「さあ……他人なんじゃない」

 そう言い捨てた瞬間、視界にきらりと何かが揺らいだ。
 長い睫毛に縁取られた月みたいな双眸がゆっくりと近付いてくる。お互いの呼吸音と心音が混ざり合って、もうどちらのものかも分からない。遮光カーテンの隙間から少しでも動けば唇が触れそうな距離だけれど、それが合わさることなんかないことは分かっていたから、逆に私は冷静だった。これは見つめ合うなんて可愛い行為じゃない。睫毛が合わさる音すら聞こえる至近距離で、どれくらいそうしていたんだろう。

「……っ、!」

 やがて長い間動かない私が無抵抗だと思ったのか、一瞬手首を縫い付ける力が僅かに緩んだ。その隙を逃さず、身体を捻って勢いよく上半身を起き上がらせる。ぼんやりと窓の光で竜胆の顔が照らされるけれど、そこに表情は無い。
 チクリ。あれ、今の痛みって何なんだろうなんて考える間もなく、力いっぱい彼の身体を突き飛ばした。きっと油断しきってたんだろう、私ごときの力でも少しは効果があったようで、片膝を一歩後ろに下げることでバランスを取った竜胆は呆然と私を見ている。瞳孔の開いた瞳から視線を逸らし、最後に何か一言言ってやろうと、そう思って唇を持ち上げて、

「…………っ、ぁ」

 ……言葉が詰まった。またね? 違う。じゃあね、これも違う。サヨウナラ? それも違う。結局数秒という短い時間で咄嗟に出たのは「……元気でね」と、そんなふざけた言葉だった。元気でねって何なんだと自分でも笑い飛ばしたくなる。当然、竜胆から返事はない。そんなこと分かっていたから、私も言い逃げするように素早く部屋から飛び出した。

 背中を追って私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がするけど、ギュッと奥歯を噛み締めてただ走った。
 サンダルを拾って履く余裕なんかないから、当然裸足のまま。塗装して整備されてると思った道も直接触れるとなると小石がゴロゴロ転がっていて意外と痛かった。靴一つとはいえやはり文明は侮れないらしい。

「……ハァ、ッ…ハァ」

 そうして数分間走り続け、家に着く頃には当然息切れと動悸が凄いことになっていて、脚にも力が入らずフラフラと縺れそうになる。
 き、きっつーー……。
 膝なんか産まれたての子鹿以上に小刻みに震えて、カラカラに渇いた喉はちょっぴり鉄の味がした。ただでさえ体力が無いというのに。比喩でもなく、これは紛れもなく一年分の体力を消耗した気がする。
 重たい腕で鍵をポケットから出し、玄関に歩み寄ったその時──視界の端に見覚えのある何かが映った。

 ……………………え、

 特徴的なソレに視線を遣るまでの景色が、酷くスローモーションで再生されていく。ヒュッと心臓が浮いた。見間違いであってほしい。玄関のドアまで後数歩で辿り着くのに、踏み出した片脚を動かせないでいる。
 耳から下の一部だけ脱色された髪を前に垂らされた三つ編み。顔を上げると、その特徴的な髪型をした主と目が合った。薄く息を飲む。紫陽花色に滲んだ幻想的な空の下で、同じ色の瞳を持った男が艶やかに光を反射させている。私の家の前に立って、真っ直ぐに此方を射抜いている。

 あれ、おかしいな、何でこんなところに。ドッドッドッと再び荒れ響く心音は、そのまま空気に触れて向こう側まで聞こえてしまいそうだ。

「お。やっとだなぁ、おかえりぃ」

 玄関に凭れかかっていた身体を起こして、ゆっくりと此方に近付いてくる。もう走って逃げる気力も体力も残っていなかった。

「なんで、此処に……」唖然と呟く私に、蘭は笑う。「つめて〜やつ」そう言って喉をクツクツと鳴らしている。

「もっと他にねえのかよ。ほら、ハグして頬にキスしてくれてもいいぜ」
「な、何言ってんの……」

 何で今日に限って竜胆も蘭も帰ってきてるんだ。喧嘩はどうしたの、今日は女の子といないの、何で二人揃って私の前に出てくるの。
 燻っていた黒いモヤがぞわぞわと全身を這い上がってくる。包み込まれる、呑み込まれる。
 いやだ、今は見たくない。君達のことを考えたくない。

「昨日の女、誰か教えてやろうか」

 そんなこと、聞きたくない。

「い、いい、どうでもいい」
「オレと竜胆のどっちがいい? やっぱ見られちゃったしオレ?」
「い、いらないって……」
「んーっとなぁ、お前が何年か前可哀想にも振られた先輩クンの女」
「っ、いらないってば!」
「何カリカリしてんだ? 生理?」

 カッと顔が燃えた。デリカシーの無さは相変わらずなのだと思うと同時に、先程までの竜胆とのやり取りで生まれた燻りがぶり返してくる。気持ち悪い。いらない。いらない、そんな情報いらない、いらない。もう幼馴染のあんた達なんかいらない、そっちだっていらないくせに、私なんかいらないくせに。
 思い切り正面から睨めつけても、頭一つ高い位置から「やだ」そう言って見下ろされる。

「そういや竜胆とはゆっくり話せた?」
「……は……? 何で知って……」
「でもアイツ肝心なところですっとぼける可愛い部分あるからなぁ」
「……ッ、……」
「うんうん。やっぱ竜胆はまだ甘ぇわ」

 どうしてこんなに落ち着かないの、もう蘭の言葉で動揺する必要なんかないのに。ドクドクと他人のものみたいに跳ねる心臓の上に手を当て、浅い呼吸を繰り返す。会っただけでここまで乱れていたら何も変われないじゃないか、ほんとに馬鹿みたいだ。
 必死に酸素を取り込んで胸を上下させる私を面白そうに眺めていた蘭は、にんまりとその口角を持ち上げた。ふっくらと膨らんだ涙袋と長い睫毛に挟まれた甘ったるい瞳を、此方に向けて妖しく揺らしている。いかにもわざとらしい笑みだと思うのに、目を逸らせないのはどうしてなんだろう。

「いいこと教えてやるよ」

 そう言って蘭は私の耳許に唇を寄せた。熱い吐息が耳の縁に当たってぞわりと背筋が震えてしまう。

「オレ達、良い子だから気はなげ〜けど手垢つくのは許せねえんだわ」
だから精々怒らせないでくれよ、名前チャン。

 そう言って去っていったはずの蘭の香水が、いつまでも色濃く残っていてクラクラする。最悪の置き土産だ。……もう、幼馴染じゃないし……ていうか何なの、私はどうしたら良いの。暫くその場に立ち竦んだ後、膝を曲げて蹲る。両腕の中に顔を埋めるようにすれば、ここに漂うものとは別の香りでいっぱいになった。似ているようで全然違う二つの香りに囚われて訳が分からなくなりそうだ。

 しんどいのは嫌い。向けられる無数の視線に込められた意味を考えるのも嫌い。私越しに二人を見る友達の目が嫌い。いらない、見たくない。全部全部、気持ち悪い。胸の中を掻き毟って、内側からチクチクと刺し続ける針を取り去ってしまいたい。何も視界に入れたくなくてギュッと目を閉じる。このまま骨の髄まで酔いしれてどろどろに溶けてしまえれば、私は楽になれるんだろうか。
 







 

 生い茂った木々は紅葉色に変わり、そうして気付けば木枯らしが吹く季節になっていた。結局私一人がどれだけ悩んで苦しんだところで、いやでも時は過ぎていくのだ。

 そんな普通の生活を送っている高校三年生の私は、とうとう進路という人生の選択肢を迫られていた。なんやかんや不良だって通う学校なので大学受験をする生徒はそれほど多くないから、進学するグループと就職するグループとで行動も分かれることになっている。まあ私はその多くない側の人間として大学受験を選んだので、勉強漬けで気が狂いそうだったけど。世知辛い人生である。

「……ど、どうだった?」
「手応えはあった! とは思う……かな、思いたい」
「まじ! ……後期はなんか受けんの?」
「ううん、もう終わり。後は結果待つだけかな 」
「そっか。 やり切れたなら良かったよ」
「まあもう祈るしか出来ないしね!ありがとう」

 爽やか君はサッカーのスポーツ推薦でそこそこ有名な大学に進学することが決まっている。正直死ぬほど羨ましい。私にも何か秀でた才能があれば問答無用で推薦を選んだというのに。内申点なんざ考えてもいなかった私が悪いんだけれど。

 負け組に優しくない世界だ……と足元の小石を蹴り上げれば、少し早歩きになった爽やか君が同じように爪先で転がした。推薦を貰えるほどのサッカー部に奪われては一般受験組の立場がない。コロコロと遠くなる小石の行方を目で追い掛けていると、私の心を読んだように「もう卒業だな」と呟く。

「早かった?」
「早すぎるくらいだな。全然実感無いよ、高校生が終わるなんて」
「でも大学生の方が絶対楽しいよ、自由だし」
「お酒も解放されるしな」
「いや、まだ未成年だからね」
「……なんかさ、やり残した事とかねえの?」
「高校生活で?」
「そうそう、高校生活で」

 ……やり残したこと、かぁ。
 私はマフラーに顔半分を埋めて、隣に並ぶ爽やか君を見上げる。
 彼と表面上のお付き合いを続けてもう半年程だろうか。私の幼馴染とは縁を切った宣言と重なったそれは予想以上に効果テキメンだったようで、灰谷兄弟の間にあった不躾な噂は見事に上塗りされていった。稀に未だ関係を疑ってくる人はいるけれど、大半は興味が無くなったのか話題にも出してこない。

 私自身あの日以来二人に会っていないのだ。
 どうやら今は東京の不良グループの間で大きな抗争とやらが勃発しているとかで学校にも全く姿を現さなくなっている。多分卒業式も参加しないだろうし、そもそも出席日数が足りているかも怪しいところである。まあ、それらも全部らしい・・・でしかないんだけど。彼等に関連する話も全部人伝だし。それでいい。どうせ大学が受かったら一人暮らしを始めて、絶縁ステップ1どころか、完全な絶縁となるのだ。

「…………私はないかなぁ」
「マジで?俺はめちゃくちゃあるよ」
「例えば?」
「顧問にもっと優しくしたやれば良かったとか」
「何それいい人すぎない?」
「……後はもっと早く灰谷から守ってやれば良かった、とか」

 口から白い息が空気に溶けていく。数秒間妙な沈黙が二人の間を走った。ひと呼吸おいて「なにそれ」言うと、爽やか君はぎこちなく笑いながら「ごめん」と口にする。ここで謝ってくるのが爽やか君らしいなと思って、私は目を細めてわらった。


「…………やり残したこと」
 

 そうだなぁ。
 強いて言うなら、こうなる前にもっと──、
 あ〜〜〜……いや、ううん、うそ。


 やっぱり、何もないや。


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