僥倖に身を委ねる

 
「いいんじゃないか?君の為にもなるだろうし、何より奴の気も収まるだろう」

 エドから一緒にタッカーさんの元に行かないかと誘われた旨を伝えれば、呆気なくロイさんはその場でゴーサインを出した。
 少しくらい躊躇われると思っていた私は逆に「え……いいんですか」と驚きも隠さず目を大きくする。単発入れずに目の前の彼は珈琲を口に含みながら「止められると思ったのか?」と形のいい唇を持ち上げたので、私は視線をさ迷わせた後、おずおずと頷いた。恥ずかしながらその通りである。
 私ごときが抜けたところで今更業務に支障が出ると本気で思っているわけではない。けれど私が入る前と後で、というより雑用係というパシリが常勤化することで皆のワークバランスが変わりつつあるのも事実だ。戦力として1にも満たない私であっても、今更離れれば不便になるのでは……と思った次第である。まあそれは杞憂どころか要らぬ心配だったわけですが。……え、ていうか自意識過剰みたいでめちゃくちゃ恥ずかしいな。やばい、今更じわじわくる。お願いだからなかったことにしてほしい。

 パタパタと軽く手で風を仰ぐ。なるべく無表情を意識したものの、私の思いは問わずとも見抜かれていたようだ。こういう時心の機微を見抜き慣れている人は手強い。
 瞳の奥を僅かに細めたロイさんは「まあ私情を挟んでいいのなら止める理由はいくらでも挙げられるだろうが、」そう前置きした上で、コト、とカップの底を鳴らした。かと思えば、そのままちょいちょいと手招きをされ、首を傾げながら近付いていく。とはいってもデスクを挟んでいるので、一、二歩くらいしか進んでいないけれど。

「…………あの、?」

 私情……とは?
 それでも手招きする手は止まらないので何事かと困惑していれば、突然正面から伸びてきた手が私の後頭部に触れ、勢いよく引き寄せた。
 ガタン! とかなり大きな音が鳴ったけれど、とうに定時を過ぎた執務室にはロイさんと私以外誰もいない。机に乗り上げるように手をついてバランスを取る私は、訳が分からないまま目の前のロイさんを見つめ返す。切れ長の黒目は私と同じ色をしているはずなのに、何を考えているのか読めた試しが無かった。

「あ、あの……ロイさん?」

 私は一体何をされているんだろう。
 互いの呼吸音が聞こえてしまうほどの距離にロイさんの顔がある。プレイボーイと名高い彼がわざわざ私なんぞに手を出すとはまるで思えないけれど、この体勢を見られれば勘違いされる可能性も無くはない。下手に動くとも出来ず固まる私の髪を一房掬い上げると、サラサラと遊ぶように梳いていく。……な、何なんだ本当に。口説き相手の練習?からかわれてる? もしや困惑が滲む私を見て楽しんでるんだろうか、ていうかそれって楽しいんだろうか。

 するりとロイさんのもう片方の手が私の額へと移動した。その感触がこそばゆくてピク、と反応する私を薄目で見遣ると「随分とお転婆だな」前髪を軽く掻き上げるようにおでこに触れられる。……お転婆?

「扉にでもぶつかったのか」
「え?」
「赤くなっている」
「……ああ、えっと、まあ……そうですね。それぐらい硬いものとぶつかったというか」
「傷が勲章になるのは男だけだ。あまり傷は作るもじゃない」

 そういえばまだ若干頭突きをされた痕が残っていたような気もする。正直あまり痛みや傷跡は気に留めない性根なのでそういえば、と返すとロイさんは呆れたように力なく笑った。

「君は…………」いやいや、別にこれに関しては作りたくて作ったわけじゃないんだけれども。
 私に小言を言うならエドワード・エルリックという少年に直接指導してやってください、ついでに爪の垢を煎じて飲ませてあげてください。

「……すぐ治ります」
「まあこの程度ならすぐ引くだろうが」
「はい。そんなに痛くないです。それに、」

 伊達に怪我をしてきてないので。と、これはブラックジョークになるだろうか。
 案の定私の発言に目を丸くしたロイさんは少し経ってからハァ……と息を吐いて引き寄せていた手を離した。いそいそと乱れた髪の毛を整えつつ、近付いていた分少し距離をとる。誰にも見られてはないと思うけど、なんとなく近付いた分だけ離れたい。モテる男性を前にする際のけじめというやつである。ちなみに結局今のは何の時間だったのかは分かっていない。ロイさんは私の額の痕が気になっただけなんだろうか。
 後でエドに言ってやろう……そう意気込んでいれば、名を呼ばれて顔を上げる。向けられた真っ黒で混じり気のない瞳は、私と似ているようでどこまでも深い。

「…………鋼のの気持ちも分からんでもないな」
「えっ」
「いや、何でもない。とにかく、タッカー氏のところに行きたいのなら私は止めないよ。行ってくるといい」

 一呼吸おいて、ロイさんは微笑んだ。酷く優しい目をして。

「私は名前の進みたい道を応援するさ」

──進みたい道か。
 ロイさんから視線を外して窓の外を見れば、先程まで晴れていた空は鉛色に覆われている。近々雨が降るのかもしれない。最近は不安定な天気が続いてるしなぁとぼんやり思った。











「というわけで、明日から御一緒させて頂きます」

 開口一番にそう宣言すると、エドは「お、おう」と目線を四方に動かした後何度も瞬かせた。あっそ、くらいの反応だと思っていた私は知らず知らずの内に首を傾げ、目の前の人と同じように目をパチクリとさせる。
 あれ、誘ってくれたのってエドだよね? 合ってるよね? その反応はどの反応は何だ……? 不思議に思った私に気付いたのか、エドは「あーー」と不自然な声を出しながらガシガシと頭を掻いている。だからその反応は一体何なんだ。

「…………大佐何も言ってこなかった?」
「特に何も。快く許可してくれたよ」
「フゥン……」
「どうしたの?」
「……いや、何も」

 どう見たって何かある顔をしておきながらよく言うよ。
 とはいえわざわざ薮蛇をつつくような真似をすれば痛い目を見るのは私なのであえてスルーさせて頂くとして、くるくると夕食のパスタをフォークに巻き付ける。エドは今日もシチューをセレクトしたらしい。ちなみに今は本に夢中でまだご飯を食べていないらしいエドに誘われて(ほぼ強制的に拉致され)、彼のホテルで晩ご飯を共にしている最中だ。
 お前はすぐに飯を抜くから俺が見張るんだなんだと言われて誘われたのだけれど、実はちょっと複雑だったりする。それを言ったらエドだって食べるの忘れてたじゃんと言い返したい。私は久しぶりにエドとご飯が食べれて素直に嬉しいのに、彼はあくまで私の食事管理をするのが目的なのだ。ぷくぷくに太らせた末の出荷計画は未だ継続中なんだろうか……恐ろしいことこの上ない。

「でも、私にタッカーさん家の本が理解出来るかな」
「名前だって仮にも錬金術師だろ」
「錬金術師というか修行中の身というか……」
「基本を押さえたら後はひたすら応用だよ。とんでもない石頭じゃない限りいけんじゃね」
「……かなぁ」
「保証はしねえ」
「そこは嘘でも出来るって言ってくれないんだ」
「俺は現実主義者だからな」

 ……まあ、それもそうだ。錬金術師は科学者でもあるし。

「……エドは凄いもんね」

 なんせ最年少の国家錬金術師なのだから。
 発想力とセンスに優れているし、そのくせ努力だって怠らない。軽率に天才と言っても、天才とは1%の閃きと99%の努力だという懐かしい言葉が脳裏に過ぎるのだ。99%の努力を実行出来る人なんて、世の中に一体何人いるんだろうな。少なくとも、私は努力し続けることは出来ないし、事実することが出来なかった。
 なんとも言えない表情を浮かべていれば、ゴクリとシチューを嚥下したエドと目が合った。黄金色に光る瞳は白熱灯の下であっても霞むことはない。どこまでも誠実で真っ直ぐだ。

「不安なわけ?」
「…………不安というか」

 正直な話、私は応用という行為が不得意だったりする。年号を暗記する、公式を覚えて数字を当て嵌める、構成を理解してテーマに沿った小論文を書く、そういったことは出来るしむしろ得意だったりするのだけど、そこに自分のアイデアをプラスアルファさせるのは得意じゃない。多分天才になれない根っからの凡人気質なのだ。それは全てに該当する。ある程度まではスムーズにいっても、一定以上の成長はあまり望めない。この世界じゃ、きっとこのままじゃいけないのにな。
 シチューを食べ終わったらしいエドがスプーンを置いた。カチャリと金属音の擦れる音が響いた後、少しの沈黙を経て「名前」名を呼ばれ顔を上げる。

「……………い…ぞ」
「? ごめん聞き取れない」
「っだから! わ、分かんなかったら教えてやってもいいぞって言ってんの」
「えっ」
「あ?」
「い、いや、ありがとう?」
「…………俺の授業料は高いからな」
「あはは……じゃあなるべく頼らないようにしないとだね」
「お前なぁ……何でそうなんだよ……」

 ええ……今のってそういう意味合いじゃなかったのか。一転して呆れた表情を貼り付けたエドに、私は肩を落としてこめみを押さえた。次いで眉を下げるしかない。ロイさんしかりエドしかり、どうやら私の会話術に難があるのか最近呆れ顔ばかりさせている気がする。言葉ってムズカシイ、コミュニケーションって、ムズカシイ。

「……まあ私国語の成績良くなかったし」
「はあ? 国語?」

 と、それはそうとして私の方向音痴を危惧してか明日は一緒にタッカーさん宅に向かってくれるらしい。最初は東方司令部まで迎えに来てくれようとしていたけれど、流石にそこまでさせるのは申し訳ないのでエドの宿前に集合ということで落ち着いた。一度赴いたことがあるとはいえ、ロイさんの手描き地図で辿り着ける気がしなかったので普通に有難い。
 そこでふと、ニーナと呼ばれた少女とアレキサンダーの存在を思い出した。「あ、」と声を漏らす私にエドは目線だけで続きを促す。

「タッカーさんとニーナちゃんへの手土産って何がいいかな」
「手土産ぇ?」
「うん。急遽私もお邪魔することになるし」
「……そういうとこ律儀だよなぁ、名前って」
「そんなことは無いと思うけど……」
「まあニーナも小さいし普通に甘いものとかでいいんじゃね」
「エドは甘いもの好き?」
「何で俺?」
「どうせなら皆で食べれたらいいなって」
「……皆つってもタッカーさんは研究室に篭ってるから難しいと思うぜ。ニーナはいると思うけど」
「そっかぁ。アレキサンダーのおやつもついでに持ってくね」
「おまっ! あのわんころにも手土産あげる気かよ!?」
「? エド仲良さそうだったから……」
「仲良かったっておま……悪くはねえけど……いや良くもねえな……あの犬畜生は俺が手懐ける……!」
「い、犬畜生」

 確か私が見た時はアレキサンダーに凭れて本を読んでいた気がするんだけどな……それって仲良しなのでは……あれ、もしかして違う?
  はてなマークを浮かべる私にエドはうげぇと苦々しい顔をすると「お前もあの巨体にヨダレまみれにされた挙句押し潰されたら分かる」そう言って謎におしぼりで顔を拭き始めた。か、顔を舐められたんだろうか。思い出し笑いならぬ思い出し拭きをするとはよっぽどである。食べ終わったお皿やゴミを片づけながら「お疲れ様」と労りの声を投げかければ、タイミング良くガチャリと扉を開ける音がした。ここに帰ってくるのは一人しかいない。案の定ガシャンガシャンと金属音が聞こえたので振り向きながら「おかえり、アルフォンス君」そうニコリと笑いかける。

「わ、名前さん! ただいま! あ、兄さんコレ頼まれてたやつ」
「おーさんきゅ」

 「あ、そうだ」そういえばまだアルフォンス君には何も言ってなかったような気がする。

「どうしたの? 名前さん」
「アルフォンス君……その、私も明日からタッカーさんのところに同行することになったので……宜しくお願いします」
「えっほんと!? 大佐は大丈夫なの?」
「うん、全然行ってこいって感じだったかな」
「そうなんだ! ニーナも喜ぶと思うよ!」

 弾むような声に私は思わず顔を綻ばせた。本当にアルフォンス君は癒しである。

「ニーナちゃんだよね、もう仲良しなんだ。流石だね」
「ううん、ニーナが人懐っこいだけだと思うよ。それに兄さんもアレキサンダーとすっかり仲良しだよね?」
「……やっぱり仲良しじゃん」
「やめろアル! 仲良くはねえ!」
「えっ……昨日散々一緒に遊んでたくせによく言うよ……」
「ちがーう! 俺が遊んでやってんだよ、同等じゃねえ、俺が上!」
「兄さんってたまによく分からないところこだわるよね」
「よく分かんなくなくねえだろ、シンプルな主従関係だっつの」
「よく分かんなくなくないよ!」
「なっ!? よく分かんなくな……な、なく……なくない……?」

 どうやら今回の口喧嘩はアルフォンス君に軍配が上がったらしい。エドはこれがゲシュタルト崩壊か……と嘆いた。私とアルフォンス君は顔を見合わせて勢いよく吹き出す。

 なんだか久しぶりだなぁ、この感じ。思い出すのは初めてエドの宿にお邪魔したあの頃。まさか今でもこうやって彼等と過ごせているなんて、当時の私は夢にも思わないだろうな。口角が緩くなるのを感じていれば、目敏いエドが「ニヤケてんぞ」と指摘してくる。……って、ニヤけてるって言ってる貴方の口もニヤけてますけどね!
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