「いやぁ!悪ぃ悪ぃ!」
「……はぁ」
「あ、あのう……」

な、何がどうなってるんだ……!私は何故かお洒落な店内にて、隣に有栖川さん、そして目の前にサイコロの髪飾りをつけた群青色の髪をした彼との三人で、テーブル席に着いていた。隣に座る有栖川さんの無言の圧力というか、ピリピリとした空気に気圧されながら私は苦笑いを浮かべることしかできない。そう、この状況を私も出来ることなら纏めたい、なのに、纏まりきらないのである。群青色の彼は、有栖川さんのことを幻太郎と呼び、有栖川さんと呼びかければ群青色の彼が反応する。私はやっぱり訳が分からなくて、頭の中が混乱し切っていた。そんな空気の中小さく嘆息し、有栖川さんは「はぁ、仕方ありませんね」やれやれと首を振る。

「名前さん。小生は有栖川帝統と名乗りましたが」
「はい、有栖川さんですよね」
「それは嘘です」
「……ほえ?」
「有栖川帝統とはこの情けない物乞いのことであり、小生の本当の名は飴村乱数と申します」
「誰が情けない物乞いだ!しかも乱数も嘘だろ!お前は幻太郎だ!」
「……はぁ」
「え、え、あめ……むら?さん?」
「それも嘘です」
「え」
「夢野幻太郎」
「ゆめのげんたろうさん」
「はい。小生の本当の名は夢野幻太郎です」

チラリと、本当の有栖川さんを見た。二回目に飴村乱数と名乗った時と違ってうんうんと頷いているし、彼自身も幻太郎と呼んでいたので今度こそ本当の名前なんだろう。私は結局何が何やら分からないまま受け止めたけれど、とりあえず私に嘘の名前を名乗っていた、ということだけは分かった。しかも二回も。何故だ。何だか少し悲しくて、チクリと心に針を刺されたような気分だ。でも言われてみれば初対面の人に本名を名乗る義務なんてない。私は彼のために喫茶店に来るような怪しいやつなのだから、むしろその判断の方が正しいような気さえした。段々と彼の顔を見ていられなくなって、逃げるように視線が手元へと落ちてしまう。

「まーた俺の名前名乗ってたのかよ……ったく俺の名前はフリー素材じゃねえっての」
「ええ。帝統の名に素材という程の価値はありません」
「な、なんだと!その俺の名前使ってたくせに!」
「他に思い浮かばなかったので」
「何回目だよ、ったく」
「おや?そんな態度でいいのですか?小生は別に大きな犬っころが飢餓に陥っても構いませんが」
「俺の名前なんていつでも使ってくれていいぜ」
「足りないですね」
「俺の名前をいつでも使ってください」
「もう一声」
「俺の名前を!!フリー素材のように使い散らしてください!!」
「宜しい」
「ハァハァ……クソッ!この鬼畜!」
「……して、名前さん」

ふと、急に私の名前を呼ばれて、ドキッと肩が揺れた。こ、この流れでどうして私の名前?握りしめていた拳から顔を上げて有栖川さん……じゃなくて夢野さんを視界に入れると、困ったように目を細めて笑う姿がある。どうして夢野さんがそんな顔をするのか分からなくて、私は同じように眉を下げて笑った。憧れの夢野さんと近付けて、こんな場所でテーブルを囲めて、とても嬉しい。嬉しいのに、素直に喜びきれない自分が嫌だ。強欲にもほどがある。

「誤解なきよう言いますが」
「誤解?」
「……小生は決して貴方を信用していないからという安易な理由で彼を名乗ったわけではありませんので、それだけは分かってくださいね」
「……そ、そんなこと」
「本当は二人で話してる間に種明かしでもしようと思っていたんです。しかし思わぬ形で邪魔が入ったので」
「おい幻太郎。まさかその邪魔って俺のことかよ」
「貴方以外に誰がいます?」
「……悪かったな」

プイ、と有栖川さんが申し訳無さそうに顔を横に向け、反省したのかと思えば、何故かその勢いでウェイトレスさんにステーキを頼んでいた。フィレステーキ300gとは、量もさながら、その抜かりなさも凄い。……ステーキ?ああ、そうか。夢野さんは彼のことを言っていたのか。私は点と点が結ばれるような、そんな感覚を覚えた。そうだ、お肉好きの有栖川さん、私と似ているらしい有栖川さん。

「貴方のことだったんですね」
「あ?何がだよ」
「夢野さんが、お肉好きの友人がいて、その人と私が似てるって」
「幻太郎が?」
「はい。私も魚より肉派、三食お肉でも大丈夫なタイプなので!」
「お、おお……!三食は嫌だけど分かるぜ!」
「まあ、最近はお肉よりも喫茶店で飲むメロンソーダが一番好きですけどね!」

珈琲先輩に目移りはしてしまっているけれど。ドヤ!と胸を張って言えば、何故か何の反応も貰えず、無言と沈黙が返ってくる。あれ、変なこと言ったっけ?不安になって有栖川さんを見つめると、当の本人はポカンと夢野さんと私を交互に見ていて、その姿は先程までの私を彷彿させた。そして段々とその顔は弛緩していく。猫のようにニヤニヤと口角が上がり、面白いものを見るかのような目で夢野さんに「何だそういうことかよ幻太郎〜!」と声を落とす。一方、夢野さんはと言うと、何故か耳をじゅわりと赤く染め、有栖川さんをその美しい双眸で睨みあげていた。どういうこと?

「そういうことなら俺は違う席で食わせてもらうぜ」
「……そのまま退店してくださって結構ですよ」
「それだと飯が食えねえだろうが!じゃあな!」

そう言うと、有栖川さんは絶妙に離れた席へと移動した。それは意味あるのか……といった距離感で、時折此方を見て、ニヤニヤしている。なんだかチェシャ猫みたい。

「……はあ、本当になんと言えばいいか」
「ぜ、全然私は気にしていないので!」
「気にされていないのも癪ですねえ」

隣に座る夢野さんは、また小さく溜息を吐いた。なんだかさっきからため息ばかりを吐いている気がして心配になってくる。もしかすると普段から苦労人なのかもしれない。私は苦笑いを浮かべながら、メニュー開いた。お肉の気分だったから私は大体頼むものは決まっていたのだけれど、夢野さんはきっと決まっていないだろう。そう思って尋ねると「貴方と同じもので結構です」と言うので、少し驚く。夢野さんにお肉のイメージが無かったからなのか、私と同じものでいいと言った夢野さんに少しときめいたのか、それは分からなかったけれど。そうしてやがて近くを通ったウェイトレスさんを呼び止めて、注文を重ねる。

「ステーキランチ二つで」
「食後のドリンクはどうなさいますか?」
「えっと、コ、コーヒー二つ」
「かしこまりました」
「お砂糖とミルクはどうされますか?」
「……ブラックで」
「かしこまりました」
「……はあ。良かったのですか?」

ウェイトレスさんが背を向けたあと、間髪入れずに夢野さんが問い掛けた。何が、なんて言われなくても分かっている。私は少し唇を尖らせながら「だ、大丈夫です」と答えた。とは言え、内心は先程の二の舞にならないか不安の嵐である。チャレンジ精神は大事だ、負けるな私。

そして会話はそこで一度切れた。有栖川さんをチラリと見ると、前菜のサラダを美味しそうに頬張っている。よほどお腹が空いてたんだろうなあ、と一目で分かる食いっぷりだった。じっと見ていた視線に勘づいたのか、有栖川さんは顔を上げて此方を見ると、何故かグッとガッツポーズをして、ハムスターのように膨れた頬のまま何度か頷く。何でガッツポーズ?なんで頷いた?そのサインとも取れる意味を理解できなくて困惑していると、再び有栖川さんは食事に戻ってしまう。自由気ままな人なんだなあ、きっと。そして私は視線を自身の座るテーブルへと戻した。

「名前さん」

同じタイミングで、訪れていた少しの沈黙が破られる。すっかり顔の赤みも引いた夢野さんは、少し言いにくそうに口を開いた。

「……実は」
「は、はい」
「小生は帝統のことが好きだったんです」
「……ん?」
「好きで好きで、彼の名を名乗ってしまっていました」
「……え、あ、あの」
「嘘です」
「んえ!?」

あ、焦った!本当に焦った!びっくりした!有栖川さんが恋敵になるのかと思った!バクバクとなる心臓を押さえてひえ〜となっていると「ふふ、本当に貴方は面白いですねえ」と笑った。

「嘘ですよ。小生はずっと、貴方を見ていました」
「……それも嘘でしょう」
「いえ、本当ですよ」
「も〜……からかわないでください」

もしそれが本当なら、夢のような話だけれど。この手のからかいをされると心臓に悪いので正直やめてほしい。逃げるように視線をお冷の入ったグラスに注ぐと、夢野さんはもう一度言った。嘘じゃないです、と。

「貴方が初めて喫茶店に来たのは水曜日でしたね」
「……あ、水曜日……」
「それ以降、小生も水曜日に喫茶店に出向くようになりました」
「……え、ゆ、夢野さん……?」
「小生の目的はただひとつ、貴方です」
「……」
「それから約二ヶ月間」
「……っ」
「ずっと名前さんのことを見てました」

突然の告白だった。え、と今度こそ石像のように身体が硬直した。嘘だと言ってほしい、こんなの、心臓がもたない。

まるで私の心を読まれているのでは無いかと、本気で考えた。私の気持ちも、それに伴った気持ち悪い行動も全部実は知っていて、咎めるために、罰を与えるために、わざと口に出しているんじゃないか。そうでもしないと、この空気も、彼の発言も、全部を理解して呑み込めるわけがなかった。夢野さんの瞳は酷く真剣みを帯びていて、力強く私を見据えている。う、そだ……そんなことって、有り得るの……?私の気持ちとピタリと四隅が合うくらい全く一緒で、やっぱり目の前の夢野さんの口から出た言葉だとは到底思えない。それなのにじわじわと顔の内側が熱くなって、唇が何かを紡ごうにもパクパクとただ空気を噛んでいる。

「気持ち悪いですよねえ。実際そうなので否定はしません」
「ち、ちが……!」
「違いありませんよ。私は貴方に声を掛けるタイミングを虎視眈々と日々狙っておりましたから」

これだとストーカーと変わりませんねえ。
違う、そうじゃない。そうじゃないんだよ、夢野さん。本当にこれは長い長い夢なんじゃないかと目を疑ってしまう。憂いのある表情も、色素の薄い睫毛に縁取られた瞳も、全部私に向けられているのに、私は夢心地のように受け入れられずにいた。額縁の世界に今、彼と二人きりのように、周りの声も、風景も、一切頭に入ってこない。栓を抜いたように溢れ出す感情は、きっと気の所為じゃなかった。もし夢野さんの話が嘘じゃないなら、本当なら、

「ち、」
「?」
「ち、ちちちち……ち……っ」
「ち?」
「ち、ちちち違います!それは!私です!」
「……と言いますと?」
「私の方が先に夢野さんを見て、ずっと……み、見てました」
「……」
「気持ち悪いのは私の方です、ず、ずっと好きで、勝手に、一方的に好きで……友達の約束も断って、水曜日を狙って来るくらい、好きなんです!」
「……」
「夢野さんが気持ち悪いなら、私なんか、もっと、もっと……ずっと……気持ち悪い……」

言いながらなんだか泣きそうだった。今までの想いが爆発してしまうような、我慢していたものが破裂してしまうような、もう後に引けない強い感覚。そう、私の方が気持ち悪い、私の方がずっと、ずっと。最初から最後まで、ずっと貴方のことばかり考えていた。下心しかない、故意的な空間。ポロリと目尻から生温い何かが頬を伝った。ギョッとした様子で虹彩を揺らした夢野さんは、暫く固まった後に、握り締めすぎて震える私の両手に、そっと手を置く。冷たくてヒンヤリしていて、それでも柔らかくて優しい手だった。

「あまり握りしめないでください」
「……だ、だって……」
「貴方の気持ちは十分伝わりましたから」
「……ぅ、ごめんなさ、い」
「はあ。本当、どうして謝るんですか」

そして夢野さんは、まるで満開の桜が咲いたかのように、顔を綻ばせた。

「随分と長くもどかしい逢瀬だったんですね」

そうして私の涙を人差し指で拭う。


「ようやく貴方と向き合えた」


私の長い長い片思いは、
たった今、終わりを告げた。


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