「そうですか」って、

「……さみ」

 宛てもなく歩き続けて、どれくらいの時間が経過したのだろう。慌てて家に駆け込む人々の影も薄れ、気づけば街には猫の姿すらなかった。分厚い雲が空を覆い尽くしているせいか、空気はどんよりと重い。本当に何してんだ、俺。濡れないように被せた赤いコートをチラリと捲ると、あどけない子供のような寝顔が覗く。
 ……こいつ、こんな顔だったんだな。
 顔を忘れてしまったことを弟に怒られてしまったことからか、思わずジロジロと見てしまう。伏せられた睫毛は予想以上に長くて、涙の跡が残る肌は病的なほどに白い。昨日まで感じていたはずの、確固として拭えない違和感。どこか浮世絵離れした異質感。それが、今はどうしてか感じなかった。ただの女だと思った。少なくとも、砂降りの雨の中、病院を抜け出したような奴には見えない。

 そこで、はたと気付いた。
 そもそも、である。どんな理由があったかは知らないが、土砂降りの雨の中病院を抜け出そうとする神経が分からない。それも、驚くほどの全力疾走で。本当に先程まで病院で寝ていた奴なのだろうか? 人間違い? ……いやいや、でも確かに「……エド、ワードさん?」こう言ったのだ。合ってる、合っているのだろうけれど。合ってるよな……?

「くっそ、頭まで回らなくなってきやがった……ぶぁっくしょい! ……ああああ、もう!」

 無性に頭をかきむしりたくなった。勿論そんなことはしないというより出来ないのだが(手が塞がっているという意味で)、大佐のことも含めて色々と苛々する。正直どうしていいか分からなかった。アルフォンスのいる東方司令部に戻ろうにも、あそこは大佐が戻っている確率が恐ろしく高い。というより、大佐が戻っていないと仕事にならない場所なのだ。だから行きたくないし会いたくない。今は絶対に行きたく、ないのだけれど。

「……」

 じゃあどうする? わざわざ抜け出した病院へと送り返すのは何故か酷く躊躇われた。何故抜け出したのかは知らないが、起きて再び病院だったら気分が悪いだろう。やっぱり司令部の看護室にでも連れていくか? ぐるりと身体を一回転して東方司令部のわかりやすい建物を探して足を一歩踏み出す。
 結局、大佐に会うしか道はねぇのかよ……静かに吐いた白いため息は、まるで存在を知らしめるかのようにいつまでも視界から消えることはなかった。








「全く……兄さんってば」

 ガシャン、ガシャン。
 規則的に鳴る金属の擦れる音。表情の読み取れない鎧から漏れる声は、子供らしい拗ねたような声色だった。ギュッと握りしめている傘は、幾分か彼より小さい。傘から少しはみ出た鎧が、その大きさを示していた。

 ……ほんと、何やってんだか。

 つい数時間前のことを思い出して、アルフォンスは声に出してため息を吐く。兄は、きっと自分でも訳がわからないまま部屋を飛び出したに違いない。もちろん、大佐も。本能的というか、衝動的というか、声をかける間もなく、走る姿を追う間もなく飛び出した兄の顔は言い表せない表情だった。原因は分かっていた。窓から見えた白い肌、黒い髪、歯を食いしばって、今にも泣きそうだった顔。

「‥‥顔も覚えてなかったくせに」

 今は名前の安否よりも、兄に対する苛立ちの方が大きかった。毛糸がぐしゃぐしゃに絡まったような複雑な感情。

 何さ、イイトコ取りじゃん。
 そこで、はたと立ち止まる。なんだ、今のは。イイトコ取り……って何? あんな必死に何かから逃げるように走っていた名前さんのことを心配するどころか、兄をイイトコ取り扱い? 思わず、ありもしない心臓に手を当ててみる。けれど、やはりドクドクと聞こえるはずの鼓動は聞こえやしなかった。あるのは鉄の固く冷たい質感だけ。なにを考えているんだ僕は。今更、じゃないか。僕は人間じゃない。追いかけても、何も出来ない。でも兄さんならそれが出来る。大佐なら、それが出来る。

 さっきだって、一番に動いたのは兄さんだった。見つけたのはほぼ同時だったはずだ。けれど、動いたのは兄さん。見ていたのに、動かなかったのは僕。

「……訳わかんない」

 こんなにも自分が分からなくなったのは久しぶりだ。人間らしい感情を抱きながら、アルフォンスは再度足を動かす。ガシャン、ガシャン。鎧の擦れる音が、また街に響きだした。何かに繋がるカウントダウンのように。








 リザは大して驚きもせず、淡々とタオルを差し出した。

「中尉。君は相変わらず何も聞かないのだね」
「聞いてほしいですか?」
「ふむ、そう言われるとアレだな」

 わしゃわしゃと無造作に髪を拭く自分の上司を見つめながら、彼女は相変わらず表情を変えずに「コーヒーを淹れ直しますか」と呟くように口を動かすと「ああ、頼むよ」ロイは、目を細めて笑った。それが気に食わなかったのか、リザは少しムッと眉を顰める。けれど、何も言わない。言ったところでどうにかなる問題でもないと分かっているからである。

 この大佐の飄々とした性格は治らない。
 治るものではない。なら、放っておくのが一番、これがリザの最適解だった。カタン。コーヒー豆の香りが、部屋に広がる。

「アルフォンス君から聞きましたので」
「ほう」
「大丈夫だったんですか……その、彼女は」
「鋼のが何とかしてくれるだろう。……いや出来ても出来なくてもきっとまた私の元へ来る」

 どこか、確信めいた口ぶりだった。リザは何かあったのだろうかと推測するも、やはり口には出さない。

「そうですか」

 いつも通りの言葉を、返すだけだった。
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