夢野幻太郎という自称しがない小説家が名前を見つけたのは、シブヤの端も端っこに位置する、小さな喫茶店だった。大正レトロを売りだという50代半ばの無精髭の男が一人で切り盛りするその喫茶店は、小さいながらも居心地が良く、珈琲の質だって悪くない。フラフラと締切に追われてやってきた僻地にて、幻太郎は思わぬ形で収穫を得たのだった。店主お勧めというオリジナルコーヒーは、苦味がありながらも舌を撫でるような酸味があり、香りだって芳ばしく鼻を抜ける。それはあっという間に幻太郎のお気に入りの品となり、周りのややこしい人達から逃げる場所となった。気づけば月に二、三回は訪れるようになり、その度に店の奥にある隅の席を陣取り、まるで特等席かのように居座っている。大概が現実逃避のために他作家の作品を読んだり、ネタを仕入れるべく雑誌を読んだりであったが、とある夏の日に、後に幻太郎の転機となる時が訪れた。外は炎天夏で蝉の声に歩く気力さえ奪われる猛暑日であり、幻太郎でさえも背中に汗を湿らせるような天気のいい日だった。ジリジリと焼けるような太陽が、いっそ憎らしいほど堂々と青空に我が物顔で居座っている。チリンチリン、いつものように店内に入ると、程よく効いたエアコンの冷気にホッと息が盛れた。そのままいつもの特等席へと向かうと、慣れたように店主もいつもの珈琲を用意する。そう、いつも通りだった。幻太郎が特に興味もない雑誌を開き、右上から左下までしっかりと目を通し、少し冷めた頃に珈琲に口を付ける。

──その日常は、再び鳴る鈴の音で崩された。チリンチリン、その音に思わず顔を上げたのは、幻太郎だけではない。そもそもこの店は恐ろしいほど客足が無く、常に赤字運営なのでは?と疑うほどに店内には誰もいないのだ。幻太郎が来る日に他の客がいたことも、かつて一度もなかった。驚いたように目を丸める店主は、それでも束の間にはすぐにいつもの平然な態度に戻り「いらっしゃい」と口にする。しかし、幻太郎は店内に入ってきた人物から、目を逸らすことができなかった。額から透明な汗を流しながら首に纏わりつく長い髪を鬱陶しそうに払う姿は、何故だか今この瞬間、夢野幻太郎の目の奥に深く焼き付き、そして酷く大きく彼の心を揺さぶった。彼女がフラフラと赤いソファに腰掛け、思わぬ柔らかさに驚いていた時まで、店内を見渡そうと此方を向くその一寸前まで、幻太郎はずっと、名前のことを見ていた。

「……お姉さん、ご注文は?」
「……メロンソーダで」

そして彼は、密かに思いを固めていた。来週のこの曜日に、この時間に、もう一度来てみよう。どこぞの男じゃないが、賭けに近い決心。不定期に訪れていた幻太郎が毎週水曜日の昼前に姿を現すようになったのは、太陽が高く昇っている、そんな時期のことだった。

次の週も、幻太郎は訪れた。いつものように奥の席に座り、雑誌を捲る様子はいつもと何ら変わらない、落ち着いた時代を遡ったかのような書生の姿だ。店内の雰囲気も相まって、この空間だけ切り取れば、タイムスリップしたようにさえ感じられる。店主はコトリと珈琲を置き、何も言わずに戻っていく。そして何頁か雑誌が進み、少し冷めた珈琲に手を伸ばした時、チリンチリン、再び来訪者を知らせる鈴が静謐な空間に鳴り響いた。

「ご注文は?」
「メロンソーダで」

今日も彼女はメロンソーダを頼み、真緑の体に悪そうな飲み物を美味しそうにストローで啜っている。カランコロン、と角切りの氷がグラスにぶつかり、夏らしい涼やかな音が此方まで届いていた。メロンソーダか、久しく飲んでいない。ふと、幻太郎は行き詰まっていた小説の続きが頭に浮かんだ。インスピレーションとは日常の些細なところに落ちている。けれどそのトリガーとなれるものは、決して多くない。そして暫くしてから、彼女は店を去っていく。その背中を追いかけるように、少し経ってから、幻太郎も店を出た。コーヒーカップの中は、とうの前に空っぽだった。

次の週も、その次の週も、幻太郎が店に入った一時間程後に、鈴の音が新たに響く。それは新たな日常でもあり、まるで異世界に来たかのような非日常の始まりでもあった。いつしか幻太郎は分かりやすく名前の姿を目で追うようになった。彼女が店主と話している時、ぼうっとしている時、睡眠不足なのか舟を漕ぎかけた時、長い前髪の裏側から、その世界を覗き見る。友人でもない、知り合いでもない。一方的な知人の名前との不思議な関係は、約二ヶ月間にも及んだ。やがて太陽の位置は低くなり、地面から反射する陽炎は姿を消した。さわさわと揺れていた緑葉は褐色した枯葉に色を変え、アスファルトに色彩をもたらしている。

──そしてとある日、ある変化が起きた。

「今日もメロンソーダかい?」
「今日は珈琲にしてみます」

その会話自体がまるで季節の変わり目のように、それでいて何かの切り取り線かのように、この喫茶店の空間を断ち切った。「うええ」と苦そうに顔を顰める彼女の元に、ふらりと身体が引き寄せられていく。

「ブラック、飲めないんですね」
「……ブラック、の、飲めませんでした」

それが彼女と幻太郎の、初の会話であり、
長い長いすれ違いの、最後の合図だった。


/top
ALICE+