積み上げてきたものは簡単に崩れ落ちるし、その逆もまた然りらしい。







 目が覚めたら何故か竜胆の部屋にいて、訳の分からないことを散々言われた。今までは泳がせていただけだとか、こうなるように仕向けただとか、今まで私の友達ばっか抱いてたのは私のためだとか、もう本当に気が狂いそうなことを一気に突きつけられた。

 思考がショートしなかっただけでも褒めてほしい。いや、実際ショートしかけたところを有無を言わさず言い聞かせられただけなのだけれど。

 私は優秀なコンピューターじゃないのだ。

 長年ずっとAだと思っていたものを突然「実はBだったんです」なんて言われても、キーボード1つで書き換えられる精密な作りはしていない。幾つも入り交じって交錯して縺れ合った感情を、今更フラットにするには過去に戻ってやり直すくらいしかきっと方法はない。

「……っ帰る、」

 なんとなく言い含められそうなこの空気が嫌だ。寝かされていたソファベッドから起き上がろうとすれば、拒むようにポンと肩を押し戻される。それだけで力の入らない身体は再び背もたれに倒れ込んだ。その手を振り払ってキッと睨みつけても、二人は「まだ話終わってねえし」とヘラヘラ笑うだけで。相変わらず強引なところは何も変わっていないらしい。

「つかさぁ、アイツとどこまでいったわけ?」
「……はあ? アイツって......」
「あのいかにもって感じの似非爽やか君に決まってんだろ。何? 他にもいんの?」
「………別にどこまでも何もない」
「フーーン?」

 そんな目で私を見るな。疑いを隠さない視線から逃れるように顔を横に向けると、見慣れない家具や物置が増えていることに気付く。そもそも、このソファベッドだって前までは無かった。

「前と変わっててビックリしてる?」
「……っな、」

 心を読まれたのかと心臓が跳ねる。それくらい絶妙なタイミングで、竜胆が正面のベッドに腰掛けた。ギシリとスプリングを軋ませて、組んだ両手の上に顎を乗せて、私を見下ろしている。

「なあ、まだオレ達の気持ち分かってくんねえの?」
 
 竜胆の指先は、クルクルと伸びた髪を巻き付けては解いてを繰り返していた。さほど広いわけでもない部屋に三人が集まれば、どうやったって互いの動きが目についてしまう。そして昔から竜胆は苛立った時によくこの仕草をしていたのだった。
 ……さしづめ、私は罪を認めない処刑人で、彼等はそれを裁く裁判官だろうか。カチカチと秒針を刻む音と竜胆の言葉だけがグルグルと頭の中を駆け巡る。
 オレ達の気持ち、なんて、そんなの。

「……分かる、わけ……」
「えー」

 分かるわけない。
 いきなり受け止められる訳がない。
 私は思った以上に、ちゃんと人間だった。
 ちゃんと人間で、そのくせ今目の前に二人がいることに名付けようのない感情が湧いてきて、堪えようのない矛盾に苦しんでいる。

 私のことが好きだと言うなら、どうして助けてくれなかったの。どうして独りぼっちになって苦しんでいる時に傍にいてくれなかったの。どうして見て見ぬふりをしたの。

「そんな縋るような目すんなよ。な?」

 名前、といつの間にか隣に来ていた蘭に肩を抱かれる。蘭の体重に釣られて傾く身体を支えようとすれば「こら逃げんな、素直になれって」と的はずれな言葉で制されるのだ。腕一本で簡単に組み敷かれる身体。三人でじゃれ合っていたあの頃とは違う。二人は男で、私は女で、そんなこととうの昔に理解していたはずなのに、痛いほど身に染みていたはずなのに。

「………ふっ、ぅ……ッ」
「あーあ、兄貴が泣かせたー」
「お前も同罪だっつの」

 二人の前で泣きたくない。
 堪えろ我慢しろ、そう念じれば念じるほど鼻の奥がツンとして視界が滲んでいく。一度崩壊してしまえば一瞬だった。グズグズになった私の頬に手を当てて「キスしていい?」と言う。いいわけがない。いいわけがないのに、私は固まるばかりで頷くも拒否するも出来ずにいた。呆然としている間に鼻先には蘭の顔が迫っている。長い睫毛の本数まで数えられる距離から覗く菫色の瞳に目を奪われたその瞬間、

「………名前」

 想像の何倍も柔らかい何かが、唇に触れた。









「……ふっ、ら……、ん」
「ん、はぁ……じょーず」

 触れるだけだったキスに硬直していれば、やがて塞ぐような口付けに変わっていた。何度も何度も降り注ぐ唇に荒い息ごと飲み込まれていく。蘭の片手が後頭部に回り、もう片方の手は輪郭の縁から耳までを行き来して肌が粟立った。あまりにも手馴れた一連の流れに嫌味を言う間も抵抗する間もない。
 息苦しさから開いた唇の隙間からは濡れた舌が滑り込んでくる。そして奥で縮こまった私の舌を引きずり出して唾液ごと啜られれば、視界は簡単に濡れた膜で揺れ始めた。粘膜が絡み合う水音がグチュグチュと響いている。力が抜けて首を上げることさえ億劫な中、対する彼はようやく顔を離したかと思うと、真っ赤な舌で艶めかしく自身の唇を舐めた。
 そして目元を三日月に曲げ「よしよし、キスは慣れてないみてぇだな」と酷く楽しそうに笑うのだ。

「……っ、な............で..」
「ん? オレがしたかったから」

 ぼんやりとした意識の中聞こえた言葉に思わず抵抗していた力が緩んでいく。ベッドの上から一部始終を見ていただろう竜胆が「容赦ねーの」と笑う声が聞こえて、羞恥心で死にたくなった。

「次はオレの番な」

 ギシリとスプリングの軋む音が聞こえる。ゆっくりと近付いてくる足音に咄嗟に身を捩るも、その隙を逃さない蘭は「こらこら」とまるで子どもを宥めるような声色で私の手首を纏め上げるのだ。

「……っやめ、」

 ソファベッドの横に膝をついた竜胆に頬をするりと撫でられて、上擦った声が漏れる。少しでも遠ざけようと顔を横に向けようとする姿にクツクツと笑われているのは分かったけど、今更態度を変えるなんてことが出来るわけがなかった。そう──今更、そんなこと言われたって。

「なあ名前。オレ、ちゃんと健気に待ってたんだぜ? お前が元気でねって言うから元気にしてたし、ちゃんと迎えに来たじゃん。なのに駄目だろ、余所見したら」

 頬から鎖骨へと滑る指先にぞわりと腰の辺りが疼く。
 私は彼等に擦り寄る人達とは違う、違うのに。これじゃあまるで、私が嫌っていた蘭や竜胆が適当に手を出しては無慈悲に捨てていた女の子と同じ扱いをされているようで。もう私と二人は幼馴染じゃない。そう決めたのは私だ。だったらこの関係は何だというんだ。何の感情かは分からない。それでも込み上げてくる謎の感情で視界が潤みそうになった。なんでなんでなんで、何で、何で今更、あの子達はどうしたの、どうしてこんなことをするの、何で、何で。

 ふと、二人に捨てられた女の子達が頭に浮かんでは消えていく。

「ふっ、ぅ……っ」
「お。竜胆が泣かせたぁー」
「うるせえ、自分も泣かせたくせに」
「じゃあ今回も同罪だなァ?」

 どこかで一線を引いて、予防線を引いていたのは私だったのかもしれない。
 幼馴染なんだから。幼馴染に手を出されないのは当たり前だから。あの子達とは違うから。使い捨ての性処理にしか見られていない、あんな惨めな存在とは違うから。

──幼馴染なまえを捨てたのは私のくせに。

 じゃあ今の私は何なんだろう、一体何になるというんだろう。ただの他人でしかないのに。何者にもなれないのに。
 二人が本当に私の事を一途に思っていたとでもいうのか。そんなの到底信じられなかった。今まで見てきたあの子達のように自分が成り下がってしまうかもしれない恐怖で身体が竦んでいく。

「……ひッ……や、やだ……」

 そんな私に今出来ることは、この空気に流されないことくらいで。目の前の蘭を必死に睨みつければ、音もなく後ろから抱きすくめられた。驚いて振り向こうとするも、そのまま顎を固定されて竜胆の顔が近付く。あ、まずい……そう思うと同時に唇が重なった。

「……っ、んぅ……!?」
「よしよし。ゆっくりじっくり、数年分の愛埋めてやるから」
「まっ、……ぅ、ふ……ッ」
「やだ。待たない。つか待てねえ」

 少し乾燥してカサついた唇がはむはむと上唇を甘噛みする。人の話を聞かない奴等であることは昔から知っていたけれど、相変わらずなようだった。気付けば流されているなんて当たり前で、私の意思なんてあってないようなものだったのを思い出す。仮に本当にそこに愛がある言うのなら数年分の愛を押し付けるその前にやるべきことがあるんじゃないのかとか、私の想いも聞く前にこんなことをするのかとか、言いたいことが山ほどある。……山ほど、あるのだ。
 
「今まで寂しくさせてごめんな?」
「……ンっ……ぅ、さみしくっな、……んかッ、」
「……兄貴じゃなくてこっち集中しろって」
「ふ……んぅッ……ぁ」

 寂しくなんかない。勝手なことを言うな。そう否定しようとして──あれ?と思った。
 私は寂しかったのだろうか。ずっとモヤモヤとしていた針で刺されるようなあの感覚。そういえばあの痛みを感じ始めたのはいつからだったっけ。

『私なんかいらないくせに』
『どうせあの子も捨てるくせに』
『きもちわるい』
『私って別にいらなくない?』
『…………さあ、他人なんじゃない』

 グルグルと言葉が回る。それは警笛のようにも思えた。余計なことに気が付いてしまったような、戻れない核心を突いてしまったような。直感的に悟る。これは、ダメなやつだ。

「ん? 名前チャンったら竜胆とチューしてるのに考えごとかァ?」
「……ア?」
「ブハッ、竜胆キス下手なんじゃねえの?」
「かっちーん」

 私を挟んで成される会話に意識がハッとする。けれど少し遅かったらしい。苛立ちを孕んだ竜胆の瞳が見えたかと思えば、わざとらしくチュッと音を立てて口付けられる。竜胆の尖った舌先が唇の隙間をこじ開けて、ぬるりとした熱いものが歯列の裏側をねっとりと這っていく。必死に守ろうとしていた壁なんか簡単に崩されるのだ。

「ほら見ろよ、名前はキスが好きなんだって」

 その言葉に蕩けかけていた理性が『違う』と脳内で叫ぶけれど、声にはならない。顎を掴まれたかと思えば頭上に移動した竜胆に、覆い被さるように唇を奪われていた。グッと上を向かされ無理な体制をしているせいで喉元がピンと張って苦しい。

「……ふっ、……ぁッ」
「……あの似非爽やか野郎もこの顔見たって思うと、殺しても殺し足りねえよなぁ」

 腰も肩も震えて堪らず目の前のシャツにしがみついた。結果的に竜胆の顔をより縋るように引き寄せることになってしまったのだけれど、疼いた思考は霞んで使い物にならない。

「っは、随分情熱的じゃん」

 上気に当てられそうになる。頭の奥がぐわんと揺れている。
 時折自分の口から漏れる湿った吐息に混じって、ピチャピチャと水音が耳へ届いた。もうダメだ。あまりにも生々しすぎる、全身を掻き毟りたい。それなのに何をされているかを突きつけるかのように舌の根っこの部分を絡め取られて、そのまま舌先にヂュッと吸い付かれる。抗わないといけないのに流される。キスひとつがこんなにも抗えない。簡単に昂る熱に躍動する心臓。口の端から垂れたどちらのものかも分からない唾液が顎を伝う。
 自分が浅ましかった。あれ程大口を叩いていたくせにな。もし今の私を過去の私が見たら、なんて思うのだろう。

「っ……やべ、止まんね」
「ん、っう……ふッ」
「名前顔真っ赤。竜胆とのキスきもちー?」
 
 合わさる視線の熱さにドクドクと心臓が痛いくらいに鳴り響いていた。普段より荒い息遣いにどこか恍惚と張り詰めた目許。ただでさえ垂れている眦がうっとりと赤く火照っている。熱を閉じ込めた瞳は普段よりも宝石みたいに煌めいている。
 蘭も竜胆も、こんな表情をキスをする度に一々見せていたんだろうか。見ただけで蕩けそうなこの表情を、今まで捨ててきたあの子達にも見せていただろうか。

「……なに、名前。どうしたの」

 透明の糸を垂らした竜胆の唇が離れていく。思わず足りないとついていきそうになった自分に、頭を過った思考に、ぞわりと寒気がした。違う、違う違う違う。今のは何かの間違いだ、違う、違う。キスを強請っているみたいじゃないか、違う、違う。二人の顔を誰にも見せたくないなんて、ずるいなんて、そんなこと、まさか。

「……ッ……ち、ちが……」

 何が幼馴染を辞める、だ。何が他人になる、だ。馬鹿馬鹿しい。私達を縛る何かなまえを欲しがっていたのは、誰よりもそれに縋りたかったのは、縋ることも出来ないのならいっそ......そう無意識に自分を守ろうとしていたのは──、

 ガクガクと震え出す私を見下ろす四つの瞳。前からも後ろからも挟まれて逃げられる気がしない。瞬きをすればポロリと大粒の涙が頬を伝っていく。それを親指で拭った蘭はその口元に笑みを浮かばせて、私の耳に唇を寄せた。


「なあ、名前」
セックスしよっか。


 ヒュッと喉が鳴る。いいわけがない。唇を合わせるキスとはまた話が違う。それだけは駄目だ、一線を越えてしまう。このまま好きにさせていいわけがないのに、目の前の硝子玉みたいな瞳から縫い付けられたように視線を逸らせないのだ。

「……ッひ、」
「心が離れて訳わかんなくなってるなら身体で繋がっちまえばいいんだよ」
「や、そんな……むりだって……ッ」
「無理じゃない無理じゃない。お前の初めてはさぁ──絶望も嫉妬も愛憎もぜーんぶオレ達でいいじゃん」

 最後の砦までもが簡単に沈んでいく。目尻から絶え間なく生温い涙が溢れた。そこに唇を寄せて、蘭は言う。

 だからセックスして、仲直りしようなぁ。

 噛み合わない。ままならない。頭と身体と心の、その全てがボタンをかけ違えたようにバラバラで感情が追いつかない。

 ひんやりとした手が強引にブラウスの裾を捲りあげる。冷たい空気に触れて粟立つ肌を指先でツ、と撫でられればごきゅりと喉が鳴った。下着を片手で剥ぎ取られる。背中から抱き込む竜胆の唇が上から降ってくる。蘭の手が身体中を這って仰け反って、それを更に押さえ込まれて思考をグチャグチャにされる。捏ねくり回されて尖った突起を濡れた舌で嬲られれば、甘ったるい悲鳴が洩れた。自分からこんな気持ち悪い声が発せられてるなんて信じたくないのに子宮の奥がキュンと疼くのだ。唇を噛み締めて声を押し殺したくてもヨシヨシと吐息混じりに頭を撫でながら舌を絡め取られる。

「……っひ、ぅ....ッ!」
「いい子だなぁ、名前は。大丈夫、文句なら後でいくらでも聞くから、な?」

──実は心のどこかで気づいている。

 認めたくないだけで、知りたくなかっただけで、あれ程気持ち悪いと思っていたキスが嫌と感じないのは、そういうことでしかないのだから。

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