どうやら本当に心の底から驚いた時というのは、大したリアクションも取れないらしい。

──えっ。

 一瞬で離れた柔らかいもの。それの正体が分からないというほど私も鈍感ではなくて、唇に残った感触がグルグルと頭の中でかき乱れている。
 嘘、え、待って。この場合、どういう反応をするのが良いんだ。生憎恋愛偏差値が限りなく低い私は過去の経験を活かしての行動というものが出来ないので、足りない脳みそと想像力を絞り上げないといけない。跳ねる心臓を必死に押さえつけて、私はマイキー君の横顔を呆然と眺めた。
 
 ……。仮に私がここで大袈裟な反応をとったとしよう。しかし軽く触れるだけのキスは海外に行ってしまえば一転して挨拶代わりだったりする。なんなら親子でもするレベルだ。唇と唇が合わさるだけ、ただ触れて重なるだけ。あれ、じゃあ触れ合っただけ?もはやペットのじゃれ合いと同種では?

  ……って、そんなわけあるかーい。

 セルフツッコミが入ったここまで、僅かコンマの世界である。
 プスプスと思考回路がショートしそうな中、手元の力が緩んでラムネ瓶が落ちた。
 カラン、と音を立てて転がっていくそれを片足で止めて拾い上げたマイキー君は、そのままグッと手を蓋部分に押し込んだ。プシュ、と泡の抜ける音がした後、甘ったるい砂糖の匂いに混ざってどこか懐かしいようなラムネの香りが広がっていく。それを唖然と見ていた私に、マイキー君はラムネに口を付けたまま「飲まねえの?」と視線を此方に向けた。

「……っの、飲みます」

 飲む。いや、飲む、のだけれども。
 モヤッとした何かが胸元を通り過ぎた。小さな違和感でつっかえるような感覚。

 マイキー君はなんてことないようにラムネを飲んでいて、その様子はいつもとなんら変わらない。段々と激しかった心音が段々と大人しくなっていくのが分かった。もしやこれは無かったことにするパターン、はたまた意識する程のものじゃないパターンだろうか。
 本当は今すぐにでもさっきのは何なんですかって聞きたい。聞きたいけど、面倒くさい女にはなりたくない。簡単に引き下がるにはあまりに呆気なくて、それでも一人だけドキドキしているのは馬鹿みたいで、やっぱり触れた面がたまたま唇同士だっただけだと心を落ち着かせる。
 
 そして、なんせ暴走族チームの総長さんだし、と無理やり納得することにした。
 普通に接してくれるからたまに忘れそうになるけれど、マイキー君達はあくまで不良サイドの人間なのだ。そういった事にも慣れていたっておかしくはない。……まあ私は初めてばっかりだけど、なんて、結局全部一方的な価値観の押し付けでしかないのだけど。

 受け取ったラムネを見よう見まねで膝の間に挟んで、両手を使い力いっぱいキャップを押し込む。確かマイキー君はこうやって開けていたはず……カタンッとビー玉が落ちる音がしたので成功したかと手を離した時だ。

「びゃっ!?」
「!?」
「す、すみませ……あああ垂れてる!」
「あーあ、すぐ離すから」
「離したら駄目だったんですか!?」

 たこ焼きのお兄さんしかり、そういう大事な情報はもっと早く言ってほしいな!?そういえば炭酸飲料なのに落としたり適当な扱いをしてしまっていたような気もする。シュワシュワと溢れた中身が指の付け根から手首へと垂れていくのを見て青ざめた。待ってやばい、普通にマズイ。あたふたと鞄の中からウエットティッシュを取り出せば、一部始終を見ていたマイキー君に笑われる。

 「下手くそじゃん」と言われて返す言葉もないのでムッと手を拭いていれば、何故か更に笑われた。飲んだことがないのだから、下手くそで当然じゃないか。むしろ下手くそで何が悪い、少しやさぐれている私は心の中で吐き捨てた。そもそも飲むだけでこんなテクニックが必要なんて初見殺しすぎるのが悪いのだ。

「……だって、初めてなんですもん」

 顔を顰めながらウエットティッシュでラムネ瓶を丁寧に拭いて口に付けると、ぱちぱちと控えめな炭酸が口の中で弾けた。なるほど、これが夏の風物詩の味。程よい甘さで確かに美味しいけれど、なんだかビックリするぐらい想像通りの味という感想だ。期待しすぎたからか、いっそ一周まわって面白かった。そしてふと思う、きっと全部そんなもんなんだろうな、と。
 一人そう頷いていれば、カランと音がして隣を見る。

「初めてなの?」

 二つの黒い瞳は相変わらず真っ直ぐに私を見つめていた。先程のこともあったから思わず逸らしそうになるけれど、なんとなくここで逸らすのも負けたような気がして、目は合わせたまま「初めてですが……!?」ギュッと手元のラムネ瓶を握りしめる。
 すると、どこに何の要素があったのか、何故かマイキー君は嬉しそうに目許を緩ませた。それだけで私の心拍数は上がるしフライパンで何度もひっくり返されたような心地になるのだ。……勘弁してほしい。

「オレこの歳でラムネ初めて飲むやつが初めて」
「……私、そもそも食べ物とかよりもクジとか金魚すくいとかそっち系が好きだったんですよ」
「えー何で」
「だって食べ物はすぐ無くなっちゃうし」
「形に残したいってやつ?」
「ってのもありますし、損得勘定というか」
「オレ、逆に金魚すくいとかやったことねーや」
「ええ!?」
「掬ったあとってどうすんの?それ」
「金魚ですか?」
「そう、金魚」
「家で飼える人は持ち帰って、そうじゃない人は戻してましたね」

 私の家もペットは飼えないと言われてたから、散々ゴネては泣く泣く水槽に戻していたっけ。なんだか懐かしい。

「後でやってみますか?金魚すくい」

 もしかしたら興味があるのかもしれない。そう思って誘ってみれば、マイキー君は此方をチラリと見た後「やんない」と即答した。若干乗り気でいた私は普通に断られて一瞬間抜けな顔になる。ち、挑戦したい訳ではなかったのか……。

「だって折角取ったのに返すのってなんかやだ。取った意味ねえじゃん」
「お家で飼うとかは?」
「んー」
「あ、別に無理してやらせるつもりはないので……!すみません……」
「いや別にいいけど」
「マイキー君?」
「オレ、殺しそうなんだよね」
「殺しそう?」
「金魚」

 世話とかできねえし。

 つまり、紙ポイで掬い上げた瞬間その金魚はマイキー君のものだから元の水槽には戻したくないけれど、お世話するのは苦手だしその内殺してしまうかもしれない。でもそれはそれで自分の手の内から消えてしまって嫌だから、だったら初めからやりたくないってことだろうか。

「…………なるほど」

 じゃあ、無しだなぁ。








 


 それからは暫く当たり障りのない会話をしていた。多分何の話してたの?と聞かれても何の話してたっけ?と逆に聞き返してしまいそうな、そんな雑談。気付けばとっくにラムネは空っぽになってるし、沢山買ったと思った食べ物も無くなってしまっていた。

「お腹いっぱいですね」
「まだ食えるけどな」

 この後はどうしよう。金魚すくいは無しとして、そうなると射的やヨーヨー釣りとかをやってもいいかもしれない。マイキー君はまだ食べれるとは言っているものの、たまには遊びに走ったっていいだろう。

「次はどうしますか」

 そわそわとしながらそう呼び掛けた時──静謐な空気に着信音が響いた。
 
 私はマナーモードにしているはずだから、必然的にマイキー君の携帯ということになる。目が合ったから『出てください』とジェスチャーをすれば、白い画面の明かりがぼんやりと宙に浮いた。
 りんご飴の棒を唇に挟みながら電話に出たマイキー君は「あー何?」と二、三言会話を交わしたかと思うと、その表情を一変させる。

「…………は?…………ぺーやんが……それどこ…………分かった………死ぬ気で止めてろよ」

 ぽたぽたと、石段に雫が弾けた。あれ、と空を見上げればいつの間にか分厚い灰色の雲が月を覆い隠してしまっている。

「マイキー君、雨が……」
「──すぐ行く」

 すっかり東京卍會の総長の顔に切り替わった彼は、先程までの緩い笑みを消してスッと立ち上がった。同じように私も立ち上がるけれど、素早く階段を駆け下りるその背中を見つめることしか出来ない。その手にはバイクのキーが握られていて、緊急事態が起きたのは明白だった。

 通り雨だろうか。ぽたぽたと水玉を作る程度だった水滴は、一粒一粒が目に見えるくらいの大粒の雨になって染みを広げていく。

 あっという間に下まで降りたマイキー君は、そのまま行ってしまうかと思ったら、「悪ぃ、名前。オレ行かなきゃ」立ち止まって此方を見上げた。
 私は男の子じゃないから一緒に行くことも出来ない。彼を止める資格なんざ何処にもない。むしろたった今この瞬間だって惜しくて早く行きたいだろうに。分かっているけど、真剣な顔をしたマイキー君にどういう表情を返したら良いかは分からなくて、ゴクリと息を飲んで拳を握り締める。

「…………マイキー君、あの、」
「名前は今すぐ家に帰れ」
「今すぐ?」
「多分戻って来れない。エマとかヒナちゃんと連絡取れるなら取っといて」
「わ、かりました」
「一人でうろちょろすんなよ」
「……雨には気を付けてくださいね」
「オレのこと誰だと思ってんの?」

 そう言われてしまうと、そりゃそうだと頷くしかない。だって彼は無敵のマイキー様なのだから。ぎこちなく笑って、無理やり唇を吊り上げる。

「マイキー君、行ってらっしゃい」

 私が言い終わると同時にマイキー君は駆け出した。ただでさえ雨で視界が悪いから、直ぐにその姿は見えなくなる。さっきま漂っていたりんご飴の甘酸っぱい匂いと空気も、あっという間に雨で上書きされてしまった。
 電話が掛かってきた時点でなんとなく覚悟はしていたけれど、急展開がこう何度も続くと流石に参ってしまうな。蹲りたい気持ちを押さえ、両手で頬を叩く。
 とりあえずこのゴミを片付けて雨宿り出来る場所を探さないと。頭の上にハンカチを乗せると、せっせと両手に残骸を抱えていく。折角ラムネで浴衣が濡れることだけは回避したというのに、これではまるで意味が無い。そもそも今日雨降るとか言ってたっけ?ああでも、エマちゃんと家を出る時何か忘れ物をしているような気がしたんだ。そうか、あの時の違和感の正体はこれだったのか。

 満身創痍で屋台の通りに戻ると、困ったように雨宿りしている人達をチラホラ見かけた。これじゃあ祭にならないし、このまま降り続けるようなら屋台も閉めて中止になるんだろう。
 ゴミ捨て場の近くに偶然雨を避けれそうな場所があったから、一旦そこで立ち止まって頭を落ち着かせる。家に帰るにしてもこの雨じゃ流石に傘は買わないといけない。この辺りにコンビニとかあったかな……それとも下手に動き回るよりここで止むの待った方が良いのなぁ。

 一人ぽつんとずぶ濡れで立ち竦む私は、通り過ぎる人達の目にどう映っているんだろう。あまり視線を意識したくなくて水没を避けていた携帯を取り出せば、何件も着信とメールが入っていた。エマちゃんにヒナちゃん、場地や三ツ谷君からもきている。慌てて内容を確認すれば、やはりというかマイキー君の場所を聞くものだったり、私の安否を確認するものが殆どだった。只事じゃないし、ほぼ確実に近くで抗争が起きてる。この土砂降りの雨の中で。

「…………マイキー君」

 着信履歴の一番上にあった人に電話を掛け直しながら、今日何度目か分からないその名前を呼んだ。無意識に片方の手が唇に触れていることに気付いて嗤いそうになった。名前を呼んでも私を見つけてくれる人がいるわけでも、お面を着けたヒーローが来てくれる訳でもないのに。本当に女々しい奴だ、メソメソと気持ち悪いったらない。

 山岸に散々教えて貰ったから抗争というのはそこらの喧嘩レベルじゃないことは理解している。マイキー君は総長なんだから、抗争が起きれば行かないといけないし、仲間がピンチだったらそっちを優先するのは当たり前なのだ。比べるまでもないのに。私がついていっても邪魔なだけだし、何の役にも立たないし。モヤモヤするのは好きな人との初デートだったからで、初めてが多かったからで、どうしようもないって分かってるからで、不安で、心配だからで、
 
「あーーーーーー……」

 無機質な音が続くばかりで、なかなか電話も繋がらない。堪らずその場に蹲る。湿った浴衣が頬に当たって死ぬほど気持ち悪いけど、お腹の底で色んな感情がグルグルしていて、その方がもっと気持ち悪かった。

/top
ALICE+