真心包みて、紫珠に捧げ
大盛況だった海灯祭も無事終わり、珠蓮は兼ねての約束通り、写真機を土産に携え、奥蔵山に住まう留雲借風真君の下を訪れることにした。真君の言いつけ通り、十分に余暇を過ごした#珠蓮#の玉貌はまた一段と輝きを増し、その時間が好いものであったことを如実に物語っていた。
それは無論、弟子思いである真君にも十二分に伝わり、よくよく言いつけを守った珠蓮に真君はそれはそれは満足気であられた。
「ふむ……ほほう……この鏡のようなものが投影し、中に組み込まれている仕掛けがボタンに反応して紙に写されるのだな? 実に興味深い仕掛けだ……珠蓮よ、貰ったばかりで悪いが、これを解体してもよいだろうか? 後で必ず元通りにする故、許してはくれぬか?」
「真君に向かって許すなど……とんでもございません。こちらは真君に捧げた細やかな贈り物にございます。私めの許可など必要なきこと。どうぞお好きなようになさってくださいませ。サンプルが足りないようであれば、またすぐにでもお持ちいたしましょう」
珠蓮が慇懃に畏まり、謹んで申し上げると真君は何と珠蓮らしい返答だろうと微笑まれた。
璃月が建国される以前より生を受けた留雲借風真君は、現在に至るまで多くの弟子を取られたが、その中でも珠蓮ほど真面目な娘はいなかったと真君は記憶されていた。
一を聞いて二を知るかの如く、珠蓮はその類稀な器量相応に気立ての良い娘であり、この弟子を迎えてからというものの、真君は何一つとして不足を感じた試しはなかった。
「よいよい、これで十分だ」
「それならばようございました」
真君の満足いくものを用意できたことに珠蓮がほっと胸を撫で降ろすと、すぐにでも解体作業に入りたいであろう真君の言葉なき意向を汲み取り、珠蓮は速やかに本日の一品を真君へと提出した。
「真君、本日の美味にございます」
「ああ、見てみよう。どれどれ……ほう? これは飴玉か? ビー玉の中で細やかな花が踊っている。色鮮やかで光を受ける飴玉は、一見すると紫宝明珠のように輝いて見える。見た目にも楽しい一品だ。よくできているな」
中の宝玉を一層美しく彩る繊細な装飾が施された硝子の小瓶を真君がひょいっと持ち上げられると、陽の光を反射し、その宝玉は様々な影色を棚引いて真君の目を楽しませるに成功した。その光景に、真君は何か閃きを得たような、その一歩手前にいる感覚を覚えられたが、その正体までにはまだ行きつきそうにはなかった。
「お褒めに預かり光栄です。こちらはもちろんのこと、朝摘みの清心に砂糖を合わせ、澄んだ甘露を抽出し、それらをよく弱火に掛け、練り合わせて出来たものをベースに高峰に咲く瑠璃袋や、軽策荘で採れた琉璃百合で色付けして最後に紫宝明珠の粉をまぶした品でございます。一風変わった甘味も良いかと思い、本日はこの品をお持ち致しました」
「工程だけならば簡単そうに聞こえるが、これほど繊細な装飾は熟達した技能が必要だ。これを作るために随分練習を重ねたのではないか?」
指先で傾けた小瓶からカランと軽快な音が鳴る。耳も楽しませてくれるこの甘味を真君は更に気に入られ、珠蓮の精励を労おうとするが、自らを未熟者と称してやまぬ珠蓮には、それは恥ずべきことのようだった。
「それはそう、ですが……真君に中途半端なものをお持ちするわけには参りませんので……私の未熟な腕では一度で成功するのは未だ難しく――」
「待て待て、妾は何も蔑んだわけではない。むしろその逆だ」
「え……?」
真君は珠蓮の真面目な性分に感服するべきか、行き過ぎだと諫めるべきか、やや迷いながらもそれでもそれこそがこの娘の美徳であるとし、緩く頭を振って慰めるように和らいだお声で話された。
「妾に弟子入りを望む多くの者たちは、たった
仙人と縁を結びたがる凡人は多く、真君はそれを煩わしく思われると、洞府の入り口を閉じて会わないことで態度を示された。それでも凡人たちは離れず、奥蔵山が野営地と化すのを疎まれた真君は外に張り紙をし、清心の料理法を毎日一種類、計九十九種類を考案するようにとお題を出されたのだが、結果誰も三ヶ月ともたず成しえなかった。真君はそれみたことかと辟易され、この件に関しては憂鬱なものを抱えられていた。
「ところが珠蓮、お前はどうだろう。受ける必要もない百日の試練を既に終えたにも関わらず、こうして美食を好む妾のために一日と開けず、あらゆる趣向を凝らした逸品を届けてくれるではないか。褒めこそすれ、どうしてお前を責められよう。長きに渡る妾の憂鬱を日々洗い流してくれるのはお前だというのに」
「真君……」
紫珠の双眸が惑うように揺らぎ、真君へと注がれる。
――『まるで魔性だ』と珠蓮を預かる是非を問うた際、そう口にした彼の方の呟きが真君の脳裏へと浮かぶ。彼の盃にひらりと舞い落ちた桃の
留雲借風真君は、珠蓮の最もたる美徳はその清廉な心にあると見る。『帝君の傍仕えがそのように満足に仙力も使えぬなどあってはならぬことだ』とやや強引に弟子に迎えてから、幾日も経たぬうちに珠蓮がその玉貌に相応しい心根の持ち主であることは疑いようもないと解され、甘雨や申鶴たちと同様に可愛く思うばかりで、真君が雑談のつもりで何気なく話した百日の憂鬱を珠蓮は自主的に取り組み始めたのだ。
始めはその話をしてから暫しの時が流れていたのと、珍味佳肴と帝君に称されるその美食が気になり、真君の方から料理を作るようを頼んだこともあるため、修練と結び付けることはなかったが、毎度清心が使われているので、真君も疑問に思い、尋ねられたことで発覚したことだった。
『珠蓮よ。もしやお前は清心を好んでいるのか? それならば、お前の姉弟子である甘雨と気が合いそうだ。あの子も清心を好んでいた』
『……清心は料理法によってその姿を変えるものです。料理を好む者にとっては素晴らしい食材でしょう。甘雨姉様にはそのお好みをよくよく理解した後、お召し上がりいただける機会があれば光栄にございます』
『ふむ……? というと、お前自身は清心が特別好きというわけではないのだな……? であれば、なぜこんなにも清心を使った料理が出るのだ……?』
指を顎に組ませ、首を傾げられた真君に珠蓮は目を細め、それはそれは満面の笑みを浮かべ、こう言った。
『今日でちょうど百日目にございます』と。
そこで真君は以前話した百日の憂鬱に思い至り、珠蓮が十分に準備し、百日の間逸品とされる清心料理を振舞い続けていたことをよくよく理解された。
『私めは帝君の縁を頼りに留雲借風真君と縁を結ばせていただきました。なので、これを以て、私めも真君の正式な弟子と名乗れると思ってもよろしいでしょうか』
そんなことをせずとも、真君はとっくのそのつもりであった。仙縁とはそういうものだ。
帝君の姫であったから。帝君のモノであったから。帝君の掌中之珠であったから。それらは全て、珠蓮が結んだ縁なのだから。
だが、それに納得するには珠蓮はあまりに清廉であり、その清廉さがかくも可憐で、得難く、真君の心をも掴むことになろうとは思わず、それを知っていたのはおそらくあのいと尊きお方くらいであっただろうと、その時になり真君はあの言葉の真の意味に思い至った。
『ああ。間違いなく、お前もこの留雲借風真君の自慢の弟子である。これからは一層厳しい修行を課す故、覚悟するように』
『――はいっ!』
それからというものの、真君もこの弟子の前では常よりも柔らかい雰囲気を纏われるようになり、その清廉な様を慈しみ、大事にお育てになられている最中であった。
そのため、真君は少女の細やかな心配りを汲み取り、それをそっと掌に包んで差し出すことにした。
「百日は瞬く間に過ぎ、二百日すら目前である。未だにお前は創意工夫を続け、如才なく妾にぴったりの品を届けてくれている。からくりのことになると、つい熱中しがちな妾のためにこれを用意してきてくれたのだろう?」
カラン、と。真君は再び硝子の小瓶を手に取られ、軽く音を鳴らされた。
疲労回復に効果的な甘味でありながら、目に新しく楽しませてくれる。一息つくにはもってこいであり、真君の作業を決して阻害させぬ利発さを持ち合わせた品に、真君は何を思って珠蓮が本日の美味にこれを選んだのかよく感じられた。
「はい……これならば、真君のお手を煩わせることもないかと……」
「その通り、この甘味は妾が今最も必要とする美味であろう。お前が妾のことをよく考えてくれて、妾はとても嬉しく思う」
「いえ、そんな……当然のことをしたまでです。ですが、それでももし真君が私めを評価して下さるのであれば、それこそ師範のご指導の賜物であらせられるでしょう」
「うむ。それも一理あるが、お前の天稟も大いに関係があるだろう。その忍耐と努力がどれほど肝要か、お前も分かっているはずだ」
しっかり頷いた珠蓮に真君は満足げな表情を浮かべると、珠蓮の忍耐と努力の結実の証ともいえるある縁に意識が向いた。
海灯祭が終わって暫くはゆっくり過ごせとは命じたものの、文字通りゆっくりしたのは最近であろうことはとっくに伺えていた。それもそのはずで、珠蓮の身に優しく纏う風元素が、更に色濃くなっているのが一目瞭然であったのだ。どうやら、真君や#旅人#たちの願い通り、海灯祭を契機に珠蓮は再びあの少年夜叉との縁を強固に結んだらしかった。
(まったく、天晴れと言ったところか。これならば妾も返礼にも困らぬな)
真君は珠蓮に今まで教えた仙術の復習を命じられると、飴玉を供に写真機の解体とからくり造りに興じる為、洞府の中へと戻って行った。珠蓮もそのようにし、空が茜色に染まり始めた頃、洞府の中の真君に声を掛け、奥蔵山を後にした。
そうして翌日、美味を手に奥蔵山へと向かう珠蓮が絶雲の間に差し掛かった頃、待ち構えるかのごとく真君が顔を出したので、#珠蓮#は大層驚き、瞳を丸くさせた。
「し、真君! なぜここに……何か急ぎの御用が……?」
「コホン、何、満足のいくからくりが出来てだな。せっかくだからお前に試してもらおうと持ってきたのだ」
「私に……ですか? そんな貴重なものを私が受け取ってよいのでしょうか……?」
「お前が持ってきたものを妾が改良したからくり故、お前が試すのが筋だろう」
「そういうことでしたら……心してお預かりいたしましょう」
真君の嘴が垂れ下がった掛け紐をまとめると、しっかりと珠蓮のたおやかな手に握らせる。そのからくりは若干形状や色が変わりはしたものの、十分写真機とわかる原型を留めていた。
「まだ試作段階のものだ。まずは機能面の感想が知りたい。見た目に関しては後でどうとでもなる。これでいくつか写真を撮ってきてくれ」
「かしこまりました。被写体にご希望はございますでしょうか?」
「そうだな……うむ、お前が好きなものや大切にしているもの、または美しく思うものなどを撮って来てくれると妾は嬉しい」
「好きなものや大切にしているもの……」
首を傾げて考え込む珠蓮を真君は温かい目で見守られる。ややあって珠蓮も思い当たるものがあったようで、小さく声が上がり、紫珠の双眸がきらりと煌めいた。
「それならばたくさんあります。写真が本より分厚くなってしまうかもしれませんが……大丈夫でしょうか?」
「かまわない。そういったものがたくさんあることは良いことだ。気は遣わず、好きなようにするといい」
普段は年齢の割に硬いことばかりを口にする珠が、年相応の少女のようにはしゃぐ姿を真君は微笑ましく思われ、よいよい、と頷かれると、珠蓮も安心したように息を吐き、伺うように真君を見上げた。
「それはようございました。それでは、その……さっそくですが……真君の御身を撮らせていただいてもよろしいでしょうか……?」
「む? わ、妾か……?」
「はい。私めにとって、真君は敬愛するもう一人のお師匠様であらせられます。そればかりか、真君はいつもよく気に掛けて下さって、どれほど光栄なことか……好きや大切などという言葉では、稚拙に聞こえるかもしれませんが……真君にお許しいただけるのでしたら、写真を撮らせていただきたく思います」
まさか自分を撮りたいと思ってくれているとは思わず、真君はしばし沈黙なされた。
珠蓮は高名な仙人である留雲借風真君の御身を写すという行為が、著しく礼に欠いたものであると理解していたものの、真君の希望に適う為、勇気を振り絞り、願い出たのだった。けれど真君の長い沈黙に、やはりとんでもないことだったのだと自覚すると、さっと血の気が引き、勢いよく頭を下げ謝罪を口にした。
「申し訳――――」
「大いに良い!!」
「…………え」
珠蓮はこのとき、初めて真君が大きな声を出すのを聞いた。戸惑うように揺れる紫珠の双眸に映る真君は、こほんと咳ばらいを一つなさり、美しい片羽を広げられた。
「まさか妾もお前の大切なものに入れるとは思わず、驚いてしまった。すぐに返事ができずすまなかった。お前がそう言ってくれるのが妾はとても嬉しい。是非妾からも頼む」
「……頼むなど、そんな……本当に、よろしいのですか……?」
「勿論だ。妾に二言はない。どれ、このような佇まいでよいだろうか?」
優雅に羽を広げた留雲借風真君は威厳に満ちた御姿で、珠蓮は鈴が転がるような声で返事をすると、その御身を一つの絵に閉じ込める栄誉に浴された。
写真機から間もなく出てきた価値ある品は、それまでの写真機とは違い、輝くような光が散らされていた。
「まぁ……! 真君! 真君の尊い御姿を真君の貴作品は実に正確に表されたようです!」
「ふふ、そうかそうか。珠蓮よ、お前には妾がこう見えるのか」
「はいっ」
一も二もなく頷いた珠蓮に、真君は嬉しさとこみ上げてくる笑いを隠すように大きな羽で尊顔を覆われた。真君以上に写真を三嘆する珠蓮の様子は真君の御心を大いに温め、もう二枚ほど追加する許しを得るに至る。
そうして真君の撮影を終えると、真君の望みを叶えるため、珠蓮は絶雲の間から璃月港へと再び戻ろうとすると、真君が「そうだ」と声をお掛けになられた。
「その写真機だが、他の者に貸しても構わない。これも一つの遊びと思い、気楽に楽しむといい」
「良いのですか? これほど貴重なお品ですのに……」
「物は使われてこそその本分を発揮するものだ。相手が何を撮るのか見たいと思うなら、撮って見せてくれと頼めば新しい発見があるやもしれぬ」
「……真君がそう仰るなら……そのようにいたしましょう」
珠蓮が頷くのに真君はとりあえずそれでいいと満足なさり、璃月港へと向かう珠蓮を送り出された。その華奢な背中が遠ざかるのを眺めなられながら、真君は温かく見守られるような眼差しで荻花州の方へと視線を投げかけられるのだった。
璃月港に戻った珠蓮は、往生堂に向かい、まずは鍾離に写真を撮る許可を求めた。それを快く頷いた鍾離に甘え、数枚撮らせてもらい、珍しいことをしていると興味を持った胡桃もよいタイミングだと一緒に写真を撮った。
胡桃は珍しい写真の写りに興味を持ち、珠蓮から借りれないか尋ねたが、珠蓮が快く頷く前に不穏なことを囁きだしたため、「そんなものは真君にお見せ出来ません」と拒絶されることとなった。
胡桃が珠蓮をからかうのは今に始まったことではなく、いつものことで、それを取り成すのも鍾離であり、鍾離が珠蓮の小さな頭を慰めるように撫でてやると、胡桃に過保護だと呟かれる流れに此度も無事収まるのだった。
それから万民堂で働く姉弟子の申鶴を尋ね、そこに都合よく店にいた香菱も一緒に撮影すると、もう一人の姉弟子である甘雨の姿を求め、総務司へと顔を覗かせた。ちょうど昼休憩に差し掛かっていたようで、母である珠艶と刻晴の姿もあり、珠蓮は忽ち写真の束を分厚くさせた。
送仙儀式と海灯祭の件で大いに世話になった旅人とパイモンはもうすでに璃月を後にしており、珠蓮の心当たりは残すところ一つとなっていた。
「――それで、我のもとに来たと……?」
魈を訪ねて望舒旅館にまで来た珠蓮の気配を察知し、何かあったのかと現れた魈だったが、写真機の話を聞くとその表情は怪訝なものへと変わった。
「うん。大体の人は璃月港にいるから、最後に魈を訪ねる方が効率がいいでしょう?」
「……それはそうだが、そういうことではなくてだな」
「いいから。じっとしてて」
魈が新たに言葉を紡ぐよりも先に、珠蓮は写真機を構えて魈の姿を収めようとする。
その馴染みのないからくりがどういったものなのか、珠蓮から軽い説明を受けてはいても、魈の目には奇怪なガラクタにしか映らない。無論、留雲借風真君が製作したものであるのならば、それなりの意味はあるのだろうとは解するが、写真自体に何の意味があるのか、ただの姿絵をどうするというのか、魈は不思議でならなかった。
「…………」
それでも、魈が黙ってそれに応じたのは、珠蓮がそれを望んだからだった。紫珠の双眸も、花のような
「撮れた」
「もう出来たのか?」
「ええ。絵を描くよりずっと早いのよ。見てみて」
写真を撮るために一時的に遠ざかっていた二人の距離が瞬く間に詰められる。ふわりと香る花のような、甘い果実のような匂いが微かな風と共に舞う。相変わらず魈の前では窈窕たる淑女の面影は遠ざかるらしい。ここにいるのは紛れもなく、ただの一人の少女であった。
「ふふ、無愛想」
「……我に愛想など求めるな」
「ダメなんて言ってないでしょ。魈らしいわ」
鈴が転がるような笑い声が魈の鼓膜を優しく擽る。花が綻ぶように破顔する珠蓮が魈には眩しかった。その眩さから自然に視線を逸らそうとすると「待って」と他ならぬ珠蓮が袖を掴んで引き留めるので、魈は困ってしまった。
「まだ何かあるのか」
「うん。璃月の美景も撮っておきたくて。望舒旅館から見える月はとても綺麗でしょう? せっかくだから、今日は旅館に泊まろうと思うの。だからそれまで私に付き合って」
「……つまり、夜までお前の相手をしろと」
「うんっ」
弾んだ鈴声も、朝陽に溶ける木蓮のような微笑みも、そのわがままな要求すらも、魈の知る幼子だった頃と変わりのないものであったが、魈は軽く眩暈を覚え、頭が痛んだ。
珠蓮に手を焼かされるのは今に始まったことではないが、それはもう数年は前のことで、その頃は幼子だった彼女も、今や立派な少女である。後二つ、三つ、と年を数えれば、帝君――今や凡人として生きる道を選ばれたが――の寵姫として、本来の役目を担えるであろうことは想像に容易かった。そのような身でありながら、こうも自分への接し方が昔と変わらないのは、やはり記憶が原因かと魈は考え、余計に米神の辺りに痛みを感じた。
「珠蓮、お前は記憶の乖離を経験している。無論、それは我の罪だ。だが、だからと言って失った時をそのまま取り戻そうなどと考えるのは愚かなことだ。お前も知っての通り、我が身は業障に塗れ、いつお前を害してもおかしくない。いつまでも分別のつかぬ幼子ではないのだから、これからは――」
つらつらと説法を並べ立てていると、魈はどこからともなく圧力感じ、視線をそちらへと向けた。すると明らかに不満を乗せた珠蓮のじとりとした双眸が魈を見つめていた。妙に凄みを感じるその視線に、魈は意識的に気圧されるような何かを感じる。
「……何か言いたいことがあるのなら――」
「言いたいこと?」
「……ないのか」
「あるに決まってる! 魈のばか!」
珠蓮の渾身の罵声に魈は――前も聞いたな――と意識が僅かに遠くなる。清廉な乙女であられる珠蓮姫は、悪口と罵声と言えばこの陳腐な二文字しか知らないのだろう。不届き者に害されることなく育ったようで何よりだと魈が密かに安堵の息を吐くと、それを目敏く見咎めた珠蓮は「ちゃんと聞いて!」とますます怒りの炎を激しくしたようだった。
「何が言いたい」
「…………」
「? 言いたいことがあるのだろう。聞いてやるから話すといい」
「…………」
「何だその顔は。不貞腐れているのか?」
魈が一言二言話す度、珠蓮の機嫌は降下する。むうっと、不満を露わにしていた
その姿があまりに力ないものであったがために、魈は無意識に手を伸ばし、その身体を支えようとした。その華奢な肩に触れる直前、ハッとして手を引っ込めようとするも、それより早く胸にとんと軽い重さが乗った。清らかな花と甘い果実の香りが魈の鼻腔を掠めとり、息を呑んだ。
「…………」
「……だめだ、我から離れろ……お前の身に、何かあっては……」
「…………」
「珠蓮」
突き飛ばせるはずもなかった。魈はどうしたって、この少女を手荒になど扱えないのだ。
「いや」と短い拒絶が零れる。困ったように魈がもう一度名前を呼べば、小さな頭が横に揺れ、更に拒絶の意を示した。魈はどうしたものかと途方に暮れたが、話を聞く他ないとし、再び問いかけた。
「……お前の話を聞かせてくれ。これでは、我も分かってやれぬ」
「…………」
「珠蓮……」
頼む。と口にすれば、もぞりと珠蓮の頭が揺れた。魈から背けられていた顔が、そっと上向き、紫珠の双眸が悲しみを湛えながらも魈へと注がれる。怒りを湛えているとばかり思っていた相貌が、かくも悲しいものであったことに魈は驚いていた。
「――魈が難しく言うことは、いつもいやなことばかりだわ」
幼子が不貞腐れて愚痴を垂れるような物言いで、珠蓮はいじらしく呟き、そのままあれもこれもと思いつく限りの不満を並べ立てた。
「罪とか知らない。そんなのどうでもいい。でも、それを理由に魈が落ち込んだり、私を遠ざけようとしたりするのはいや」
常日頃端々に現れる教養を投棄した珠蓮に、窈窕たる淑女のよの字も見当たりなどしなかった。そうであればあるだけ、この夜叉との縁が薄まると分かっているかのように。
「私が魈といたいと思うのは、時間を取り戻したいからじゃない……私があなたを大切に思うのは、思い出だけに縋ってるからじゃない……」
ここにいるのはただただ美しいだけの、それだけの娘であった。
「魈のことを知りたいと思うのも、魈と一緒にいたいって思うのも、私のありのままの気持ち。私が子供だったから魈は仕方なく私を受け入れたのかもしれないけれど、私は今も同じ気持ちだから、勝手にそうする。業障のことだって、もう魈がそんなことを気にする必要がないよう、解決できるように頑張る」
きゅうっと、魈の胸へと添えられた手に力が入る。悲し気に憂いていた紫珠の双眸は、今や明確な意志を以て、力強い光を宿し、真っ直ぐに魈の
「それでも逃げたいなら逃げればいいわ。私がまた追いかければいいだけだもの」
その告白に黄金色が僅かに見開かれる。
魈は己の身に纏う業障が生者に影響を与えるほど悪化してからというものの、徹底的に珠蓮との関りを避けた。それでも心配は尽きず、何かに害されはしないかと密かに見守り続けること幾数年。紫朧洛に封じられた魔神との戦いを端緒に、珠蓮は封じていた記憶を通り戻してしまい、こうして再び縁を繋ごうと魈との繋がりを求め続けた。
幾度となく追いかけてくる珠蓮から背を向け、自分のことは忘れろと口にした。それでも尚珠蓮は諦めず、先日ついに魈はこの少女に捕まってしまったのだった。
魈の敗因を挙げるとするのなら、それはこの少女がどうしたって大切であったからだろう。魈が避ける度に悲し気な顔をするのも、自分と一緒にいるためだけに業障に関わる知識と術を修めんと奮闘する姿にも、見守ることをやめられなかった時点で、この結末は必至であったのだ。
「……お前という奴は……何故、我などにそこまでするのか」
「そんなの魈が好きだからに決まってるでしょう」
その好き≠ェあまりにも純粋で、魈は「軽々しくそういう言葉を使ってはいけない」と咎めることが出来なかった。「それは帝君にのみ許される言葉だ」と言うには、珠蓮は無垢過ぎたのだ。その無垢を帝君もまた愛し、このようになさっているのだろうと心得、魈はそのようにした。
「……業障の問題は我とお前だけでどうにかなるものではない」
「……分かってる。でも、だからって諦めたりなんてしない」
「ああ。その気持ちだけで我は十分――――」
再びじとりと重い雲を背負ったような双眸が向けられ、魈は言葉を切って口籠った。#珠蓮#はどうも、魈が未来に希望を持たぬことがお気に召さぬらしい。
そのじとりとした視線と無言の圧力に耐え切れず、魈はこういう時は何というのだったかと思考を巡らせ、何巡かした後、一つの答えに行きついた。
「……ありがとう」
「! うんっ」
たったそれだけ、たったその一言で、花が柔らかに綻んだ。魈は胸に温かなものが広がるのを感じながら、何とも不思議な奴だと小さく笑った。
そうして今宵もこの姫のわがままが叶うのも予定調和であった。何せそれらは、降魔大聖にとって造作もないことなのだから。
夜になるまでの間、他の美景を撮るため、珠蓮は望舒旅館の台所を借り、手早く弁当を作るとそれらを籠に入れ、魈と共に璃月各地を周った。正確には、籠を抱えた珠蓮を魈が運び、上空からの絶景を撮るなどして過ごし、瑶光の浜を訪れたところで弁当を広げ、休息をとることにしたのだった。
「それでね、胡桃さんったら『私が撮ったらこの世のものじゃないものがたっくさん撮れちゃうかもね〜』なんて言って揶揄うのよ。ふざけて言ってるだけだとしても、そう言われたら快く貸すなんてできないわ。留雲真君からの大事な借り物なんだもの」
魈に言わせれば「食べ物にしては華やかすぎる」品をつつきながら、珠蓮が魈のところに来る少し前にあった出来事の愚痴を零すと、魈は相槌を打ち、納得したように感想を零した。
「なるほどな。お前とはあまり相性がよくなさそうだ」
「嫌いなわけじゃないのよ。胡桃さんとの仲も悪いわけじゃないんだけど、いつも揶揄われて振り回されてしまうの」
「お前を振り回せる者がいるとは……我はお前に振り回されてばかりだ」
「む。嫌じゃないくせに」
「ああ。その通りだ。嫌ではない」
穏やかな表情を浮かべて杏仁豆腐を頬張る魈を見ると、珠蓮も溜飲が下がるどころか、すっかり機嫌を改めたようだった。くすくすと鈴のような笑い声が転がる。話題はすっかり弁当へと移っていた。
「魈はお肉よりお魚が好き?」
「特に考えたことはない。肉も魚も、食えればいい」
「でも、モラミートはあまり食べれないみたいね?」
食えればいいという割に、モラミートを前にした魈はあまり食が進まないようだった。今回は魈の好みを探る目的もあり、品目を多くしたので、デザートの杏仁豆腐を除く一つ一つの品が小さく、苦手でも食べられそうな大きさだったのが幸いした。そうでなければ、魈は未だに杏仁豆腐にはありつけなかっただろう。
「……食えないわけではない……が、我にこの料理は理解不能だ。小麦粉の生地と肉を一緒に食べるなど……手間だ」
「サンドイッチみたいなのが嫌なの? それとも中身の問題?」
「……焼いた小麦粉の生地の方が……我は好まない」
「そうなの。じゃあピザとかもダメかしらね」
「ぴざ? なんだそれは……変わった名前だな」
怪訝な表情を浮かべる魈に、珠蓮がピザの説明をするが、説明すればするほど魈の顔は呆れるようなものに変わっていった。
最後には「今の人間はますます常識に欠けるのだな」と締めくくるように感想を零したので、珠蓮は呆気にとられ、それから笑ってしまった。
「ふふっ、今の魈、すっごく昔の人みたい」
「……笑うな。昔の人も何も、我は優に二千年は生きている。それより以前は記憶が曖昧な所もある故、正確にどれほど生きているのかは覚えてはいないが……お前も仙人なのだから、
「魈の場合はそれだけ世俗から離れたからでしょう? 私は仙人として一人前になってからも人と関わって生きていくつもりだから、魈ほどにはならないと思うわ」
「……お前は人の役に立ちたいんだったな」
「ええ」
平和になった世に生を受けた先祖返りの仙人。それが#珠蓮#である。武神と称される仙獣玄武の血を濃く受け継いだ珠蓮は、武力において目を瞠るものがあった。
だからこそだろうか、魔神戦争や仙魔大戦など最も戦力が必要だった時代、最も武神が求められたであろう時代に生まれなかったことをどこかで後ろめたく思うかのように、珠蓮は人の役に立ちたがった。
それを「良い心がけだ」と言うにも、はたまた「人間にもいろんな奴がいる」と現実を突きつけるのも、魈はどちらもできそうになく、結局「そうか」と頷くに留まる他なかった。
「あ、そうだ! 魈も写真を撮ってみて!」
「我が? ……こういったものはよくわからぬ」
「魈の好きなものや大切なもの、綺麗だと思うものを撮ればいいのよ。まずは私が撮った写真を参考にしてみて! 本当になんでもいいんだから!」
「我はやるとは――」
魈の返事を聞く前に珠蓮は撮りためた分厚い写真の束を取り出し、「はい」と魈に差し出してしまう。いらぬとは言えない魈は、渋々「見るだけだ」と言ってそれを受け取り、一枚一枚捲った。
陽射しに溶けるような水面が美しい瑶光の浜。高く聳え立つ孤雲閣の図形に、璃月港の賑わう様子。威風堂々とした姿で映る留雲借風真君や、申鶴や甘雨など魈が見知った姿から知らぬ姿まであり、けれど何と言っても魈の目を引いたのは帝君――鍾離、その人の姿だった。
黄金色の双眸が吸い寄せられるようにその写真の前で止まるのを、珠蓮はそうなることが理解できるように柔らかく話しかけた。
「一枚あげましょうか? 師範にお願いして何枚か撮らせてもらったから、好きなのを選んでいいわよ」
「他にも撮らせていただいたのか……? いや、我はいい。このように御姿を私物として所有するなど、不敬極まりない」
そのようなことは出来ないと首を振る魈に、珠蓮はやや沈んだように顔を俯かせる。それはまるで、少し叱られて落ち込んだ子供のような仕草だった。
「……師範はいいって言ってくれたもの……」
「それはそうだろう。他ならぬお前の頼みなのだから」
「……私が頼んだから、師範は仕方なく受けてくれたって言うの……?」
「珠蓮? 何を……我はそうは言っていない。お前の細やかな願いなど、大したことではないと鍾離様は叶えて下さるだろう。厭われることであれば、あの方はお前が傷つかぬよう、そうと分からぬうちに処理なさるはずだ。叶えて下さったということは、あの方にとっては大したことではなかったということだ。そう気に病む必要はない」
魈は何故珠蓮がしおしおと萎れてしまったのかが理解できず、困惑しながらも確かな事実を以て気に病むなと慰める。長く世俗を離れ、旧友との交流も盛んではなかった魈は、未だ会話には不自由な面が多々あった。何か失言をしたやもしれぬと思い、「珠蓮……」と惑うように口にすると、珠蓮も多少は落ち着きを取り戻したようで、そよ風に揺れるそれくらいには回復したようだった。
「きっと師範なら、魈がその写真を持ってても怒ったりなんてしないわ。私のお願いと同じくらい、魈のお願いも聞いてくれると思う」
「……そんな滅多なことを言うでない。我とお前では立場が違う」
「確かに教え子と旧友では違うだろうけど、私はいいのに魈はダメっていうのはないはずだわ」
「逆だ。我には過ぎたるものでも、お前にはちょうど良いものもある」
色々それは、と注釈を入れたいところもあったが、魈はそれを耐え、最も訂正すべきもののみを訂正することを選んだ。岩王帝君に献上された姫である珠蓮の身分は己より高く、価値のあるものだと魈は認識している。事実として、珠蓮は紛ごうこと無き帝君の掌中之珠であり、驪竜之珠らしく、犯しがたい存在であった。
萎れこそしなかったが、珠蓮の頬はぷくりと膨れ、不満であることを露わにしていた。魈はその幼さに寛容を見せ、しょうがなく代替え案を用意した。
「我に撮ってほしいと言ったな。我はあまり感性が豊かではない故、面白いものは撮れぬと思うが……それでもよいか」
「……撮ってくれるの?」
「ああ。だがくれぐれも期待はするな。何を撮ればよいのかも、我は皆目見当がつかぬ」
それでも十分だったようで、珠蓮はすっかり機嫌を良くし、「何でもいいのよ」と写真機を差し出すのだった。
魈はその写真機をしっかり受け取ると、どうしたものかと思案する。好きなもの、大切なもの、美しいもの、それらに全く心当たりがないと言えば、噓になるだろう。その三拍子を兼ね揃えたものを魈はよく知っていた。
けれど、それをあっさりと差し出すことが出来ず、魈はしばし足掻くことにした。そうして誤魔化すように、彼が知る中で美の粋とも言える紫朧洛に向かおうと珠蓮に声を掛けるのだった。
――――紫朧洛。それは、璃月で最も栄え、最も富み、最も美しい都の名前である。
ちょうど荻花州の北部に位置し、隣接する軽策荘は紫朧洛とは違い田舎と言って過言ではなかったが、一歩踏み入れば繁華と閑静の両極端な街並みが見れ、交流が盛んに見られた。
紫朧洛の最もたる特産品と言えば、紫宝明珠が真っ先に上がる。この地域でのみ海岸で採れる真珠は、稲妻の珊瑚真珠にも劣らず、最高品質のものにもなると、その真珠は紫色へと変わり、値も数百倍へと跳ね上がるため、これがある種金持ちのステータスにもなっていた。
「どーお? いいものはあった?」
「……品質という意味ならな」
その返事に、珠蓮は魈の撮りたいものではなかったのを察すると、つまらなさそうに素足で水面を蹴った。水が僅かに跳ねて、白い肌が日に照らされる。魈はそれに諦めたように息を吐く。タイツを脱ぎ捨てようとした時点で、魈は制止したのだが、当然魈の言うことを聞く珠蓮ではない。ここにいるのが魈ですらなれればこのような真似もしなかっただろうが、魈の前ではかの名高き美姫である珠蓮姫も、窈窕たる淑女のよの字もない、少女へと返ってしまう。
せめて、紫朧洛一の豪商の娘として体裁が保てるよう、魈は警戒を強める他になかった。
「魈はもしかして、理想が高いの?」
「何だ急に」
「だって紫朧洛にも魈の気に入るものは見つからないんでしょう? 魈が美しいと思えるものって、きっと他の人が綺麗に思うものの何倍も綺麗なものなんじゃない?」
「…………」
沈黙する魈に、珠蓮は肯定ととり、本当にそういったものが存在するのかという不安と、もし存在するのなら見てみたいという期待を感じる。パシャパシャと水面を蹴る珠蓮も、次第にそれだけでは物足りなくなったのか、屈んで指先をつけると、弾くようにして水遊びに興じる。その過程で髪がさらりと零れ落ち、水に浸かりそうになるとさっといつの間にか近くに来ていた魈が直してやった。
「濡れるぞ」
「ん、ありがとう」
絹のようなその手触りが魈の手に余韻を残し去る。魈が凝視したわけでもないというのに、濡れ羽色のような黒髪が、肩より下にかけて紫掛かっていたのが印象的だった。
するりと自らの手をすり抜けて、去っていく。それが魈にとっての珠蓮であり、それこそが在るべき姿だと魈も思っていた。
「……そろそろ望舒旅館に戻ろう。直に日が落ちる」
「うん、わかった」
水面から足を戻し、タオルで水分を拭き取りだした珠蓮に背を向け、魈はどうしたものかと考える。
美しいとは、好きとは、大切とは何だろう。璃月を守ると護法の誓いすら立てたというのに、魈の心をこの美景は動かしてはくれなかった。望舒旅館に戻ってもそれはきっと変わらないだろう。魈の気はすっかり重くなっていた。
(美しいとは何だろう。我にとって、それは――――)
物思いに耽る魈の鼓膜を鈴のような声音が揺らす。「魈、お待たせ」と支度が終わった珠蓮が柔らかい微笑みを携えて佇んでいた。
魈は「ああ」と返事をすると行きと同じように両手を差し出す珠蓮をひょいと抱え上げ、望舒旅館まで連れて行ってやった。くすくすと鼓膜を擽るその音がむず痒い。己の前では、年相応か、もしくはそれよりも幼い姿へと変わるこの少女を決して落とさぬように、魈は大事に抱えてやるのだった。
「ねえ、見て。夕陽が綺麗」
「そうか? 我にはいつもと変わったようには見えない」
「じゃあ魈はいつも綺麗な夕陽を見れてるのね」
「……そうなのだろうか」
「そうなのよ」
柑子色に彩られる空に、茜色が混じりながら太陽が神秘に輝いている。魈は少し止まってやり、珠蓮が写真を撮るのを待ってやった。
そうして再び飛翔し、望舒旅館が近づいた頃、そろそろ到着すると声を掛けようとすれば、なんと珠蓮は腕の中で眠り込んでしまっていた。魈は暫し呆然としたが、あまりに心地よさそうに眠るので、起こす気にはなれず、しょうがなくそのまま抱え、オーナーのヴェル・ゴレットのもとへと向かうことにした。
「あら、魈様? と……そちらは珠蓮様? 何かこざいましたか?」
「大事はない。ただ眠っているだけだ。珠蓮が宿泊する予定の部屋はどこだ? そこまで運ぶ」
「はい、それでしたら昔と変わらず、この旅館で一番良い部屋をご用意させていただきましたわ」
「あの部屋か」
まだ珠蓮が帝君のものではなかった頃、あまりに魈を訪ねに望舒旅館まで来るものだから、珠蓮の母がそれならばと望舒旅館の一室を珠蓮の宿泊先として抑えてしまったのだった。当然、紫朧洛一の豪商にして、璃月七星の一人である
その部屋へと向かい、去って行った魈の姿を、ヴェル・ゴレットは感服するような面持ちで見送った。それなりの年数を望舒旅館のオーナーとして勤めている彼女は、魈と珠蓮の関係をよく知っている。何せ、その関係の修復に一躍買ったのも、このヴェル・ゴレットなのだから。
(……珠艶様に報告しないといけないわね。きっとあの方も喜ばれることでしょう)
珠蓮は契約に基づき岩王帝君に献上された姫だ。けれど、その契約よりも先に縁があったのは、魈であったとヴェル・ゴレットも、夫の淮安も、揺光珠艶ですらそう認識している。帝君がこの世を去り、その契約も本来の形を保てなくなった今ならば、また新たな関係が築けるのではないかと、ヴェル・ゴレットは浮足立つように揺光へと連絡を取るのだった。電話越しに、少女のように高揚する珠艶の姿が目に浮かぶ。その吉報を誰よりも待っているのは、きっと彼女だろうとヴェル・ゴレットはくすりと笑うのだった。
珠蓮が目覚めたのはそれからすっかり日が落ち、夜の帳が降りた頃だった。
伸びをして起き上がると、ベッドのサイドテーブルに飾り切りされた夕暮れの実やザイトゥン桃、林檎などの盛り合わせが置かれており、珠蓮はそれをありがたく受け取り、夜食とすることにした。
それらを食すと、景観を一望できる阳台へと向かう。涼やかな風が頬を撫でるのを心地よく感じながら、珠蓮は魈の名を呼ぶ。そうすると、すぐにその少年夜叉は現れた。
「起きたのか」
「うん。いつの間にか眠ってたみたい。運んでくれてありがとう」
「かまわぬ。このところお前は忙しくしていたのだから、疲れるのも無理はない」
賑わいを見せた海灯祭も、数週間もすれば皆日常に戻る。珠蓮は岩王帝君との縁故に剣舞を奉納し、此度の海灯祭に花を添えた。その偉大な功績は彼女の名声を高めると同時に、疲労を齎したのも事実であった。
疲れていないと、休んだつもりでいても、実際は疲労が蓄積していたらしい。それは最も珠蓮が自然体であれる場所で顕著に表れる結果となった。
「魈はあれから写真は撮れた?」
「……いや。難しいものだな、こうも見つけられぬとは」
「やっぱり魈の求めるレベルが高いのかしら……? まぁ、ないのならしょうがないわ。もう遅いのだから、ないものを探すより、あるものを撮らなくてはね」
当初の目的通り、望舒旅館から覗く月はどこから見える月よりも特別なものであった。一等白く発光する月が、この宵闇に溶け、少女たちを優しく照らす。
その姿を写真に収める珠蓮を、魈はぼんやりと見つめていた。
(月などより、花などより、余程……)
とある詩を魈は耳にしたことがある。あれは誰の詩だったか、元の主は忘れてしまったが、弥怒が口にしていたのを魈は覚えている。
『その姿を前にすれば、月も慄き光を消し、花も恥じらい閉じていく……それこそが最もたる美人だろう』
誰が一番の美人かとくだらぬ言い争いをする女人たちを前に、弥怒は「さぁ、やってみせてくれ」とその一言で収めてみせた。魈はそんなものが存在するはずはないだろうと呆れたものだったが、衣服を始め、麗姿にこだわりがあった弥怒は本当にそういった美人が存在すると分かっていたのかもしれない。
そうでなければ、今のこの状況を説明できるはずもないのだから。
「――珠蓮」
「ん? なぁに」
「写真機を貸してくれ」
「何か撮りたいものが出来たの?」
「ああ」
本当は最初から心当たりがあった。最初から、それはずっと魈の中にあったものだ。好きなもの、大切なもの、美しいもの。どれだけ考えても、どれだけ他に目を向けても、それらは霞んでゆくばかりで、本来の美しさの半分も見えはしなかった。霞んでしょうがないのだ。こんなにも美しいものが傍らにあるのだから。
「? 魈……?」
写真機を珠蓮に向けると、彼女は不思議そうな顔をした。レンズ越しに見える紫珠の双眸は、寸分変わらず、いっそ吸い込まれそうなほど神秘と優美を湛えている。
――吸い込まれそうなのだ。いつだって魈はその瞳を見る度にそう思う。まともに見れたものではない。自制と理性を以て接さねば、魈は自身の中にある何かよくないものを呼び覚ましてしまいそうで、数秒と合わせられなかった。
ボタンを押して、写真を撮った魈に、珠蓮はぽかんとした表情を浮かべる。何故魈が自分を撮ったのか、理解できなかったのだ。
「どうしたの? 初めて使うから間違えたの?」
「いや、間違えてなどいない」
「でも私を撮ったわ」
「お前を撮るつもりだったからな」
何てことはない魈の返答に、珠蓮は双眸を不思議そうに瞬かせた。まるで不思議で、星空の海を揺蕩っているような気さえした。
「美しいものを撮るんじゃなかったの?」
「だからお前を撮ったのだろう」
「? 魈は私のことを綺麗だと思っているの?」
「ああ」
その肯定に、瞳が大きく開く。まるで予想していなかったことだ。珠蓮は魈にそんな風に思われているなんてちっとも思わなかったのだ。
その事実を知った珠蓮といえば、再びその双眸を瞬かせ、そうしてくすりと笑った。
「魈って変わってるのね。あれだけこだわってたのに、私で満足しちゃうんだもの」
月の光がくすくすと転がる鈴の音に、同調するように溶けていくようだった。魈はその光景が眩しいというかのように目を細め、腕を組むとどこか不満そうに口を出した。
「お前は美しいだろう」
ぴたりと鈴の音が止む。紫珠が惑うように魈の黄金に合わさると、魈はもう一度念を押すよう賛美した。
「お前は美しい。我が目にしてきた、何よりも」
それが魈の真実であった。最も栄え、最も富み、最も美しい都には、紫宝明珠に勝る至宝が存在する。否、正しくは、存在したというのが正しいだろう。それこそが契約に基づき、珠蓮が岩王帝君の下に参った所以であったのだから。
紫朧洛の至宝、それは紫朧洛一の豪商の一人娘を示す。「紫珠に剣を以て舞わすば、右に出る者無し」とも称された、後の璃月の舞姫――つまるところ、珠蓮その人である。
とっくに、最も美しいものを知っていた魈に、他の美しいもので妥協しろと言うのは土台無理な話だったのだ。
その告白を受け入れた珠蓮はというと、数秒躊躇いつつもそれを飲み込み、そうして理解すると、ふわりと笑った。
「やっぱり、魈って変ね」
鈴の音がくすくすと響く。月も光を消し、花も恥じらうその美姫はまるでおかしいというように笑い声をあげていた。魈はそれに彼女らしいと納得すると、一つ頷き肯定した。
「ああ、どうやらそうらしい」
――お前以外の全てが霞んで見えるのならば、いっそお前が妖魔ではないかと疑うのが易いというのに、そういう気には到底なれぬ。それがどうかしていないというのなら、何だというのだろう――。
魈はその正体が何であるかを知る由もなく、また知る気もなかった。それは知らなくとも問題はないものなのであるのだから、暴く必要もないことだ。今が過ぎたるほどに幸福であるから、それを知る必要は魈にはなかったのだ
その先を、望むこともないのだから。
次の日、珠蓮が留雲借風真君の下に美味と写真を持って参ると、真君はそこに紛れた一枚に大層喜び、それに劣化防止の加工を施すと、その写真を撮った者に渡すよう言いつけた。
珠蓮はそのようにし、再び魈の手にそれを返すと、彼はとても穏やかな顔を見せたという。その写真を後生大事にしていたことは、また、言うまでもない話である。