私には、最近心が躍るようなお楽しみがある。チラリと視界の隅に飾られるカレンダーを見て、グッと拳に気合いを入れた。服装オッケー、髪型オッケー、お化粧だって研究して施してある。そう、今日は待ち望んだ水曜日、私のお気に入りの喫茶店に行く日なのだ。グググ……!と握り締めた拳を胸に抱いていると、ピコン、とスマホが軽い電子音を鳴らした。なんだなんだとスマホを開けば『今日カラオケ行かない?』と大学のお友達から連絡がきている。カ、カラオケかあ……行きたい……ぶっちゃけ行きたい……けど……ごめん!

『まじでごめん今日予定あるんだ』

ちなみに勿論予定なんてものはなく一人で喫茶店に行くだけ、隙間だらけのスケジュールである。けれどこの日ばかりは他の予定と混ぜ合わせたくなくて、やっぱりお誘いは丁重にお断りさせていただいた。残念そうに口を尖らせるお友達の姿が簡単に想像出来る。明日あたり軽く愚痴られそうだ。もう一度追加で謝罪の連絡を入れ、私はドキドキと高鳴る胸を押さえ、家を出た。

──その喫茶店は、約二ヶ月程前に、偶然見つけたお店だった。真っ白い入道雲がぷかぷかと浮かぶ夏の真昼間、喉が渇きすぎて死ぬのでは?と命の危機を感じていた日のことだ。散歩でもしようとシブヤから離れて彷徨っていたのはいいものの、何故か周囲にコンビニが見つからない。朝家を出る前から何も飲まず食わずで、喉の渇きは限界に近づいている。やばい、カラカラ過ぎて声も出ない。自動販売機も見つからないし、ああ此処が世の果てかと絶望と地獄を垣間見た時、砂漠の中にポツリと佇むオアシスのように目の前に飛び込んできたのが、この喫茶店だった。店の前には観葉植物が沢山置かれていて、蔓が太陽に向かって煉瓦の壁に伸びている。まるでジブリに出てきそうなレトロなその風景に、何故だか私は酷く心惹かれた。フラフラ〜と導かれるように店の扉を開けると、来客を知らせる鈴の音がチリンチリンと耳を掠める。途端にひんやりとした冷気が身体を包み込んで、ああやっぱり此処はオアシスだと本気で思った。重厚な雰囲気に満ちた店内は、まるで大正時代にタイムスリップしたかのような感覚にさえ陥ってしまう。それでも汗はすぐには止まらず、頬に垂れる汗を拭い、張り付く髪を背へと追いやった。本当に今日は暑い、暑すぎる。

「いらっしゃい」

渋めの声が少し先から聞こえて首を回すと、エプロンをかけたおじさんが一瞬だけ私を見て、そしてまた作業へと戻る。あ、なんか自由な感じなのかな。それならば遠慮なく好きな場所に座ろうと、一際目を引いた赤いソファに腰掛けた、その時だった。何気なく見渡した店内に、店主さんだと思われるおじさんを除き、一人だけお客さんらしき人影があったのだ。その人影を目に入れた途端、私はゴクリと生唾を飲んだ。同時に心臓が楽器を奏でるようにトクトクと脈打ち、顔の内側がじっとりと熱を持っていく。一目惚れだった。書生のような服を着て、長い睫毛に隠された瞳は、手元に広げられた雑誌の文字を追っている。私は時が止まったように固まって、その人のことを見ていた。怪訝そうに店主のおじさんが声を掛けてくるまで、ずっと。

「……お姉さん、ご注文は?」
「……メロンソーダで」

こんなの今思い返せばただの不審者だ。おじさんの怪しいものを見るような目付きは正しい。注文したメロンソーダがキラキラと光彩を放つ様を見ながら、私は決心したのだ。……此処に通って、あの麗しい青年を、出来る限りまで目に焼きつけると。



そして、約二ヶ月間、私は飽きもせず今でも喫茶店に通っていた。飽き性の私がここまで長続きするのも珍しいので、正直自分でも驚いている。でも、だって、と言い訳をしながら、今日も私は例のごとく喫茶店の前に立っていた。毎週水曜日、昼下がり。何となく私の中で決まったルーティンは、初めて出会った日が水曜日だったから、という呆気ない理由だったりする。でも、実際それ以降も水曜日を狙って来たら彼はそこないるのだ、問題ない!私はスーッと大きく息を吸って、一気に吐き出す。

「ああ、いらっしゃい」

チリンチリン、と来訪を知らせる鈴の音も、随分と聞き慣れてしまった。初めは怪訝そうに私を見ていた店主のおじさんも、気づけば優しい笑みを浮かべて出迎えてくれるようになっている。「今日もメロンソーダかい?」と聞いてくるおじさんに私は不敵な笑みを浮かべた。

「今日は珈琲にしてみます」

そう言うと、おじさんは少し驚いたように目を丸め、そして既に触れていたグラスから手を離し、珈琲用のカップへと手を伸ばす。初めてここに来てから約二ヶ月、季節は夏から枯葉の吹く秋へと変わっている。氷の入ったメロンソーダは、そろそろ卒業だ。代わりに今日は、珈琲先輩の秋の入学式である。チラ、と赤いソファに沈んで顔を隠すようにしながら、奥の席を覗き見ると、やはり今日も美しい青年は睫毛を伏せ、本を読んでいた。その手元には、私と同じアンティークな珈琲カップが置かれている。

「苦かったら言ってくれ」
「は、はい!ありがとうございます」

コト、と置かれた珈琲は真っ黒な割に随分と澄んでいた。ブ、ブラック……ッ。甘ったるいメロンソーダからのいきなりブラック珈琲とはなんたる進化だ。の、飲めるかな……。恐る恐る口をつけて見ると、キツい苦味の後に酸味が口の中いっぱいに広がって、思わず「うええ」と顔を顰めた。「やっぱり苦かったか」なんて笑ってくるおじさんに、激しく頷く。分かる、この芳ばしさが良いのだということも、このスッキリとした酸味こそがキモだということも、言いたいことは分かる。けれど私はカフェオレじゃないと飲めない。白黒つけない、優しいカフェオレが良い。ブラックなんてまだまだ先の話だった。

その時、クスクスと綿毛が風に靡くような、儚げで綺麗な笑い声が聞こえた。え、と顔を上げるけれど、店に入る時に店内の様子は抜かりなくチェックしている。今日は間違いなく店主のおじさんと、例の青年しかいなかったはずだ。今私とおじさんは二人で会話んしている。でもおじさんは笑っていない。……え、まさか……?ゴクリと息を飲んで店の奥を見れば、口元に白い袖を当て、肩を揺らしている麗しの彼がいる。「……へ?」無意識に出た声は、あまりにも間抜けだった。パタン、と本を閉じ席を立った青年はゆっくりと、しかし確実に私の元へ歩み寄ってくる。え、え、と突然の展開に私の頭は真っ白で、その場に磔にされたように固まっていた。

「ブラック、飲めないんですね」
「……ブラック、の、飲めませんでした」

歌うような声が、鼓膜を撫でた。
カタン、とカップと受け皿の擦れる音が店内に響く。

それが私と彼の、念願の初会話だった。


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