「行きましょうか」

そう言われたものの、私はどこまで彼についていっていいのかは正直分からなかった。

行きましょうか。もしかしたらお店の前で解散して、それぞれの家に帰りましょうか、そんな意味合いだったかもしれない。今のところ私のお家の方面と同じなので大丈夫だけれど、もう少しすると分かれ道が来てしまう。もしかすると今の時点でもコイツどこまで着いてくんだよ、なんて思われている可能性だってある。折角話せるようになったのにストーカー扱いされるのはゴメンだった。今も既にほぼストーカーみたいなもんじゃん、という言葉が友人の声で再生された気がするけれど、そんなもの聞こえない。私は都合よく耳が悪い。

「はて」
「……っ」

つ、ついに分かれ道が来てしまった……!私はドギマギと有栖川さんに放つ言葉を考えていた。
「それではここで」いいや違う。何だかこの言葉を置いて去るのは高尚な印象を与えてしまいかねない。送ってやったわけじゃねえし!って思われたらとっても嫌だ。
「また来週」これも違う。私が毎週水曜日を狙って来ているのがバレかねないし、彼が来週もこの店にくる可能性だって絶対じゃない。
「また会えたらいいですね」……なんか違う。じゃあ何だ、なんていえばいいんだ……!グルグルと回る己の思考に酔いそうになっていると、そのどれでもない言葉が、澄んだ声と共に鼓膜を揺らした。「……え?」聞き間違いだろうか、そう思って聞き返すと、薄い唇がもう一度ゆっくりと開く。

「何か食べたいものはありますか?」
「た、食べたいもの……?」
「いつも飲み物しか頼んでいないでしょう?小生もお昼はまだなので、良かったら一緒にと思ったのですが」
「あ、えっと……食べたいもの……おに、お肉食べたいです……」
「お肉……?ふふ、帝統のようなことを言うんですねえ」
「帝統……?もう一人同じ名前のご友人がいるのですか?」
「……え、ええ。同姓同名の友人がいまして」

そうか、同姓同名のご友人がいるのか。それは珍しいことだと頷いていると、コホン、何か誤魔化すように咳払いをした有栖川さんが「お肉……どうしますかねえ」と私を見ている。ぱちぱちと何度視界を仕切り直しても、目の前の光景も、自分の早鐘を打つ心臓も、本物で変わらない現実だった。信じられない。有栖川さんと一瞬にランチなんて夢みたいだ。それにしても、確かに真昼間からお肉と言われても困るよね……少し恥ずかしいことをしてしまった。

「お肉も、あるお店で良ければ小生が偶に行くお店があります」
「全然!むしろそこがいいです!」
「ならば行きましょうか、名前さん」

今度こそついていっていいのだと、なんだか嬉しくなった。はい!と元気がよすぎるぐらいに返事をする。そして横に並びに行くと、有栖川さんは瞳の奥を一瞬だけ揺らして、ニコリとまた笑うのだった。



「もう秋ですねえ」
「はい。涼しいから好きです」
「名前さんの一番好きな季節は秋ですか?」
「秋……も好きですけど」
「?」
「夏、かなあ」
「夏ですか」
「有栖川さんは?」
「書生も夏ですかねえ。なんせ夏はイベントも多いので小説の筆が進みやすい」
「なるほど!」

彼と二人で並んで歩く道は、見慣れているのに、まるで知らない道を進んでいる気持ちだった。そっか、有栖川さんは夏が好きなのか、しかもちゃんとイベントを楽しむということは中々アクティブな方なのかもしれない。浴衣を着る有栖川さん、きっと綺麗なんだろうなあ。そんなことを考えていたら、 突然立ち止まった有栖川さんの背中に正面からぶつかった。「いでっ!」ふわりと一瞬珈琲の香りが鼻腔を擽り、立ち止まった有栖川さんは呆れた様子で私を一瞥すると「名前さん、見てください」とそっと腕を宙に伸ばした。

「あ!赤蜻蛉!」
「随分秋らしいと思いまして」

緩く伸びる黒のシャツに、羽音を鳴らしながら止まったのは赤蜻蛉だ。久しぶりに見た……!少し感動しながらその様子を見ていると、赤蜻蛉の羽が太陽に反射してキラキラと虹色に光沢している。

「名前さんは虫は大丈夫ですか?」
「あ、このくらいだったら……急にこられると駄目ですけど」
「女性らしい」
「あはは、そうかもしれないです」

ブゥンと音を立てて、赤蜻蛉は再び秋空へと戻っていった。相変わらず自販機もなければ、コンビニもない。都心からそこまで離れてもいないのに、どこか田舎を彷彿させるこの一角か、中々に私も好きだった。そして、有栖川さんと歩くこの道は、もっともっと好きになれそうだ。嬉しいと身体が軽くなるらしい。跳ねるように歩んでいると「乱数のようですねえ」と隣から呟くような声が聞こえる。有栖川さんのお友達によく似てるんだな、私。きっと有栖川さんにはお友達が多いんだ。そう思ってそのまま口にしてみると、彼は想像とは違い、少し切なげに笑って、否定も肯定もしなかった。どうしよう、何か間違ってしまったかな。途端に心がヒンヤリ刺すような冷気に包まれて、私は立ち止まりそうになる足を必死に動かす。心無しか少し早歩きになった有栖川さんは、それでももう一度瞬きをする頃には、先程と何ら変わらない、掴みどころない雲のような涼やかな顔をしている。そして私を首だけで振り返り「もうすぐですよ、あちらです」と少し先を指でさした。指の先を辿ると、あの喫茶店とはまた雰囲気の違う、お洒落なお店が構えている。喫茶店を大正時代と表すとするのなら、このお店はめちゃくちゃ現代的なイタリアンバルだな。

「さて、入りましょうか」
「はい!」

そして、お店に入る、まさにその時だ。遠いどこかで、泣き叫ぶような声が聞こえた。尋常ではない勢いとその声に「え?」と振り返ろうとするけれど、真後ろに立つ有栖川さんに阻害されてしまう。私の肩を持ち、もう片方の手で扉を押し開くと、そのまま半ば強引に中に入ろうとしている。

「げ、げんたろぉぉぉぉお!」
「早く入りましょう」
「はい、え、え?」
「ほら早く」
「え、でも」
「無視しないでくれよげんたろぉぉぉぉ!!」
「あの、ごめんなさい。どう考えても帝統さんに向けて走ってくる男性がそこに……」
「……チッ」

舌打ち!?私は目の前の麗人から放たれたとは思えない舌打ちに目を見開いた。しかし有栖川さんは私のことは見ていない。もう5メートルもない距離まで迫ってきている群青色の髪をした男性に、今にも唾を吐きそうな顔をして向き合っていた。

「幻太郎!たまたま見かけてマジで助かったぜ!」
「……人違いでは?小生は貴方のことなど知りませんが」
「そ、そんな事言わないでくれよ幻太郎!今回は金借りてえじゃねえんだよ!腹がすきすぎて死にそうってだけで!」
「食事を強請るのもお金を強請るのも変わらないでしょう。ところで貴方は誰ですか?」
「……げ、幻太郎ぉ……」
「幻太郎などという名の者はいません」
「ウッ、ウゥ……そりゃねえぜ……」
「あ、もしもし警察の方ですか?突然知らない人から飯を食わせろと恐喝にあい非常に迷惑しておりますので今す」
「あ、ああああ有栖川さん!」

み、見ていられない!この人達の関係性はまるで分からないが、なんとなく本当に知らない人同士のやり取りには見えなかった。というか、群青色の彼が可哀想すぎて心がズキズキするし、良心が痛む!スマホに耳を当て本気で警察に電話をかけている有栖川さんの手を掴んでスマホを離すと、驚いた顔をした有栖川さんが「名前さん……!?」と私の名を呼んだ。

「もう有栖川さん!」
「ん?何だ?」
「……?」

何故か額を擦り切る勢いで土下座をしていた群青色の彼から返事がきた。……え?

「な、何でそんな目で見るんだよ!俺の名前を呼んだのはそっちだろーが!」

私はぱちくりと瞬きをして、有栖川さんと……何故か返事をした上に必死な顔をして訴える彼を交互に見た。途端に「はぁぁぁぁぁ……」と世紀末のような深い溜息を吐く有栖川さんに、私ももう一人の彼もビクゥ!と肩が上がる。やけに疲れた顔つきをして有栖川さんは額に手を当てて目を閉じたかと思うと、やがて重たそうな睫毛を持ち上げ、その美しい双眸を顕にする。光に磨かれたような瞳から伸びる視線は私ではなく、もう一人の人物にのみ注がれていた。

「……今以上に貴方を恨むことは、今後ないでしょうね」
「……げ、幻太郎……?」

ど、どうなってるんだ?


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