私はおじさんに、心の底から感謝していた。
何故なら、私がブラックの珈琲を飲めないばかりに、この人は私のことを視界に入れ、更には腰を上げて話しかけるなどという所業を行ったからである。間近でその麗しさを目の当たりにして、私はお店の雰囲気もあってか、まるで異世界にいるような心地でいた。茂みのような濃い睫毛に囲われる瞳は、光の当たり方で色を変え、スタンド硝子のように煌めいているし、降り積もった新雪のような肌はいっそ神々しささえ感じる透明感を放っている。クスリと微笑む度に零れる吐息でさえ、私が恥ずかしくなるくらい繊細な音色だった。そんな彼が、目の前に立っている。

私はカァァと顔を赤くして、彼を見つめ返すだけで精一杯だった。二ヶ月、彼を見るためだけに通ってた。いつか話したいな、そんな願望だって勿論持ち合わせていた。けれど、こんな、急に……!心臓の準備がまるで出来ていない……!不意打ちだ……!石のように固まっている内側ではぎゃあぎゃあと戦争が繰り広げられているのだが、そんなことは露知らない麗人は、口角を上げ、ニコリと笑いかけてくる。

「少し前から通われていますよね」
「……は、はい。お、お邪魔しております……」
「ふふ、何故謝るのです?小生の家ではありませんよ」
「で、でも……いきなり、その……通ってしまって……隠れ家だったかもしれないのに」
「ああ。別に何とも思っていませんよ。むしろ数少ない喫茶仲間が増えたと思っています」
「き、喫茶仲間……!」

なんと甘美な響きなんだろう、と私は斜め下を見ていた視線を上げた。ス、といつの間にか私の向かいの席に座った彼は少し離れたカウンターで雑誌を読むおじさんに「小生にももう一杯珈琲をお願いします」と声を掛け、私へと向き直る。

「そういえば、突然話しかけてしまい申し訳ありません」
「い、いいいえ!」
「小生は有栖川帝統と申します」
「あ、ありすがわだいすさん」
「良ければ貴方の名前をお伺いしても?」
「わ、私は名前と申します!」
「名前さん、ですか」

ああ、彼に私の名前を呼ばれるのは、こんなにも嬉しいことだったのか。私がへにゃと笑っていると、奥からおじさんがやって来て、コトンと有栖川さんの前に珈琲を置く。ゆらゆらと湯気を昇らせているのは、私と同じブラックだ。有栖川さんはそれを軽くお礼を言うと、湯気の出る珈琲を平然と飲んでいる。熱くないのかな、苦くないのかな。そんな思いで彼を見つめていると、カップから薄い唇を離した有栖川さんは「美味しいですよ」と微笑んだ。心を読まれたようで少し恥ずかしかったけれど、彼が言うなら、ともう一度珈琲を口に含んでみる。

「……」
「砂糖とミルクから始めましょうか」

悔しいことに私に珈琲は、まだ早い。




そして、私が砂糖とミルクを入れて随分まろやかになった珈琲を飲み終えたタイミングで、有栖川さんは伝票を持ち、席を立った。そのままおじさんの元へ立ち上がって向かっていくから、きっとこのまま帰ってしまうんだろう。束の間の、本当に短い夢の時間だった。いつもは有栖川さんは本当にずっといるんじゃないか、というくらいお店を出ないから私の方が渋々先にお店を出るのだけど、今日はどうやら違ったらしい。用事でもあったのかな。私はちょっぴり悲しいような寂しいような、そんな感情のまま、有栖川さんが帰れば少し経ってからお店を出ようと考えていた。帰るタイミングが被ったら気まずいし、わざとらしく狙ってるみたいで恥ずかしいから。プライドだけはいっちょ前である。……でも、でも、一言くらい声掛けて欲しかったなあ……なんて思っていると、外に出るかと思っていた有栖川さんは出口に立ち、不思議そうに首を傾げてじっと此方を見ていた。

「何をしているんです?」
「……へ?」
「飲み終えたでしょう。さあ、帰りますよ」

そう言って手招く姿に、私は再び唖然と身体の動きを停めた。半端に開いた扉の隙間から、太陽が後光のように有栖川さんの髪を照らしている。本当に神様みたいだと思った。薄暗い店内では分からなかったけれど、有栖川さんの髪色は、思っていたよりも明るい。柔らかな栗色が乾いた風に吹かれる度に、チリンチリンと鈴が鳴っている。私はその音でハッと意識を取り戻して、あわあわと上着を羽織り、鞄を持った。そ、その前にお会計だ。慌てて伝票を探していると、おじさんが「もう頂いている」と言うから分かりやすく困惑する。けれど、言われてみればさっき有栖川さんが持っていた伝票は私のものだったかもしれない。情けないやら嬉しいやら恥ずかしいやらで、私は頭が上がらなかった。何度もごめんなさいとありがとうございますを交互に言っていると、やがて呆れた顔をした有栖川さんが私を見下ろしている。外はまだまだ明るいお昼下がりで、初秋の陽射しが眩しい。

「そんなに頭を下げないでください。たかだか珈琲一杯です」
「で、でも……初対面なのに……」
「初対面?」
「……初対面?」
「果たしてこれを初対面と言えるのですかねえ」
「うぅ……」

こう言われてしまうと、何も言えなくなるのは私だった。だって私はかれこれこの二ヶ月間、彼に会うためだけにこの喫茶店に通っていたのだから。なんてことは秘密だけれど、実際初めましてどころか、有栖川さんは私の中では色濃くしっかりとした位置づけにある。一方的な想い人。私の憧れの人。とはいえ、有栖川さんも私のことを認識していたのだから、確かに初対面というのは違うかもしれない。なんとなくモヤモヤしながらも、もう一度お礼を言って、この掛け合いは終わることにした。

ニコリと満足そうに微笑み「行きましょうか」と彼は一歩を踏み出した。反射的に追いかけるけれど、そういや、どこに行くんだ?奢っていただいてしまった上に、なんとなく彼が待ってくれていたから一緒にお店を出たけれど、よく考えればこの状況は訳が分からなかった。カサ、と歩む度に地面を彩る落ち葉が秋らしい音を奏でている。私はチラリと横目で有栖川さんを見た。バレないように黒目だけを動かしたつもりだったのに、何故か形のいい硝子玉のような瞳とバチッと視線が絡み合う。

「っひあ、ご、ごめんなさい!」
「貴方も可笑しな人ですねえ。なぜ謝るのです」
「か、勝手にこう、盗み見るような真似を……」
「名前さんが盗み見たというなら、どうして小生と目が合ったのでしょう?」

フフ、と今度は悪戯そうに笑う有栖川さんに、私はゴクリと息を飲んだ。それはまるで初めて彼を見た時の感動や高揚感に近くて、トクントクンと心臓が高鳴り始める。

「私も貴方を盗み見ていたからですよ」

私は、確かに顔がボッと燃えるのを感じた。……どうやら私は思わぬ形で夢の続きを見てしまっているらしい。


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