指先で触れ合う夢路
貴人が住まう邸宅に相応しい御廚子所に、ふんわりとした甘い卵の焼きあがる匂いが漂う。この豪奢な厨の主と言っても過言ではない少女から機嫌よく口遊まれる旋律が、その出来映えを雄弁に物語っていた。
烤箱から生地を下ろすと、珠蓮はよく冷えた生クリームを冷蔵庫から取り出し、それを泡立てにかかる。滑らかなシルクが繰り返し波打って、やがてそれはきめ細やかな泡へと変わった。
「うん、これでよしっと」
ツンと立った角に珠蓮は満足げに頷くと、再び冷蔵庫に戻し、今度は豊富に揃った果物を手に取って吟味し始めた。
「いちごだけもいいけれど、夕暮れの実やザイトゥン桃を入れても美味しいし……うーん、魈は何がいいかな」
思案する珠蓮の脳裏に浮かぶのは、あの黄金色の瞳をした夜叉の姿だった。
魈と再び交流を持つようになってからというものの、珠蓮は熱心に多種多様なる美食を魈に与えたがった。帝君へと献上されてからの珠蓮といえば、博識で拘りの強い鍾離指導の下、その腕をよく磨いたのもあって今では知る人ぞ知る璃月でも指折りの料理人として確固たる地位を築いている。
そんな珠蓮が名だたる仙人とは思えぬ質素な食事を続ける魈の世話を焼かぬはずがなく、こうしてせっせと食事を作っては押しかける日々を送っていたのだった。
(杏仁豆腐が好きだから、もしかしてと思って作ってみたプリンとミントゼリーは喜んでくれたけど……小麦粉を使った生地を焼いたものはあんまりだったわ……甘いのは好きだから、ケーキは食べれると思うんだけど……うーん)
思い出すのは、留雲借風真君のいいつけで写真を撮って回った日のことである。バスケットいっぱいにお弁当とデザートを詰めて持って行ったはいいものの、魈はモラミートを好まず、続く会話からピザなどの小麦粉を使った生地全般を嫌煙してる様子が伺えた。ケーキのスポンジも同じく小麦粉を使って焼いたものであったが、甘い物を好む魈ならば食べれるかもしれないと考え、珠蓮は張り切っている最中であった。
ケーキは美味しい、と珠蓮は思う。甘く柔らかで、ふわふわとした生地とフルーツの彩りがたまらない。甘くてキラキラしたものがぎゅっと詰まった宝箱のような楽しさがケーキにはあるのだ。殊、見栄えのする美しい料理を作ることにおいて、璃月一と称される珠蓮の技術はこういった精巧な技術が要求される品に遺憾なく発揮されるのもあり、珠蓮が魈にケーキを食べさせたいと思うのは必然だっただろう。
つまるところ、この無垢で無邪気な少女は大好きなあの夜叉によくやった≠ニ褒めて欲しいのだ。
「うん、決めた。全部入れちゃお。そうしたら、魈の好みもわかるはずだもの」
名案だとばかりに掌を合わせた珠蓮だったが、もしここに魈がいたならば相変わらずの豪快さだと眉を下げて口元を緩めたことだろう。その美しい夢の中にだけ存在するような繊細な美貌に対し、珠蓮は些か大雑把な性分であった。もっとも、それを知るのはごく一部の者であったが。魈が関わると、窈窕たる淑女と称されるいと尊き珠蓮姫の衣を脱ぎ捨て、往日の姿を覗かせるのは変わらなかった。
(明日が楽しみ。魈、喜んでくれるといいな)
煌々と輝く紫珠の双眸には、あの頃と変わらぬ親愛が瞬いている。まるで離れていた時間を上書きするように、開いた隙間を埋めるように、珠蓮はそれらを丁寧に重ね、彼との縁を手繰り寄せていく。
もう二度と、その手を離さないように。離されることがないように。珠蓮はぎゅっとその掌に力を込めて引っ張り上げるように、魈の口から「参った」の三文字を引き出し続けると決めてからというものの、珠蓮はずっとこうであった。
御廚子所の入り口から密かにその様子を覗き込んでいた鍾離は、柔らかに口遊まれる旋律と、花が綻ぶような微笑みにそれはそれは満足げに頷いてはそっとその場を後にした。聡明叡知な彼にはきっとこの先の顛末も予想出来たのだろう。泰然と歩く鍾離の口元は緩やかな弧を描き、その双眸はまるで見守るような眼差しで温かさを宿していた。
再び陽が昇り、時が巡ったところで、珠蓮は魈のもとを訪れるより先に留雲借風真君へ本日献上する美食を手に奥蔵山へと来ていた。
此度珠蓮が用意した美味は、魈に渡すものとは少し違った、真君の好みへと寄ったケーキであった。
「ほう……随分と美しいお菓子だ。煌びやかな花々に精巧な羽まで……これは砂糖菓子か?」
「羽はそうですが、お花の方は色を付けた生クリームで絞ったものになります。よく泡立て、冷やした生クリームはこのように形を保つことができるのです」
珠蓮の説明に後から飾り付けたのだろう花の装飾に合点がいった真君は、小皿に切り分けられたケーキを皿のまま持ち上げ、興味深そうに「どれどれ」と観察した。
「なるほど……よく趣向が凝らされている。華美なものほど、お前の技巧が光るな」
「もったいないお言葉です。まだまだ精進せねばならぬ面ばかりで……来年にはきっと今より美しいものを真君にお届けできるでしょう」
「おや、妾は一年とかからぬと見るぞ。お前の向上心と努力には目を瞠るものがある」
真君の柔和な眼差しに珠蓮は照れたように「そうでしょうか……?」と尋ねると、真君は一も二もなく「ああ、妾が保証しよう」と頷く。それに胸が膨らむような思いを感じながら、珠蓮も嬉しそうに「きっとお応えします」と微笑むのだった。
「して、珠蓮よ。ケーキを選んだのはそちらの箱が関係あるのか?」
真君の視線が向かう先には、別の食卓に置いた箱があった。それは珠蓮が魈にと作ったケーキが入った箱で、予期せぬ言及を受けた珠蓮は分かりやすく狼狽えた。
「え、えっと……それは、その……」
「ん? 妾には言えぬか?」
「いえそのようなことは!」
反射的に否定する珠蓮であったが、それは確かに本心から出たものであった。珠蓮ははっと息を飲みつつも、首を傾げて穏やかに返事を待つ真君を目にすると、観念したようにぽつりと口を開いた。
「これは……その、魈に……作ったもので……」
「うん」
「……魈に、ケーキを食べて欲しくて……それで……」
先ほどまで言葉の端々に現れていた教養は今や鳴りを潜め、代わりに年相応の可憐な少女の顔を覗かせている。恥ずかし気にもじもじとした様は、珠蓮の幼い玉貌も相まって庇護欲を掻き立てるには充分で、真君はそれを大層微笑まし気に見守っていた。
「ああ、きっと降魔大聖も喜ぶであろう」
「……そうだと、嬉しいです……」
真君の温かい眼差しに背中を押されるように、珠蓮もこくりと頷く。そうであるならばと真君は早く珠蓮を帰してやろうと、本日の議題に入った。
「珠蓮よ。お前は動物は好きか?」
「動物……はい、好きです」
「そうかそうか。では特に何の動物が好きだ?」
「何の……」
その問いに珠蓮は口元に手を当てて思案すると、頭に鍾離が飼っているガビチョウが浮かぶ。珠蓮も進んで世話を買って出ているその鳥は、よく懐き、珠蓮の指先でも羽を休めては可愛く囀るほど賢い鳥であった。
「あ……小鳥が好きです」
「鳥か。それは良いな。それでは何の鳥が好きだ。言ってみるといい。何でもかまわぬぞ」
「何でも……」
うーんと珠蓮は頭を悩ませた。鍾離が凡人の道を歩むようになってからこそ、璃月の外に出るようにはなったが、それもまだ数えるほどだ。鳥の種類をぱっと頭に描けるほど、珠蓮は世界を知らず、またこれといった好みもなかった。
暫し悩んだ珠蓮であったが、答えがいつまでも出ぬと判断すると、正直に真君に申し出ることにした。
「すみません、真君……これといって思いつきませんでした……」
「そう気を落とすでない。今思いつかずとも、いつか気に入ったものに出会えた時、妾にも教えてくれればよいのだから」
「……はい。一日も早くお答えできますよう、見聞を広げて参ります」
珠蓮らしい真面目な返答に真君はくすりとしつつも「うむ。待っておるぞ」と頷く。
そうして奥蔵山を下山する珠蓮を見送ると、真君は青みがかった白い翼を嘴にあて、実に面白そうにふくふくと笑った。
「小鳥とは……やはりあの子は真っ直ぐに見つめているのだな」
実に微笑ましいことだと頷くと、真君は美翼を広げ、洞天の中へと入り込んでいく。その叡智は既に未来を見越し、頭の中ではからくりの図面が浮かんでいた。
甘く優しい、華美なる菓子を共に、真君はそれにも劣らぬからくりを開発にかかるのだった。
絶雲の間を後にした珠蓮は、そのまま望舒旅館まで飛んでいこうかと迷ったが、真君との約束が気になり、逆に魈を呼び出すことに決めたようだった。
「魈、来て」
そう口にすると、すぐに一陣の風が吹いて珠蓮の艶髪を揺らす。そっと髪を抑えて隣を見やれば、そこには美しい少年夜叉の姿があった。
「どうした。何かあったのか?」
その静かな声と黄金色の瞳には僅かに心配の色が宿っていた。いつもの大したことではない案件だと魈も感づいてはいたが、どうにも心配が拭えないのは幼い頃から知っているこの少女に何かあってはいけないと殊更気を遣っているからだろう。どうにも大胆で、大雑把なきらいのあるこの少女を魈はよく案じていた。
魈の問いかけに珠蓮はこくりと頷くと、どこか甘えるように口を開いた。
「うん。小鳥を見たくて……」
「鳥?」
怪訝そうな表情を浮かべる魈に、珠蓮は「あのね」と真君と交わした約束について話をする。鳥の種類を知りたいという珠蓮に対し、魈はやや難し気な顔をして「なるほど」ととりあえず納得の意を示した。
「事情は分かったが、我もそう詳しくはない。そういったことは鍾離様がよくご存じだろう。鍾離様にお尋ねすれば、お前の欲しい答えを与えて下さるはずだ」
実に理に適った選択を提示した魈であったが、珠蓮の反応はといえば実に微妙なものだった。それどころか、どこか拗ねるようにその陶器のような滑らかな頬を膨らませている。不満であることを隠しもしない珠蓮に、魈はやや戸惑いがちにその名前を呼んだ。
「珠蓮? 何か気に入らなかったのか?」
「……うん、気に入らない」
「……何がだ」
「全部」
その返答にやや衝撃を受けながらも、魈は静かに腕を組み直す。それが『言ってみろ』という合図であることを理解している珠蓮は、文字通り気に入らないとばかりに子供のように拗ねた口調で不満を露わにした。
「私は魈とお出かけしながら小鳥を見たかったのに、魈は私とお出かけしてくれない」
ツンと小さく尖った花びらのような唇から、ちくりとした言葉が零れる。じとりと重たい雲を背負ったような紫珠の双眸が、不満げに瞬く。
「すっっっごく、気に入らない」
ぷいっとそっぽを向いてしまった珠蓮に、言い分を聞き終えた魈はややたじろぎながらもそれを態度には出さず、宥めるようにその名を呼んで声を掛けた。
「そういう、ことだったのか……すまない。お前がそのつもりであるのなら、我は付き合おう」
「……ほんと?」
「ああ」
どこか伺うように魈に視線を戻して尋ねれば、しっかりと頷かれたそれに珠蓮は機嫌を戻したようだった。それでもやはり気になるのか、珠蓮は更に念を押すように問いかける。
「璃月港から紫朧洛まで連れて行ってくれる?」
「かまわぬ。他にはどこへ行きたい」
「……瑶光の浜に沈玉の谷。それから……伏鰲の谷も」
ちらりと魈へと上向きに視線をやるのは、珠蓮にも我儘を言っている自覚があったのだろう。ほぼほぼ璃月全土を一緒に回ってほしいという意は、相手が魈でなければ口にもせず、そもそも願いもしなかったことだ。
僅かに常よりも鼓動を刻む胸に落ち着かなさを感じていると、魈は事も無げに頷いて見せた。
「分かった」
ぱちりと瞳が瞬く。迷う素振りも、渋る様子も見せず、了承した魈に珠蓮が「……いいの?」とおずおずと伺えば、魈は心なしかその乏しい表情を柔らかに綻ばせる。
「それがお前の望みなら。我は叶えよう」
――珠蓮は、ただの一度も、魈に冷たくされた試しがない。いつだって、どんな時でも、魈は珠蓮を受け入れ、絹で包み込むように大切に扱うばかりで、珠蓮の我儘を繰り返し叶えてきた。
だからだろう。珠蓮はこのように魈にだけはいつまでも幼子であったあの頃の無垢と無邪気のままに、自由に振舞うことができたのだ。
「うん。連れて行って」
当然のように魈へと近寄ってじっと見上げる珠蓮は随分と甘えた様子で、珠蓮が求めていることが何なのかをよく察した魈は、何も言わずにさっと腕を回して抱き上げる。近くなった目線と距離はもうここ最近では慣れたもので、魈は苦言を呈す代わりに諦めたような、しょうがないというような顔で僅かに眉を下げるだけだった。
腕の中でくすくすと機嫌よく鈴の音を鳴らす珠蓮は、とっておきの秘密を打ち明けるようにそっと耳打ちした。
「あのね、この箱の中にとってもいいものが入ってるの」
「……いいもの?」
「うん、内緒。後のお楽しみね」
ころころと声を上げる珠蓮に魈は不思議そうにしながらも「そうか」と頷く。箱の中から僅かな冷気を感じて、珠蓮が仙力を使っていることが伺えたが、それにも言及することなく魈は珠蓮の楽しみを守るようにそっと浮遊した。
「まずはどこからだ?」
「どこでも。高く飛んでね。風が気持ちいの」
とんと魈の胸へと頭を預ける珠蓮はすっかり寛いでおり、魈は鳥はいいのかと思いつつも、少女の要望通りに高く飛んでやった。
風が戯れるように珠蓮の絹髪を揺らす。甘やかな果実のような、清らかな花のような香りがして、魈は思わず目を細める。揺れる隙間から覗く珠蓮の紫真珠のような双眸が、満足げに弧を描いていた。
「気持ちぃ……ねぇ、魈。鳥さんいる?」
「……いるにはいるだろうが、こんなに高くては見えるものも見えないぞ」
「そういえば、私も飛んでるとあんまり見ないかも……ちょっとだけ低くしてくれる?」
ちょっとだけ、で見えるだろうかと魈は周囲を見渡す。鳥が生息しそうな場所を注視していると、樹の隙間に営巣している白鳩の姿が見え、魈はふわりとそちらへと向かった。
「珠蓮、よく見てみろ。あの樹の枝にいるのが見えるだろう」
「んー? ……あ、いた。あれは……鳩?」
問いかけるように首を傾げて魈を見上げる珠蓮に、魈は「そうだ」と頷く。再び鳩へと視線を戻した珠蓮だったが、暫くもしない内に首を振った。
「もっと小さい鳥がいいわ。師範の小鳥くらい、小さいの」
「鍾離様は鳥を飼われているのだったか……?」
「うん。ガビチョウっていう種類の鳥なのよ。とても賢くてかわいいの」
これくらい、と片手を掬うように形を整えて大きさを示す珠蓮に、魈は随分小さいものを好むのだなと思う。以前、旅人に鍾離が何をして過ごしているのか尋ねたことがあったが、その時も鳥の散歩をしていると聞き、大層困惑したのを覚えている。
この様子では珠蓮もその鳥を可愛がっているのだろう。魈の中に、その鳥ではだめなのかという疑問がふわりと浮かんだ。
「珠蓮。お前もそのガビチョウ、とやらを可愛く思っているというのに……それではダメなのか……?」
そう口にした途端、珠蓮の口がツンと再び尖るのを魈は目の当たりにし、自身がまたしても失言したことを察する。
「あの子は可愛いけど、あれは師範の好みだもの。もしかしたら他にもっと私が好きだと思う子がいるかもしれないじゃない」
「それは……もっともだが」
「いいの。魈と一緒に見つけることに意義があるんだから」
「そう、なのか……?」
「そうなの!」
どこか拗ねた様子で「もう!」と腕に収まり直す珠蓮に、魈は困惑した様子でいたが、珠蓮の言うことを理解することが自分には難しいことを理解している魈は、そのまま口を噤んでその意義とやらについて暫し長考することにした。
珠蓮の言葉は難解だ。魈にとっては理解できぬものばかりで、いつも怒らせてしまう。けれど、その心に寄り添いたいと魈は思う。この無垢で無邪気な美しい少女が、その夢のような玉貌と同じように、清らかな心を持っていることをよく知っているのだから。その心に触れ、理解したい。その感情は強く魈の中で芽吹いていた。
あれから場所を変え、何度か鷹や鷲を見つけはしたものの、当然珠蓮の好みには合わず、荻花州へと到着したところで、珠蓮は平原に敷物を広げて例のお楽しみを披露することにした。
目当ての鳥にこそ出会えなかったものの、空の旅を楽しんだこともあり、珠蓮の降下した機嫌は再び上向きを見せたことで、そのまま休憩を取ることにしたのだ。
もっとも、珠蓮自身に早く魈に見て欲しいといった気持ちがあったのは言うまでもなく明白であった。
「じゃじゃーん! 見て、魈! ケーキを作ってきたの!」
箱を開けてその豪奢な菓子に負けぬほど、瞳をきらきらと輝かせる珠蓮に、魈は目を瞠る。
珠蓮の反応から、この品が特別なものであるというのは理解できたが、見たこともないその形状と何が使われているのかも不明な白い雲を覆いかぶせたようなそれに、魈は微妙な反応をする他なかった。
かろうじて上に乗っているのが夕暮れの実やラズベリーといった果実であることは理解できたが、それがなぜそこにあるのかも魈にはあまりにも不可解であった。
「あ、ああ」
魈の微妙な反応もピザの件を経たことで粗方想像がついたのだろう、珠蓮はその反応に苦言を呈することもなく、さっと切り分けて小皿に取ると、フォークで一口サイズにしたものを魈の口元に差し出した。
「食べてみて? 美味しいから」
「お、おい」
「はい、あーん」
自分で食べる、と口にしようとするが、至近距離で期待に瞬く紫珠の双眸を見てしまった魈は、まるで牙を抜かれた獣のように大人しく口を開ける他なかった。
僅かに開いた口に珠蓮がそっとその甘味を運ぶ。覚悟と共に開いて飲み込めば、そこにはふわりと広がる甘さがあった。
「……」
「どう? 美味しいでしょう?」
静かに咀嚼する魈に珠蓮が問いかける。それは殆ど確信に満ちたものであったが、返事がないことに珠蓮は怪訝気に首を傾げた。
「……美味しくないの?」
しおしおと萎れた花のように元気を失くしていく珠蓮に、魈はこれはいけないと慌てて口を開く。
「美味、であったとは思う」
「……思うって……?」
曖昧な言い方に珠蓮はやはり美味しくなかったのかとますます萎れていくのを魈は見ていられず、この未知の感覚を言葉に表すのに苦労しながらも、一つ一つを魈は感じるままに、やや詰まりながらも答えだした。
「その……よく分からぬのだ。この白いものは何だ? まるで雲を食しているようだ。小麦粉を焼いた生地だというのに、この生地は……さほど嫌なものではないのも不思議だ。甘ければいいというものでもないだろう。甘いといえば、飾ってあった果実もだが……なぜこのように飾り立てる必要が……? すまない。我にはよく、わからぬ……」
申し訳なさそうに語る魈に、珠蓮はぽかんとした表情を浮かべる。ほんの一口を口にしただけで、こんなにも思案していたとは思わなかったのだ。
ぱちりと瞳を瞬かせる珠蓮を見つめる魈はどこか気落ちしたような様子で、その美貌を静かに歪ませた。
「せっかくお前がこうして手間をかけてくれたというのに……すまない」
詫びる魈に珠蓮は思わず「……どうして謝るの?」と問いかける。謝られるようなことは何一つとして心当たりなどなかった。
けれども、魈の視線は切り分けて残ったケーキへと向く。一切れ欠けてもなお、むしろ美しい断層を覗かせたその姿こそ、その価値がよく伝わるような気がした。
「あれは……何か特別な菓子なのだろう」
「! 分かるの?」
「……それくらいは察する。だが、我はこの菓子に込められたお前の思いまでは……察してやることができなかった。お前がどんな思いでこれを我に作ってくれたのか、我には分からない……それを、すまなく思う」
初めて知る魈の思いに、珠蓮は衝撃を隠せなかった。
ぱく、と開いた唇はすぐに閉じてしまって、言葉がうまく出ない。その様子に魈は自分の責任だとでもいうように黄金色の瞳に翳りを見せた。
そのまま、魈が消えてしまいそうな錯覚を覚えた珠蓮は、焦るように、けれど振り絞るように声を紡いだ。
「魈がそんな風に思ってくれてたなんて……私、知らなかった……」
「お前が気に病まねばならぬことなどない。全ての責は我にある」
「責……」
その言葉を反芻すると、珠蓮は今よりずっと悲しくなった。突き放されたような気分にも近いだろう。珠蓮は、目の前の少年夜叉の姿が何だか遠くなった気がした。
魈の言う難しいことは、いつも分からないことばかりだと珠蓮は思う。近づいたと思えば離れて、繋いでいたはずの手はするりと指先から解けていく。そんなことばかりで、珠蓮はその度に新たな傷を増やしていく。
けれどそれは、きっと魈も同じだと珠蓮は感じる。きっと同じで。きっと自分よりこの誰よりも優しい彼は傷ついているのだと、今微かに、その傷に触れた気がした。
「そんな風に言わないで。責めるようなものなんて、どこにもないんだから」
「珠蓮……だが」
尚自らを咎めようとするその口を、珠蓮は胸に飛び込むように指先でしっ、と包み込んだ。至近距離に迫った珠蓮の可憐な容貌と、ふわりと舞う香りに魈はくらりとするのを感じる。その双眸に吸い込まれそうな意識の中で、静かに近付く距離が、こつんと額を合わせたところで止まった。
「魈」
甘やかな声だった。どこか舌ったらずな音が紡ぐそれに、魈は安堵のような、庇護欲のような、そんな幸福を確かに感じていた。
「ありがとう」
すっと伸ばされた両腕が、ぎゅっと包み込むように魈を抱きしめる。驚いたように目を瞠る魈に、珠蓮は柔らかにその心を語り出す。
「私の気持ちを考えてくれて、すごく嬉しい。魈が私を理解しようとしてくれたって知れただけで、充分すぎるくらい幸せ」
鈴の音が転がるような声音に珠蓮の幸福が溢れていた。惑うように瞳を揺らす魈に、珠蓮は一つの真実を教える。
「ケーキはね、お祝い事には欠かせないくらい、大事なものだけど……お祝い事じゃなくても食べていいんだよ。毎日だって食べる人はいるんだから、何でもない日にだって食べていいの」
「……何でも、ない……日」
珠蓮が言った言葉を反芻する魈は、このケーキに特別な意味があったわけではないことを悟る。自らの考えすぎであったことに、僅かに目を伏せた。
(……お前を理解するというのは……斯様に難しいのだな……)
こんなにも近くにいるというのに、遠いと感じる。まるで蜃気楼のように、その心を掴もうにも触れたそばから霧散する。果たして珠蓮を理解してやれる日は来るのだろうかと不安げに瞬く瞳に、そっとどこまでも澄んだ紫珠が合わさった。
「でもね、誰かに食べて欲しくて、その人を思いながら作ったケーキは特別なものなの。私……魈にどうしても食べて欲しかった」
「……何故……?」
「……こんなに上手に作れるようになったんだって、魈に見て欲しかったの。いっぱい褒めて欲しかった」
まるで子供だと珠蓮も思う。幼子が親や兄姉に力作を見てくれと強請るように。珠蓮は魈にこんなにも自分は成長したのだと見て欲しかったのだ。
「……我から見ても、これには精妙な技巧が凝らされているのが分かる。相当な修練を積んだのだろう。その……よくやった」
「魈……」
口下手ながらにも精一杯に褒めてくれようとする魈に、珠蓮は心が温かくなるのを感じる。離れた距離が再び縮まっては繋がれるように、珠蓮は一つの未来を照らし出した。
「次にケーキを作るなら……魈のお誕生日がいいな」
「……我の?」
「うん。もう、ずっと先だけど」
そう口にする珠蓮の頬は、心なしか薄桃色に染まっているように見える。どこか恥ずかしがるような、照れたような表情を浮かべ、魈の好みを探るように問いかけた。
「……魈は、どの果物を使ったケーキがよかった? それともやっぱり……おっきな杏仁豆腐がいい?」
教えて、と強請ってくる珠蓮に魈は胸に空気が詰まったように、身体の内側から何かが膨らんでくるのを感じた。それは不快なはずであるのに、不快ではないのが不可解で。その不可解を傍らに、魈は少女の問いと向き合って熟考すると、やがて一つの答えを出した。
「そうだな。我は……杏仁豆腐がのったケーキがいい」
「杏仁豆腐が……のったケーキ……ふ、ふふっ」
「なっ、何故笑う……!? 我はそんなにおかしなことを言ったのか!?」
ころころと笑い声を上げる珠蓮に、魈は僅かに慌てる。魈にとって珠蓮が作る料理は摩訶不思議で、その調理法の多くが魈には理解できないものだ。料理に深く精通する珠蓮が思わず笑ってしまうほど、常識はずれなことを言ってしまったのかと気が気でなかった。
「ううん。おかしくないわ。でも、その発想は私にはなかったから、ちょっと驚いたの。杏仁豆腐がのったケーキ……うん、私も食べたい。今度作ったら、一緒に食べてくれる?」
「……お前が作ってくれるというのなら。相伴に預かる」
「うん!」
魈の返答に満足げに頷いた珠蓮は「初めて作るから失敗しても許してね」と笑う。魈はなんだそんなことかと思いながらもしっかりと首を縦へと振るのだった。
「まだたくさんあるから食べよう? 何が好きか教えてね。きっともっと次は上手に作るんだから」
「……参考になりそうなことは言えぬかもな」
「どうして?」
「すでに美味いからだ。我にはもったいないほどに」
そう、魈は満ち足りたような、自らに不相応であるそれに気が引けるような顔をする。
魈の身を苛む業障が、不思議と珠蓮と共にいるときは鳴りを潜めるのだ。日常と化し、慣れ切ったはずの苦痛がまるで蜘蛛の子を散らすかのようにどこかへと消えていく。それが鍾離曰く、珠蓮が受け継いだ玄武に由来する力だというのだから、魈はこの少女にどれだけ救われているか分からなかった。
珠蓮はきょとんとした顔をしたかと思えば、やがて破顔するように表情を華やがせる。いつかと同じように珠蓮はおかしそうにそれを口にした。
「やっぱり、魈って変ね」
くすりと笑う少女を見つめる黄金色の瞳は、まるで眩しいものを見るかのように細まる。だから魈は、いつかと同じ台詞に、いつかと同じ言葉で返した。
「ああ。そうらしい」
目の前の少女の全てが宝物のように大切で仕方なかった。その微笑みが曇ることがないように。その温かさが永久に続くように。祈りにも似たような願いが胸の奥に渦巻く。
それが俗にいう愛だということを魈は知らない。知らないまま、魈はその心を大事に大事に包み込むのだった。
幼子であった頃のように、珠蓮は高価で優美な衣装が汚れるのも構わず、荻花州の平原に身体を預けていた。小さく寝息を立てる姿は酷く無防備で。彼女により強制的に傍らに横たわらされた魈はまるで騎士のようにその眠りの番をしていた。
風が頬を撫でるようにそよぐ。緩やかに波打つ髪が、一層珠蓮の可憐さを引き立てるようだった。まさに岩王帝君の寵姫に相応しい、美姫の風格さえもを感じさせる。
唇にかかった髪をとってやろうと手を伸ばして、魈はそれに触れるのに一瞬躊躇いを覚えた。
(お前はいつも惜しみなく我に与えてくれる。こんなにも幸せでいいのかと恐ろしくなるほどに)
まだ今よりずっと小さく脆い、柔い命だった頃を思い出す。散々に振り回されたそれすら思い出す度に温かなものが胸に流れ込んでくるのも。他人の体温がこんなにも心地よいものだったのかと知ったのも、全て珠蓮が魈に教えてくれたことだった。
「珠蓮……」
触れてはならぬという理性と、払ってやるだけだという庇護欲。そして、ふとしたときに無意識に顔を出す何かを感じながら、魈は徐に手を伸ばす。指先がそれに触れようとして、紫珠が僅かに瞬いたことで魈はその手を引っ込めてしまった。
「んぅ……? ん……しょう……?」
「……起きたのか」
眠たげな瞳が魈を捕らえると、ぱちぱちと瞬く。ころんと魈の方へと身体を向ければ、唇に触れていた髪もそのままさらりと流れ落ちて、魈が払ってやる必要はどこにもなくなってしまった。
「私……寝てた?」
「ああ。少しの間だったが……よく眠っていた」
くしくしと瞳を擦る珠蓮は未だ半分眠りの中にいるようだった。気を抜けば再びうとうとしだすだろう珠蓮に魈はどこか気遣うような目を向ける。
「普段からあまり眠れていないのか? よくこうしてお前は眠ってしまうように思う。昔はお前が子供であったこともあり、そういうものかと思ったが……鍾離様の身の回りを整えるのも、留雲真君に言いつけられた修練に励むのも大変なことだろう。よもや過重労働になっているのではないか……?」
そう魈が心配するのも無理もないことで、珠蓮は魈と過ごすと、必ずと言っていいほど眠ってしまうのだ。それは魈に抱えられて移動する間のことであったり、こうして二人で寛いだ後であったりと様々であるが、珠蓮が眠らずに魈と過ごした日はなく、それが魈にとっての気がかりであった。
「んー……特にそんなことはないわ。師範も真君もよく気遣って下さって……朝は早いけど、夜も早く眠るの。寝不足ってことはないと思う」
「だが、実際お前は……」
こんなにも眠そうではないかと言おうとして、魈ははっと一つの可能性に思い至る。身に纏う業障が珠蓮と共に過ごすことで落ち着くのならば、珠蓮に何か副作用のようなものが現れてもおかしくないのではと。遠目から見守っていた間、珠蓮にそのような症状は、どこにも――と考えて血の気が引いたところで、珠蓮がとっておきの秘密を教えるように緩やかに口元に弧を描いた。
「魈といるとね、すごく安心するの」
「……安心……?」
「うん。とってもいい夢がみれるのよ。あったかくて、すごく好き」
その告白に黄金色の瞳が戸惑うように揺れる。珠蓮は「まだ眠たぁい」と無邪気に甘えるように魈の胸へと収まってそのまま再び寝息を立て始めてしまった。
どこからどう見ても、異常など感じられないその寝顔は幸せそうなもので、魈は半ば強制的に寝床を整えるように差し出さねばならなかった片腕の先を困惑するように握りしめる。
「……まったく、お前という奴は……いつまで経っても手がかかる」
それが嫌ではないことを己が一番よく分かっていた。幼い頃に寝かしつけてやるように背を撫でてやったのを思い出す。そんな必要はないというのに、魈の指先は僅かな躊躇いを宿したまま、今度こそその小さな頭に触れた。
さらりと指先を滑り落ちる絹髪に、魈は柔らかな願いを込める。
「いい夢を……」
やがて、その願いを叶えるかのように魈も眠りへと落ちていく。それが夢だと分からぬほど、驚く程に穏やかな夢を見た。
当たり前に繋いだ手が、野を駆ける無邪気が、飛び鳥を見ては微笑んで、共に味わうその夢の味が酷く美味だった。
あまりにも幸福なその夢を、夢と認識できなかったのは、夢から目覚めた珠蓮がこう口にしたのも要因の一つだっただろう。
「私、ヤマガラがいい! 青みがかった薄緑色の綺麗な子!」
それが好きなのだと花が綻ぶような微笑みを見せる珠蓮に、魈は「そうか」と穏やかに笑うのだった。