水面に映る月影は

 帝君のいない海灯祭が開かれて、暫くしてからのことだった。
 新たに覚悟を決めた珠蓮に捕まったはいいものの、魈はそれが最善だとはやはり思えず、以前ほどあからさまに避けたりこそしなかったが、それでもいくらか妖魔退治などもっともらしい理由をつけ、珠蓮の前から姿を晦ませることは多くあった。
 寒夜に浮かぶ月を望舒旅館から見上げる度、魈は果たしてこれでよかったのだろうかと自問せずにはいられない。その身に染み付いて離れぬ業障は絶え間なく苛み、果ては傍にいる者に危害を与える。何一つ解決したわけではないこの問題を楽観視出来るほど、魈の歩んできた道は容易くはなかった。

「魈、やっぱりここにいた」
「……珠蓮」

 ふわりと浮遊して傍にやってきたのは、魈の悩みの種ともいえる珠蓮その人で、珠蓮はふんわりとした微笑みを浮かべており、魈と会えたことが嬉しいと直接顔に書いてあるかのようだった。
 魈とてそれに悪い気などするはずもなかったが、こうも遅い時間に外をふらついていることにはいい顔をすることも出来ず、それがまた自分に会うために探し回った結果だろうことも容易に伺えて、米神のあたりが痛むのを感じた。

「あのね、この間お兄様がお芝居に招待してくれたの。不落幕劇団っていって、とても有名な劇団なんだよ。魈のことを話したら快く頷いてくれて……ね、だから一緒に観に行こう?」

 招待チケットだろうそれを口元に掲げ、小さく首を傾げて伺う姿は可憐という他なく、魈も頷いてやりたい気持ちはあったが、珠蓮がお兄様と慕い称す存在には苦い顔を浮かべてしまう。

(確か秦衣、とかいったか……)

 やけに珠蓮が懐いているその男は一見するとただの人間ではあるが、その経歴を見るに只者ではないのが俗世を離れている魈にも感じ取れた。見守ること数年、珠蓮に危害こそ加えてはいないものの、彼の人の子の珠蓮を見る眼差しはあまり心地いい物とは魈は思えなかった。

「……やめておく。お前も知っての通り、我が纏う業障は常人に危害を及ぼす。わざわざ群衆の中へと足を運ぶこともあるまい」

 もっともたる理由を並べた魈は、珠蓮が落胆を浮かべるだろうことに僅かな心苦しさを覚えど、やはり撤回する気はなく話は終わったとばかりに立ち上がる。けれども魈の予想に反し、珠蓮は――正確には秦衣が、と言うべきか――上手だった。

「そう言うだろうからって、お兄様がね、公演前のリハーサルを見せてくれるの。何でも、紫朧洛をはじめに璃月各地で順番に公演が行われるみたいで……私たちだけで楽しめるそうよ」
「……」
「これなら問題ないでしょう? 私たちならちょっと遠くからでもよく見えるから……魈が心配してるようなことにはならないはずよ。ねぇ、いいでしょう?」

 丁寧に取り除かれた障害は、手厚いもてなしだと感嘆するには出来すぎている。けれども珠蓮はそれらの一切を疑う様子もなく、どこまでも秦衣を優しいお兄様だと信頼していた。
 それらをくだらぬと跳ねのけるには、魈の中で珠蓮の存在は大きく、極めつけに上目に期待を浮かべる眼差しでその双眸に見つめられてしまえば、見事お膳立てされたそれを受け取る他に魈に選択肢は残っていなかった。

「我はあまりそう言ったものに明るくはない。気の利いたことは言えぬぞ。それでもいいのなら……付き合おう」
「! 嬉しい! よかった。いざ観てみたら、きっと魈も気に入ると思う。お兄様が招待してくれるお芝居はね、いつも心の奥底に訴えかけてくるものがあるの。私もお芝居のことはよく分からないけど、お兄様のは……上手く言えないのだけど、何だか特別なの」

 上手く言えないと口にした通り、珠蓮も不思議な感覚を覚えているのだろう。その玉貌こそが芸術と象徴するといっても過言ではないこの少女は、意外なことに美的情操にはあまり明るくはない。幼少より一級品に囲まれて過ごし、母親と帝君によって最高の教育を施されてきたおかげで何とか取り繕えているが、芸術の奥深い部分を感じるという行為は相変わらず苦手らしかった。
 魈は珠蓮が多少なりとも秦衣の芝居に感じるものがある様子に珍しいこともあるものだと思うが、やはりあの人間からは腥いものが消えない。「そうか」と短い返事だけを寄こした魈だったが、それでも珠蓮は約束を取り付けたことで満足したのだろう。可憐な微笑みを浮かべ、浮足立ったようにふわりと浮遊し、手を振ってまたねと帰っていく。その後ろ姿をじっと見守る黄金色の双眸は、少女を案じて僅かに揺らめていていた。









 約束の日取りになると、魈は珠蓮が今日も朝一で留雲借風真君に美食を届けに向かっただろうことを見越して絶雲の間を訪れ、迎えに向かった。その予想は的中し、珠蓮は魈の姿を見つけると表情を華めかせ、ふわりと抱き着いてきた。それを危なげなく受け止めた魈ではあるが、相変わらずの幼い戯れに僅かに眉を寄せ、苦言を呈すように口を開いた。

「珠蓮。何度も言っているが、もうお前も幼子ではないのだから、こういった戯れ事は――」

 魈の苦言を遮るように珠蓮の片頬がぷくりと膨らむ。こうして拗ねた顔を見せるのも毎度のことであったが、続く言葉が何かを薄々察している魈にとって、その仕草は悩みの始まりでしかなかった。

「それこそ何度も言ってるわ。魈にしかしないんだもの。大目にみて?」

 まるで免罪符のように魈にしかしない≠ニ口にする珠蓮に、魈は軽く眩暈を覚える。むしろそれだからこそ問題だ。魈自身、帝君――今や凡人の道を歩まれた方ではあるが――と珠蓮の間に、語り継がれている物語のような浪漫があったとは思っていないが、それでも名目上珠蓮は紛れもなく岩王帝君に献上された姫であり、いくら魈と珠蓮がやや特殊な経歴を辿った昔馴染みであろうとも、このように容易く戯れられるはずもなかった。少なくとも、魈の中ではそうだ。たとえ帝君が直々に許しを下そうとも、魈にとってそれは侵しがたい領域であり、畏れ多いことこの上なかった。

「だが……」
「もう、そんなことより早く行こう? 水辺の近くでやるんだって。まだ寒いから大きな羽織を持ってきたんだよ。一緒に被って観劇しようね。きっとこうすればあったかいよ」

 よほど芝居が楽しみなのか、はたまた別の理由があるのか、珠蓮は楽し気に魈の腕を急ごうと引っ張るばかりで、全く魈の苦言など聞いた様子はない。魈は何度目かも分からぬこの応酬の終着に、お決まりとなった溜め息を零して、しょうがなく僅かに笑った。

(全く……お前という奴は……)

 魈の言うことなど何一つ聞きはしない。昔と寸分変わらず、この小さな手を振り払うことも出来ずに魈は引っ張られるがまま、歩みを進めるのだ。
 目指すは紫朧洛。璃月最北に位置する、最も栄えた美しい都。璃月港とはまた違った華やかさを持つ街並みは、絢爛という言葉が何より似合いだ。
 水辺に浮かぶはその名に恥じず宝玉の煌めきを湛える紫宝明珠。風に揺蕩うは珠玉を抱いた紫宝蝶。儚げに咲いて街を彩るは白木蓮の厳かさ。雪掛かった冬の情景さえも、その夢のような世界を演出する一つの材料に過ぎなかった。

「これはこれは珠蓮姫に降魔大聖。この度はお二方にご足労をおかけしまして申し訳ございません。仙人様の洞府に直接劇団を移動させるのは幾らなんでも無作法と存じまして、このような席を設けさせていただく他なく……ご寛恕を賜りますよう、伏してお願い申し上げます」

 しっかりと璃月の古い礼式に則り、拳を包むような形で手を合わせ、膝をついて歓待した秦衣を珠蓮が慌てたように静止する。

「とんでもないことです。私の方こそお兄様に無理を言って強請ったようなものなのですから、どうか頭を上げて、折った膝を伸ばしてくださいませ。ここまでの道中も、魈と昔話に花を咲かせていたのでちっとも退屈はしませんでした。むしろそれこそが私たちには必要な時間だったように思います」

 高貴な姫らしくおっとりとした口調ながら、しっかりと風格と気遣いを表す珠蓮の姿に魈は何も言わず見守ることを決めたようだった。こういった姿をこうも近くで見るのは新鮮ではあったが、珠蓮という高貴な少女は元来こういった娘である。よくよくその様子を見守ってきた魈が懸念する必要など今更なく、珠蓮より半歩ほど下がったところで魈は事の成り行きにそっと耳を傾けていた。

「そう仰っていただけると救われる思いです。この紫朧洛という都が常より数段と華やいで見えるのは、姫のそのお優しい御心にこの地が応えているからやもしれませんね」

 そう微笑んだ秦衣の目元を彩る蝶は、まるで羽をはためかせるような形を描く。凡人ながら、秦衣の容貌はこの美しき仙人たちに劣らぬ上等なものであった。

「お兄様ったら……からかっていらっしゃるのね。そうかしこまらないでください。ここにいるのは確かに仙人ではありますが、姫として来たのではありません。ただお兄様を慕うだけの妹分にございます。どうかそのように接してください。でなければ心寂しいではありませんか」

 僅かに眉を下げた珠蓮の口調は、魈に向けるものほどではないが、どこか甘えたよな響きを感じられた。普段より幾分か押しも強く出ているように思えるが、それもそのはず。秦衣の方もまるで揶揄うかのように優しく笑みを湛え、珠蓮の揚げ足を見事にとってみせた。

「おや……それではそちらのお方を私はどう接するべきでしょう? 姫がそのように仰られるのでしたら、それ相応にそのつもりでおもてなししなくてはなりませんね」
「……?」
「お、お兄様……っ」

 その暗喩を魈は汲み取れなかったものの、珠蓮はしっかりと意味を解したらしい。途端にあわあわと慌てふためき、先程までの高貴な威厳は綺麗さっぱりと消え失せてしまっていた。不思議に思った魈が「珠蓮」と名を呼べば、はっとした珠蓮の頬は薄っすらと桃色に染まって、何か言いたげに小さく開いた可憐な唇が、つんと閉じてそっぽを向いた。

「……何でも、ない……です。そんなんじゃないの、そんなんじゃ……よく分からないわ、私……まだ、そういうのは……だって、魈は魈なんだもの……」

 惑うように彷徨う紫珠の双眸がじんわりと熱を持つ。一体どうしてしまったのかと魈が気遣わし気に見遣れば、珠蓮はそれすら耐えられないとばかりに俯いてしまった。こうもしおらしい珠蓮の姿にどうしたものかと考えていると、秦衣のくすりとした控えめな笑い声が温かに包み込むようにこの場の空気を変えた。

「これは随分と可憐な花の精が迷い込んで来たようですね。春はまだ少し先になりますので、今の冬の寒さは耐えがたいでしょう。この紫朧洛に美しく咲き誇る木蓮もこの時期になると雪を化粧に違った顔を覗かせるものです」

 僅かに吐く息が白い曇りを帯びる。ふわりと空から舞う綿毛のようなそれに秦衣が掌を差し出し、受け皿とした。体温に溶けて水となったそれに、秦衣は仙人へと再び視線を戻すと、にこりと微笑んで人のいい笑みを浮かべた。

「さぁ雪もちらついて参りました。あちらにお席を用意しておりますので、どうかごゆるりとご観劇下さいませ。不落幕劇団一同、またとない奇縁に感謝し、この場に相応しい物語をお二方へと御贈りいたしましょう」

 ひらりと秦衣がそっと舞い散る雪をすくうように扇子を広げる。とっくに秦衣の芝居はもう始まっているのだ。

「此度ご観劇いただきます演目は『水面に映る月影は』といいます。美しい木蓮が咲き誇り、湖に薄氷が凍るこの神秘的な季節に一層楽しめる芝居となっておりますので、ご期待くださいませ」

 秦衣は目配せをして団員を促し、魈と珠蓮を席へと案内するよう合図を送る。それに従って出てきたのは神の目を持った団員であり、流石不落幕劇団、秦衣座長と言うべきか、よく教育が行き届いた気の利く団員であった。
 珠蓮は仙人といえど未だ若く、たったの十四年しか生きていない。それに対して魈は人の世での知名度こそ低いものの、魔神戦争で活躍し、今日に渡り璃月を守る盟約を履行している歴戦の仙人である。この仙人を並べた時、多くの者がどちらを厚遇すべきか悩むことだろう。片や今は亡き岩王帝君の姫君、片や護法夜叉大将、降魔大聖。仙人信仰が厚い璃月であっても、それらは複雑な礼法を余儀なくされる。
 けれどもこの団員は迷うことなく珠蓮を上座へと案内し、魈の不興を鮮やかに免れた。秦衣が珠蓮と親しいからなのか、それとも別に理由があるのか、魈が自らの下に珠蓮を置かれることを嫌うのをこの団員は承知らしかった。

「翹英荘より、沈玉仙茶の一つ、松蘿仙芽のお茶をご用意いたしました」

 すっと差し出された茶器を両手で包み込んで受け取った珠蓮とは対照的に、魈は観劇に茶が振舞われるということが不可解なのか、怪訝そうな顔をしていた。その顔には『凡人の考えることは分からないものだな』と描かれているのが手に取るように分かり、珠蓮は思わずくすりと笑った。

「この間ね、師範とフォンテーヌに行ったの。そこで観劇をしたのだけれど、そこの劇場では甘いお茶をお供にするのが主流だったわ」
「茶を……? 何のためにそのようなことを……」
「私もよくは分からないけれど、師範はゆっくりと観劇を楽しむためだろうって……今なら少しわかるかもしれないわ。だってほら、これなら凍えながら観ることもないでしょう?」

 茶器に静かに口をつけて含んだ珠蓮は、その温かさと香り高さに満足げに笑みを浮かべた。
 仙人の身体は凡人のそれより遥かに強靭である。現に一見すると薄着である魈は特に寒さを感じてなどいない。気候の移り変わりを感じはするものの、然程影響を受けないのだ。元より仙人とは元素生物である。自然に馴染むことなど造作もなかった。
 だが、何事にも例外というものは存在するものだ。珠蓮は先祖返りとして生まれ、人間の両親をもったためか、彼女の仙獣としての容でもある蛇の特性が良くも悪くも強く影響しているようだった。普段は身分ある者として取り繕ってこそいるものの、寒さも暑さも好まぬ珠蓮にはこの季節は辛いものが少々あった。
 そのために珠蓮が持参した羽織は、魈の目から見ても上等なもので、この冬のために母だか鍾離が誂えさせた一級品であることが伺える。それを肩に掛けた珠蓮は片側の布地を広げてみせ、魈を招き入れるような仕草を見せた。

「魈も一緒に入ろう? あったかいよ」
「……我のことはいい。特に暖を必要とはしていない」
「一緒に入った方が温かいのに……」
「これほど上質な品であれば一人も二人も変わらぬ。ほら、こうして包まっていろ」

 まるで襟を合わせるように魈は羽織物を丁寧に包んでやる。こうしていざ包んでやると、大きいとは思っていたが、二重に巻けるだけの長さがあったことに魈は少々驚いた。珠蓮が小柄なことを差し引いても十分すぎる大きさだ。
 不意にきゅっと合わせを握った珠蓮の手が魈の手を掠め、魈はその冷たさに僅かに目を見開いた。

「どうしたの? 何かあった?」
「……いや……何でもない」

 綿毛のように宙を舞う細雪が、風に誘われて珠蓮の髪に舞い降りる。溶けることもなくそこに佇むその雪は、小さな花のようにも見えなくはない。振り払うにはあまりに脆弱で、けれども時を経るごとに増していくその群れを看過するには冷たくて。その葛藤にも似た躊躇いを飲み込むように、魈はそっと珠蓮から目を逸らした。

「あ、見て。始まるみたい」

 その声を合図に舞台を彩るかのように、一斉に霄灯に明かりが灯る。まだ陽が出ている中でも、まるで絨毯のように降り積もった淡雪が、霄灯の明かりを反射して幻想的な陰影を引き出し、この時期にしか味わえないだろう舞台装置として活用しているようだった。
 此度の演目は、座長自らが主役として立つらしく、秦衣は先ほどとは一転して、たった今朝露を浴びて目覚めたかのような瑞々しさを感じる清廉な少女に姿を変えていた。どういった化粧を施したのか、その少女の瞳は珠玉のような輝きを湛え、見る者の視線を釘づけにして離さない。少女のゆっくりとした瞬きすら、今にも羽音が聞こえてきそうで、魈はその少女に既視感を覚えた。

「目覚めゆく――桃源郷から現世へ――花開き――瞬き一つ、惜しむれど――その名を知る者――未だ然らず――」

 独特な歌の響きであった。可憐な花が零した歌にも、小鳥が囀った音にも聞こえる。何かを待つかのように、空を泳ぐかのように翳され、揺らめくその手は随分とゆっくりで、少女が凡人ではない感覚の持ち主であり、またその存在自体がただの凡人ではないことをよくよく示していた。

「花の蜜――甘き夢に揺蕩えば――待ち人来る――」

 劇中の少女は水辺を愛しているようで、よく足を水に浸しては、花の蜜を啜るのが気に入りのようだった。いつものようにそうして過ごしていると、そこに何者かがやってくる。少女の華やぐような笑みから察するに、親しい間柄であることが伺えた。

「指先が――頬掠め――色づく頬に――夢をみた――高鳴る鼓動、刻む旋律――その訳さえ知らぬままに――」

 少女の両手が、その手を包むように自らの頬へと添えられる。桃色に色づいたその頬から、相手への募る愛しさと信頼をよく感じた。

「幼き心――無垢を抱いて――覚えた愛しさ――久しからず――」

 それは少女だけの感情ではないのだろう。少女の頬に触れたその少年もまた、同じだけのものを感じているのがその眼差しから伝わった。
 少女と少年のそれは、所謂身分違いの恋であった。淡く色づいた桃花の蕾のようなそれは、甘き香を閉じ込めて、咲き初めを待っている。二人はあまりにも若く、純真で。すぐそこに忍び寄る魔の手があるとも知らずに、その束の間の安穏を永遠のものと信じ、享受した。

――けれども平等に流れる時を永遠に止める術など、どこにもない。何も知らなかった彼らは当然のように、唐突に夢の終わりを迎え、水底へと引きずり込まれるしかなかった。
 潮流に呑まれるように少年は少女のためを思い、身を引くことを決めたが、それは少女にとって何よりも受け入れがたいことであった。少年はこの運命の分岐路を選び間違えてしまったのだ。

「絹衣、白魚の手は隠れみて――水を吸う、衣の重りより胸痛く――白木蓮に藍をみた――」

 少年との恋を引き裂かれた少女はその身を嘆き、上等な絹で織られた衣が水を吸って台無しになるのもかまわずに、そっとその湖に身を投げた。
 天を割くような慟哭が響く。選択を誤ったことに気づいた少年が慌てて駆けつけた頃には、あの夢のように美しい少女は水底に眠ってしまっていた。少女はまたあの優しい微睡みの中で夢を見ているのだろうか。今度こそ誰にも邪魔されることなく、甘い夢を。いつまでも、いつまでも――。

 舞台に幕が下り、此度の芝居はこれで終わりであることを知る。珠蓮は小さく拍手をしていたが、その表情は悲し気なものであった。心の優しいこの子は、少女と少年の辿った結末に胸を痛めたのだろう。隣りにいる魈へと向ける視線は、どこか縋るようないたいけなものであった。

「ねぇ、魈。あの二人は……どうしても結ばれることは出来なかったの? あんなに大切にお互いだけを見つめていたのに。待ち受けていた結末があれだなんて……こんなのあんまりだわ……」

 今にも何とかして、とか弱く泣き縋ってきそうな珠蓮の様子に、魈はどうしたものかと伏し目がちに俯く。ただの脚本だと一刀するには珠蓮はあまりにも無垢であり、純粋な心を持っている。そういった情緒に疎い魈でさえ、そういうことではないのだということは理解していた。

「……身分とは、その身の証明として身を守るものでもあるが、時に厄介なのも事実だ」

 思案の後に絞り出したその言葉は端的なものであったが、珠蓮が傷つかぬようにと魈なりに選んだものであった。けれども肯定とも、否定ともつかぬその言葉は、珠蓮を納得させるにはもちろん足りていなかった。

「だからこうなってしまったのも、魈は仕方ないって思うの……?」
「……そうは言っていない。だが……それらを乗り越えるのは、そう容易いものではないと我は思う」

 身分とはそういうものだ。だからそう気に病むことはない、というのは憚られた。それらの捩じ曲がった真理を飲み下すには、珠蓮はあまりに幼く、清廉である。
 魈自身も必要以上に冷たい現実を突きつけたくはなかったため、これ以上は言うまいと口を噤むことを選んだ。珠蓮も魈の言葉の意味を己の中で咀嚼したのだろう。そっと目を伏せると、悲しい結末を迎えた恋人たちに花を手向けるように祈りの言葉を贈った。

「再び輪廻が回る日が来たのなら、その時こそ、この恋人たちの前に恐るべき苦難が立ち塞がることなく、幸せな結末を迎えられますように」

 胸を痛める結末で終わったものの、芝居の出来としてはさすがは不落幕劇団というべきか、高名な仙人と岩王帝君の姫への出し物としては見事な完成度を誇っていた。
 それからすぐに秦衣が挨拶に珠蓮らのもとを訪れると、秦衣はすっと拳と掌を横に重ね、姫君と仙人に礼を尽くした。

「ご観劇のほどありがとうございました。お目汚しにならぬよう心を尽くしましたが、いかがだったでしょうか」

 慇懃に畏まった秦衣に珠蓮は労いの言葉を投げかける。その言葉の中には彼女の直向きで、繊細な感性がよく表れていた。

「ええ、とても良いものを見せていただきました。とても……美しい物語で、けれども悲しく……日々の何気ない幸福の重みをよく考えさせられたように思います。私たちが今過ごしている時間は……彼女たちが過ごしたかった明日なのかもしれません」
「……姫はそう考えられますか?」
「ええ」

 珠蓮の返答に「そうですか」と頷く秦衣の表情は、実に興味深そうなものであった。にこりと笑った秦衣は、それから視線を左側へと向けた。

「では、降魔大聖。あなた様はどう思われましたか?」
「我……? そう気が利いたことは言えぬぞ」
「かまいません。仙人様のお言葉を得られる栄誉など、そうはありませんので。それこそが誉でありましょう」

 人好きのする秦衣の笑みに対し、魈は僅かな沈黙を与えた。それから渋々といったように口を開いた魈の感想は、実に仙人らしいものだった。

「あの芝居は仙女と凡人を暗喩しているものだと思うが……実際には、お前たちが思うほど我らは番の種族にはこだわらない。この悲劇はもっと別のところに理由があるのだろう」

 忠告とも、進言ともとれる言葉であったが、秦衣が反応を示す前に珠蓮の瞳がぱちりと瞬いた。

「え……そうだったの……? 私、人間同士のことかと思っていたわ」
「……やけに同情していたからな。そうだろうとは思っていた」

 口にこそしなかったものの、魈は珠蓮の性質をよくよく理解しており、人の役に立ちたがるこの武勇に優れた先祖返りが、小さな誤解をしていることも察していた。珠蓮が上手く汲み取れなかったと落ち込んでしまう前に「こういった物語にはあえて明言せぬことも多くある。お前と帝君の物語がそうであるように」と擁護するのも、魈の優しさからであった。

「降魔大聖の言う通り、芝居とは観る者の受け取り方で顔を変えるものです。珠蓮姫が感じられたものも、一つの見方であり、それもまた一つの正解なのです」

 魈の擁護を後押しするような秦衣の肯定は功を奏し、珠蓮の顔に曇り空がかかるのを見事防いだようだった。

「お芝居とは本当に奥が深いのですね。新たな見解を得たことでもありますし、私はもう少しこの物語について考えてみたいと思います」
「そのように姫のお時間を戴けるのでしたら、私共も役者冥利に尽きるというものです」

 柔らかな微笑みを携えた秦衣が本日の締めの挨拶に入る。きっちりと背筋を伸ばした彼は名高い座長に相応しい堂々とした風格で珠蓮らに向き直った。

「本日はご足労、ご観劇のほどありがとうございました。また機会を戴けるようであれば、光栄なことです。その時はもう一段と成長した私たちの芝居をお届けするとお約束いたしましょう」

 これにてお開きとしたところで、秦衣の見送りを得て珠蓮と劇場を後にする魈は、途中で劇場の方へと振り返る。それは仮の劇場を目に焼き付けているというより、この不落幕劇団の座長、秦衣に対する不審が伺えた。

「魈? どうしたの? 忘れものでもあった?」
「いや……何でもない」

 飲み砕くには些か喉通りが悪かったが、あえて何かを口にすることもなく、魈は珠蓮が促すままに望舒旅館への帰路を辿るのであった。










 それから暫くは秦衣が話題に上がることもなく、魈と珠蓮の間にも変化はないままに時は過ぎたが、ある日魈のもとを訪れた珠蓮は、いつもと変わった匂いを纏っており、魈はそれが妙に落ち着かず、僅かに戸惑ったように言及した。

「珠蓮……何かあったのか? 変わった匂いがする」

 それは甘い果実に蜂蜜を溶かして混ぜたような匂いだった。端的に言うと甘ったるい匂いがする。いかに甘党な魈にしてみても、甘すぎるものだ。トリックフラワーの群れにでも遭遇したのかと思うが、珠蓮がトリックフラワーごときに後れを取るとは到底思えず、よっぽど辺鄙な場所を通ってきたのか、人のいい珠蓮がいいように何らかのトラブルに巻き込まれたのかと魈は心配していた。
 だが珠蓮の反応はと言えば、実にあっさりとしたものだった。

「やっぱりわかる? お母様から香膏を戴いたからつけてみたの。ほんの少ししかつけていないのだけれど……師範も真君もすぐにわかったから、仙人には少し刺激が強いのかもしれないわね」

 魈は香膏という聞きなれない言葉ながら、その文脈からおおよその役割を推測し、そのあたりがつくと見るからに理解不能だとでも言いたげな怪訝な表情を浮かべた。
 
「何故わざわざ不必要な香りを身に纏う必要があるのだ。強すぎる香りは敵に自らの位置を知らせに行くようなものだ。自殺行為にしか思えぬ」
「人間の女の子は私くらいの歳になると身嗜みに力を入れる人が多いのですって。香膏は……少し早いかもしれないけれど、それなりの家柄の子たちにとっては当たり前のことだからって……」

 かくいう珠蓮もよくは理解できていないのだろう。装飾品にもこれといった興味を持たない珠蓮の衣服なども、娘を着飾ることを半ば生き甲斐とする母親の手によって手配されたものであった。
 服や宝飾品などよりも武具の一つでも与えた方がよほど喜ぶような娘であったのだから、母親の方もそれなりの苦労を重ねているようだった。

「……自然界では雄の方が雌を誘うために派手なものを持つものだが、凡人たちの世界では逆なのだな」
「そう、なのかしら……? お父様はお母様に求婚を受け入れてもらうために、三年間毎日欠かさず求婚したそうだけれど……」
「お前の父がお前の母を求めたのも、母上の何かがいいと思わせたからだろう。因果関係は成立している」

 珠蓮には魈の言っていることは少し難しく感じたのだろう。首を捻りながら「う、うーん……?」と随分と困惑している様子だった。帝君の姫といえど、その実態は父子のそれの方が近い分、珠蓮はこういったことには明るくないようだ。

「とにかく、そういった習慣があるというのならお前も立場がある故、仕方ないやもしれぬが……それ故に招かれる危険にも注意しなければならない。気をつけることだ」
「う、うん。でもそんなにこの香りって強い……? 師範も真君もそこまでは言っていなかったけれど……魈が言うなら、そうなのかな……」

 鍾離も留雲借風真君も珠蓮の香膏にはいち早く気づいたものの、その反応と言えば至って普通のものだった。初めてのことで違和感を感じる珠蓮に対し、二人は珠蓮の成長を喜ぶような言葉こそ添えど、何かを忠告するような素振りは感じられなかった。
 魈は腕を組むと、そのまま右腕を立て、自らの見解を口にした。

「お前はただでさえ、甘やかな香りがする。甘やかな果実のようでもあり、清らかな花のようでもある。そこにまた香りをぶつけようというのだから、香りが強まるのも道理だ」

 それは正論であったが、魈だけが知る真理でもあった。もしも珠蓮にその心を理解するだけの雅やかさが備わっていたのならこの関係は良くも悪くも少しだけ変化を迎えたのかもしれない。けれども現実はそうではなく、珠蓮は実に素直にその見解を受け取った。

「そうなの……? 自分じゃわからないけれど……魈がそう感じるなら、そうなのかしら……?」

 でもその喩えはよく分からないわと笑う珠蓮はまるで無垢で、穢れのない紫珠を瞬かせる。「変な魈」とくすくすと鈴が転がるような声が響くと、「でも」と珠蓮は困ったように続けた。

「この香膏は使うのを控えようと思うけれど……私も立場があるから、何か代わりの香膏を見つけなくちゃいけないわ。でも、香膏の良し悪しなんてわからないし……お母様だってお忙しい中吟味してくださって、今はお仕事でフォンテーヌに滞在されてあるの。代わりの香膏を見つけるなんて、私には――」

 難しいことだと途方に暮れかけた珠蓮だったが、そこではたと気づく。自分ではどの香りを纏うべきか分からぬというのなら、分かる者に頼めばよいことに。そしてその人物はまさに珠蓮の目の前にいた。

「そうだわ! 魈、あなたが私の香膏を選んで!」
「わ、我が……!?」
「そう!」

 まるで妙案だとばかりに珠蓮の表情が華やぐ。事実珠蓮にとってはこれ以上にない人選であった。

「だって魈が一番私の香りについて詳しいのだもの。だったらどれをつければいいのかも検討がつきそうでしょう?」
「待て珠蓮。我が言及したのはお前の匂いのみだ。香膏とやらは我は知らぬ」
「それなら大丈夫よ。香膏を置いてあるお店はどれも香りを試せるようだから、魈が気に入ったのを選んできてくれたら十分よ」

 それはつまり街に降りるということかと魈は米神が痛むのを感じたが、「ねぇ、いいでしょう?」と期待に瞬く紫珠の双眸を前に、否を唱えるのがどうにも難しく、「……期待はするな」と結局了承してしまうのだった。

「ありがとう! 魈!」
「! これっ、抱き着くでないっ」
「ふふっ、楽しみにしてるねっ」

 まったく聞きやしないと、魈はぎゅうっと抱き着いてくる珠蓮に対し、重い溜息を吐く。窈窕たる淑女、璃月が誇る美姫の面影などその玉貌だけであった。
 まるでただの無垢な少女のようにはしゃぐ珠蓮を他所に、魈の気は珠蓮に相応しいものを己が用意できるだろうかと、重いものがのしかかっていた――。



 



 珠蓮に香膏を頼まれた魈が、まず真っ先に頼ったのは、望舒旅館のオーナーを務めるヴェル・ゴレットであった。彼女ならば香膏についてもある程度の知識を備えているだろうと、魈は彼女に香膏について尋ねた。

「香膏ですか……? ええ、存じておりますが……その、魈様もご興味がおありで?」
「……珠蓮に見繕うよう頼まれたのだ。あの年頃の娘が使うようなものをいくらか取り寄せてくれ」

 魈としてはそれで十分だろうと考えていたものの、現実はそう甘くはなかった。
 ヴェル・ゴレットは困ったように眉を下げると、良家のお嬢さんが使う香膏について丁寧に説明をしてくれた。

「香膏というものはいくらかの材料を練り合わせて調香したものでして、珠蓮様ほどのお方が使うものとなれば……同じものが二つとない完全なオリジナル品になることでしょう。お言葉ですが……簡単に取り寄せられるような品では、とても珠蓮様にはお届けできないかと……」

 そんなに面倒な品だったのかと魈は僅かに目を伏せる。受け入れてしまった手前、やはりダメだというのも忍びなく、魈は静かに息を吐くと更にヴェル・ゴレットに尋ねた。

「……では、珠蓮に贈っても問題のない品を用意できる者はどこにいる」
「それでしたら……春香窯の鶯さんか、不落幕劇団の座長、秦衣さんでしょうね。この二人の調香の腕は抜きん出ていますから」

 不意に出てきた秦衣の名に、魈の眉が僅かに顰められる。鶯がどんな人物であるのか魈は知らないが、秦衣の手を借りたくなかった魈は、春香窯を訪れることにした。
 ヴェル・ゴレットに短く礼を言った魈は、その足でチ虎岩へと向かったが、生憎鶯は予約が詰まっており、もう半年は待たないといけないという。魈が仙人であることと、贈るべき相手が珠蓮姫であるということに融通を利かせようとはしてくれたものの、魈はその特権を望まず、「然るべき道理のもと、職務を全うしてくれ」と拒絶し、鶯の気遣いに感謝の姿勢を見せると、そのまますぐに姿を消した。

「なんやぁ。えらいな美少年やったなぁ……帝君があんなことになってしもて、珠蓮姫はこれからどないなってしまうんやろうかと心配やったけど……杞憂やったみたいやなぁ」

 独り言のように呟いた鶯は滅多にお目にかかれない仙人との偶然の邂逅に口元を綻ばせる。帝君への忠義心に溢れた頭の固い者たちならば複雑な心境にもなったかもしれないが、幸いにして鶯はそういったことに寛容どころか、歓迎の姿勢を広く示しており、自らの手で調香できなかったことを惜しいとさえ思った。
 自分が調香できないとなると、残された選択肢として秦衣が調香するだろう。多才で造詣の深い秦衣ならばきっと珠蓮に相応しい良い品を準備できるだろうと鶯はそれがまた楽しみでもあった。

「今度珠蓮姫に会うたら、少し話を伺ってみましょか。もうすっかりそういった年頃やもんね」

 あまり揶揄ったりなどしたら不敬にあたるだろうが、香膏の贈り主について世間話を広げるくらい問題にはなるまい。ちょうど海灯祭での奉舞についても話ができたらいいと思っていたところで、鶯は仄かな春の訪れの気配を察してくふふと微笑むのだった。

 春香窯を去った魈はその足で気が進まないながらも、未だ紫朧洛で活動中であるだろう秦衣のもとを訪れていた。秦衣は最初こそ急に現れた魈に「これはこれは、降魔大聖。どうかなされましたか?」と僅かに驚いたような素振りを見せたが、魈が要件を口にするとすぐに慣れたように準備を整えてくれた。その迷いのない動作にしろ、魈にすれば些かわざとらしく、秦衣は魈に何か伝えたいことがあるのか、気づかれても問題がないかのどちらかのように思えた。

「お二方がご観劇に来てくださっただけでも身に余る光栄でありましたが、まさかこうして珠蓮姫の香膏を調香する機会をいただけるとは思いませんでした」

 調香の材料であろう花や薬草、トリックフラワーの蜜やミルクなどが広い台に所狭しと並ぶ。特別な貴人に贈るに相応しいそれらは魈から見ても高品質なものと一目でわかる品であった。

「それでは降魔大聖。何か香りのイメージなどはございますか? もしくは使用を控えて欲しいものでもかまいません」
「……我はこういったことには詳しくはない。だが、敢えて言うのならば……あまり香りが強くないもので頼みたい。ただでさえあれからは甘やかな香りがする。余計なものは不要だ」
「それは――」

 秦衣は魈の返答に対し、どこかもの言いたげな視線を魈へと向けた。魈はその視線にピクリと眉を上げ、怪訝げに尋ねた。

「我は何かおかしなことを言ったか?」
「いえ、そうではありません。ただ、ご観劇の際にも思ったことではありますが……お二人は余程仲がよろしいようで。こういっては何ではありますが、姫君は恐れながら私めを兄と慕って下さってはおりますものの、あなた様方の仲には到底敵わないと感じたまでです」

 にっこりと微笑む秦衣からはまったく悔しさを感じず、むしろそれを喜ばしいとすら思っている様子だった。魈はなぜ己と珠蓮との仲にこれほどまでの関心を秦衣が寄せているのか理解に苦しんだ。いったい何が目的だと言いたげな魈の視線を前にしても、秦衣は微笑みを絶やさず、むしろ堂々としていた。
 食えない奴だと魈は率直に思う。やり手の商売人といえば聞こえは良いが、仙人として魈らを崇め称える言葉とは裏腹に、その瞳の奥にあるのは静かに燃え盛る炎のような、虎視眈々と機を狙う狩人のそれだ。妙に珠蓮と親しいのも気がかりで、秦衣の一挙手一投足に注意を払ったが、未だ目的は見えないままだった。

「それでは、ありがたいご助言もいただいたことです。該当するものを省き、良い効果が期待できる調材を選定しますので、そこから降魔大聖が良いと思われたものをお選びになってください」
「こういったことは不慣れだと言ったはずだが。珠蓮が恥をかいたらどうするのだ」
「そこは調香師の腕の見せ所ですね。もしそのようなことがあれば、私は喜んでこの首を差し出しましょう。――仙人様。それも岩王帝君の忘れ形見に恥をかかせるなど、万死に値する大罪であります」

 そうでしょう、降魔大聖。と口にする秦衣の目には煌々と静かに炎が揺らめいていた。ある種の狂信的なものが今の秦衣からは伺える。仙人信仰。それは璃月で今なお深く根付いているものではあるが、大抵の凡人は真の意味で仙人と契約を結ぶ気骨はない。留雲借風真君が用意した、たった九十九日の試練にすら根を上げる始末だ。
 けれどもこの秦衣は喜んでその命を天秤にかけるという。魈にとってはますます理解しがたいことであった。

「何故そこまでする」
「それはもちろん。珠蓮姫が珠蓮姫であるから、ですよ」
「何……?」
「言葉通りの意味です。私は珠蓮姫の兄になりたいのではなく、珠蓮姫の――」

 まるで焦がれるような瞳で意味深な余韻を残した秦衣は、伏し目がちにしていた瞳をぱっと上げてにっこりと笑った。「つまらぬことを話してしまいました。どうかお忘れください」という言葉にはこれ以上は尋ねてものらりくらりと躱されるであろうことが伺えた。
 魈は内心で短く息を吐くと、ぼそりと独り言のように呟く。

「我は……人は殺さない」 
「それはご温情をありがとうございます。精一杯この秦衣、お力添えいたしましょう」
「……ああ」

 少なくとも珠蓮に恥をかかせることにはならないだろうと魈は自分をある程度納得させることにしたようだ。すっきりとはしない、蟠りのようなものを喉につっかえさせたまま、この世で二つとない香膏の調香がようやく始まったのだった――。









 結果として調香は上手くいった。香りのベースとなるものを木蓮にするべきか、清心にするべきかと大分迷ったものの、魈は最終的に清心を選ぶことにした。

『なぜこちらを?』
『……あれは花を愛でるといったことはしない。どちらも美食を彩るための食材くらいにしか思っていないだろう。だが、清心の方は……あれの周囲と何かと結びつきが強い。こちらの方が今は馴染み深いはずだ』

 律儀にも留雲借風真君の九十九日の試練をこなす延長で、珠蓮は今も真君に美味を届けている。また、姉弟子にあたる甘雨の好物も清心であることから、このところの珠蓮の清心料理の腕は上がる一方であった。
 木蓮の清らかな美しさは珠蓮を彷彿とさせるが、それこそ同じ花を使うようなものである。魈の判断は妥当と言えた。

『なるほど。それに清心は花冠にするのも良いですからね。夏の頃になりますと、珠蓮姫もより感慨深いものがありましょう』

 特段と珍しい使い方ではなかったものの、そのことに軽く覚えのある魈は些か訝し気な視線を秦衣へと向ける。秦衣は隠す素振りもなくふっと笑うと素直に口を開いた。

『以前珠蓮姫からお話をお聞きしたことがあるのです。昔はよく降魔大聖に可愛らしいおねだりを申しておられたと』

 随分と秦衣の言い方は柔らかいものであったが、実際に秦衣が珠蓮から聞いた話がもう少しお転婆な物言いだったことは実に想像に容易かった。魈はその気遣いを素直に受け取ることにし、特に訂正をすることはなかったが、数年前のそれらの出来事は今の魈には些か重くのしかかるものがあった。『そうか』とだけ口にして、伏し目がちに視線を逸らした魈の横顔を秦衣はそれとなく見つめたが、すぐににこやかな表情を浮かべ、調香作業に入るのだった。
 そうして暫くして出来た香膏は魈にとっても満足できるもので、降魔大聖から及第点を貰えたことに秦衣はにこりと笑んだ。

「お役に立てたようで何よりです。何かありましたらお気軽にお申し付けください。何時何時、必ずやお力になりましょう」
「そうか……礼を言う」
「こちらこそとんでもないことでございます」

 すっと礼を取る秦衣に魈は僅かに口にするべきか否かを考えるような素振りを見せるも、「何か?」と促すような秦衣の笑みに後押しされ、結局は口にすることにした。

「あの芝居の件だが……」
「はい」
「今更のことではあるが……題材を誤ったように我は思う」

 それは正しく苦言であった。魈の表情は怒りこそ表れていなかったものの、静かな落胆が取れて見れた。

「芝居自体はいいものであった。だが、珠蓮にみせるものとしては相応しいものではなかった。心の優しい娘だ。あのような結末も、受け入れがたいものがあっただろう」

 現に珠蓮は大分あの劇中の二人に肩入れしているようだった。何とかしてやれないかと願ったのも、来世の幸せを望んだのもそのためなのだから。観劇の後、望舒旅館へと戻る最中も、帰ってからも随分と考えているようであったから魈は随分と心配していたのだった。

「それをお前が予測できなかったとは我は思えぬ。敢えて珠蓮にみせることにしたのだろう。それは何故だ」

 魈は暗に珠蓮を傷つける道理が何であったのかを問うていた。何のために珠蓮に近づき、珠蓮と交流を持ち、珠蓮を傷つけたのか。芝居一つであれば些細なことと魈も目を瞑ろうとしたが、秦衣は明らかに自ら魈に疑われにかかっている。その目的が何なのか、魈は少しだけ乗ることにした。
 一見問い詰められた立場にある秦衣は、こんな時でもやはりその笑みを絶やさなかった。動揺の一つもみられないままに、さらりと答える。

「全ては……珠蓮姫と私と――のためですよ」
「何……?」

 最後の名前は仙人の耳をもってしても聞き取れなかった。声にすら出していないのだろう。口の動きさえ見事に煙に巻かれたように見えなかった。

「私はただの影です。光を際立たせるため、或いは導くためにあるだけの影……」

 どういう意味だと魈が口にするより先に、秦衣はその次の言葉を紡いだ。

「何も心配はいりません。姫に対する害意はなく、また悪意もございません。ただ、誰がどう見ても納得する結末というものには、得てして少々の試練はつきものでございます。これらはまだ演目の道半ば。それらが何であったか分かる頃には、降魔大聖にもご納得いただけるものを私は差し出せていることでしょう」

 それまではお楽しみということで、と笑う秦衣に魈はそっと言葉を飲み込んだ。これ以上の答えは出ないからだ。ならばこれ以上長居は無用だとそのまますっと姿を晦ませた魈がいた場所を秦衣は温度のない瞳で見つめ、ゆっくりと口元に弧を描く。
 この手の中には夢のように美しい姫と、彼女を護らんとする彼がいる。秦衣はそれらをまるで賽を振るかのようにころりと地面に転がしてみせた。

「春霞み――水面に映る月影に――夢溺れ、万象を犯し――花は散る――」

 意味深な歌を紡ぐ秦衣は、歌い終えると同時にそっと真理を呟く。

「花は自ら散り、水は自ら流れるもの……私は何もしていません。何も、ね」

 さっと扇を広げ口元を隠す秦衣の表情は伺えない。彼の歌声を高台の上で聞いていた魈は振り返った視線を戻し、今度こそ白木蓮が咲き誇るこの美しい都を後にするのだった。







 紫朧洛を後にした魈は、その足で珠蓮に香膏を授けに向かった。魈から来訪することなどそうはなく、珠蓮はこれを大いに喜び、ちょうど鍾離もそこにいたことで、魈は二人に勧められるがままに共に食卓につくことになってしまった。
 腕によりをかけるという言葉通り、御廚子所で料理をする珠蓮は大層張り切っているらしい。食欲を誘う香しい匂いがこちらにまで来ていた。
 座ったまま、身体を固くする魈はすっかり緊張しているようだった。目の前には凡人となられた元岩王帝君、即ち鍾離が茶を啜っている。まさかこうして屋敷の中にまで招かれ、果てには馳走になろうとは全く思いもよらなかった。

「珠蓮と観劇に行ったと聞いた。どうだった? お前も楽しめただろうか?」
「は……いえ、その……はい。それなりには……」

 魈はどう答えたものだろうかと思案する。気が利いた感想など口から出るはずもなく、そもそもが珠蓮の立場からみてこの行為は褒められたものではないだろう。留雲借風真君より与えられた課題を手伝うだけならまだしも、観劇に出掛けるということを改めて考えると、魈は一気に血の気が引く思いだった。

「申し訳ありません、鍾離様……先に話を通しておくべきでした」
「? 俺は気にしていないぞ。むしろ珠蓮によくしてやってくれるよう頼んだのも俺なのだから、何も咎めることなどないだろう」

 その言葉通り鍾離からは怒りの感情は一切感じられなかった。魈はそのことに少々の戸惑いを覚える。真実がどうであれ、立場上珠蓮は鍾離の所有物に当たる。鍾離は珠蓮を物として扱わず、人々が信じる通り姫としての立場を与えた。男女の情があるとは魈からしてみても思えなかったが、それでも鍾離自らが勧んで珠蓮を魈に差し出すような真似をする意味が理解できないままだった。
 鍾離から見ても魈の考えていることはよく分かったのだろう。長年の付き合いだ。造作もないことであった。鍾離は茶を一口口に含み飲みこむと、そっと口を開いた。

「あの子は俺から見ても、大変出来のいい子だ。日々磨かれていく玉貌には驚かされ、美食は腕を上げていくばかり。仙術など基礎的なことこそ俺が仕込んだが、留雲真君に師事を受けてからというものの瞬く間にその才能を開花させている。珠蓮がもし七神の座を巡ったあの時代に生まれていれば、七神の顔ぶれは今と変わっていたかもしれない」
「それは……」

 いくら何でも持ち上げすぎではないかと魈は思うが、鍾離も全くの冗談で口にしているわけではないようで、魈は余計なことは言うまいと口を噤んだ。武神玄武の先祖返り。一心不乱に剣を奮う姿は軽やかで、華がある。璃月の舞姫といつからか定着したその異名も実に相応しいものではあったが、魈の中の珠蓮という少女は、大変にお転婆で、わがままで、手に負えず。人がいいばかりに邪な悪意に疎く、気が気でないといったものがおおよそのイメージであった。

「珠蓮はおおよそ理想的な、正しく窈窕たる淑女として育ったわけだが……お前の前ではそうでないようだ」
「……はい、それは……そうではありますが……未だ彼女は幼く、我もまた彼女に罪を犯しております……もう暫くもすれば、元の在るべき形に戻るでしょう」

 だから珠蓮を叱らないであげてくださいと湾曲に伝えているだろう魈に、鍾離は首を振る。

「いや、俺はこのままでも良いと考えている」
「し……しかし、珠蓮も立場がある故、いつまでもこのようなままでは……」
「珠蓮に甘えられるのは嫌か?」
「いえそれは……そうは思ってはおりませんが……」

 嫌などと思ったことはないが、それとこれとは関係がないだろうと困惑を浮かべる魈に対し、鍾離は「ならば問題はないだろう」と鷹揚に笑った。途方に暮れたように魈が「鍾離様……」と口にすると、実に機嫌が良さそうに鍾離が応えた。

「いや、すまない。揶揄うつもりはなかったのだが、色々と難儀しているようだな」
「……」
「立場や身分は高ければ高くなるほど、ありのままの姿ではいられなくなってくる。珠蓮は俺と違い、これからも公の場に立つことになるだろう。その実直さ故に己が何者なのか分からなくなる時も訪れるかもしれない。俺はあの子があの子らしくいれる場所は多ければ多いほどいいと、そう思っているんだ」

 何千年と一国を率いる神で在り続けた鍾離のこの言は、重みが違って聞こえた。静かに俯いた魈は遥か昔の遠い日々を振り返っているのだろう。鍾離は頃合いを見計らってそっと彼の結論を提出した。

「珠蓮にとってはお前がその最もたる場所なのだろう。どうかあの子によくしてやってくれ。ついこの間も魈と何をした、魈と何をする、魈とどこへ行った、魈と何を話したと嬉しそうにしていた。俺はそれを聞くのが密かな楽しみでもあるんだ」
「鍾離様……」

 ここまで言われてしまえば魈は否を唱えることなどできなかった。実際に魈自身、珠蓮を憎からず思っているのだから嫌などといえるはずもない。絞り出すようにして「御意」と答えた魈に、鍾離は満足げに微笑んだ。
 それから間もなくたくさんの料理を仙術で浮かせながら持ってきた珠蓮が「何を話していたの?」と不思議そうな顔をしたが、鍾離が実に鮮やかに「お前が何を作っているのか予想していたところだ」と誤魔化し、当然のように出てきた杏仁豆腐を前に「やはりそれだな」と鷹揚に笑うのだった。

 もういっそのこと泊っていったらどうだと引き留めたがる珠蓮と一緒に鍾離まで援護に入ったが、魈はこれを丁重に辞した。残念がる珠蓮がせめて送るというのを妖魔退治を理由に説き伏せ、緋雲の丘までと食い下がる珠蓮に、ついに折れた魈はそれを飲むことにした。

「今日は魈が来てくれて嬉しかった。もらった香膏あとでさっそく使ってみるね。選んでくれてありがとう」
「……大したことはしていない。お前が気に入るものであればいいが……あまり期待は――」
「ううん、それで十分……十分なの。魈が選んでくれたものなら、私何だっていいの」

 まるで花が綻ぶような笑みだった。夢見るように口にするその声が妙に甘く感じる。何も変わらず、珠蓮はいつものごとくおっとりと鈴が鳴るような声で言葉を紡ぐ。ざわざわと落ち着かない胸を沈めるように、魈はそっと視線を逸らした。

「でも魈がお兄様のところに行ってたとは思わなかったわ。私が思ってたより、お兄様と相性がよかったの?」

 香膏が入った箱に不落幕劇団の紋が入っていたことから、魈が誰のもとを訪れ香膏を調香してもらったのかは一目瞭然であった。それを珠蓮は観劇の一件で二人の仲が深まったからだと勘違いをしているようだった。
 魈はそれを訂正することなく、代わりに僅かな沈黙を与え、それから話題を自分から逸らそうと別の話題へと移ることにした。

「そういうお前こそ……よくあの男を慕っているようだった。芝居の前もそうだが……あの時はいったい何の話をしていたのだ?」
「? 何のって?」
「我はそういうのではないとかなんとか弁解していただろう。あれだけは我にも見当がつかなかった」
「あ、あれ……は……」

 その疑問を呈した途端、珠蓮は以前のように目に見えて動揺する素振りを見せた。紫珠の双眸が惑うように彷徨っている。妙に珠蓮にしては歯切れの悪いそれに、魈はますます首を傾げた。

「珠蓮? 言いにくいことなのか? ならば深くは聞かぬ。大事ないならそれでいい」
「あ……うん……そう、ね……ちょっとだけ、言いにくいというか……何というか……よく、分からないの」
「? 分からない?」
「ええ……分からない。分からないわ……だってそういうの、考えたこともなかったから……」

 魈にはその意味が何を示すのか理解できなかったが、害を与えられたのでない以上、それ以上触れる必要も感じず、「そうか」と口にしてこの話を終わりとすることにした。
 ちょうど緋雲の丘に入ったこともあり、魈は珠蓮に向き直り「ここまででいい」とそれ以上の見送りを終わらせる。

「……短かった」
「もう夜も更けている。これ以上は聞かぬぞ」
「……うん」

 まるで数年前のひと時のようだと魈は思う。今よりも随分と幼かった珠蓮は、魈と遊ぶと聞かず、ついには旅館の一室を私室とし、陽が昇り、朝を迎えてから陽が沈むまで相手をさせられたあの頃を思い出す。あの頃もそうやって帰りたくないだの、まだ寝たくないだのと駄々を捏ねていただろうか。おかげですっかり幼子の抱き方が板についたものだが、今の珠蓮を慰めてやる術を魈は持たなかった。

「また……来てくれる?」
「それは……用もないというのに、そう気軽に出入りするわけにはいかないだろう」
「用があればいいの?」
「それ相応のものならば、やむを得ないだろう」

 珠蓮は萎れた花のように小さく項垂れた。それはつまりそれなりの事情がないと来ないと言っているも同義であったからだ。
 まだ冬の冷たさを感じさせる夜風が肌を撫でる。魈はこれ以上はいけないと珠蓮を促した。

「我はもう行く。お前も早く屋敷に戻るといい」
「魈」

 珠蓮が引き留めるように手を伸ばし、名前を呼んだ瞬間、魈はほんの瞬きの間に風のように消えてしまった。残された珠蓮はしゅんとした表情を浮かべながら、とぼとぼと帰路を辿る。その後ろ姿を高山から見ていた魈は短く息を吐き、どうしたものかと頭を悩ませるのだった。











 それから数日後のこと。鍾離直々に珠蓮によくしてやってほしいという願いを改めて受けた魈は、珠蓮との在り方にやはり迷っていた。ちょうどと言ってよいのか、妖魔の動きが活発化したこともあり、珠蓮とはあの時話したきりであった。
 けれども魈も以前ほど珠蓮を避けているわけでもない。そろそろ会うべきかと考えだした頃、望舒旅館の阳台で何やら姦しい声が聞こえてきた。

「ねぇ知ってる? あの秦衣にいい人がいるって話」
「聞いたわ。何でもとてもお綺麗で高貴なお方だとか」
「ええ。どうやら本当みたい」
「やっぱりそうなの? なら相手は誰かしら……美人で高貴と言えば、やはり天権凝光様? それとも玉衡の刻晴様かしら?」

 どうやらこの女人たちは秦衣のファンらしい。くだらないと魈がその場を去ろうとしたとき、聞き捨てならない人物の名が挙がった。

「それが……もっと大物よ。聞いて驚きなさい。何と……相手はあの珠蓮姫ですって!」

 反射的に勢いよく振り返った魈の表情は、常よりも動揺が見て取れた。女たちがただいま名の上がったこれ以上ない雲上の方に驚きを露わにする。若干青ざめる者もおり、この関係が真実であれ嘘であれ、とんでもないことだと心情をよく物語っていた。

「! 何てこと……! そんな、そんなことって……!」
「いくら秦衣でも無茶だわ! 姫は未だ少女の身で在らせられるし、第一帝君が身罷られてそう時間は――ちょっと待って、まさか。帝君がご存命の頃からそんな関係に……?」
「……姫様と秦衣は姫様がうんと幼い頃からの付き合いと聞いたことがあるわ……」

 深刻そうに囁かれるその噂に、魈は僅かに怒りのようなものを感じたが、所詮は凡人の噂話である。そのような娯楽に珠蓮と帝君が利用されていることに腹を立てても仕方のないことだ。心を鎮めるように魈が居住まいを正していると女人たちの噂話は次の段階を迎えたらしかった。

「でも道ならぬ恋だもの。秦衣はその身を嘆いて、何故自分は人間なのかと涙をせぬ日はないそうよ」
「可哀想な秦衣……あれほどの美貌と才能を持っていても、相手が姫様ではね……」
「そこで葉家のお嬢様……ほら、随分秦衣に熱をあげていた彼女が、自分ではダメかと熱烈に迫ったのよ」
「まぁ……それは……それで、秦衣はなんて?」
「秦衣は……断ったわ。今世では結ばれずとも、来世があると信じ、愛に殉じるって……」
「ああ、なんてこと……秦衣……!」

 わっと泣き出した女人の声が耳を突く。魈から見た秦衣はそのように殊勝な男にはどうにも見えなかったが、妙にその話に既視感を覚えた。あれはどこでだったか、この話を、魈はどこかで――。

『絹衣、白魚の手は隠れみて――水を吸う、衣の重りより胸痛く――白木蓮に藍をみた――』

 身分違いの実らぬ恋故に、その身を嘆き、湖に身を投げた――それは正しく、秦衣が演じた演目であった。
 あの題名はなんだっただろう。妙に違和感を感じた、その名前は確か。

「……水面に浮かぶ……月影は」

 最初はどういう意味かわからなかったが、芝居を見終えた後は、水面に映る月ですら捕まえることのできない、実らぬ悲恋を題しているのかと考えた。だが、それならば「水面に浮かぶ月」であるはずだ。影とはいったい何を示しているのか。
 芸術に明るくない魈にとって考えすぎのような気も過るが、妙に胸騒ぎがする。魈は急いで珠蓮のもとへと向かうが、こんな時に限って珠蓮がいそうな場所を探っても見当たらず、仕方なく奥蔵山の留雲借風真君の洞府に参れば、真君は驚いた表情を見せた。

「これはこれは珍しいことだ。珠蓮に用があったのか? あいにくあの子は見ての通りここにはおらぬが」
「心当たりはないか。何処を探しても見つからない」
「ふむ……確かあの子が兄と慕う人間と約束があるという話は聞いたな。妾も何処へ向かうのかと聞いてはみたが、珠蓮も知らぬようだった」
「何……?」

 何処へ向かうかもわからずついて行ったのかと米神が痛んだ魈だったが、仮にも兄と慕う人物が相手であるのなら、それも仕方がないことだろう。もっと警戒心を持てというのも、珠蓮の性質からして難しいことも分かっていた。
 すぐにでも探しに行こうとする魈を留雲真君が「待て待て」と引き留める。

「何をそう慌てているか知らぬが、全くの手掛かりがないわけでもないぞ」
「それを早くいってくれ。我は急いでいる」
「……珠蓮はそやつと以前観た芝居の話に花を咲かせるようであった。せっかくだからと木蓮を使った美味を用意していたので間違いはない。思うに、その芝居とやらと縁のあるところへ向かったのではないだろうか」
「芝居……」

 芝居といえば魈も共に見たそれが思い浮かぶ。あれ以降珠蓮が観劇に向かった可能性もあるが、魈はこれを貴重な手がかりとして頭の中に置いた。
 留雲真君に「世話になった」と口にすると風のように消え去った魈は、とっくに心当たりのある場所へと向かったのだろう。真君は深く息を吐くと、思わずと言ったように独り言を呟いた。

「珠蓮ばかり手がかかるようなこと言うが、その実降魔大聖の過保護もなかなかなものだな」

 苦労をするな、珠蓮。と口にする留雲真君の表情は、苦言とは裏腹に温かく見守るような眼差しをしていた――。

 奥蔵山を後にした魈が向かった場所は紫朧洛だった。真っ先に不落幕劇団の拠点を覗いたものの、珠蓮はおろか、秦衣すらも見つからなかった。
 珠蓮と共に用意された席へと向かっても同じことで、魈はあの日の記憶を辿り、劇中の情景が一致しそうな場所を探し、ついに薄く凍った湖を見つけることに成功した。
 白木蓮が雪化粧を纏い、はらりと花びらを散らす。香しいその匂いも、水面に浮かぶ花の精のように可憐な姿が遠目からでもよく分かった。

「珠――」

 珠蓮とかけるはずの声が不自然に途切れたのは、その少女の隣りに秦衣の姿を見つけたからだけではなかった。何やら二人は親し気に談笑しており、不意に秦衣が珠蓮の耳元で何かを囁くと、見るからに珠蓮は縮こまり、動揺を露わにする。これが恐喝から来ているものであれば、魈は迷いなくその仲を割って裂き、槍櫻をその眼前に突き立てただろう。けれどもその動揺はそれとは異なる種のものであり、見様によってはあの女人たちの噂話に近しいものにも感じられた。

(珠蓮……)

 まさかそんなことが、とは思わない。珠蓮が帝君以外の何者かに心を奪われるなど、魈にとってはあり得ないことだからだ。今、鍾離にそういった感情を抱いていないのは、ただただ珠蓮が誰かを恋い慕うには幼いからだと魈は思っている。あと数年もすれば、きっと本来の役目が果たせるだろう。鍾離の伴侶についてあれこれと議論する気はなかったが、それでも珠蓮が愛するのであれば、鍾離以外には魈は到底考えられなかった。
 ひとまずは無事が分かってよかったというべきか。けれども相手が相手である。いかに珠蓮が兄と慕っていようと、秦衣からはきな臭いものを感じる。魈が注意深く秦衣の様子を伺っていると、秦衣は魈の存在に気づいたのだろうか。不意にその口元が弧を描き、突然吹いた強風に秦衣の扇子が攫われてしまった。

「あ……」

 それは風に乗って凍った湖の方へ飛んでいくではないか。それに気づいた珠蓮は「私がとってきます」とでも口にしたのだろう。にこりと微笑んだ珠蓮がふわりと湖へと浮遊するのが分かった。
 その後ろで陽の光を受け、すらりと伸びた秦衣の影がゆらりと蠢く。彼の腰に着けられた炎の神の目がきらりと光りを反射した。

「春霞み――水面に映る月影に――夢溺れ、万象を犯し――花は散る――」

 そっと扇子に珠蓮の嫋やかな手が伸びる。それを捕まえると同時に、湖に張った氷がひび割れ、よく育った急凍樹が水底からずしりと姿を現した。

「キシャアアアア!!」
「! 急凍樹」

 ツルのようなそれが珠蓮を捕らえようと伸ばされたその時、青みがかかった緑色の風が奔る。
 槍櫻がツルを裂き、瞬く間にコアを砕き散らし、再び水底へと派手な水飛沫を上げながら急凍樹を沈めた。急凍樹の耳を劈くような奇声が湖すらも割りそうなほどだった。
 珠蓮が反撃する間もないほどの早業に珠蓮はしばし呆気にとられていたが、湖の水を吸い、濡れ鼠と化した魈の姿を見つけると慌てて飛び寄った。

「魈!」

 文字通り飛んできた珠蓮が心配そうに魈を見つめる。怪我をしたなどとは微塵も思っていなかったが、まだ冬の寒さが残る中、あの急凍樹と一瞬とはいえ対峙し、水を被ったのだ。凡人のより遥かに身体が丈夫とはいえ、寒さを感じないわけではない。珠蓮は羽織っていた外套を脱いで魈に被せようとしたが、他ならぬ魈がそれを制し、静かに珠蓮にいいつけた。

「あっちにある三つほど先の山の方に烈焔花が咲いてあった。それを持って来てくれるか」
「わかった。すぐに持ってくるね」
「急がなくていい。気をつけて行ってこい。くれぐれも火傷をせぬように」

 ふわりと浮遊する珠蓮が遠ざかったのを見届けると、魈は秦衣を鋭い眼光で睥睨した。常人ならば竦み上がるような迫力があったが、その視線を受けてもなお、秦衣はにこりとした微笑みを崩さなかった。

「分かっていて珠蓮を誘導したな」
「まさか。偶然ですよ」

 申し訳なさそうに眉を下げる秦衣は魈に弁解をはじめるが、それもどれだけの心が込められていただろうか。あまり必死なようには到底見えぬものだった。

「珠蓮姫は寒さにも暑さにもそう強くあられませんから、こう凍った湖では身体が冷えてしまうだろうと、私めの神の目を以て手助け出来ればと思った次第にございます。それがまさかあのような怪物を目覚めさせようことになるとは夢にも思わぬことです……こうして降魔大聖が救けてくださったものの、私めはどうお詫びすればよいかと必死に考えているのですよ」

 だがこんな言葉で魈は誤魔化されはしない。どんな形で在れ、たとえそれが珠蓮にとって脅威足りえずとも、珠蓮に害をなしたという事実は魈にとって許しがたい罪なのだから。

「言いたいことはそれだけか。ならばもういい。我はお前と珠蓮の縁をここで断ち切るだけだ」
「……それを珠蓮姫が望むとお思いで?」
「揺さぶろうとしても無駄だ。それは我には効かぬ」
「ああ、彼女に恨まれるのは……慣れっこでしたもんね」

 すっと魈の眼光が鋭さを増す。減らず口を叩く秦衣は、魈の特大の地雷に自ら敢えて手を伸ばし、触れ、そして丁寧に、勢いよく、落としてみせた。

「また記憶を封じますか? あの時の様に。今度は厳重に、封印などという甘いことはせず、二度と思い出すことがないよう奪い去るのがよいでしょう」
「貴様……」
「そうすればあの方が訳の分からぬ恋しさに涙を流すことも、あなたを恨むこともない。妙案ではありませんか」

 ぎりっと魈が奥歯を噛んだ。「黙れ……」と口にするその言葉には確かな怒りが含まれている。
 かつて魈はその身に纏う業障の悪化を理由に珠蓮から自らに関する記憶の全てを封じた。それは長い間珠蓮の胸に空虚を齎し、静かにその心を苛んだ。それは他ならぬ珠蓮のためであったが、珠蓮は当然それを望んではいなかったことも魈はよく分かっている。けれどもそれしか方法はなかったのだ。あの無垢な少女は今も昔も、直向きな眼差しでどこまでも追いかけてきてしまう。そう、仕方のないことであった。全ては――。

「全ては……泡沫の夢に過ぎないのだから――」
「黙れ……っ」

 魈の槍櫻が秦衣に迫る。ぎりっと奥歯を噛んだ魈は、その槍櫻で秦衣を貫くことはなかった。はらりと、秦衣の耳横に止まった切っ先が、いくらかの髪を切っただけだった。

「本当に……お優しい方だ」
「……人は、殺さない。それが罪人お前だとしてもだ」

 その誓いが破られることはない。たとえ目の前の男が今より更に珠蓮を害そうとも。変わりはしないだろう。魈はそういう人であった。
 冷静さを欠いたという自覚は魈にもあった。自分と珠蓮だけが知るだろうあの言葉も、己が珠蓮に犯した過ちも。珠蓮が話したことがあるのか、そうではない別の情報網があるのか、それらは魈には判断がつかなかったが、頭に血が上ったことを魈は戒めるように頭を振った。

「ふふっ」
「何がおかしい」
「いえ、おかしいのではなく、嬉しい、が正しい表現ですね」
「何?」
「私は嬉しいのですよ。降魔大聖」

 気でも狂ったのかと魈は疑った。仙人の迫力と戦意にそうなる者は多々いる。神の目を持つといえど所詮は凡人だ。あり得るかもしれないとじっと観察するが、それとはまた別種のものであるようだった。

「誤解なされているようですが……私は本当に珠蓮姫に害をなす気は一切ないのです」
「だが、お前は――」
「意味深なことばかりを口にした自覚はありますが、私はそういうものなのです。ほら、言いましたでしょう? 私は影だと――」

 ふっと目を細める秦衣は小さく歌を紡いだ。その一節こそが最も歌いたかったのだというかのように。凄艶な眼差しで、指先で、唇で。それらを演じてみせた。

「往年の――願いを受けた、一滴――待ち人ここに――花は目覚める――」

 秦衣の神の目が光を纏い、雪に覆われた白木蓮をあるべき姿へと変える。蕾ばかりだったそれらが満開の時を迎え、この美しい都に新たな夢を齎した。それはまるで、目覚めの時だというように――。

「私は演者、私は語り部。物語を在るべき形へと美しく咲かせるのが仕事なのです」
「……ではお前の目的は? 何故珠蓮に近づいた。懸想でもしたのか」
「それはまた、畏れ多いことですね。凡人にとって、月は手に入らぬからこそ価値があり、美しいと思うものですよ」

 くすりと秦衣は凄艶な笑みを浮かべる。まるで手に入ってしまった輝かぬ月石など興味がないとばかりに。いつか見たある種の狂信的な側面がよく伺えた。

「手に入らぬからこそ焦がれ、信奉する。私にとって珠蓮姫はその最もたるお方です。兄と慕っていただけるのは誠にありがたいことではありますが、私めはその器にはありません。もちろん、姫がお望みとあらば私は演じるまでですが」

 秦衣はどこまでも演者である。相手が求める己の姿を完璧に演じていく。それでいつしか本当の自分が何だったのかすら分からなくなってしまったほどに。
 秦衣にとって芝居とは人生そのものであった。

「お前は何故、そこまでする」
「それは……彼女が主人公であったから」

 人生みな誰もが主役だというが、秦衣はそうは思わない。どうしたってこの世には生まれながらにそうである者と、そうでない者に位置づけられるのだ。そこからのし上がれるものなどほんの一握りで、秦衣は今のこの身分を掴むために何だってやった。それこそ泥水を文字通り啜ったことすらある。秦衣にとって珠蓮とは、その対極の、最初から全てを持った雲の上のお方であった。

「そして……もう一人の主人公は――」

 じっと魈の顔を見つめる秦衣に、魈は怪訝げな表情を浮かべる。言わんとしていることは何となく察したが、それこそがあり得ないと考えてもみぬことであった。

「我にその資格はない」
「帝君がいたからですか?」

 沈黙を以て答えとした魈に、秦衣はふっと笑う。

「以前、何故珠蓮姫にあの芝居を見せたのかと問われましたね」
「ああ。それがどうした」
「正しく。これこそが私の答えです。あれはどこかの、もしくはこれから辿るやもしれぬ、一つの結末なのですから」

 その意味を察した魈は「それは、珠蓮がああなるということか」と尋ねる。そこには疑念が深く刻まれていた。秦衣はゆっくりと瞬きをして、答える。

「すべては、あなた次第でしょう」

 あなたと、彼女の。そう言って意味深に微笑んだ秦衣に、魈は釈然としないものを感じながらもおおよその意図は把握したようだった。
 実際に離れるべきかと悩みながらも、明確に行動に移せないままでいる自分の心も、鍾離からの許しも、珠蓮の花のような笑みも。振り払えるものではないのだから。

「……戒めか」

 先人は祈りの様に物語に悲劇を押し込め、同じ道を歩まぬようにと後継に託していく。語り継がれるそれらがいつしか原型のないほどに形を変えることは多々あれど、物事の道理とはそれこそが真理であり、そう変わるものではない。
 魈は小さく息を吐くと、秦衣に改めて向き直った。

「……次に芝居を観る機会がもしあるのならば……その時は、幸福な結末にしてくれ」

 そうでなければ、珠蓮が悲しんでしまう。言葉にせずともその意味を汲んだ秦衣はにっこりと笑った。

「それこそ、あなた次第ですよ」

 あなたがそちらへと向かうならば、私もそのように手配いたしましょうと暗に伝える秦衣に、魈は短く息を吐き、「……善処する」と応えるのだった。

 それこそが始まりの一歩であった。悲劇を幸福な物語へと変えるための、偉大な一歩である。
 秦衣はその答えに満足するように「次回のお茶には雲来の白豪をお出ししましょう」と笑う。松蘿仙芽よりも甘めに楽しむことが出来るそのお茶は、新たな夢の世界を見せてくれるだろうから――。












 魈から貰った香膏をつけた珠蓮は常よりも機嫌よく璃月港を歩いていた。往生堂の手伝いで胡桃からお使いを任された珠蓮が店に立ち寄ろうとすると、その姿を見つけた鶯が明るく声を掛けた。

「珠蓮姫やありませんの。こんにちは、今日はどないしはったんですか?」
「こんにちは。お使いを頼まれまして、卵とお味噌を買いに来たのですよ」
「おやまぁ、珠蓮姫にお使いを頼めるとなると往生堂の堂主はんくらいやなぁ。何かお困りなことあったら仰ってください。必ずお力になりますから」
「ええ、ありがとうございます。お心遣いに感謝したします」

 淑やかな笑みを浮かべる珠蓮から、風がその清らかな可憐な匂いをふわりと運ぶ。柔らかに感じる仄かな匂いが、よく珠蓮に合っていた。
 鶯はうっとりとその匂いに感じ入るように目を細めると、いよいよ聞きたかった本題に入る。

「海灯祭では姫の舞姿をこの目で見れて、これ以上美しい光景はない思いましたけど、今日の姫はなんや一段と素敵に見えます。何か特別なことでもなさったんですか?」

 鶯の問いに珠蓮も香膏に思い当たったようで、控えめながらにもそっと話題に出した。

「もしかしたら……香膏かもしれません。とても素敵なものをいただきまして今日はそれをつけているのです」
「どうりで! ええ匂いですね。清らかな花の香りと、珠玉のような潤いに、夢のような甘さを閉じ込めた紛れもない逸品……それをプレゼントしてくれはった人は姫のことをよく知って、大事に思ってはるんやろうなってよく伝わってきます」
「そう……思いますか?」
「ええ、もちろん! じゃないとこんなにピッタリの香膏いうんは作れまへんから」

 力強く断言する鶯に、珠蓮も次第にそのような気になってくる。自分のことをよく知ってくれて、大事に思ってくれる。魈が本当にそんな風に思ってくれているならと考えると、とても胸が温かくなるのを感じた。
 花が綻ぶようにふわりと微笑んだ珠蓮に、鶯はぱちりと目を見開き、思わずと言ったように惚けてしまう。

「姫は……その人のこと、ほんまに好きなんですねぇ……」

 ぽろりと口に出た本音に、鶯は直球過ぎたと慌てて口を閉じようとしたが、それも意味はなかった。言ってしまった言葉は取り消せないのはそうだが、それ以上に他なぬ珠蓮が認めてしまったからだ。

「ええ、とっても」

 とっても好きなのと声にせずともその表情がよく物語っている。呆気にとられた鶯だったが、次第にそれは色めき立つ歓声に代わり、大切な璃月の姫君の恋話に花を咲かせようとした。

「ええですねぇ! 女の子は恋をするともっと綺麗になりますから、珠蓮姫の美貌もますます磨かれて――って、あれ? 珠蓮姫……?」

 鶯の好意は珠蓮から見ても明らかであり、咎められているわけでも、嫌味を言われているわけでもないと珠蓮も理解していたが――生真面目な珠蓮がそういったものを解せるかは疑問ではあるが――明確に出てきた恋≠ニいう単語に珠蓮はそれはそれは戸惑っているようだった。

「え、あ……私、魈とは……そんなんじゃ……」
「しゅ、珠蓮姫……?」
「わからない……わからないの、それは、まだ……だって、魈は魈なんだもの……」

 口をもごつかせながら控えめながらにも動揺を露わにする姿は、あの時とそっくりであった。
 珠蓮の頭の中には秦衣に教わった観劇に来る客の傾向が巡っていた。

『観劇に来られる方の中には、恋人というものが多くを占めたりするのですよ。愛を囁くのも、愛を誓うのも、愛を試すにも芝居は最適でありますからね。姫にもどうぞそのような方ができましたらぜひともお連れください。その時はとっておきの大恋愛を演じまして、姫の恋に一役買わせていただきたく思います』

 そんなのはもうずっと先のことで、珠蓮にとってはそんな日が来るとも思えなかったというのに、妙に頭の中に魈が浮かんでしまう。そんなんじゃないの、わからないわ、と口にする珠蓮はまるで幼く、普段の窈窕たる淑女、珠蓮姫の面影を遠ざけたが、代わりに親しみを多く呼んだ。

「そうですか……なら、分かる日がきたらええですね。そうであっても、そうでなくても。誰かを好きになるっていうんは素晴らしいことですさかい、その日まで大事にしときましょ」
「……え、ええ。そう、します……」

 心臓が早鐘を打つ。苦しいくらいのそれが、けれどもどこか甘い響きを持つのは何故だろうか。
 その答えを知るのは、きっともう少し、ずっと先の未来だ。その日まで珠蓮はこの想いを戸惑いと共に大事に育てるのであった。








 新月軒の一室で絢爛な料理を所狭しと並べながら、秦衣と璃月が七星が一人、珠艶が祝杯を上げていた。
 フォンテーヌで仕事をしているはずの珠艶だが、彼女は疲れた様子もなく秦衣と盃を交わし、此度の目論見の成功に満面の笑みを浮かべた。

「ご苦労様、秦衣くん。おかげで上手くいったわ」
「とんでもございません。全てはお二人が導き出した答えに過ぎず、私は少々の舞台を整えたに過ぎませんから」
「あら、よく言うわね。細かい分岐路をいくつも誘導したのもあなただっていうのに」

 くすりと笑った珠艶がそっと盃を傾ける。えらく機嫌がいい。それもそのはずで、彼女の最愛の娘とその少女が恋焦がれる少年仙人がめでたく一歩進んだのだから、喜ばぬわけがなかった。
 秦衣は笑みを保ったまま、「零れてしまいますよ」とそっと零れかける盃に目を向ける。そうなってもちっとも構わなかったが、珠艶が求めているだろう言葉を紡ぐのが秦衣は上手かった。

「いいのよ。それでも。この盃に注がれた酒が零れ落ちるように、私たちの命もまた日々消費されている。仙と人が同じ時を歩むことはどうしたってできないの。人が仙人を生むことが容易ではないように、親が子より長く生きるのは難しいことだわ」

 塩漬けにした桜の花びらが盃の中でゆらりと泳ぐ。まるで儚く、脆く、実に雅であった。花の命というものは得てして短い。仙人を人の身で産み落とした珠艶に残された時間など、あとどれだけのものだろうか。それまでに珠艶には珠蓮を授けられる者を見極める必要があり、その者に託すまでは、最愛の娘が、珠蓮が心配で死んでも死にきれなかった。

「ご冗談を。まだまだお若く、このように美しくいらっしゃいますのに」
「あら、美し過ぎる者はその命が短いのよ。花のように、雪のようにね」
「それでは珠蓮姫もそうだと?」
「だから託すのよ。そうならないように」

――花は自ら散り、水は自ら流れる。そう在るべきだと珠艶は語る。
 驪竜之珠。岩王帝君に献上された掌中の珠、珠蓮姫。けれどもその花が、その珠玉が自ら持ち主を決めたっていいはずだと珠艶は主張するのだ。

「魈仙人があの子を嫌がるのなら仕方ないと他の人を探したけれど、そうではないのだもの。障害が別にあるだけならば、それを取り除けばいいだけの話よ」
「本当にあなたは畏れませんね。かの岩王帝君を障害呼ばわりとは……最も神を敬わぬと有名なのは玉衡様ではありますが、あなたもなかなかではありませんか」
「たった一人の娘なんだもの。それよりも大事なものなんてあるわけがないでしょう?」

 はっきりと迷いなく断言する珠艶に秦衣は笑みを崩さぬまま「さぁ、私にはわかりかねます」と答える。母の子へと捧ぐ無償の愛。生まれた時から恵まれた、この母娘の在り方など、到底秦衣には別世界の様に縁のない話であった。

「私は約束通り、姫の婚礼衣装を担当させていただけるならそれでかまいません」
「欲がない子ね。そんなものだけでいいの?」
「あなたの大事な愛娘の婚礼衣装を担当するのです。この上ない栄誉でしょう」

 一からデザインを起こし、これ以上ない姫の晴れ舞台に花を添える。それこそが秦衣がこの一連の物語を裏から操っていた理由であった。

「珠蓮姫の晴れ着となれば、人々は必ず注目します。それこそ、璃月内に留まらず、他国からも注目を集めるでしょう。そうなれば私の名は七国に轟くことになり、更に権威を強めることでしょう。幸い、姫も私を慕ってくれておりますし、降魔大聖の方も寛容な姿勢を見せてはくれました。私がお二方の恋の成就を手伝ったという噂が流れようと、それはまったくの嘘ではないのですから」

 あの様子では恋が実った後も婚姻まである程度の時間がかかることだろう。ならば布石通り、二人の恋を育む場として芝居を提供し続ければよい。
 進展具合に合わせ、或いはその時その時の障害に合わせ、最適なものを選ぶ。ないのならば脚本から作ればよい。それが出来るだけの器量が秦衣には備わっていた。

「本当、可愛げのない子ね」
「だからこそビジネスパートナーとしては信頼できますでしょう。私たちはお互いを利用しているだけに過ぎないのですから」

 最適なこの関係を表す言葉に珠艶はふっと笑う。利害の一致。腹の探り合い。利害がかみ合わなければ、敵になってもおかしくないこの綱渡りに秦衣らしいと思うのだ。

「珠蓮ちゃんはあなたを兄と慕っているけれど……息子にするのは御免ね」
「私と珠蓮姫を比べてはなりませんよ。あのような無垢なお嬢様はそうはいらっしゃれませんから。いつかは降魔大聖がそうなるのですから、その時までお待ちください」
「私よりうんと年上だけれどね。そうね、それもいいかもしれないわね」

 こくりと盃を飲み下した珠艶がまるで酒に酔ったかのようにほろりと口を開く。
 秦衣を見つめるその眼差しは慈愛に満ちており、秦衣の中で朧げな母を思い起こさせた。

「あなたが最初に作ってくれた香膏……私はあれもよかったと思うわよ」
「……選んだのはあなたではありませんか」
「そうだけれど……あなたからも、確かに感じたわ。珠蓮ちゃんへの温かい思いを」

 それは降魔大聖が珠蓮へと向けるものにも、珠艶が珠蓮に向ける思いとも違ったものではあったけれど。親愛にも似たそれは仄かにも芽吹いていたように珠艶は感じた。
 秦衣はこくりと盃の酒を飲み込み、「ご冗談を」と笑うのだった。






 あれから数年。珠蓮姫――今はもう華瑛蔽月真君と呼ぶが親しいか――と降魔大聖は時折躓きながらも、概ね順調に愛を育んでいるようだった。
 お互いあれで未だ恋慕に無自覚というもどかしさはあれど、それも時間の問題の様に思えた。
 秦衣は今日も二人のために演じる。魈が願った、幸せな結末へと導くための、彼らのための芝居を。

「花の香りが響く頃――白魚の手はかえりみて――月に思えば、君を想い――恋しさを募らせる――」

 まだ寒さが残る初春。白木蓮が蕾を膨らませ、今か今かと目覚めの時を待つのと同時。珠蓮と魈は仲睦まじく一枚の羽織を共に羽織っていた。
 紫珠の双眸をきらきらと瞬かせる珠蓮の横顔をそっと盗み見た魈は、それはそれは優し気に微笑むのだった。

 共に晴れ着に袖を通し、一世一代の式に花を添えた秦衣の名がテイワットに轟くのも、きっとそう、先のことではないだろう。
 春の訪れは、もうすぐそこのことだった――。