仕方の無い事柄なんてそこらじゅうにある。例えばマイキー君は常に人に囲まれていて、きっとそれこそ毎日が祭のような日常の中で生きていて、対する私はその真逆とも言える立ち位置にいる。突然一目惚れだなんだと横入りしただけで、そもそも世界が違うのだ。………………うん。そう思い込めばなんだかヘッチャラな気がしてきた。実際ここで私が悲しい虚しいと嘆くのもなんだか違う。望みすぎ、お門違いってやつ?

 じっとりと汗と湿気で肌に張り付く髪を払いながらヨロヨロとその場に立ち上がる。

「………………帰ろ」

 未だに雨は止みそうにないけれど、どうせ既に濡れてしまっているのだから今更変わらない。ここでウジウジと途方に暮れるだけよりは数倍マシだろう。
 目元だけ手で守りながら、小走りで人波を縫っていく。カランコロンと鳴る下駄の音は、数時間前と比べると酷く虚しく響いていた。過ぎ去り際に跳ね返った水溜まりが鼻緒付近に当たってヒリヒリする。きっと靴擦れ部分に染みてるんだろう。一応絆創膏を貼ってコレなのだから、貼らなかった時のことを考えたらゾッとした。やばいなぁ、帰ったらすぐに洗い流して消毒しないと。

 無心で雨の中を進み、気付けば待ち合わせの公園あたりまで戻っていたらしい。屋根になりそうな場所を少し先に見付けたので小休憩を取ろうと足を速めると、公園には似つかわしくない物音が耳を掠めた。思わず立ち止まって辺りを見渡す。雨のせいで分かり辛いけれど、確かに聞き覚えのある声も聞こえた気がしてフラフラと引き寄せられそうになる。

「……、?」

 けれど、不意にマイキー君の『一人でうろちょろすんなよ』そんな言葉が頭に浮かんだ。これじゃあ躾のいいワンちゃんだなぁ。そう笑いそうになりながらも、グッと拳を握りしめて再び雨の中へ走り出す。だって今すぐ家に帰れって、そう言われたんだから。マイキー君がそう言ったんだもん。そうするのが正しい。うん、きっとそうだ。
 

 







 家に着いた頃には、それはもう酷い有り様だった。
 浴衣も髪もカバンもずぶ濡れ、最後は若干ハイになって走ったせいで、ほつれて乱れた髪は原型を留めていない。茂みから出てきたらホラーだな、なんて鏡を見て笑っていればお母さんは今にも倒れそうな顔をしていた。どうして傘を持っていかなかったのとか早く浴衣を乾かさなきゃとかネチネチと小言を言われ、そのままお風呂場に押し込まれる。

「……まあでも、確かに酷いや」

 下着まで濡れて気持ち悪いのも事実なので、特に抵抗もせず言われるがまま浴衣を脱いで浴室へ入る。雨に打たれ続けた身体は思いのほか冷えていたのか、温かいシャワーにじいんと芯まで沁みていくのを感じた。
 モコモコと身体を洗いながら脚元を見遣れば、足の指と指の間に貼っていたはずの絆創膏は捲れ上がって、ずるりと皮が綺麗に剥がれている。直視すると中々グロい。よくこの状態で走れたな……と思うけれど、きっとマイキー君といたのもあってアドレナリンが出ていたんだろう。
 しかし一度傷口を見てしまえば色々と痛覚が戻るもので。シャワーのお湯が患部へ当たる度に呻き声が止まらなかった。浴室の中はそんな呻き声も反響する。視覚から聴覚から痛みを痛感させられ、なんだか耐えきれなくて涙まで出てきた。グズグズと泣きながら全身を洗い流す。
 途中から痛くて泣いてるのか何で泣いてるのか、眦に流れる熱いものが涙なのかお湯なのか、もう訳が分からなかった。

「〜〜〜〜っ、はぁ……」

 湯の張った浴槽に恐る恐る爪先から沈めていく。突き刺す痛みに声にならない声が漏れたけれど、最初だけ、最初だけだ......と唱えながら肩まで浸かれば、心地良さに全身が包まれた。堪らず顔を覆って息を吐く。ずっと緊張状態だった身体がようやく解けたというか、なんというか。

「………………つかれた」

 そもそも色々ありすぎたのだ。
 マイキー君と初めてのちゃんとしたデートだった。夏祭り自体久しぶりだったし、まだまだやりたいこともあった。それに──、口許に手をやれば今でも鮮明に思い出せる柔らかい感触。

『思い出、できた?』

 そう言って笑ったマイキー君のことも、キスのことも、エマちゃんとヒナちゃんに真っ先に相談したかったし聞いてほしかった。キスしてきたくせに、簡単に私の前から居なくなってしまう。こんな解散の仕方をしたんだ。あのキスも……無かったことになるんだろうか。
 ブクブクとお湯の中に口許まで沈んで息を吐き出す。駄目だ、こんなこと考えたって仕方ないのにな。

 柄にもなく思考に耽ってしまったせいで、お風呂から上がる頃には若干逆上せ気味だった。ドライヤーを使うのも面倒くさくて半乾きのままベッドに俯せで倒れ込むと、無意識のうちに深い溜め息が出る。

 ……もう、このまま寝ようかな。

 ぼうっと目蓋が重く微睡んでいく。このまま寝落ちしそう......そう浅い眠りに意識が沈みかけたその時、唐突に握りしめていた携帯が音を鳴らした。無視することも出来たけれど、続けざまにもう一度音が鳴ったから渋々携帯を確認する。新着メールが二件。相手はどちらもヒナちゃんからだった。こんな時間に連絡がくるということは電源でも切れてたんだろうか。
 そんなことを思いながら何気なくメールを開いて──心臓が止まった。

「……………………え?」

 暫し愕然と文面を眺めた後、慌てて飛び起きる。そのまま必要なものだけポケットに突っ込んで、ズボンだけ履き替えて慌てて部屋を出る。お母さんにバレると流石に止められそうだったから、静かに玄関のドアを開けて自転車に跨った。幸い二件目に載っていた病院名はそう遠くないから、死ぬ気で飛ばせば15分くらいで着くかもしれない。土砂降りだった雨はいつの間にか小雨程度になっていて、一応折り畳み傘はカゴに入れたものの、この位だったらそれほど支障はなさそうだ。

 考えれば考えるほど心臓の鼓動が早まる。脈拍が上がって息が切れる。
 生きる世界は違うのは分かっていたけれど、ただの不良の喧嘩じゃないのだろうか。怪我をする程度じゃないのか。でも事実、命の危険と隣り合わせな、そんな世界にマイキー君達はいて、ドラケン君は刺されたということで。

「…………ッ……ドラケン君」

 正直甘く見ていた。そんな怖いことが起きるなんて予想もしてなかった。ドクドクと全身に響き渡る心音に指先が震えそうになる。私はどこまで踏み込んでいいんだろう。どこまで踏み込みたいんだろう。ていうか踏み込んでいいんだろうか、私なんかが。本当は、本音は、私は──。不安と焦燥とで頭の中には色々なことが無限に浮かんでは消えていく。

(……………………怖い、なぁ)

/top
ALICE+