0と1の亡霊

「名前、今日は降るぞ」

 昨日は丸一日タッカーさんの元で過ごしてしまったから少しでも、そんな思いで執務室でせっせと書類を整理していれば、いつの間にか隣にはロイさんが立っていた。促されるがまま窓の外を見遣れば、まだ時刻的には朝がきたばかりだというのに、分厚く鈍色に濁った雲が隙間もないくらいに見渡す限りの空を覆っている。……確かにこれは今すぐにでも土砂降りの雨が降ってもおかしくない。それどころか外に出るのが億劫になる天候だ。

「うわぁ……確かに降りそうですね」
「こういう日はゆっくりするに限る」
「……仕事してください」
「中尉のモノマネか?」

 ……いや、モノマネって。実際リザさんが口癖のように口にしている台詞なので、あながち間違いでもないけれども。
 芳ばしい珈琲豆の香りが隣から漂う中、トントンとつい先程届いたばかりの書類をラベリングしてファイルに挟んでいく。一日の内にコーヒーばかり口にするロイさんの給仕係になってから、すっかりコーヒーを淹れるのに慣れてしまった。彼は基本ブラックしか飲まない上にコーヒーマシーンなので特に技術も何もないが。……今度、少し趣向を変えて紅茶の上手な淹れ方でも調べてみようかな。それか、珈琲豆くらい拘ってみてもいいかもしれない。
 チラリとロイさんを見上げれば、なんだ? という風にふわりと微笑まれる。

「……ロイさんってコーヒー以外は飲まないんですか?」
「そんなことはない。眠気覚ましに飲んでいたら癖になっただけさ」
「紅茶とかは?」
「紅茶の世界はコーヒーの数倍厳しいと聞くが?」

 ロイさんは私を見て試すように口角を吊り上げた。なんだか色々とバレている……私が淹れる前提なのもなんかあれだけど、それにしても見透かされている……。

「…………暫くコーヒーを極めることにします」
「それは嬉しいな」
「やっぱりコーヒーの方が好きじゃないですか……」
「いや? 君が淹れてくれるものが好きなんだ」
「……っ!」

 また平気でそういうことを言う……!
 ロイさんが本気で私なんかを口説こうとしていないことなんか百も承知だけれど、あまり無差別に勘違いさせる言葉を吐くのは良くないと思う。恥ずかしさやら何やらの気を逸らす為、フイッと顔を逸らし、つい先程届いたばかりの書類に目を通す。その中に『鉄血の国家錬金術師、グラン准将殉職』と文字が見えて、今度はドキリと心臓が跳ねた。国家錬金術師、か。ふと脳裏に昨日の寂しそうなニーナと顔色の悪いタッカーさんが浮かぶ 。……いや、やめよう。朝からあまり気分のいい話題ではない。
 外の天気も相まって重い気持ちになっていれば、ロイさんの指が私の垂れた横髪を掬った。

「……なッ、」
「クク、そんな揶揄い甲斐のある反応をしないでくれ」
「ロ、ロイさん!」
「ん?」
「……そろそろリザさん戻ってきますよ」
「おや。名前まで私の扱いを覚えてしまったか」

 勢いよく仰け反った私を一頻り揶揄い終えると、ロイさんは珈琲を片手に自分の席へ戻っていく。まだ出勤時間より一時間ほど早いから他のメンバーは来ていないけれど、きっとリザさんはそろそろやってくる頃だろう。

「はあ、やれやれ。分かったよ、私の負けだ。ほれより名前もそろそろ向かった方がいいんじゃないのか?」
「……そうですね、もう出ます」
「今日はそのまま直帰して構わないからな」
「……そんなに何回も言わないでください」
「何回も言わないと君は夜遅くに戻ってくるし、明日の朝も早く来ようとするだろう」
「…………だって、」
「ハハ。そんなに仕事を助けたいなら、君に合わせて鍵を開ける私の身にもなってくれたまえ」
「そ、それは……すみません」
「冗談だ、冗談。今日は雨が酷くなりそうだから真っ直ぐ帰ってほしいだけだよ」

 口をキュッと尖らせて立ち上がると、ロイさんは「そこの傘を持って行くといい」そう言って入口に置いてある傘立てを指さした。ありがとうございます、小声でお礼を言って適当に透明の傘を抜き取れば、ニコリと微笑まれる。

「行ってらっしゃい」
「……い、行って参ります」

 エドとアルフォンス君には少し遅れるかもしれないから先に向かっていてと言ったけれど、この時間帯ならまだ宿を出ていないか、出た直後かもしれない。執務室のドアを閉め、少し駆け足でタッカーさん宅へ向かう。ようやく覚えてきた道を地図なしで辿りながら歩いていれば、例の豪華な屋敷が見えてくる。正面の玄関の前で足を止めたその時、違和感が襲った。


「……………あれ?」

 
 扉が開いているのだ。
 僅かに開いた隙間からはヒュウ、と風音が鳴っている。……真面目な印象を与えるタッカーさんがうっかり戸締りを忘れたとは考えにくい。であれば、私より先に訪れたエド達が閉め忘れでもしたのだろうか。後者だとすれば不用心が過ぎる、あまり考えたくはないけれど、もし泥棒や強盗が入ったらどうするつもりなんだろう。広いお屋敷なのだから可能性が無いわけじゃない。まだ小さいニーナも危ないし、タッカーさんの研究だって台無しになるというのに。

「……お邪魔します」

 後で二人に確認しよう。眉根を寄せて中途半端に開いた扉から中に入る。いつもならこのタイミングでアレキサンダーが反応して吠えるか駆け寄ってくるのだけど、それも今日は無いようだった。エドやアルフォンス君と遊んでいるんだろうか。そう怪訝に思いつつも廊下を進む。けれど何故か物音一つしないのだ。……もしかしたら、ニーナもまだ寝ていて、エドやアルフォンス君も本に夢中になっているのかもしれない。
 それなのに、何故か嫌な予感がした。
 ギィ、と重たい扉が閉まる音がする。歩みを進める度に脈拍数が上がって、違和感という名のしこりが大きくなっていく。

「……エド? アルフォンス君?」

 資料室には誰もいなかった。
 脇に積まれた本の配置も全部昨日のままで、まだ二人が訪れていないのが分かる。……何かがおかしい。ふと扉が開けっ放しであるのを思い出して、弾けるように資料室を飛び出た。隣の部屋を開けて中を確認する。誰もいない。その隣の部屋を確認する。やっぱり誰もいない。
 窓の外は相変わらず今にも降り出しそうな空が広がっていた。陽が射し込まないからだろうか、ただでさえ薄暗いと感じていた室内はいつも以上に暗く、ドクドクと嫌な不安を掻き立てられる。
 無意識のうちに息が荒くなり、胸元を掴みながら廊下を彷徨っていた、その時。

──ガンッ!

 何かを壁に叩きつけるような音が響いた。間髪入れずに「兄さん!!!」とアルフォンス君の声が聞こえてくる。今のは、タッカーさんの研究室からだろうか。聞こえてきた音を頼りに足を走らせる。その間も聞こえてくる言い争うような声。やはり、何かが起きているのだ。重なり合った暗がりの先に、ポツンと漏れ出る明かり。心許ないそれに引き寄せられるように部屋に入ると、ドッと張り詰めた空気に押し潰されそうになった。

「同じだよ君も私も!!!」
「ちがう!!!!」
「ちがわないさ! 目の前に可能性があったから試した!」
「……ッちがう!!!」
「たとえそれが禁忌であるとしっていても試さずにはいられなかった!!!」

 電気はついていない。唯一の窓から伸びる灯の筋が室内を照らしているだけの陰鬱な空間。
 ゆっくりと視線を横に動かしていく。エドに胸ぐらを掴まれるタッカーさんに、睨み殺しそうなほどに鋭い目付きをしたエド、そして決して止めようとはしないアルフォンス君。ゴクリと生唾を飲み込んだ。
 そして。そして──、


『あそ、ぼう よ……あ、そぼ……』


 肩で大きく息をする。
 手にしていた傘を掴む力が緩んで、音を立てて床に落ちた。……まさか、そんなことがあってたまるか。ただの勘違いであってほしい。今一瞬脳裏に浮かんだ可能性を、全力で否定してほしい。それなのにおかしいな、上手く呼吸が出来ない。開いた唇が小刻みに震えて、脳みそまで上手く酸素が回らないのだ。

「……ッガ……フフ、ハハハハ! 何故否定するんだ!? 君も! 全てが人の命をもてあそんだ結果だ!!」

 命。禁忌。ニーナ。可能性。最後のピースがカチ、とハマった瞬間、背筋が寒くなり激しい吐き気に蹲りそうになる。無理だ、無理だよ。どうしろって言うの。私はその生き物・・・をどう認識したらいいのか分からない。いっそ暴力的なタッカーさんの言葉に立ち竦んでいれば、ドゴォ! と凄まじい音が鳴った。質感の重いものと肉がぶつかる、聞きなれてはいけない音。衝撃で割れた眼鏡が床に落ち、口内が切れたであろうタッカーさんの唇からは赤い血が垂れていた。壁際にずり落ちても尚止まらない鋼の拳。何度も何度も振り下ろされるそれを止めなければ、そう思うのに足は動かなかった。

 いつの間にか降り出した雨は横殴りに窓を叩いている。空気が色を持つほどの曇天に、光を通さない灰色、薄暗い室内。頭の片隅に追いやっていたいつかの記憶と重なって、ぐらりと脳天が揺れた。今はそれどころじゃない、そんなことを思い出している場合じゃないのに。

「ちがう……、っちがう、ちがう! オレたち錬金術師は…………ッ、こんなこと……オレは……!」
「兄さん……それ以上やったら死んでしまう」

 フゥフゥと獣のように荒い呼吸音が響く。そしてその時、じっと大人しく座っていた合成獣が『えどわーど、おにいちゃん』歪な声で、確かにそう言った。
 途端にだらりと腕を下げた彼は、力なく振り返る。怒りを孕んでいた瞳はいつの間にか表情を変えていた。強く噛み締めた唇はもう少しで切れて血が出そうなくらいだ。

「……エド、」小さく名前を呼べば、光のなくなった瞳と視線が絡み合う。ふるりと目の前の睫毛が震えた。吐き出す息は湿っぽい。

 ……今ね、誰よりも君が辛そうな顔をしてるよ。痛い。苦しい。胸の奥に、決して触れることの出来ない柔い部分に、ずぶずぶと何かが突き刺さっていく。似合わない。今ここにあるもの全部だ、何もかもが似合わない。例えば、そんな低くしゃがれた声よりも花のように軽やかな声が似合う。こんな薄暗い部屋より淡い陽の下が似合う。綺麗なその金の髪には、返り血なんかよりも、木漏れ日の下で光の輪っかを乗せてほしい。前だけを向いていてほしい。君にそんな顔は似合わない。似合わないのに。

 まだ体験したことの無い、名前の知らない感情が溢れ出てくる。初めての感情だった。昨日も似たようなことがあったけれど、何かが違う。どろり、と粘土の高い何かが滲んでくる。きっとこれは良くない類のものだと、直感的に思った。

「………………名前、」

 太陽が泣いている。
 それだけが、こんなにも耐え難い。
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