「げんたろ〜っ!」
「ああ、乱数ですか」
「ねぇねぇ、どこ行くの?」
「気分転換がてら、少し喫茶店へ」
「喫茶店?ああ、いつもの場所?」
「……」

いつもの場所?と平然と言い退けるのは、ニコニコと笑う飴村乱数である。幻太郎は余所行きの笑みを浮かべ、ぎこちなく自身の腕に絡みつく乱数を見据えた。ちなみに幻太郎が乱数に例の喫茶店を口に漏らしたことは一度もない。お金やご飯をせびってくる帝統には喫茶店の存在は軽く言ってあるが、乱数には微塵も口を割っていない上、あえて言わんとしていた。それなのにいつもの場所、などと口にする目の前の男に、相変わらず食えない人だ……と幻太郎は溜め息を吐く。人のこと言えねえだろ!と此処にもう一人いたのならばそんな罵声が飛ぶのだろうが、生憎ギャンブラーは例のごとく違法賭博にてスリルを味わっている。幻太郎はなるべく感情を表に出さないように気を取り直すと「ええ」と肯定した。

「あーーやっぱり!最近幻太郎構ってくれないから僕寂しいなあ」
「貴方ならいくらでも構ってくれる人がいるでしょう」
「でもでも!僕は今幻太郎に構ってほしいって思ったんだもん!」
「……」
「ん?なになに?」

こうなってしまえば、幻太郎の負けだ。甘えるような言葉使いの割に、その節々には有無を言わせぬ圧力がかけられている。つまり、翻訳するのならば俺もそこに連れて行けよ、ということだ。嫌な相手に知られてしまった、と幻太郎は珍しく自身の行動を後悔していた。なんとなく乱数が名前の事を知りたがるだろうな、というのは予測していたはずなのに。防ぎきれなかった。一見愛らしく笑う乱数に、名前をお姉さんとして見られたら溜まったものではないが、読めないこの男のことだから、恐らくメンバーの人間関係を把握しておきたいだけなのだろう。「にゃっはは〜!幻太郎がご執心なお姉さんはどんな人だろうな〜!」……もしくは、ただからかいたいだけの、お遊びか。どうせならばまだ前者の方がマシだと、幻太郎は強く思った。

「一応言っておきますが、すぐに帰ってもらいますからね」
「え〜ひっどーい。僕も仲間に入れてよ!」
「……小生ではなく、相手の方に判断を委ねてみます」
「紹介してくれる?」
「……」
「紹介してくれる?」
「……はあ。分かりました。紹介だけですよ、あくまで」
「えへへ、やったあ!」

ルンルンと軽やかにスキップをしながら少し前を進む乱数の姿は、少し前の名前の姿とやはり重なって見えた。はあ……と隠しもしない大きな溜め息を吐くけれど、乱数にこんな攻撃の仕方は効かないのは分かっている。どうしてこうなった。憂鬱な面持ちで待ち合わせ場所の喫茶店へと向かっていると、ふと乱数が立ち止まった。と思えば、そそくさと分かれ道である曲がり角に隠れるように姿を潜めている。不思議そうに首を傾げる幻太郎に、ちょいちょいと手招きをする乱数は、同時に「しーっ!」と唇に人差し指を当てた。同じように幻太郎も腰を曲げて曲がり角の先を覗き見て、眉を顰める。

「……あれ、名前ちゃんだねえ?」

どこか嬉しそうに語尾を上げる乱数への苛立ちか、どうして初対面のはずなのに名前の顔と名前が一致しているのかという呆れか、はたまたそのどちらでもない別の感情か。幻太郎はそんな決して良いとは言えない複雑な面持ちで、その様子を見つめた。漆のように艶やかで長い髪が、秋風に揺れている。そして、叫ぶような声が聞こえた時には、乱数共々その場を駆け出していた。


**


私はたった今、非常に恐ろしい目にあっている。

「っいい加減にしてください!」
「いいじゃん一緒に遊ぼうって」
「待ち合わせてるんです!」
「とか言って全然来ねえじゃん待人さん」
「うるさい!来ます!」
「強がんなくていいって、ほら!」
「っやめ、てってば!」

しつこく手首を掴む下卑な男を力強く振り払う。何度この攻防を繰り返しても、それでもこの男は立ち去らない。楽しみすぎて、待ち合わせ時間より15分ほど早めに来てしまったのが運の尽きだったんだろうか。何故か普段なら人通りの少ないこの道に、見るからにだらしなさそうな服装をした若い男に絡まれてしまった。しかもほんっとうにしつこいのだ。かれこれ10分ほど絡まれ続けているし、助けを求めようにも人影がないからどうしようもなかった。喫茶店前を待ち合わせ場所にはしているけれど、あくまで待ち合わせ場所なだけで喫茶店に行く訳では無いし。そもそも今日は店休日だし。お店に逃げることも出来ず、私は少しの恐怖と苛立ちが募っていた。

「何?喫茶店で待ち合わせ?今どき流行んねえって」
「……何も知らないくせに口出ししないで」
「つーかここいっつも全然客いねえじゃん!だっせえーの」
「……やめてよ」
「まあオンボロだもんなあ」
「やめて」
「なー遊ぼって。こんなド田舎じゃなくてさあ」
「やめてってば!」

乾いた音が響いた。じんじんと熱を持つ掌と、頬を押さえてこちらを睨めあげる男、それだけ見れば何をしてしまったかなんて一目瞭然だった。さわさわと木々か煽るように揺れる。私はグッと唇を噛んだ後、叫ぶように声を上げた。

「この道も、喫茶店も、馬鹿にするな!私の大切な思い出の場所なの!嫌なら出ていけ!」
「は?」
「私の大切なものを馬鹿にするな!!」
「てめえ言わせておけば……っ!」

グッと男の右拳が固く握られている。ああ、わたし、殴られるんだ。振りかざされた拳がやけにスローモーションのように流れている中で、そんなことを思った。折角夢野さんと会う日だったのに。後少しだったのに。悔しくて、でもそれ以上に私と夢野さんを出会わせてくれたこの喫茶店を、この場所を馬鹿にされるのが許せなくて、どうしようもなかった。ギュッと固く目を瞑る。そしてきたる衝撃に耐えようと足に力を入れた、その刹那、

「おねーさん!ちょっとごめんね!」

跳ねるような声音と共に、手首が強く引かれた。グン、と勢いよく重心がズレて身体が傾く。何が起きているのかと目蓋を開いた時には、甘く噎せるような香りに包まれて、ポスン、と囲われるように人の胸の中にいた。目を見開いてその正体を確認すると、薄く色付いた果実のような唇がニッと吊り上がる。

「アハハ!危機一髪だね!」
「え、あ、あなたは……」
「幻太郎ー!名前ちゃんは無事だよ〜!」

幻太郎?今、この人は幻太郎って言った?私の背後に声を掛ける水晶のような瞳の先を辿り振り返ると、そこには栗色の髪を揺らし、男を見下ろす夢野さんがそこにいた。男は地に手を付き、ずりずりと夢野さんから怯えるように後退している。それを恐ろしく冷酷な瞳で一瞥すると、夢野さんはぼそりと何かを呟いた。そしてそれを聞き入れた途端、男は声を上げながら情けなく背を向け、走って逃げていく。ゆらりと此方を振り向いた夢野さんは、その目付きを徐々に和らげ、それでも私の背後にいる人物を睨みつけながら口を開いた。

「……乱数、いつまで名前を抱きしめているつもりですか」
「ん?あ、ごめーん!名前ちゃんが可愛くてつい!僕のバカ!」
「あ、あの……?」
「名前、此方に来なさい」

困惑が止まらなかった。今更震え出す身体を、乱数と呼ばれた彼は一度強く抱きしめた。戸惑いながら乱数さんの顔を見上げると、ニヤリと猫のように笑い「行っておいで」と優しく耳許で囁かれる。そして直後にパッと解放された圧力に、戸惑いながら夢野さんの言う通り近付くと、翡翠の瞳が睫毛の影を帯び、切なげに揺れている。そのまま私の頬に白い指が伸び、傷物を扱うように触れた。

「……な、殴られてませんよ?」
「分かってます……はあほんとに」
「……ごめんなさい」
「ああいった野蛮な人を煽るのは今後止めてください」
「……はい」
「……大切な思い出は、小生と貴方だけが知っていればそれでいい」
「……はい」
「はあ」

小さく嘆息して、やれやれと言った様子で夢野さんは肩を上げた。そして呆れの感情を含んだ視線を、桃色の髪をした男の人に寄せている。「乱数、貴方もどこまで絡んでいるのやら」「んー?なんのことかなあ?」ポケットから取り出した棒付きキャンディーを口に含んで首を傾げる姿は、まるで少女のように可愛らしい。そして、私は場違いにもなるほど、と納得した。この人が乱数さんか!確かに身軽な身体をぴょんぴょんと兎さんのようにして、夢野さんの周りを跳ねている。そして不意に肩を引き寄せられた。

「お約束通り紹介しましょう。此方の女性が名前です。詳細は貴方の知っている通です」
「えーー!何それ、ちゃんと僕に紹介してよう!」
「お断りします」
「むぅ……幻太郎のケチ!」
「……まあ少なくとも」

そこで一旦言葉を切ると、夢野さんはチラリと私のことを見て、ふんわりと微笑んだ。その一瞬の笑顔に私は心臓がドキドキと鳴り始めて、全身の血液が熱くなっていくような感覚に陥る。ほんとに、夢野さんは綺麗で、かっこよくて、

「小生の大切な人ですので、乱数であろうと触れることは許しません」

ああもう、ほんとに、ほんとに、大好きだ。


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