長い長い人生の中で心から恋をするのって、初恋だけらしい。








 拝啓、過去の私へ。
 本日、私の調子はすこぶる悪いです。

「名前大丈夫……?唇震えてない?」
「アッ、え、あぁ……うん?そうだね、うん、あっ、ごめん、足当たっ、て、いだっ!」
「いや大丈夫だけど」
「……………」
「ちょっと名前?」
「あ、やばい吐きそう」
「ええ!?」

 こう見えても十何年間名字名前という人生を送ってきているはずなのに、今の私はまるで赤子のごとき人間レベルだった。立ち上がれば頭をぶつけ、歩けば小指をぶつけ、水を飲もうとすればコップを床に落とす。とりあえずテーブルの角から私を守ってくれるコーナーガードが欲しい。
 エマちゃんと浴衣を着付け合いながら髪の毛までやってもらって、さあとうとうだ、と自覚した途端にこうなった。極度の緊張である。このままでは夏祭りを楽しむどころか待ち合わせ場所に向かうまでの僅かな道のりでさえ危険なぐらいだ。今なら綿菓子ですら殴られたら死にそう。
 帯にキュッと締め上げられているせいであまり動き回ることも出来ない。私は背筋を伸ばしたまま椅子に座り、スーハーと深呼吸を繰り返す。
 
「名前ってほんとギャップ凄いよね」
「ギャップ?」
「慣れてそうなのに誰よりも初心で乙女じゃん?」
「……待って、また緊張してきちゃうからそういうの無しでお願いします……」
「あはは、そうそう。そういうとこ」
「ごめん……」
「何で謝ってんの」
「なんとなく……いや、嘘、全てに対して……?」
「何それ」
「……懺悔なう」
「はぁ」

 お祭に行く前から満身創痍な私をエマちゃんは呆れることなく介護してくれている。非常に嬉しいし有り難いのだけど、何から何まで迷惑を掛けっぱなし、もう不甲斐なさで萎縮しそう。お手数お掛けして大変申し訳ありません。私の言葉にエマちゃんは呆れた表情を浮かべて小さく笑った後「とりあえずそれ飲んで落ち着きな」とペットボトルを差し出される。や、優しい……。エマちゃんは何かを零したらおしぼりを渡してくれるし喉が渇いたらお水を渡してくれるし、気が利きすぎて泣きそうである。感動しながらお水を受け取ると、そんな優しい彼女が呟くように一言。

「名前も普通の女の子だもんね」

 私は顔を上げた。エマちゃんは手元にあったコンパクトミラーで前髪を整えていて、特に意図して吐いた台詞ではないらしい。

 普通の女の子……普通の女の子?まあ、少し捻くれた上に拗らせただけで、確かに普通の女の子といえばそうなのだけれど。どう反応すればいいか分からず曖昧に頷いていれば、私の視線に気付いたエマちゃんは「あ、いや悪い意味とかじゃないから!」と明るく笑った。やはりマイキー君と兄妹なのだなぁと思わせる真っ直ぐな瞳がふにゃりと垂れる。

「名前って見た目クールそうじゃん?あんまりはしゃぎそうにないし緊張もしなさそうだし」
「まあ、うん……第一印象はそうらしいね」
「ウチは皆から話聞いてたから知ってたけどさ」
「わーー懐かしいね、カラオケ女子会……」
「でも別に名前はクールでもないしテンパりもするし、なんならギャグ線高かったりもするじゃん?」
「ギャグ線?」
「うん!ヒナとも褒めてたんだ、名前の行動ってたまに芸人みたいだよねって」
「………………それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」

 あまり素直に喜んでいいのか分からないな、その褒め方……。ていうか行動が芸人レベルってかなり微妙なのでは……?私はミネラルウォーターを口に含みながら、向日葵が咲いたようなふわふわの髪をじっと見つめた。いつもは下ろされている長い髪も今日は高い位置で綺麗に結ばれていて、薄く淡い花飾りがちょこんと乗せられている。

「全然似てないのにさ、名前のこと見てたらマイキーの顔思い浮かぶんだよね」
「……それ、私がマイキー君のこと好きだからじゃない?」
「うーん、まあそれもあるかもだけどさ」
「それもっていうか、それしかないと思うけどな……エマちゃん妹だし私に協力してくれてるし、そもそも似てる要素一個もないし」

 マイキー君と私なんぞが似ていて溜まるか。私はマイキー君みたいに人を惹きつけるオーラもないし、彼は不良ではあるけれど他の不良と違って女の子を殴るようなこともしないし、捻くれてもいない。彼は良い意味でも悪い意味でも真っ直ぐだ。そこが眩しいんだけど。
 私が変な顔をしていたからだろう。エマちゃんはコンパクトミラーから目線だけ此方に向けると「ウチの前だけにしときなよ、その顔」と苦笑いを浮かべた。相当酷い顔だったらしい。失礼しました。

「マイキーもね、名前と同じなんだよ」
「だから同じじゃないってば」
「ウチから見たらそうなの!」
「そんな解答じゃ三角も上げれないな」
「ほんとに同じなんだって。名前も普通の女の子だし、マイキーも普通の男の子」
「どういう……?」
「名前が周りに対して尖ってたのもある意味自分守って強く見せるためじゃん?」
「…………それ誰から聞いたの?」
「ヒナ」
「コノヤロウヒナちゃんめ!!!」
「ウチさ、名前のこと好きだよ」
「あ、ありがとう……私も好き……って、どしたの急に」
「だから名前だったらいいなーって思う」
「エマちゃん……?」

 やばい分かんない、お願いだから私を置いてかないで。とりあえず私はヒナちゃんに黒歴史を暴露されたことを怒ればいいのか悲しめばいいのかどっちなんだ。ペットボトルを頬に当てて火照る体温を冷ましていれば、エマちゃんはニッと歯を見せて「そういうことなので」とコンパクトミラーを置き、立ち上がった。そういうことってどういうこと?と聞き返したい気持ちは山々だったけれど、私の口が開く前に腕を引かれてしまう。

「さ、ヒナも着くらしいしそろそろ行こっ!」
「え、まじで!?!?ちょっと待って、アッ、緊張でお腹が…………!!!!」
「行くよ!!!!」
「は、はいぃ……!」

 慌ただしく私の背中を押して玄関に向かうエマちゃんと大混乱の私。ていうかヒナちゃんもうそろそろ着くってマジ?とうとうその時がきてしまったの?きっともう待ち合わせ場所にはドラケン君もマイキー君もいるんだろう、そして少しすればヒナちゃんと武道君も来る。カエルが潰れたような声を上げながら下駄を履き、私達は家を飛び出した。
 にしてもなんか忘れ物してそう、ポケットティッシュかな。











 悲劇が起きた。
 なんとドラケン君も武道君もヒナちゃんもそこにいたのに、マイキー君だけがいなかったのである。ドラケン君には頬を掻きながら「……悪ぃ」とただ一言謝られた。ドラケン君が悪いわけじゃないので慌てて否定したけれど、エマちゃんは何故かカンカンに怒っている。ヒナちゃんは言葉にはしないものの、口を尖らせて残念そうな顔をしていた。武道君は何を考えているのかよく分からない顔でチラッチラッと私のことを見てきたので余計なこと言うなよという圧を込めてガン見してやった。スパイはダメ、絶対。
 そして肝心の私はといえば安心したようなショックなような悲しいような、私だけ相手がいないという体育のペア作りで一人余った、みたいな現実によく分からない感情でいっぱいだった。でもマイキー君は遅刻しているだけで決して来ない訳ではないらしい。それだけは救いだけれど、虚しいのは虚しい。

「じゃあウチら先行ってるね!」

 そしてマイキー君はもう少しで来るだろうから、と私一人を残して四人は先にお祭に行ってしまった。何がどうなってそうなったのかは分からない。解せない。これは第三者による作為的なぼっちである。これを悲劇と呼ばず何と呼ぶのだろう。

 ポツン、と公園に一人残された私は時折通り過ぎる浴衣姿のカップルやグループを見送る作業を繰り返していた。ただ見送るだけは面白味に欠けるので、男女ペアの場合は既に付き合ってるか否かという迷惑極まりない推理をして遊んだ。無意味なものでも何か価値を見出さないとやっていけない。はぁ、と息を吐いていれば複数人の男女の声が聞こえて首を動かす。けれどその中にピンクゴールドの髪は見当たらない。

 もう少しで来るらしいと言われてもな。本当に来てくれるのかな、後どのくらい待ってればいいんだろう。

 車止めの防止柵の上に軽く腰掛けてぼうっと空を見上げる。まだ日は落ち切っていないものの、青みを残した空は大部分が紫陽花色に染まりかけていた。もし完全に夜になっても来なかったら諦めようかなぁ。ぽっかりと心に空いたような気持ちで顎の位置を元に戻せば、かごバッグが僅かに振動した気がした。巾着の紐を解いて中を見る。ピカピカと点滅しながら振動しているのは私の携帯で、着信中の名前を見るや否や私はその場で飛び上がった。あわあわしすぎて、応答ボタンを押すまでに少し時間がかかってしまう。

「……っ、も、もしもし……!?」
『あー名前?今どこ?』
「え!?えっと……エマちゃん達と待ち合わせてた近くの公園にいてます……」
『オレもいるんだけど。ちょっと手上げてよ』
「て、手を!?」
『うん。名前のこと見つけやすいように』
「マ、マイキー君も公園にいるんですか?私今滑り台の前の入口にいてて、」
『手上げて』
「はい」
『暫くそのままな』

 言われた通り片手を上げ、キョロキョロと携帯を耳に当てながら辺りを見渡すも、マイキー君らしき姿はない。すれ違う人達が不思議そうに私を見てくるのが恥ずかしくて顔を俯かせていれば電話口から『もっと肘上げて』と更なる指令が下った。

 ……肘上げて?
 バッと顔を上げるけれど、やはり視界の中にマイキー君は見当たらない。まさか羞恥心ゆえに肘を曲げて妥協していたのがバレていた……?恥ずかしがって中途半端な姿を見られるのは一番恥ずかしいので、ええいこうなればいっそ模範的な例を見せてやろうとピンと綺麗に肘を伸ばして見事な直線を描けば『ナイスフォーム、ナイッショー』とマイキー君から高い評価を得た。普通に褒められて喜びそうになるが、ハッと我に返る。待て待て、それはつまりどこかで見てるってことですかマイキー君。ていうかナイッショーはしてないんだけどな、本当にその人は私なんだろうか。いやでも公園で一人片手を上げている間抜けなんて私くらいしかいないはず……なのだけれど。

 人間一方的に見られている、という状況は意外にも不安を煽るらしい。

 マイキー君、と呼びかけても返事はない。もしかして切れてしまったのかと画面を確認するも通話時間は一秒ずつ刻まれているし、ガサガサと外にいるらしい雑音は聞こえてくる。そして私は貧弱なのでそろそろ腕が痛い。

「……マイキー君、」

 今度はカッサカッサと砂を蹴るような音。マイキー君は一体どこを歩いているんだろう。まさか公園?でもいない、いないよね?あれ、そういや入口って反対側にもあったっけ?

「マイキー君、」

 マイキー君、どこにいるんですか。

 プルプルと限界を迎えた腕を下ろして後ろを確認しようとした時、振り向くよりも早く強く何者かに肩を引かれた。ギョッと目を見開く。不意打ちの衝撃に携帯を掴む力が緩んだ。そのままするんと掌を抜け落ち地面に衝突しそうになるのを、後ろからヌッと伸びた白い手が掴み上げる。

 「名前、見っけ」マイクから僅かに聞こえる音声と、耳許で囁かれる声が一つに重なる。

「……、まいきーくん?」

 数センチほど離れた背中越しに感じる体温。
 夏だから人が近くにいれば嫌でも分かるし、その熱を意識してしまう。尚且つ背後から携帯をキャッチして私の肩まで掴んでいるものだから、地面にはまるで抱き締められているような影絵が完成していた。腕同士は触れ合って、時折首筋に温い息が当たるせいで心拍数がたちまち荒々しく跳ね上がっていく。

 バックンバックンと全身に心音を響かせながら私は「マ、マイキー君……!」と声を震わせた。しかし私が命を削る思いで名を呼んだというのに、マイキー君は「何?」と相変わらず耳許で、なんなら吐息混じりという先程よりもときめきスキルを上げた返事をくれる。なんてことだ。ひぃ、と悲鳴が盛れる。

「何で震えてんの」
「あ、いや……その……っ、」
「オレが遅れたから怒ってる?」
「や、ち、ちが……っ、ちちか、く、て……!」
「血?」
「ぎゃっ」

 クイッと肩から手首に滑らかに移動したマイキー君の手が私を反転させた。ぐるん、と世界が回る。毎度の事ながら、彼は不思議と私の手首や肩やらを掴んだり無遠慮に回転させる傾向があるな……それも大体猫のように足音を立てず忍び寄られるのだから、此方としては大変心臓に悪い。

「怪我してんの?」

 そのまま顔を下から覗き込まれて、耳の縁まで熱く燃え落ちそうになっていくのが分かった。もう西陽のせいで朱くなっているなんて言い訳はきかない。夕闇が迫った空は藍色の比率の方が高くなっているのだ。
 はくはくと金魚のように口を動かしていると「なんつって」そう言ってマイキー君がニッと笑った。悪戯げに眦が下がり、濡羽色の瞳の奥がキュッと細まる。………………うぇ?

「………………な、なんつ……?」
「名前顔あっけー。トマトみたい。あ、トマト嫌いなんだっけ?」
「え、あ、トマト…………?好きではない……です……」
「ウンウン。名前は辛いものは好きだけどトマトは嫌いなんだもんな」
「お、覚えて……!?」
「まあオレはトマトも好きだし赤色のものも好き」
「…………」
「あ、また赤くなった」

 私は確信した。これは完全に、完全に揶揄われている。忘れていた、マイキー君は"そういうところがある"んだった。
 これが場地であれば私の顔は見せ物じゃないぐらい言えるのだけれど、如何せん赤くなっている原因も揶揄ってきている人も目の前のマイキー君なので私は押し黙って、せいぜい眉根を寄せて顔を逸らすくらいしか出来ない。少しばかりム、とするが、それさえも溢れる別の感情に乗っ取られてしまう。

「名前ー」
「……………はい」
「怒ってる?」
「え?な、何で私がマイキー君に怒るんですか……」
「遅刻したから?」
「それは別に全然平気で……す」
「じゃあ何でこっち向かねえの」
「っ!や、えっと…………、」

 それはその。
 もごもごもごもご、私のこの使えない口はいつになったら立派に成長するんだろう。危うく自己嫌悪モードにすってんころりんしそうになるけれど、でも、確かに折角マイキー君が来てくれたのにこの態度はあまり良くないのかもしれない。
 恐る恐る顔を上げれば、待っていたかのように真っ黒な双眸と視線が絡み合う。思いのほか近かった距離にドッと心臓が一際大きく音を鳴らした。びゃ、と変な声が出そうになるその前にマイキー君が一歩退く。

「……き、来てくれただけで……私は、」

 距離が生まれたおかげでマイキー君の姿がハッキリと視界に映り込んだ。
 水浅葱の甚平に雪駄。いつもと同じ格好だ、マイキー君らしい。意図して着てきた訳ではないのだろうけれど、今日という日は夏祭だからドレスコード的には花丸である。そんな彼に途端に日常を感じ、思わず私は笑った。ふわふわの髪が綿毛を運ぶように風に揺れて、どこか甘い匂いが空気に滲んで辺りを満たしていく。

 そして私がマイキー君を視界に中央に置いているのなら、正面にいる彼だって同じなのである。
 交わった先にある猫目がちな目が私を捉えた後一回り大きくなったかと思えば、スンッとすぐに戻って、下から上へゆっくり視線が移動していく。
 居心地が悪い訳ではないけれど、こうもマジマジと好きな人に見られれば気恥ずかしさは隠せないもので。下手に動いて締められたお腹を刺激したらまた吐き気が込み上げそうなので必死に両足で踏ん張った。気分はまるで主婦に値踏みされる八百屋の野菜の気分である。

「………………」
「………………」

 相手が喋らないので私も無言だった。沈黙の間の中、彼の視線は何往復と行き来し、ようやく私の目許に戻ってくる。よもやアホ毛の角度までチェックしたんじゃないかというマイキー君は、そのまま顎に手を当てた。私はゴクン、と生唾を飲み込む。
 そしてそのまま「さすがオレ」と満足気に一言。

「オレには先見の明とやらがあるな、」
浴衣、可愛いじゃん。

 ギュウン!と電流のような何かが全身を駆け抜けた。
──あ、むり、死ぬ。顔が燃える、これはトマトどころじゃない、唐辛子ないしハバネロレベルだ。
 今のビリビリは感電死するやつかもしれない。感電死って水が要注意なんだっけ、となると今日は何がなんでもジュースを零すという失態は防がなければいけない、今日はもう絶対に蓋付きしか買わない。

 呆然とマイキー君を見つめると、色んな表情を持つマイキー君は少し照れたように頬を上げて、そしてそれを誤魔化すように目を細めるのだ。
 可愛いじゃん、って、そんな顔で言ってくれるあなたの方が、何倍もかわいいや。

「あ、ありがとう……ございます」
「よし、名前」
「はい……?」
「行こーぜ!」
「は、はい……っわ!?」

 相変わらずマイキー君は私の手首を掴んで歩き出した。掌は少しだけしっとりと湿っていて、触れ合う部分は溶け出しそうなほど熱っぽい。
 私は引かれるがままマイキー君の一歩後ろを着いていく。少し先からは熱気と祭囃子の音がごちゃ混ぜになっていて、私の下駄からもカランコロンと小気味よく足音が鳴り響いた。

「ぜってー焼きそばは食う、後りんご飴と玉子せんべいと、」
「タイ焼き?」
「おお、名前オレのこと分かってきたじゃん」
「えへへ、マイキー君検定挑めますかね?」
「そっから中身の気分まで当てれたらな」
「…………あんこ?」
「今日はなんとなくカスタード」
「気分で変わるの激ムズじゃないですか」
「簡単にクリアさせたくねえもん」

 それもそうだ。簡単にクリア出来てしまうマイキー君なんてマイキー君じゃない。……だってマイキー君なんだし。
 私がプッと笑うとマイキー君も此方を振り返り、白い歯を見せて破顔した。縁取る睫毛が悪戯に揺れて甘ったるい匂いが色濃くなる。



 人間ってやつは何かが叶うとどうしても欲張りになってしまうらしい。
 一緒に祭に行けるだけでも奇跡なのにな。今がずっと続けばいいのに、なんて、思ってしまうよ。

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