かる。時々「止まりなさい!」って腕を掴んでくる人もいたけれど、逃げるように振り切って、また走った。目指す宛など、ないけれど。

「……ッはぁ、ふ……っ」

 ぐらりと視界が傾いた。さっきまで病院で寝ていたのだから、身体がまだついてきていないのかもしれない。思わず膝に手をついて、背中を丸める。ポタポタと髪の先から零れ落ちる水滴が、小さく地面に跳ねた。いつの間にか周りに人の気配は感じられず、ようやく1人になれたのかと目を細める。
 グッと拳を作って姿勢を直そうとすれば、今度こそ視界が反転した。叩きつけられる背中に顔を顰めて涙を滲ませながら咳き込む。
 目の前には泣きそうなくらい濁った空。無数に落ちる雨が容赦なく体に降り注ぐ中、まるで自分みたいだと思った。ただ走ることしかできない自分のようだと。ゴロゴロ……耳を塞ぎたくなるくらい大きな音が辺りを占めた。連続して空を青白い稲妻が目の奥を刺激する。
 このまま消えてしまいたいと思った。
 雨と一緒に弾けてしまいたかった。

「……っ、」

 ゆっくりと空に向かって手を伸ばす。
 何も、掴めない。

「おい! 何やってんだ馬鹿!」

 そんな怒鳴り声と共に伸ばした腕を横から引っ張り上げられる。段々と意識が闇に呑まれていく中、不釣り合いな金色が見えた気がした。
 ああ、また貴方が私を助けてくれるんですね、助ける価値なんて、私には無いのに。
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