蝉の音で目が覚めた。
 ココ最近家の敷地内に抜け殻が沢山落ちていると思っていたけれど、やはり大量の蝉が植えられた木々に止まっているようだ。めちゃくちゃな蝉の韻律に誘導されるがままにゆっくりと目を開けば、カーテンの隙間からは朝日が漏れ出ている。まだ少しぼうっとする頭を動かして壁掛け時計に目を遣るも、短針は6時を回ったばかり。私の目覚ましより約一時間も早かった。耳に入るのは微かに聞こえるエアコンの空調音と大合唱をしている蝉の音のみ。
 理不尽に起こされたと言っても過言ではないが、しかし、そんな事で怒る私ではない。普段であればどうやって蝉を一匹残らず駆逐するかを考えるだろうが、今の私はこの状況さえも寛容に受け入れる器の広さを持ち合わせていた。
 そんな真綿に包まれているような幸福感にいる私は、にんまりと上がる頬を押さえながら、布団の中でゴロンと寝返りを打つ。頭に浮かぶのはポテチを囲む可愛い不良君達。そして、マイキー君だった。きゃあ、と枕に顔を押し付けて手足をばたつかせる。マイキー君とコンビニ前で偶然出会って、あろうことか家に送ってもらえたなんて。まるで嘘みたいだ。信じられない。暫くは夢に出てきそう。そう、夢に。
 ……夢に、出てきそう。
 突如カッと目が見開いた。勢いよく起き上がったせいで肩から布団がずり落ちていく。夢みたいな。そう、あれは紛れもなく夢みたいな時間だった。途端に上がっていた口角は下がり、スンと体温が下がっていく。
 もしかして、それって、つまり、

「…………夢オチ?」

 い、いやいや、そんなバナナ。まさか、あんなリアルな夢があり得るものか。そうは言いながらもベッドから飛び出て、まず探すのはノートである。もしそれが無ければそもそも私はコンビニに寄ってもいないことになるのだ。「……ある」けれどそれは呆気なく見つかってしまった。コンビニで貰ったレシートもしっかりあるし昨日羽織っていたパーカーも無造作に脱ぎ捨てられている。
 ということは、コンビニに行ったことは自体は夢じゃない。夢じゃないけれど、マイキー君と偶然出会って一緒に帰ったという事実の確かめようが無かった。もしかしたら現実とごちゃ混ぜになった紛らわしい夢だったという可能性も否めない。実際何度か私は幼少期に夢と現実の区別が付かず頓珍漢な言動をしたことがある。最悪だ。証拠を残しとけば良かった。いや証拠って何よ気持ち悪いなって話なんだけど……。
 もう一度背中からベッドに倒れ込んだ。ボスン、とスプリングの軋む音がする。確かめようが無い、だって別にマイキー君の連絡先を知っている訳でもないし。

「…………」

 相変わらず蝉の声がうるさい。はあ、今日も暑いのかなぁ。



 そうして夢の可能性も捨てきれず、浮かれることも出来ないまま学校へ向かった。もし夢だったならどこからどこまでが夢だったんだろう。おかげで先生が話している内容は全く頭に入ってこない。それでも一時間目の数学はやっぱり板書も多くてノートを買って良かったと思った。
 カチカチとシャーペンを鳴らしながら、肘をついて組んだ手の上に顎を乗せる。
 そうして一度目蓋を伏せたらもう駄目だった。夢を見るときは睡眠が浅いからだといつかのテレビで言っていたっけ。トーンも一定の先生の授業が途端に子守唄のように感じ、ウトウトと何度か居眠りを繰り返しながら授業を受けていれば、とある休み時間にヒナちゃんが私の机の前に立っていた。相変わらず頬杖をついていた私は目線だけを上げて「どしたの?」と口にする。

「きょ、今日ね」
「うん」
「タケミチ君とボーリング行ってくるね」
「ボーリング」
「うん」
「行ってらっしゃい」
「う、うん」

 それだけ言ってヒナちゃんは自分の席へと帰っていく。あれ、本当にそれだけ?私は思わず彼女の背中を見つめるも、そのタイミングで授業開始のチャイムが鳴った。そんなのお昼休みの時に言ってくれればいいのに。
 そしてつまらない古典の授業を受け終わった後、どうして彼女が妙にそわそわしていたのかが発覚したのだった。

「た、短縮授業…………」
「忘れてたの?」

 いつものようにヒナちゃんとご飯を食べようと席を立てば、クラスの空気が何か違うことに気が付いた。皆いつもならすぐにでも購買に向かったり席を合わせたりしているのに、今日は全くもってそんな素振りが無い。何なら一斉に鞄を取り出していた。え、え、と戸惑いながらヒナちゃんの席へ向かえば、彼女も鞄を机の上に乗せ教科書を直している。いかにも帰る準備をしていますという雰囲気を見て、漸くとある可能性が脳裏を過ぎり、冒頭へ戻るわけだ。

「…………忘れてたし何の予定も入れてない。終わった」
「家でゆっくりするとか?」
「キラキラの学生なのにそんな疲れ切ったサラリーマンみたいなことしたくない……」

 悲しい寂しいもどかしい。ヒナちゃんの席の隣に座りベタァと上半身を机にくっつける。短縮授業だって分かっていたなら何かしらの予定を入れたのに。各々デートだったり遊びの予定を入れている中、私だけ悲しく帰宅というのはあまりにも悲しい。
 グズグズと拗ねる私をヒナちゃんは何とも言えない表情で見つめた後「そうだ!」ポン、と手を打った。何を提案したって武道君とデートのくせに……恨みがましい視線を送る私を無視して、彼女は悪戯っ子のような笑みを浮かべる。

「エマちゃんがね、今日ドラケン君達とカラオケ行くんだって」
「エマちゃん?」
「そうエマちゃん」
「エマちゃんって誰?」
「優しくてね、すっごく可愛い子」
「そうなんだ……」
「そこにマイキー君もいると思うよ」

 へえ……と相槌を打っていて、この会話の行きつく先を察してしまった。思わずヒナちゃんを凝視するも、彼女はドヤ顔を浮かべている。
 「ま、まさかそこに混じって来いってこと?」恐る恐るそう尋ねればキョトンとした顔で「駄目かな?」と口にしている。そうだ、ヒナちゃんはこういう所があるんだった……。
 そもそもエマちゃんは顔も知らない初対面だし、ドラケン君やマイキー君でさえまだ仲良しとは言い難い。ていうかマイキー君、女の子と遊ぶんだ……しかも優しくて可愛い女の子と。いや、女の子の友達くらいいて当然なんだけれど。頭ではそう理解しているのに、私の心は曇り空のようにどんよりとしている。
 夢オチ説が再度脳裏に過り、余計に力が抜けてしまった。
 なんだか悲しさが増してしまった私は、もう一度机に突っ伏す。困ったようなヒナちゃんの声が聞こえるけれど「楽しんでね……」亡霊のように片手だけゆらゆらと挙げておいた。暫くして鞄の閉める音がした後「行ってくるね」ヒナちゃんの足音が遠くなっていき、やがてその足音も聞こえなくなった頃には、時を刻む無機質な音だけが響いている。

「……はあ」

 廊下を亀より遅くノロノロと歩いても誰も文句を言う人がいない。これは結局ヒナちゃんの言う通りお家でゆっくりするしかなさそうだ。何か面白いDVDでも借りようかなあ、最近何か流行ってたっけ。階段を下りた先にはもう下駄箱にも当然生徒の影は見えず、マリアナ海溝よりも深いため息なんぞいくらでも出せる気がした。そうしてローファーに履き替え上履きを下駄箱に戻すのと、目が覚めるような力強いバイク音が響くのは同時のことだった。学校の前で止まった派手な単車。ハッと視線を外に遣れば、劣らず髪色が派手な人がその上に跨っている。
 私は反射的にくるりと下駄箱の影に隠れた。知らない。シルバーの短髪ヘアの人を、私はこの学校で見たことがない。つまりうちの生徒じゃない。
 ヘルメットも着けていないその人は、軽々とバイクから降りたかと思えば「あれ?誰かいねーの?」と口にしながら此方へと向かってくる。
 私は自分を呪った。
 他校の学生がやって来ることはそんなに珍しいことではないけれど、その理由のほとんどは挨拶(物理)だったり御礼参り(物理)なのである。例外はほとんど無かった。そして短縮授業で校内に生徒は残っていない。けれどそんな理由で「はいそうですか」と帰る不良くんもそういない。私が見つかったらきっと知らない先輩やクラスメイトの居場所を聞かれて理不尽に詰められて、最後には、最後には。

「あ、いた」
「ヒイイッ!」
 
 普通に見つかった。
 終わった。私死ぬんだ。恋を覚えたばっかりなのに。まだ雛鳥なのに。マイキー君に告白も出来てないのに。ずるずると下駄箱を背に床へと落ちていく私を目の前の彼は見下ろしている。
 そうしてその右腕が徐々に近付き、私は覚悟を決めてギュッと固く瞼を閉じ、

「大丈夫か?」

 ーー殴られなかった。
 むしろ腕を掴んで引っ張り上げてくれたし、肩からずり落ちた鞄を拾って「ん」と差し出してくれた。とってもテキパキとしていた。拍子抜けした私は素直に受け取り自然と「ありがとうございます」なんて言葉を返している。あれ、おかしい。思っていたのと違う。

「なあ誰もいねぇのって何でか分かる?」
「えっと……今日短縮授業だから」
「……は?何それ聞いてねえんだけど?じゃあ皆帰っちまったのか!?」
「うん……」
「うっわまじかよ……」

 しかも私と同じような反応してるじゃん……目許を押さえて嘆く目の前の彼は全然悪い人に見えず、私は唖然と彼が落ち着くのを見守っていた。片耳に付けられた黒いリングピアスにシルバーアッシュの髪。どう見ても不良くんだ。なのに全然怖くない。むしろめっちゃ好印象である。

「誰か探しに……?」
「あんたが知ってるか分かんねェけどタケミっ………あー、花垣武道って分かる?」
「た、武道君ですか?」
「お、知ってる?タケミっち迎えに来た」

 しかも探してるの武道君だった……。
 武道君は今日ヒナちゃんとボーリングに行っていますと、そんなありのまま伝えていいものなんだろうか。お前俺を売りやがって……と後から怒られるだろうか。一瞬ばかり悩んだけれど、まあ武道君だしいっか、とバカ正直に伝えれば「あー……デートね」と不良さんはため息を吐いている。その反応で武道君の仲間なのだと確信を持てた気がした。
 となると、かなり可哀想である。わざわざ他校まで時間を割いて迎えに来たのに、本人どころか誰もいないなんて。

「てかそっちは何で学校いんの?」
「うぇっ」
 
 突然の振りに私は固まった。虚をつかれた私は思わず情けない声が出る。

「もしかして苛められてる?」

 そしてそれは違う。
 チラリと不良さんを見れば本当に分からないといった表情で私のことを見つめていた。いじめられっ子というは不名誉な認定はされたくないので素直に短縮授業を忘れていたことやヒナちゃんと武道君のことを伝えれば、段々と哀れみを帯びた表情になっていく。まあそんな顔にもなるよね……。
 しかし数秒後、何かを思いついたように「そういや俺、三ツ谷隆」そう言うと、彼は凛々しい面持ちで私の顔をじっと見つめていた。突然の自己紹介に驚くも次は私の番だと催促されているような気がしたので「あ、名字名前です……」とぺこりと頭を下げる。

「ん、名前な」
「よ、宜しくお願いします」
「てか思ったんだけど」
「はい?」
「名前、タケミッちと彼女誘って俺等と合流すればよくね?」
「……三ツ谷くん?」

 だってマイキーとかドラケンとも会ったことあるんだし、タケミッちの彼女の親友だろ?問題なくね?続けて発される言葉に私はパチクリと目を瞬かせる。それはつまり友達の友達は友達ってことだよね。
 きみ達の思考回路は時折レベルが高すぎてついていけないよ、ヒナちゃん……。

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