見えるはずがないと嗤う
目が覚めると知らない場所にいた、という表現はよく使われる便利な代物だけど、短時間の間で何度も経験するもんじゃない。
……ここ、どこだろう。私は病院を抜け出したはずなのに、どうしてまた似たような場所にいるのだろう。逃げ出したくて消えたくて、どうしようもない衝動に駆られて飛び出したはずなのに、消えるどころか、またスタートラインに戻っているなんて。唯一前回と違うのは腕と繋がる管も無くただ白いベッドで寝ていることと………また知らない人に見下ろされていることくらい、だろうか。そんなことを分析できる冷静な自分がいるのもおかしくて参ってしまう。
「起きたか」
「……はい」
「どうだね、気分は」
「……良くは、ないです」
当然のように話しかけてきた男性は、一見ニコリと人の良さそうな笑みを浮かべて私を見つめる。せめて起き上がろうと頼りない腕に力を入れれば、横から伸びてきた手がふいに引っ張りあげた。驚きながらも小さくお礼を言うと「構わない」とだけ返ってくる。この黒髪の男性は一体誰なのだろう。しかしながら彼の正体を訝しむ余裕も今の私にはない。
回らない頭でモヤモヤと雲のような懐疑を浮かばせて、ただただボーッと彼の顔を見つめることしかできなかった。
「大佐? あいつの目が覚め、た…って…」
ガタン!
勢いよく開かれたドアから覗く金色。それを追うように耳に届く焦ったような、慌てたような、それでいて安心したような声。
この声は……、ゆっくりと目の前の彼から焦点を扉の方へと移せば、揺れる瞳と視線が絡み合う。
唖然とした様子のエドワードさんが、そこにはいた。私と目が合った途端エドワードさんの表情はキッと眉がつり上がり、向日葵のように金色に輝く瞳は、睨むように細まった。
「お前なあ……言いたいことがこちとら山ほどあんだよ、馬鹿なのか!?雨降ったら傘くらい持て傘くらい!後、抜け出すんだったら抜け出します、くらい書いていくのが普通だろ馬鹿!馬鹿馬鹿!」
めちゃくちゃなことを言われているけれど、心配してくれているというのは痛いほど伝わってきた。意識が途絶える前に聞こえたのもエドワードさんの声だったし、確かその時も馬鹿と怒られてた気がする。
でも、彼は私をまた助けてくれた。そっと窓の外へ視線を移す。こんな土砂降りの中、彼こそ傘もささずに。ザァザァと未だ止まない雨は、すぐ近くの建物までもを隠してしまっていた。
「……大声を出すな、全く」
やれやれと言ったようにため息混じりの声を出したのは、先ほどの黒髪の彼である。後ろに遠慮がちに佇む女性同様、よく分からない青い制服を着ている。
「あまり興奮すると縮むぞ、鋼の」そう言って手首を回した。わざと見えるように拳を開くと、白い手袋に描かれた魔法陣のような妙な模様が目に入る。心臓が冷たい手に掴まれたような気がした。ドクドクと、全身の血液が沸き立って体が熱くなっていく。
「君。名前を聞いてもいいか?」
「……名字、名前です」
「名字名前か……変わっているが良い名だ。名前と呼んでも?」
「……だ、大丈夫です」
「では聞こう。名前、君は一体どこから?」
ヒンヤリと心臓が凍りついた気がした。
「……私は、」
私は、私は。
どこから来て。どこに来て。
どこへ、帰るのだろう。
「……あれ?」
「名前?」
「私は、」
「……どうかしたのか?」
「えっと……ちょっと待ってください」
「……」
「あの……思い出すので……、」
だから待って。
自分に言い聞かせるように繰り返して、息を吐きながら両手で顔を覆う。ぷっつりと、セーブもせずに電源をOFFにしてしまったような感覚だった。あれ、何でだろう、思い出せない。思い出すから待ってなんて、とんだ大嘘だ。本当は記憶の緒すら見つかっていないのに。
薄っすらとした形はあるのに、口に出せない。
喉元まで出ているのに、言葉にならない。
白くもやがかかった記憶は、まるで鍵のかかった部屋のようだった。社会の暗記問題で、出そうで出ないあの感覚とは違う。何か別のものが鍵をかけて、不自然な形で思い出すのを妨げている気さえした。分からない。思い出せない。なんで、あれ? 私、いつから? 思い出せないのにどうしてここの世界がおかしいなんて気付いたんだっけ?思わず手を離して、自分の姿を確認する。袖にシミのついたカーディガン。少し革の捲れたローファー。ああ、そうだ。思い出した。小雨の中で、ローファーを引きずりながら歩いていたこと。思い出した。傷口から流れる血を思わずカーディガンの裾で拭ったせいでシミになってしまったこと。
ただ、思い出せなかった。
私はどこで、何で、どうしてそうなっていたんだろう。
おかしくて笑ってしまいそうだ。デコボコと中途半端に垣間見える思い出は、まるで切り取ったフィルムを無造作に繋ぎ合わせたみたいで。
「……ご、めんなさい」
「思い出せないか」
「……っ」
「……ショックで一時的に記憶が飛ぶというのは珍しい話ではない。君も恐らく該当するだろう。無理をする必要は無い、自然に思い出すまで待つのが一般的だ」
「……は、い」
「……しかし確認はさせてくれ。もう一度聞こう。名前は?」
「……名字名前」
「年齢は?」
「じゅう、なな」
「家は?」
「……、」
「家族は?」
「……家族…は、家族は、」
「無理に答えなくていい」
「……ごめんな、さ」
もどかしくってもどかしくって全身を掻き毟りたくなる。どうしてどうして。ふと、眉間にシワを寄せた彼の金色の瞳と、視線が絡み合う。困ったもんだ。彼が親切で拾い上げた私という存在は、酷く面倒くさい厄介者だったのだから。きっと彼も、エドワードさんも後悔しているに違いなかった。助けて終わり、親切をして感謝をされて、はい終わり、きっとそう思っていたんだろう。ああ、情けない。馬鹿馬鹿しくって、嘆かわしくって、そんな自分が限りなく滑稽で、とても苦しい。
「一度検査を受けてみればいいと思うが……というわけで鋼の」
「あ?」
「あとは任せたぞ」
「おう……? 俺!?」
「当然だろう。君以外に誰がいる」
「いや、ちょ、待て、この流れで俺って……え!?」
「彼女を見つけたのは君だ」
「そ、そうだけど」
「責任という言葉を知らないのか」
「せ、責任……」
「それと……ロイ・マスタング。地位は大佐だ。何かあったらすぐ呼びたまえ」
もう一度瞬きする頃には、もうロイさんと女の人はいなかった。目の裏側には、未だに黒と青が混ざり合った色が明滅している。堂々とした振る舞いに圧倒されたまま、彼がいなくなったことに少しホッとしてしまう。
……怖いのだ。漆黒の瞳に見つめられている間、何か悪いことをしているような、そんな感覚に追いつめられる。嘘は許さない。そう瞳が語りかけている気がしたから。
「……なあ」
「……っはい」
「その……さっき悪かったな。ど、怒鳴ったりして」
「い、え。私こそ……ごめんなさい」
「あのさ。俺よりアンタの方が年上なんだろ?」
「……多分」
「じゃあそんな改めまなくてもいいだろ。なんか堅苦しい」
「…、はい」
「まあ色々あるらしいけど、思い出すまでゆっくりしといたらいいと思うぜ。…あー、なんだっけ。あれだ、あの、」
名前、だったか。
ぎこちない笑顔を作って、彼は笑う。何故か暖かな陽だまりの陽気に包まれているような気分になった。エドワードさんは、不思議な力を持っているのかもしれない。 ←/
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