嘗て何処かの物語
「クレープ……? 何だそれは」
怪訝そうな顔で珠蓮を見やる魈は、聞きなれないその単語に内心で首を傾げた。
いつも通り学校が終わった後、中等部にいる珠蓮を迎えに来た矢先のことだった。寄り道がしたいと言い出すこと自体は滅多にないものの、そう珍しいことではなかったが、今回の要望についてはあまり想像できず、困惑する魈に珠蓮も少し驚いた様子でクレープとはどういったものかを小さく身振り手振りを加えて説明していた。
「えっと……フルーツとか生クリームを薄く焼いた生地で包んだお菓子なの。もちもちしてておいしいんだよ」
親指と人差し指で輪っかを作り、くっつけたり離したりを繰り返す珠蓮は、その仕草でもちもちといった表現を示したつもりだろう。けれどもそれだけでは想像するのが難しく、魈は記憶に新しいもちもちとした食感を思い浮かべるしかなかった。
「もちもち……? 前に行ったパンケーキと似たようなものか?」
「あれとはまた違うわ。パンケーキはふわふわで、クレープはちょっとしっとりしてる」
「しっとり……?」
「そう、しっとり」
こくんと頷く珠蓮に魈はますます想像に難儀する。もちもちという単語だけでも幅があるというのに、ここにきてどう共存した食感なのか想像しづらいしっとりと来た。加えて、その生地に包まれるフルーツや生クリームといった甘い物の存在は魈の頭の中を混乱させるには十分すぎるものだった。
「とりあえず行ってみよう? 胡桃さんが教えてくれたお店は大通りの方にあるんだって」
「あ、おい」
「こっちだよ。早く行こうっ」
待ちきれないと魈の手を引いて駆けだす珠蓮に魈は戸惑いつつも着いて行く。
まったく、普段の品行方正な振る舞いはどこへ行ったのか。魈と共に過ごす間の珠蓮は年相応か、それ以上に幼いままだ。無垢な花のように笑う彼女がまるで踊るように街を駆けて行くので、魈はそれに仕方ないなとばかりに表情を緩める他なかった。
なにせ、この璃月学園が誇る舞姫が気兼ねなく甘えられる人物などそういないのだから。それこそがある種の特権≠ナあることは明白である。つまるところ、何だかんだと魈はこの少女に振り回されるのが嫌ではないのだ。そう、それは全く、これっぽっちも。
胡桃に教えてもらったというクレープ屋は大通りに入ってすぐにわかった。魈たちと同じく、学校帰りであろう学生たちが列をなしていたからだ。人混みがあまり得意ではない魈は少々気が引けるものがあったが、肝心の珠蓮が乗り気な以上同行する以外の選択肢はなく、大人しく最後尾に並んだ。
視力のいい珠蓮と魈はここからでも十分順番がきてクレープを配られる様子や、メニューとなっている看板がよく見え、どれがいいかと吟味している珠蓮の隣で初めて見るクレープに魈は納得したような表情を浮かべた。
「あれがクレープか」
「うん。説明した通りだったでしょう?」
「ああ。見た目の方はな」
「食べればすぐわかるよ。本当にもちもちしてて、しっとりしてるんだから」
嘘じゃないよ、と言いたげにじっと見つめてくる珠蓮に魈は「疑ってなどいない」と宥めるように頭を撫でる。すぐに機嫌をよくした珠蓮はもっと撫でろとばかりに頭を寄せてきたので、しょうがないなともう少しだけ撫でてやることにした。
目を細めて鈴がころころと転がるような声で笑う珠蓮は、暫くすると満足したのか「あのね」と口を開いて魈とおしゃべりがしたいようだった。
「胡桃さんがね、今は杏仁豆腐が期間限定であるよって教えてくれたの。魈もそれにするでしょう?」
「異論はないが……」
魈の視線の先は所狭しと飾られたメニューの看板にあった。期間限定というだけあって杏仁豆腐のクレープが一番目立つ場所に掲げられていたものの、他にも当店一番人気という謳い文句でチョコバナナクレープがあったり、他にもいちごと生クリームのものや、レタスにツナ、照り焼きチキンなどといったものまであり、クレープの幅の広さに魈はやや圧倒されたようだった。
「クレープというものは、随分と型破りなのだな」
「ふふっ、なぁに? それ」
「甘い物のみならず、肉まであるのだ。これでは菓子なのか飯なのか分からぬだろう」
腕を組んで真面目そうにそう零す魈が面白く、珠蓮は素直にころころと笑う。魈は何故珠蓮が笑っているのかよく分からず困惑していたが、その顔を見ているとその理由などどうでもよくなり、つられて僅かに眉を下げた。
「それほど我は面白いことを言ったか?」
「ええ、とっても」
「ならいい。お前が楽しいのが一番だ」
「――うんっ」
柔らかに表情を綻ばせる魈に珠蓮も花のような微笑みを浮かべる。まるで春の麗らかな陽気のような心地よさがここにはあった。
そうやってお喋りをしているとあっという間で、すぐに順番がきて二人は目当てである杏仁豆腐のクレープを注文するとベンチに腰掛けてぱくりと口にした。
「! おいしいっ」
ぱぁっと珠蓮が表情を華やがせると同じように魈もその味に満足したのか、ふっと僅かに表情を緩めていた。まだクレープの生地には到達しておらず、好物である杏仁豆腐を口にしただけだったがそれでも十分で、ぱくぱくと杏仁豆腐が崩れ落ちないように食べ進める。滑らかな舌触りと優しい甘さが口の中に広がって、それでも来た甲斐があったというものだった。
「はむ……」
小さな口を開けて杏仁豆腐に噛り付く珠蓮は、このクレープの形状に大分苦戦しているようで、崩れかける杏仁豆腐を救出しようと頭を彼方此方に動かしてあわあわと慌てていた。
珠蓮の小さな口ではクレープのバランスをとるのが難しいのだろう。ただでさえ柔らかな杏仁豆腐は崩れやすいものだ。見かねた魈が立ち上がってスプーンをもらえないか店の人に交渉しに行くと、快くもらえたそれを持って珠蓮のもとに戻って来た。
「ほら、これを使うといい」
「! ありがとう。魈は使わないの?」
「我はいい。このまま齧り付けば済むことだ」
そのままぱくりと杏仁豆腐と一緒に生地を飲み込んだ魈に珠蓮の瞳がぱちりと瞬く。減ったその面積に珠蓮はやや驚いたようだった。
「魈もお口小さそうなのに、私より大きい……ちょっと悔しい」
「何故悔しがる……」
「うーん……なんとなく」
珠蓮もよくその感情を分かっていないのだろう。ツンツンとスプーンで杏仁豆腐をつついては、どこかぼんやりとしていた。魈はその返答に釈然としないものを感じたが、深くは言及せず、そういうものかと不可解ではあるものの飲み込むのだった。
魈にとって珠蓮は大抵がそうだ。珠蓮が考えることや言い出すことはいつも突飛で、魈には理解しがたいものばかりで構成されている。花のように美しい少女だというのに、本人はその美貌に一切の関心がないばかりか、武術に意識が向く始末だ。
一年半前、珠蓮が剣道部に入ると言い出したのを彼女の母親が思い直すよう説得したことから始まり、魈もその騒動に巻き込まれ、折衷案として新体操部を勧めてようやく収まったのも、何故珠蓮が納得したのかですら魈は分からないままだ。
「来月の第二日曜日なんだけど……」
「? ああ」
「その日に大会があるから、見に来てね」
世間話のようなさらっとした言い方だったが、その声音には甘えるような響きが含まれていた。紫珠の双眸がどこか上目遣いに魈を見やると「絶対だよ」と念を押す。先程よりもうんと甘えたような言い方に魈は柔らかく頷いた。
「分かった。空けておく」
「ほんとにほんと?」
「本当だ」
すぐに返ってきた答えに更に確認するように珠蓮が首を傾げる。
「絶対?」
「絶対だ」
さらりと肩から滑り落ちた髪がクレープにつかぬよう、魈の指先が絹のようなそれを払う。
珠蓮が甘えているのが魈にもわかっていたが、そう何度も確認する珠蓮がおかしくて、無性に撫でてやりたい衝動にかられた。
「そんなに確認せずとも約束を違えたりなどしないぞ」
仕方のない奴だなと言わんばかり温かな息を吐けば、珠蓮もくすくすと笑って破顔する。
「だって嬉しいんだもの」
「? 嬉しいのか?」
「とっても」
ことりと蜂蜜の入った瓶を零したような、そんな甘さが胸の中で広がっていくようだった。とうに杏仁豆腐は口にはないというのに、優しいその甘さとは違ったまるで花蜜のようなとろりとした甘美だ。
たったそれだけの当たり前の約束を幸福のようにして抱きしめる目の前の少女が愛おしく、魈は眩し気に目を細めては「そうか」と頷くのがやっとだった。
温かだ、とても。珠蓮と過ごす日々はこんなにも柔く穏やかで――温かい。
けれどその温かさは脆さにも似た儚さを帯びて、時に崩れ去る。一瞬のうちに。花を手折るかのように、簡単に。
(……面倒なことになったものだ)
思わず零れた重い溜息が魈の心情をよく物語っていた。珠蓮と約束をした日が目前に迫っていた時のことだった。
珠蓮から大会の知らせを聞いてすぐ、魈はバイト先のシフトに休みの申請を出して許可をもらっていたのだが、体調不良者が続出したことでその休みも返上になってしまったのだ。
珠蓮の大会というのもあり、魈にしては珍しく言い淀んだものの、元来優しい気質の少年である。本当に困っているのが分かっている状況で否とは言えなかった。
(珠蓮がどんな顔をするか……)
気がかりなのはやはりそこだ。怒って拗ねるだけならまだいいが、泣き出しでもしたのなら魈はどうやって慰めてやればいいのかわからない。傷つけるのが分かっていて「行けなくなった」というのはあまりに苦しく。けれども黙っているの方が酷だというのも魈は理解していた。
トークアプリを開いて、珠蓮にその伝えようと一文字一文字を確かめるように、自問するように打っては消して、また打ってと繰り返したところで結局送ることはないままに全てを消してアプリを閉じた。
そうして次の瞬間には、立ち上がって足が向いていた。会って直接伝える≠「くら考えてもそれしか出来ることはないのだとその答えに行きついたとき、魈はもう迷わなかった。
たとえそれが、最も見たくないものを直視することになろうとも。
今まで生きてきた人生の殆どを通いつめることになった邸宅の前で、魈はいつも通りワンコールを鳴らして合図を送る。すぐにカーテンを開けてバルコニーに出てきた珠蓮が魈を見つけると嬉しそうに笑った。
「魈! もう帰ってたの?」
「ああ、ついさっきな」
普段滅多に息を荒げない魈の呼吸がいつもより早いのが見て取れる。珠蓮はぱちりと瞳を瞬くと、そんなにも慌ててどうしたのだろうと思いつつも、走りたい気分だったのかもしれないとあまり深くは考えなかった。
「もうすぐ大会だな。調子はどうだ」
「いい感じだよ。蛇形もね、前よりずっと丁寧になってるから魈も驚くと思う!」
腕と手首を使ってくねくねとさせる珠蓮の仕草が幼く、あまりにも珠蓮らしいものであったから魈は微笑ましいものを抱くと同時に、つきりとした胸の痛みを感じた。
リボンの技の形態の一つである蛇形は珠蓮が最も得意とする技だ。細かく、繊細なその動きと均等の取れたフリルのようなしなやかさと美しさは彼女にしか出せないものだろう。柔らかな手首のスナップと華奢な体躯からすらりと伸びた四肢が多分に発揮される舞姿は、璃月の舞姫の名を欲しいままにした。
その努力を、その過程を間近で見てきたからこそ。一言口にする度に傷ができていくようだった。
「そうか。ならばお前が言っていた稲妻の好敵手ともいい試合ができそうだな」
「うん。前は負けちゃったから今回は勝ちたいと思ってる。向こうも去年よりずっとすごくなってるだろうから……私も頑張らなきゃ」
常は夢見るようにぼんやりとした輝きを秘めた紫珠の双眸に、ゆらりと燃えるような煌めきが伺えた。
昨年、珠蓮は生まれて初めて敗北というものを知った。生まれてこの方蝶よ花よと可愛がられ、何をさせても周囲の期待に遺憾なく応え、多くの才と人脈に恵まれた少女は、自らの一段上に他人が立つという経験を初めて味わった。
それがまた、対を為すように、まるで鏡合わせのようによく似た経歴を持った相手だったからだろうか。お互いがお互いを認知するのは一瞬で、認め合うのも、対抗意識を抱くのも、最初からそうあるべく生まれたかのようにぴったりと合致するのを感じたのは決して気のせいではなかった。
「お前はあの時の悔しさを糧によくやってきた。その努力はどんな形であれ必ず結実する」
初めての敗北に戸惑い、魈を見るなりぼろぼろと訳も分からず泣いていた少女は、今はもうその気持ちを理解し、昇華し、力へと変えたのだから。
けれど、あの時のように縋るように泣きついてくる珠蓮の涙を拭う資格も、頭を撫でてやる権利も、今の魈は持ち得なかった。
精一杯の激励を込めて。不確かなことを口にはしない彼は、真っ直ぐな事実だけを贈る。
「いい試合になるだろう。今までの何よりも、優れたものになると思う」
その言葉はどこまでも魈らしいものであったのに、彼の表情があまりにも優しくて。あまりにも辛そうで。珠蓮はその言葉を抱きしめるよりも先に僅かな戸惑いが生まれた。
「魈……?」
どうしたの、と言葉にするよりも瞳が物語る。問いかけるようなその眼差しに魈はただただ、静かに罪悪を告白した。
「すまない……。大会の日だが――行けなくなった」
「…………え」
何を言われたのか分からない、といった表情だった。まるで青天の霹靂だ。それだけ珠蓮にとっては予想だにしていないことだった。
その告白を理解できぬまま、立ち尽くす彼女に魈はますます胸が痛むのを感じた。ぽかんと小さく開いた唇から零れた声が霞んでいて、ぱちりと瞬く紫珠の双眸が透明な色を宿す。未だに飲み込めずにいる少女はただただ不思議そうに口を開いた。
「いま……なんていったの……?」
それは純粋な問いだった。魈が何と口にしたのか分からないのだ。それだけ珠蓮の中ではあり得ないことで、今まさに魈が申し訳なさそうな顔をしているのも、珠蓮の問いに苦しそうに眉を寄せたのも、悲し気な目をしているのも、珠蓮には何故そんな表情を浮かべたのか分からないことだった。
「変な魈。何か辛いことでもあったの? 悲しそうな顔してる」
「珠蓮……」
「よく分からないけど、杏仁豆腐を作ってあげるから元気出して? 悩んでるときは甘い物があった方がいいって、鍾離先生も言ってたわ」
心配するように「大丈夫?」と首を傾げる珠蓮に、魈はいよいよ胸が張り裂けそうな痛みを覚える。大丈夫じゃないのはお前の方だろうと分かりきっていたこの結末に、けれども言い逃げするという選択肢は欠片も浮かばぬまま、魈は更に亀裂を入れることしかできなかった。
「珠蓮……我は……お前との約束を違えたのだ」
真っ直ぐに澄んだ瞳を見つめて、悲しい決裂を魈が口にすれば、珠蓮も徐々にその意味を飲み込んできたようだった。みるみるうちにその双眸が潤みを帯びて、まろやかな頬を伝ってぽろりと真珠のような涙が零れ落ちる。ぽたぽたとしていたそれが、まるで雨のように降りそそぐまで時間はかからなかった。
「な、んで……? 来るって……約束したのに……っ」
「珠蓮、すまな――」
「約束した……! 来るっていったっ! 来るって……絶対来るっていったもん……っ!」
いやいやと幼子のように頭を振る珠蓮の涙は止まる気配がなく、悲鳴のような声が零れて、魈は思わず手を伸ばしたが、泣かせているのが他でもない自分であるのを自覚している彼はその手を引き戻すことしかできなかった。
本当は今すぐ嘘だと言って、悪かったと謝罪して、涙を拭っては頭を撫でて慰めたかった。バカと言って詰る少女を包み込むように抱きしめて、いくらだってその拙い罵倒を聞いてやりたかった。可愛いわがままを言ってくるだろう珠蓮のその願いを魈は叶えてやりたかったのだ――。
「すまない……」
けれども現実は非情だ。魈が見に来ることをあれほどに期待していた珠蓮が、いざ大会当日になって魈の不在を知り、演技に影響が出るなんてことがあれば、魈は悔やんでも悔やみきれない。早いうちに真実を知らせて、魈への落胆と憤りを乗り越える時間を与え、万全の状態で挑んでもらう必要があった。
残酷だが、この選択は魈に確かな珠蓮への愛情と信頼がなければ取れない選択だっただろう。それでも、未だ幼い純粋を抱く珠蓮にとっては受け入れがたいものであるには変わりなかった。
「魈のバカっ、嘘つき……! もう知らないっ!」
踵を返して部屋の中に駆け込む珠蓮の声が、隔たれた厚いガラス越しでも聞こえるようだった。あの可憐な鈴のような音色が悲しみに泣き叫ぶ。苦し気に吐き出されるそれが容易に想像できて、魈の瞳に暗い影を落とすのだった。
魈に大会に行けなくなったことを告げられてからというものの、珠蓮は日常であった送り迎えの一切を拒絶した。連絡の一つも寄こさないまま、魈が迎えに来るより早くに出ては魈との関りを断つことにしたのだ。
この珠蓮なりの小さな反抗と抗議は魈にとっては想定内のことではあったのものの、毎日のように見ていた顔がこうも遠ざかるのは仕方ないとはいえ寂しいものがあった。
「わぁ。重症だねぇ〜」
不意に聞こえた声に顔を上げれば、そこには後輩である胡桃の姿があった。あらら、とまるで哀れな者をみるような視線が魈へと降りそそぐ。中等部に在籍しているはずの胡桃が高等部にいることに魈は怪訝そうな顔を向けた。
「胡桃? 何故お前がここに……」
その問いかけこそがまるで愚問だと言わんばかりに胡桃はやれやれと肩を竦める。
「何故も何も。お宅の可愛い可愛いお姫様のご機嫌が斜めだからに決まってるでしょ〜?」
「……あれはそう他人に迷惑をかけるような性格ではないはずだが……」
「『わがままを言われるのは我の特権だ』ってやつね。ええ、それはもう存じておりますとも。これでもかってね! いつもご馳走様!」
惚気を浴びたように投げやり気味に吐き捨てる胡桃に、魈はやや押されながらも「そういうつもりで言ったわけではない」と訂正を試みたが、口達者で押しの強い胡桃が相手とあればあまりにも分が悪かった。
「本当に自覚がないのがねぇ……私としてはさっさとくっついてくれた方が助かるんだけど。もう、じれったいんだから。そんなだから行秋だっていつまで経っても『珠蓮姫が〜』ってうるさいったらありゃしない」
「……」
身振り手振りに加えて、行秋の声真似まで始まる胡桃に魈はやや圧倒されたようだった。胡桃はことあるごとに魈と珠蓮をくっつけたいような言動をとるが、魈にしても珠蓮にしても、何故そのように胡桃が行動するのか不可解でならない。お互いがお互いにとって大事な幼馴染だという自覚はあれど、必ずしもその先が胡桃の言うようなものだとは思っておらず、二人揃って顔を見合わせては首を傾げるばかりだった。
「はぁ……まぁ、誤解がないように今回も言っておくけど、行秋はあくまで珠蓮のファン≠チてやつだから。それも大がつくね。璃月の舞姫に夢中な男共は星の数ほどいるものだけど、行秋ほど珠蓮の不調に敏感な人はいないのもまた事実」
胡桃の独特な言い回しを黙って聞いていた魈だったが、行秋という名前には魈も覚えがあり、その姿が脳裏を過る。珠蓮とも家格が釣り合う生まれのお坊ちゃまである行秋は義侠小説に深い関心を持っており、時代が時代なら絶世の美人と持て囃されたであろう珠蓮が、美貌だけでなく武勇を兼ね備えた人物だと発覚するや否や、熱狂的なファンへと転がり落ちてしまった。
それもそのはずで、たまたま遭遇したひったくり犯をあろうことか新体操で使うリボンを用いて華麗に逮捕に貢献し、警察から感謝状を贈られる功績を挙げたのが彼の儚げで可憐な璃月の舞姫であったのだから、憧れぬ方が無理な話だろう。まるで義侠小説から現実世界へと飛び出して来たかのような美しい少女に行秋はすっかり夢中であった。
「そして彼は私の幼馴染で、珠蓮は魈先輩が
けれどもそれで割りを食っているのは胡桃だ。胡乱気な表情がその密かな苦労を物語っている。
信頼できる後輩として、自身の卒業と同時に入学してくる珠蓮を案じ、気に掛けてくれるよう胡桃に珠蓮を紹介したのはよかったものの、肝心の珠蓮と胡桃の相性は思わしくないようで、珠蓮はあまり胡桃に心を開いてはいないようだった。胡桃の揶揄い癖もあるのだろう。元来真面目で素直な珠蓮は振り回されっぱなしなようで、胡桃のことは嫌いでこそないようだが、苦手であるのに変わりはなかった。
「珠蓮に聞いても黙りだし、行秋はうるさいし。見るからに何かありました〜って感じだし。先輩もこの世の終わりみたいな顔してるし」
「……そんな顔はしていない」
「よく言いますねぇ。珠蓮がいなきゃ生きていけないようなお人がいったいどの口で仰ってるのか」
「……」
胡桃の言には迂闊に反論しない方が身の為だと知っている魈は、腕を組んでその先を促すことにした。何もただ愚痴を言いに来ただけではないことを分かっているからだ。この少女はその見た目とは裏腹に知略に富んでおり、わざわざ無意味な時間を過ごしに高等部まで来るはずがないのだ。
「はいはい、愚痴はこの辺にしますよっと。まったく、魈先輩はお喋りが下手なんだから。どうせ、今回だって色々話すべきことを省いたかなんかで珠蓮を余計怒らせたんでしょ〜?」
「伝えるべきことは既に伝えている。その結果珠蓮が傷つき、怒らせることになっただけだ」
「その伝えるべきことの中に、経緯が含まれてないのが魈先輩の悪い癖ですよ〜。本当に、全くね」
赤胴色の瞳の中に浮かぶ花形がすっと細められて魈に向く。全てを見透かすようなその瞳に魈は溜息を吐いて、仕方なく口を開いた。
「珠蓮との約束を我は反故にした。その経緯がどんな物であろうとも、結果は変わらない。その言い訳に如何ほどの価値があるというのだ。そんなもののために珠蓮が聞き分ける必要がいったいどこにある」
吐き捨てるように「くだらない戯言だ」と口にする魈に、胡桃はそれはそれは呆れた表情を浮かべた。まるで馬鹿に付ける薬はないとでも言いたげだ。恋は盲目と言えど、こんなにも過保護な男もそうはいないだろう。そして性質が悪いことに、魈のこれは恋以前の話であるのだから、なお重症であった。
「あのねぇ……時にその戯言が理解を生むことだってあるんですよ。まぁ、先輩の場合は過保護が過ぎて理解を譲歩と捉えてらっしゃるようだけれども。可愛い子には旅をさせよって昔からいうでしょう? 珠蓮だってもう14歳の女の子なんだから、もう少し大人扱いしてもいいんじゃないの?」
女の子の成長は早いと主張する胡桃に魈は怪訝そうに眉を顰める。魈にとって珠蓮はいつまでも幼子のように、真綿で包み込んで守るべき存在であるのだ。無論、珠蓮も立派な少女であることを理解はしているが、それでもこの輪をかけた過保護を撤廃できそうにはなかった。
「大人扱いなど……珠蓮は――」
「はぁ……本当に融通が利かない……流石に珠蓮に同情しちゃう。あの子が私に素直に懐いてくれない理由の5割は間違いなく魈先輩が原因ですからね」
「我の……? ……残りの5割は何だ」
「それはまぁ、あんなに綺麗で素直で真面目ちゃんで……反応が可愛いから、つい揶揄いたくなる私の……自業自得?」
ぺろっと舌を出しておどける胡桃に魈は物言いたげな視線を向けたが、胡桃のこの悪癖は今に始まったことではないため、何も言わずにただ珠蓮に同情した。話が逸れたところで胡桃がわざとらしく咳ばらいをし「まぁ、要するに」とまとめにかかった。
「もうちょっと珠蓮のこと信頼してもいいんじゃない? 信じてないわけじゃないんだろうけど、もっとさあの子を対等に扱ってあげてよ」
「対等……?」
「うん。先輩はそうやってあの子を守ってるつもりでも、それがかえって傷つくことだってある。知らないってのはそれだけ幸福でもあり、残酷なことでもある。先輩が思ってるより、ずっとね。あの子のためを本当に思うなら、もう一度何が最善なのか考え直してほしい」
魈よりも年下のはずの胡桃は、まるで長い時を生きてきたかのように時に悟りのような境地を感じる。その忠告が決して蔑ろにしていいものではないことを魈も分かっていた。魈は思案するような素振りを見せるとややあって「肝に銘じておく」と頷くのだった。
白いノートを泳ぐ文字の芳しくない様子に鍾離はパタリと教材を閉じた。その音にはっとして見上げてくる紫珠の双眸は不安げに揺れていて、気に触ってしまったのかと慌てる珠蓮を鍾離は宥めるように表情を和らげた。
「今日はここまでにしよう。大会も控えていることだ。あまり根を詰め過ぎてもいけない」
授業を切り上げようとする鍾離に珠蓮は申し訳なくなり「先生……ごめんなさい」と今にも消え入りそうな声で頭を下げる。
「謝ることはない。テスト範囲は既に終えているのだから、少しくらい雑談に興じても問題はないだろう」
その提案にぱちりと瞳を瞬く珠蓮の前に、鍾離は横に置かれていた茶菓子の乗ったトレーを差し出す。お茶をしようという合図に珠蓮は戸惑いつつもカップに紅茶を注いでお茶の準備を進めた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ソーサーからカップを持ち上げ、香りを楽しみ、ゆっくりと味わうこの瞬間は何百何千と繰り返されたものであり、とっくに珠蓮も慣れたはずであったが、勉強に身が入らなかった自覚があるからだろう。鍾離の些細な反応さえ、内心でびくびくと仔猫のようにすっかり怯えていた。
まるで迷い子のような顔をする珠蓮を可哀想に思ったのか、鍾離はふっと笑うと、ぴくりと肩をびくつかせた珠蓮にどこか揶揄うように口を開いた。
「今のお前を見ていると、酷い苛めをしている気分だ。そのようにお前を怯えさせているのを魈が目撃でもしたら、俺もただでは済まないかもしれないな」
鷹揚に笑う鍾離の様子から然程本気ではなく冗談だということが伺えたが、冗談というものが苦手な珠蓮はとんでもないことだとばかりに慌てて頭を振った。
「魈が先生をそのように誤解するなど滅相もないことです! むしろご教授いただいている身で上の空であった私を魈は窘めるでしょう……魈は本当に先生のことを慕っていますから、私の方が叱られてしまいます……」
尻すぼみに小さくなっていく声と同時に、珠蓮の表情がしゅんと萎れた花のように翳りを帯びる。鍾離は予期していた反応を前に少女の家庭教師としての顔からより親しみのある、親戚としての顔を覗かせた。
「随分と沈んでいるな……魈と何かあったのか?」
その名前にぴくりと反応した珠蓮は伺うように鍾離を見つめる。言葉よりも雄弁に語るその瞳の疑問に鍾離は何てことはない謎解きを解くかのように答えを出した。
「お前をこうも沈ませられるのも一人しかおるまい。どうした? つい最近まで仲睦まじく過ごしていたのではなかったか?」
「先生……」
「話してみるといい。誰かに話すことで色々と整理できるものや、見えて来るものもある。何より自分の気持ちを他者と共有するという過程は人間にとって最も円滑なコミュニケーションを生む。お前の苦しさをどうか俺にも共有させてほしい」
年の離れた兄のような存在である鍾離にそうも懇願されると、珠蓮に心を開く以外の選択肢はなかった。
こくりと小さく頷いて、魈にだけ見せていた幼いままの心がそっと雲から月が姿を覗かせるように露わになっていく。発した声は常よりもいくらか幼く、魈の耳によく馴染んだ少女の声だった。
「大会に……来てくれるって約束したんです……約束したの、絶対だって……でも……」
「……来れなくなったのか?」
音もなく頷くのが珠蓮にはやっとだった。思い出すとあの胸の痛みがやってきて、口にすればなおのこと、涙が込み上げてくる。ぽたりと零れ落ちた雫がぎゅっと膝の上で握りしめた手の上で弾けた。ぽたぽたと流れ落ちるそれを鍾離はハンカチをとって拭ってやると「そうか」と口にして、その先を優しく促した。
「それで、お前は泣いていたのか?」
「……最初は、魈が嘘ついたのがいやで、怒っていたのです……あんなに念押ししたのに、どうしてって……」
珠蓮が事あるごとに念を押すのは今に始まったことではなかったが、それでも些細な約束さえ珠蓮にとっては大切なものであった。今回もそうやって念を押して、けれども念を押さずとも叶えてくれる幼馴染をずっと珠蓮は信頼していたのだ。魈が見に来てくれるのを楽しみに、彼にいいところを見せたいがために張り切るほどに。珠蓮にとってその約束は大事な物だったのだ。
「でも、時間が経ったら……どうして来れなくなったんだろうって……私の大会よりもっと大事なものがあったのかなって考え始めて……もしそうだったら……」
「もしそうだったら?」
「――嫌だなって、思ったの……」
ずっと、珠蓮は魈の一番だった。友達よりも珠蓮のことを当たり前に優先して、家族よりも近くて、いつだって珠蓮は魈に一等大事に扱われてきた。
数え切れぬほどの些細な我儘を口にして、その全てを叶えてもらえて。当たり前に手を繋いで歩いていたのに、珠蓮はその手を急に離された気がしたのだ。
温かな手の温もりが、段々と冷えていくような感覚を初めて知ってしまった少女は、その戸惑いをどう消化すればいいのか分からないでいる。
それと同時に、癇癪を起こすように『もう知らない』と背を向けてしまった後悔も。けれどその後悔を抱えていながらも、未だに魈を割けているのには蟠りのようなものが胸を占めているからだった。
「でも、きっとそうなんです……魈が理由もなく約束を破るなんてするはずないもの。きっと大会より大事なことがあって、それで――」
「いや、そうとも限らないだろう」
「……え」
悲観する珠蓮の言葉を優しく遮り、口を挟んだ鍾離の瞳はまるで幼子を見守るような温かさがあった。
不思議そうに「先生……?」と首を傾げる珠蓮に鍾離は鷹揚な声で一つ説いてみせた。
「お前も分かっている通り、魈が理由もなく約束を反故にするとは俺も思えない。けれどだからといってそれがお前の大会よりも大事なことだったかと言えば、必ずしもそうとは限らないというのが俺の見解だ」
「? 何故でしょう……?」
鍾離は顎に手を置いて少しの間思案すると、珠蓮にも分かりやすいように例え話を始めた。
「例えばだが……そうだな。俺は鳥を飼っているが、どうしても断れない頼み事で猫を預かることになったとする。その場合部屋を分けるわけだが……この猫は人に慣れ過ぎて人と一緒ではないと眠れないと来た。ニャーニャーと唸り声を上げて暴れる猫に仕方なく添い寝をしてやるとして、俺は鳥より猫を大事にしているように思うか?」
「お、思いません……」
「そうだろう。一例だが、こういう場合もあるということだ。そして、俺が知っている魈はこういった面倒事によく巻き込まれやすい」
すっとカップに口をつけて紅茶を含む鍾離に、珠蓮はぱちりと瞳を瞬いた。鍾離の言わんとしていることが伝わって、すとんと落ちたような感覚がした。
そして、ようやく胸につっかえた蟠りが小さくなって、呼吸ができるようになって、蓋をしたその後悔に手を伸ばせそうだった。
「私……魈に酷いこと言っちゃった……バカって……もう知らないって……」
先ほどよりもずっと、ぼろぼろと涙が溢れてくる。珠蓮のその泣き顔はまるで迷子の幼子のようで、嗚咽を零すその背を鍾離は優しく撫でてやった。
「それに気づけたなら十分だ。お前はもう次にするべき行動が何か分かっている」
「しょ、うに……っ、ごめん、な、さいって……するぅ……っ!」
「ああ」
頷いた鍾離は珠蓮が泣き止むまでの間、背を撫で続けた。普段は真面目で淑やかな少女が、魈にだけみせるこの幼さが鍾離は好ましかった。当たり前に二人並んだ姿が、まるで特別に誂えた一対の人形のように似合いで。それを見ているのが幸福だった。
まるでずっと昔から、或いはどこかの世界で、遂げたいと願った夢のように。その景色を鍾離は確かに美しいと思ったのだ。
中等部の校門前。玄関からそちらへぱたぱたと駆けて行く少女が、そこで待つ少年と合流すると仲睦まじく二人並んで歩いていく姿を教室の窓から覗いていた胡桃はにんまりと口角をあげた。
「とりあえずは一件落着かね」
二人の表情こそここからは見えないものの、その距離感であったり、雰囲気から仲直りをした様子が伺える。胡桃はわざとらしい顔をして「これでご満足いただけました?」と後ろにいる行秋に問いかけると、行秋は満足げな表情を浮かべて頷いた。
「ああ。これでようやく珠蓮姫の憂いも晴れたことだろう。彼女が練習に手を抜くとは思えないけれど、気がかりは早めに解消するに越したことはないからね」
その憂いを解消するために動くのだって一苦労なのだが、それも行秋なりの胡桃への信頼だろう。やれやれと手を広げた胡桃は溜息まじりに皮肉を零す。
「こーんなに熱心なファンがいると知ったら、彼の珠蓮姫も感激して涙を流すことでしょうね」
「真の支持者というものはそういったことをひけらかさないものだ。けれど、もし仮に彼女がそんな風に涙を零すとしたら……伝説のようにそれこそ涙が真珠に変わるかもしれない」
ロマンチストのように願望を口にする行秋を胡桃は呆れたような表情で見たが、重雲はそれを真面目に受け取り「いや……いくら彼女が人間離れした美しさを持っていようと、それは流石に無理じゃないか?」と行秋に疑問を呈する。それに対し行秋が重雲を揶揄うように嘘か本当か分からない話を始めるのを後目に、胡桃はとっくに二人が去った窓の向こう側を覗いてにんまりと笑うのだった。
「雲がかり〜月こそ見えぬ〜星空が〜風吹きて去り〜花と為す〜」
――羞月閉花の君よ。貴女こそは彼の人の月であり、花であり、或いはそれすら凌駕する宝であるのでしょう。黒色の竜の顎下に位置する珠のように。真綿で包まれ、大事に大事に頭の上に置かれるように。けれどもそれは貴女の望んだ扱いなのだろうか。きっとその答えが今なのだろう。
「さーてと。後はま、王子様の腕の見せ所だよねん」
柄ではないと彼は否定するだろうけれど。お姫様が望み、彼女の顔を曇らせたくないと奮闘するのであれば、胡桃は十分にその資格があると思う。何より、王子様とはお姫様にとってのヒーローなのだから。それこそが既に結果を物語っていると未だに自分は彼女に相応しくないと足掻く彼を胡桃は生暖かい目で見守るのだった。
――大会当日。全国から選抜された実力者たちが集まる中で、一際注目を集めたのはやはり璃月大の至宝、璃月の舞姫と、稲妻大社女学院が誇る白鷺の姫君の二人だった。
「ご機嫌よう、珠蓮さん。あなたに会えるのを楽しみにしていました」
「綾華さん……ええ、私も同じです。綾華さんと同じ大会に出るために研鑽を積んだといっても過言ではありませんもの」
どちらも華奢な体躯ではあるものの、年齢差が僅かにあるのもあってか自然と少し上目になる珠蓮の視線は、挑むような強さを湛えていた。
綾華はそれを好意的に受け止めたようで、その雪鶴のように整った顔をにこりと彩った。
「嬉しいお言葉ですね。私も同じ気持ちです。今日の大会もお互い全力を尽くして挑みましょう」
「……はい」
自然と交わされた握手には、まるで淑女が挨拶を交わすような親しみがあった。長いポニーテールを靡かせて去っていく後ろ姿を暫し見つめる珠蓮に顧問にして付き添いである閑雲が優しく声を掛けた。
「強敵だな」
「はい……でも負けません」
普段は控えめな珠蓮がそう断言したことに閑雲はその意気だと頷く。昨年の敗北をきっかけに珠蓮は大幅に技量を上げた。有り余る才気を以ってあらゆる勝利を収めるのもまた天稟ではあるものの、敗北を知った天才ほど恐ろしいものはないと閑雲は思う。
それになにより、珠蓮には思いの力というものがある。絶対に譲れないものを心に据えた人間は――時に天神すらをも凌駕する。
「魈と約束したんです。優勝トロフィーを持って帰ってくるって」
だから負けられない。負けない。強い意志と誓いを湛えたその紫珠の双眸に閑雲はそっと目を伏して満足げに頷いた。
「ああ、それは負けられないな」
「ええ。絶対に」
波乱の予感がした。この大会が後に大きな意味を持つような――そんな予感がした。
大会が始まった頃、魈は息を切らしながら宅配物を手に階段を駆け上がっていた。エレベーターよりもそちらの方が早いと判断したからだった。
(汁物があるから厄介だ。クレームが来ては元も子もない)
デリバリーされた品に細心の注意を払い、商品の受け取りを済ますと魈は急いだ様子で今度は手摺を滑るようにして上ってきた階段を瞬く間に降り立った。
店に戻るとすぐに次の注文を受け取り、猛スピードで去っていく後ろ姿に店長も何かを感じ取ったのだろう。「何か悪いことしたな……」と眉を下げてぼそりと呟く姿があった。
(次は隣町か……ショートカットをするには……裏にある細道を通れば行けるか……?)
スマホでルートを確認すると魈は宅配バイクに乗って法定速度ギリギリの速さで駆け抜けた。彼の頭の中にあるのはあの無垢な少女の仕方ないと聞き分けたような顔だった。
魈は珠蓮にあんな顔をさせたかったわけではない。『怒ってごめんね』と謝る必要だってどこにもなかったのだ。そんな顔をさせたくないのも、そんな風に聞き分けられないのも、本当は珠蓮ではなく魈の方なのだから。
(早く終わらせて向かわなければ)
行けなくなったと口にしながらも、どうしたって諦めきれない魈はこうして駆けるしかない。
一刻も早く、本当は自分の訪れを待っているだろう一等大事な少女のもとへと。
ただただそれだけのために魈は走る。息を切らして、身体が疲労に悲鳴を上げようとも。それだけが珠蓮へと続く唯一可能性のある道なのだから。
(早く――)
けれど現実は時に非情だ。肩に備え付けたトランシーバーから音が響く。嫌な予感がした。
「……はい」
『ああ、魈くん!? 忙しいところ悪いんだけど今大口で急に注文入って! ちょっと遠いんだけどお願いできる!?』
ひやりと汗が流れた。いつもなら構わないと受けるそれがすぐには頷けなかった。
そんな間にも響く騒音に店側の忙しさがトランシーバー越しに伝わってきて、ダメ押しとばかりに店長の懇願する声が耳を抉った。
『今魈くんしか行けなくて……! お得意さんなのもあって断れないし……急遽ヘルプ頼んだんだけど、彼らもいつ来るか……これ終わったらそのまま上がりで大丈夫だから――』
ぐっと奥歯を噛んで、拳を握る。嫌だ。それでは間に合わない。珠蓮の大事な大会が、彼女の晴れ舞台が――。
「――分かりました」
そうやって自分が吐き出した言葉に魈は自分で何をやってるんだと思わずにはいられなかった。思わずにはいられないのに引き受けて、気づけば店へと走っていた。
そんな自分が信じられなくて、けれどもそうして全てを投げ出して大会へと駆けつけても、珠蓮の笑った顔が想像できないのだ。どこか暗く沈んだ顔を浮かべる珠蓮の顔ばかりが浮かんで離れなかった。
(結局我は……お前との約束を反故にするしかないのか……すまない、珠蓮……すまない……)
ぽたりと雫が落ちた。雨が降り出して、急な悪天候に魈は自嘲気味に笑うのだった。
どちらにしろ、ずぶ濡れになっては行けない。あの少女まで濡らすわけにはいかないのだから。
降りしきる雨の音すらも味方につける演技があるのかと。この場にいる誰もが一人の少女に釘付けだった。
月明かりのように仄青い祝福を受けた髪が舞う度に、まるで洗練された神事を目の当たりにしている錯覚すら覚えるほどに。その舞は一部の隙もなかった。
「これが白鷺の姫君か……」
「ええ。申鶴さんは初めて見るんでしたよね」
「ああ。珠蓮が負けたと聞いたときはにわかに信じられぬ思いだったが……こうしてみると、なるほどと思わせるものがあるな」
あまり感情の乗った声ではないものの、申鶴の透明な玉石のような瞳は興味深げに綾華へと向いていた。凛とした舞姿は珠蓮のものとはまた違った美を形成しており、その異名の通り白鷺が水面に足を踏み入れては、飛沫を帯びて飛び立つ姿を彷彿させた。
「圧巻の一言だ。多くの者の脳裏に優勝が誰のものなのかという印象を刻み付けた。嫋やかな見た目に反し、なかなかに強かな女子だ」
「し、申鶴さん……」
直球な物言いは申鶴の美点の一つではあるが、あまりに包み隠すことがないため、甘雨は少々慌てたように眉を下げる。甘雨の方が申鶴より年上ではあるものの、申鶴の浮世離れした佇まいや恵まれた体躯はややアンバランスで、まるで逆に見えることもあった。
申鶴は甘雨が何故そのような不安げな顔をするのか疑問に思ったが、少々思案すると申鶴も思うことろがあったのか、納得したように頷いた。
「案ずるな、甘雨先輩。我もこのまま終わりだとは思っておらぬ。何せ我らの妹弟子は月も花をも霞ませるのだから」
「……分かっているなら、いいんですけど……」
そう言いながらも甘雨の表情は浮かないものだった。魈が来てくれると張り切って大会に向けて準備していた頃は、甘雨も微笑ましく見守れたが、肝心の魈が来れないとなって気の毒なことになってしまった。
珠蓮は優勝トロフィーを魈に持って帰るという新たな目標を掲げたようだが、昔馴染みである彼らがこの大事な日をこのまま終えてしまうのではないかと気が気でなかったのだ。
「甘雨先輩? どうした?」
「あ……いえ、その……本当なら、魈さんも珠蓮さんの大会を見たかっただろうなと……」
「魈……? ああ、そうか。まだ来ていないのか」
「え、ええ……そう簡単には色々終わらないようですし……」
重い溜息を吐く甘雨の表情はここにいる誰よりも暗いものだった。頻りに入口を確認する甘雨に申鶴も釣られてそちらを見るも、すぐに視線は甘雨へと戻り、申鶴は妙に落ち着き払った様子で口を開いた。
「案じることはない。そのために先輩たちは随分と大掛かりな手を回したのだろう?」
「そう言われるとまるで不正を働いているように聞こえますが……え、ええ……それは、まぁ……そうですけれども」
「ならば大丈夫だ。人手が足りぬというのなら、今からでも我が加勢に行こう。重い物を運ぶのは得意だ」
「申鶴さん……ええ」
乏しい表情ながらも得意げにそう語る申鶴に心配性の甘雨も背中を押されたようだった。
甘雨が頷いたと同時に申鶴のスマホが鳴り、そこに送られた重雲からのメッセージを確認すると二人は一斉に破顔した。簡潔に記されたそのメッセージは作戦成功を意味しており、皆が願うハッピーエンドがすぐそこに迫っているのを感じたのだった。
ずぶ濡れになりながらも得意先へとバイクを走らせていると、チカチカとやけに視界に入ってくるライトがあった。魈はそれが煩わしく、ちっと舌打ちをするとさらにスピードを上げたが、どういうわけかそのバイクも魈を追うかのようにスピードを合わせて来るではないか。それも一台ではなく、複数台で。
妙なものに絡まれたと思った魈の機嫌は最悪もいいところだった。大切な珠蓮の大会には間に合わず、突然の雨で身体は濡れ鼠と化し、ただでさえ悪い視界が遮られる。厄日とはこういうものかと普段はそういうものを信じない魈でさえ思ったほどだった。
「――い――おーい!」
何か魈に話しかけているのが分かるが、魈は構っている暇などないと更にスピードを上げた。半分は八つ当たりのようなものも含まれていたが、それでも魈の元来の真面目さ故か商品に気を回すのを怠らず、後続のバイクに乗った彼らもその姿勢には軽く口笛を吹いて賞賛する者さえいた。
「呑気に口笛なんて吹いてる場合じゃないだろ! 早く追いつかないと!」
「まぁまぁそう焦らずに。安全運転第一だよ」
やけに白い服を着た少年が急かすように叫ぶと、穏やかな声をした少年がゆっくりと窘める。ちらりと振り返ってウインクをする彼に白い服を着た少年が「安全運転とは……」とぼそりと呟くが、両目の下にほくろのある彼は特に気にした風もなく走行していた。
「まったく何で僕まで……やるなんて一言も言ってないっていうのにさ」
つば広帽子を被った少年は降りそそぐ雨をちらりと見上げて鬱陶しそうに呟くが、すぐそばを走る一束に髪を結った少年がまあまあと話しかける。
「乗り掛かった船でござろう? それに何だかんだと言いながら付き合ってくれるのがお主のいいところでござる」
「……フン」
つばの先を指先で摘まんだ彼はそうやって鼻を鳴らすと前方を走行する魈へと視線を向けた。長い三つ編みを後ろに垂らした少年が必死に声を掛けているが、この雨音では聞こえないらしい。視界が悪い中、こうも複数台のバイクに着けられているのだからそうでなくとも逃げたい気持ちは彼にはよく分かった。
「ありゃりゃ。聞こえないっていうより、聞く気がないみたいだ」
「そりゃそうだろう。こんな大所帯のバイクなんて得体が知れないったらありゃしない。僕でも同じ行動をとるね」
「辛辣だなぁ……それならこれならどうだろう?」
両サイドに三つ編みを垂らした少年はバイクに備え付けた機器を操作し、音楽を再生した。その音楽は笛の音が主旋律を奏でる珠蓮が好んで口遊んでいる音楽で、魈にもよく耳馴染みのあるものだった。
だからだろう、聞こえてきたその音色に魈がわずかに気にする素振りを見せた。その機を逃すまいと長い三つ編みを垂らした少年が一気に距離を詰め、大声でその名を呼んだ。
「魈ーー!!!」
「っ!?」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれた魈がバイクを止めて後ろを振り返る。近づく距離と特徴的な長い三つ編み。弾けるような明るさを湛えたその顔は親友のものだった。
「空!? 何故お前がここに……」
「俺だけじゃないけどね! 説明は後! それより急がないと!」
魈の横にバイクをつけた空はバイクから飛び降りると、魈のバイクに乗せられた荷を下ろしにかかった。
「お、おい……何を……」
「失礼。これもらっちゃうね」
「ならば拙者はこちらを」
動揺する魈を他所に、追いついた平蔵らも同様に下ろしては自身のバイクに乗せ始め、そこで初めて魈はそのバイクが同じ店のものであることに気が付いた。
「これはいったい……」
ここにいる者の中にはバイトをしている者もいるが、それでも同じバイト先ではなかったはずだった。何がどうなっているのだと困惑する魈に、通称笠っちが呆れたような表情で口を挟んだ。
「そんなに説明が大事かい? 愛しの彼女とやらの大会よりも?」
嘲るような口調ながら、彼の目はじっと静かに問うような眼差しで魈を見つめていた。迫る大会へのタイムリミットに魈がハッとすると、ウェンティがそっとその肩を叩いた。
「大丈夫、今から行けばまだ間に合うよ。幸い、璃月の舞姫の出番は偶然にも最後らしいからね」
「だが配達が……」
「そんなのは俺たちに任せて行ってあげて。店長の許可もちゃんともらってるし、珠蓮もきっと魈を待ってる。そのために今俺たちはここにいるんだよ」
魈は動揺を隠せず、思わず周りを見渡した。誰も彼もが任せろという顔をしている。あの笠っちでさえやぶさかではないような様子だった。
「お前たち……」
「ほら行った行った!」
バイクの後ろを押されて進ませようとする空にまだ何か言いたげな魈だったが、後ろから緩くウェンティらに声をかけられて、背中を押される。
「後でどんな感じだったか聞かせておくれよ。僕も彼女の演技に興味があるんだ〜。一杯奢ってくれたらそれでいいからさ」
「ウェンティ。お酒はダメだからね」
「あはは! 分かってるって! リンゴジュースでいいよ」
きゃはきゃはと笑い声を上げていたウェンティが魈へと視線を向けると、念を押すように「だから、約束忘れないでね」と続ける。魈はその契約にも似た約束に漸く羽を得たような、何かに許されたような気がした。
「――ああ、必ず」
そう口にした魈は前を向いてバイクを発車させる準備をする。前進する直前、魈は彼らへの感謝を口にした。
「恩に着る。ありがとう」
「――うんっ! 行ってらっしゃい!」
発車すると同時に遠ざかっていく魈の後ろ姿に空は安堵の表情を浮かべた。きっと彼は間に合うだろうから。間に合わせるだろうから。無事に送り出したことをメッセージで片割れに伝えると、すぐにグッジョブというスタンプが返ってくる。その返信は送り主こそ違えど、重雲も一緒であった。
「申鶴たちから?」
「ああ。喜んでいた。とりあえずは一件落着と見ていいだろう……いや、まだ仕事は残っているが……」
おそるおそるといったようにバイクに積まれた荷を振り返る重雲の頬は僅かに引きつっていた。お得意様からの大量注文というだけあってこれだけのバイクを以てしてももう一、二回くらいは往復する必要がありそうだった。生憎所有する車が出払っている状況というのが何とも魈の運のなさを感じさせた。
「まぁいいんじゃない? たまにはこうして出前用のバイクを走らせるのもさ。僕は好きだよ、こういうの」
「君が走らせてるバイクはどっちが暴走族かわかったもんじゃないからね」
「嵐みたいだって? それはどーも。あれで法定速度は守ってるから後は単純に地の利とテクニックの差だね」
「ハッ、どうだが」
あまり信じていない様子の笠っちは疑うような眼差しで平蔵を見やったが、平蔵のにこやかな表情には一部の隙も無く、フンっと鼻を鳴らして顔を背けた。不穏な空気こそ流れなかったものの、そこに穏やかな声で仲裁する万葉の姿があった。
「まあまあ。何はともあれ、上手くバトンを引き継いだのであるから、拙者らも配達に尽力するとしよう。バイト代だって出るのだから、相応の働きはせねば」
「ふふ、そうだね」
万葉と平蔵がバイクに乗って先に配達に出発するのを見送ると、笠っちはあちら側と連絡を取っている空と重雲に向けてつんと唇を尖らせた。
「僕は納得いかないけどね。いくら何でも回りくどすぎる」
笠っちがそう口にするのも無理はないと空と重雲は顔を見合わせて苦笑を零す。魈が珠蓮の大会に来れない事情が伝わるや否や、あらゆる有識者として信頼を集める鍾離が魈のバイト先に空き時間でも対応可能な短期バイトを募集できるシステムの導入を勧め、その説得に成功すると待ってましたとばかりに璃月の豪商たちが参入する七星商会が動き、あれよあれよという間に本来ならば開通までもっとかかるはずの時間を大幅に短縮し、今回の短期バイトとして空達が応募し、魈のシフトをカットしたというのが真相である。
笠っちとしてはそんなにも動かせる金と権力が備わっているのであれば、もっと取れる手段は多かったはずであるし、魈が珠蓮の大事な大会の日に大雨の中苦労することも、珠蓮が魈の訪れを諦める必要もなかったのではないかといいたいのだろう。あれで優しいところのある笠っちらしい苦言であった。
「ごめんごめん。でも、始めから目の前の石ころを拾って片づけて歩いてもらうのと、石垣を自力で渡ろうとするのとでは大分意味合いは変わってくると思うんだ」
「は……?」
「つまり……鍾離先生たちは可愛い子には旅をさせよ、って思いだったんじゃないかな」
なんて、俺にも分からないけど、と頭を搔きながら苦笑する空に対し、笠っちの口は僅かに開いたままだった。開いた口が塞がらないとはこのことだろうか。そして、一瞬折り合いの悪い母親の姿が浮かんだのは何故なのか。
笠っちはそれらを一気に振り払うようにつば広帽子を下げて、それから吐き捨てるように口にした。
「バッッカじゃないの」
いい迷惑だっての、と心の中で口にしたのはきっと母親に思うところがあるからだろう。その思いは複雑で、憎いだけじゃないのも本当は笠っちだって分かっていた。
そのまま勢いよくバイクを発車させて去っていく笠っちの姿を空と重雲が見守ると、二人揃ってやはり苦笑を浮かべたのだった。
「あ……雨、止んだね」
「本当だ……」
雨が止んで、雲間から光が差し込む。キラキラと僅かに水溜まりが反射した。
振り回される側の苦労はよく分かる。それが嫌ではないことも二人はよく分かっていた。そして喜んで一人の少女に振り回されているだろう彼のことが浮かんで、自然と笑みが込み上げてくる。
「さて、頑張ろっか!」
「ああ!」
晴れ晴れしい気持ちだった。友のために、妹のために、叔母のために。そうやってする苦労は新鮮で、彼らは軽い足取りで山積みになった荷物に挑むのだった――。
バイトで把握したショートカットを駆使し、最短ルートで会場へと向かっていた魈はすぐに会場に到着した。到着して会場に踏み入れる途中、魈にピンチが訪れた。ずぶ濡れであることを理由に入場を断られてしまったのだ。タオルを渡されたものの、着替えもバイト先に置いてきているためどうしたものかと焦りが生じる中、彼に声がかかった。
「魈さん? 何でまだここにいるの……?」
「……刻晴?」
怪訝そうに声を掛けた刻晴は焦りのようなものを抱いていたが、すぐに魈の姿から状況を把握し、その手を取ると強引に魈を引っ張った。
「こっちに来て!」
「お、おい」
「早く! じゃないと間に合わなくなっちゃう!」
全速力だろうなかなかのスピードで駆ける刻晴に魈も合わせて着いて行く。刻晴は珠蓮をよく気に掛けている高等部の生徒で、昨年までは同じ新体操部の人間だった。珠蓮からも名前を聞くことは多く、魈とはあまり面識はなかったものの、珠蓮のために協力してくれているのは伝わったため、魈は大人しく刻晴の言う通りにした。
「着替えならここにサイズは揃ってるからそれから選んでください。ドライヤーもここに。15分後には珠蓮の番なのでなるべく早くにお願いしますね」
「ああ、ありがとう」
「いえ……あの子、あなたに優勝トロフィーを持って帰るんだって言ってましたけど……ずっと気にしてたから……あなたが来てくれたって知ったら、すごく喜ぶと思います。あなたが来てくれて本当によかった」
心底安堵したように笑う刻晴は本当にいい先輩なのだろう。どこかぼんやりとしたようにおっとりしている珠蓮の世話をあれやこれやと焼いて、まるで妹のように可愛がってくれたというのだから珠蓮が刻晴を信頼しているのも必然であった。
扉を閉めて刻晴が出て行くのと同時、着替えを済ませて髪を乾かす魈の心は逸るものと同じくらい、温かいもので満たされていた。
粗方髪が渇くと、魈は扉の外で待っていた刻晴と合流し、会場へと急いだ。アナウンスが鳴り響き、璃月の舞姫の出番が知らされると騒めく喧騒に急かされるように足を進める。魈が勢いよく会場の扉を開けたのと、珠蓮の演技が始まるのは同時だった。
「――魈」
扉の音に何かの予感がした。不意にそちらへと顔を上げれば、そこにはいるはずのない、いて欲しかった人の姿があって、紫珠の双眸が驚きに大きく見開かれる。息を切らしながらも珠蓮を真っ直ぐ見つめる魈が幻ではないかと疑うほど信じられなくて、まるで夢をみているようだった。
「どうしました? 88番、演技を始めてください」
「あっ……は、はい!」
審判に急かされて珠蓮が位置に着く。その間もちらちらと魈の方を伺うので、刻晴や甘雨らはどうにも可愛くてたまらなかった。演技が始まる直前、珠蓮の視線が向かう先もやはり魈の方だった。魈はそれに対して安心させるように僅かに表情を緩めるとその声が届かぬと分かっていながらも「頑張れ」と口にした。物理的に届かぬ距離ながらも、珠蓮はそれを感じ取ったのだろう。嬉しそうに破顔した彼女はしっかりと「うんっ」と頷いたのだった。
音楽が流れだす。珠蓮の気に入りの、魈と共に幾度となく聞いては口遊んできたあの優しい風の音のような旋律が。笛の音を主旋律として奏でるこの音楽は新体操の選曲として珍しいものであったが、その技巧と音色が織りなす演技は誰よりも目を惹くものだった。
誰も彼もが少女に魅入られたように呼吸すらも忘れて釘付けになっている。繊細な技が繰り出される度、しなやかな体躯が伸ばされる度に、少女はまた一歩、また一歩と演技の中で進化していく。今にも手折れそうな可憐を傍らに、激流のような厳かさを共存させ、彼女の高貴を何より雄弁に語るこの演技こそが璃月の舞姫たる神髄であった。
奏でられる旋律が終わりを迎え、会場の中心で優雅に佇む少女に魅入ったままでいた審判が、はっと息を飲んでそれから割れんばかりの拍手を送った。
「ブラボー!! ブラーボ!!」
「Amazing!!」
立ち上がり珠蓮を賞賛する声が広がる。その中にはあの白鷺の姫君の姿もあり、その表情は悔しさよりも新たな感動が全面に現れていた。順風満帆であった圧倒的に優れた者が初めて当たった障害。その壁がこれほどの高さで立ちふさがったことに、綾華は感動すら覚えていたのだろう。対等に戦える、お互いを励みに出来る。その環境こそ彼女が求めていたものに違いなかった。
「おめでとうございます……! 珠蓮さん、私もう……この感動をなんて言ったらいいか……!」
「あ、綾華さん……」
弾けるように駆けて抱き着いてきた綾華に対し、珠蓮は困惑を隠せなかったが、感動に涙さえ浮かべる綾華に珠蓮は何かを察してその背中に優しく手を回した。
「次は負けません……きっと、今日のあなたより成長してみせますから……だからどうか、あなたもそうなさってください」
「……ええ。次もあなたに勝てるように。きっとそうします。だから安心してここで待っていてください」
「――はいっ! 約束です、珠蓮さん」
「――約束します。綾華さん」
約束の握手の代わりに交わした抱擁は、彼女たちを好敵手へと押し上げていく。さよならの代わりに約束を。来年もまたここで、最高の演技をしようと今日の悔しさと感動と、晴れ晴れしさを抱いて。
優勝トロフィーと一緒にお立ち台での撮影が終わると、珠蓮はすぐに駆けだし、魈の方へと向かった。近づいていく距離に魈が何かを言う間すらなく、反射的に飛び込んできた珠蓮を抱きとめるので精一杯だった。
「ばかばか! 魈のばか! 来れないって言ってたのに……!」
肝心の優勝トロフィーすら邪魔そうに持ちながら、魈の首筋に擦り寄るようにそう詰る珠蓮の声は甘えたような響きが込められており、魈はそれに苦笑が隠せなかった。
「来れるか分からなかった。お前に無暗な期待を抱かせたくなかったのだ」
「でも来たわ。ねぇ、本当……来れないって思ってたの。聞き分けたつもりだったのよ、ちゃんとそのつもりだったのに、魈に優勝トロフィーを持って帰るって……ねぇ、でもこんなに嬉しいの……私悪い子?」
伺うように見上げてくるその双眸が不安げに潤んでいるのを見て、魈はそんな風に不安に思う必要などどこにもないとそっとその雫を指先で拭ってやった。
「まさか。こうして全てをお前は手に入れてみせたのだ。そんなわけがないだろう」
「……ばかって言ってごめんね。怒ってる? 傷ついた?」
「それこそ今更だ。お前のそれは、我には甘えているようにしか聞こえない」
穏やかな声で気にするなとばかりにそう言われると、珠蓮はますます瞳を潤ませ、ぎゅうっと抱き着いた。「大好きよ」とほんの少し掠れた声で告げられた好意に、魈も僅かに表情を緩ませ「ああ」と頷くのだった。
大会が終わった後、魈は約束通りあの時間に合うよう協力してくれた友人たちにりんごジュースを奢り、ちょっとしたパーティを過ごした後、珠蓮と共にあのクレープ屋に再び訪れていた。
期間限定の杏仁豆腐クレープが今日で最後だというのだから、食べ納めに来たのだった。
「それでお友達はなんて?」
「お前が作ってくれたアップルパイは好評だったが……肝心なお前を連れてこなかったことにぼやかれた」
「私?」
「ああ」
不思議そうに首を傾げる珠蓮に頷くと、魈はウェンティらに揶揄われたのを思い出す。璃月の舞姫を見たかったといわれた際には気が利かなかったなと思ったものだが、その主な理由が愛しの彼女だの、宝物だのと出て来ると流石の魈もこれは揶揄われていると理解したものだ。
けれどもその揶揄いの中にも背中を押すようなものがあったことも魈にはしっかりと伝わっている。恋人でこそないものの、魈にとって珠蓮は間違いなく宝物と言って遜色がなかった。
「魈のお友達って、私ちゃんと会ったことあるの空さんだけかも」
「蛍という繋がりもあるからな。会いたいのか?」
「うん」
こくりとすぐに頷いた珠蓮に魈はそんなに興味があったのかと驚くも、その理由は至極珠蓮らしいものだった。
「魈が大会に間に合うように頑張ってくれた人たちなんでしょう? いつか直接お礼を言えたらいいなって思うの」
「珠蓮……」
「だからいつか会わせてね。魈のことこれからもよろしくお願いしますって言わなくちゃ」
ころころと鈴が転がるような声で笑うこの無垢な少女は、以前魈が胡桃に珠蓮のことを頼んだ時の真似事をしようとしているのだろう。ほんの少しだけ背伸びをするような仕草が愛らしく、魈もつられて表情が柔らかくなるのを感じた。
「……そうか。ならば今度機会を設けよう」
「ほんと?」
「ああ。前々からお前と会わせろと言われていたからな。ちょうどいい」
ほぼ彼女だとネタにされているのは少々困りどころではあるものの、それを気にするような珠蓮でもないだろう。嬉しそうに笑う珠蓮を眩し気に見つめていると、彼女の視線が魈の杏仁豆腐が消え去ったクレープへと向いた。
「魈、交換して」
「? 杏仁豆腐はほぼないぞ。下の方ならまだあるだろうが……」
「私そっちがいい」
ちょうだいと強引に変えられたクレープは、見てみればまだ杏仁豆腐が大分残っている。一口一口が小さい珠蓮らしく、ちまちまとスプーンですくった跡があるだけのそれは、買った時とそう変わりがなかった。
「はむ……おいしい」
「……」
満足げに魈のものだったクレープの生地に小さく齧り付く珠蓮に魈は微妙な表情を浮かべる。大好きな杏仁豆腐はいいのかという疑問はあれど、先程よりも随分と美味しそうに食べるため、何と言っていいのかすら分からなかった。
「来年ね」
「ん?」
「大会の日は来てほしいけど……来なくてもいいよ」
ちまちまとクレープを口にしてはもぐもぐと咀嚼する姿を見守っていると、そんなことを言われて魈は僅かに困惑した。こくりと飲み込んだ珠蓮が上目でちらりと魈を伺うように見つめる。
「だってね、魈がいなくちゃ勝てないのは、よくないと思うの」
「……我が?」
「うん」
小さく頷く珠蓮の表情は真面目なもので、ちっとも冗談を口にしているようには見えない。元より冗談に対してはあまり耐性のない子であるから、冗談なはずもなかったが、それでもその理論は魈には少しよく分からないものだった。
「魈がいるってわかった時、すっごく嬉しくて……何かね、パワーが湧いてきたっていうか……気づけばすっごくいい演技ができてたから……魈がいるといないとじゃ、私すごく変わっちゃう……」
どうしよう、とでもいうようにしゅんと項垂れる珠蓮の姿に、魈は何かが込み上げてくるようなものを感じた。愛らしさや愛しさにも似たそれを何と例えるべきなのか、魈は分からなかったが、珠蓮の口端に小さくついた生クリームを指先で拭ってやるとわりとすんなりと言葉が出てきた。
「我がいなくとも……お前なら同じくらいいいものを仕上げられるはずだ」
「……ほんと?」
「ああ。けれど……そうだな。これは我の個人的な願望だが……我もお前の演技をこれからも見ていたいと思う。一度も逃したくないと思うほど……我はお前を――見ていたい」
離れがたく柔からな頬に触れたままの指先がそっと撫でるように動く。珠蓮はそれを嫌がる様子もなく、むしろその手に擦り寄るような素振りをみせては微笑むので、魈はその瞬間全てを許された気がした。
きっと次の大会でも、同じようなトラブルが起きれば魈は同じ選択をする。何かを捨てて駆けつけても、その後に珠蓮が魈にその選択をさせてしまったことを気に病むだろうことを魈も分かっているから。
魈らしく、魈の正義を大事にすること。それが珠蓮が笑ってくれる未来に繋がっていると今ならあの時漠然と感じた不安を理解できた。
「じゃあ……やっぱり来て。一回も来れなくなっちゃだめだよ。全部来てね。私、全部勝ってみせるから。絶対よ」
「ああ。約束だ」
「うんっ、約束」
そうやって交わした約束は当然のように実を結ぶだろう。どんな障害が壁となって立ち塞がろうとも、今回のようにきっと乗り越えられるだろうから。
無論、そこには多くの人々の助けがあるのも忘れてはいけない。共にあること。それが当然ではないことを二人はよく分かっている。当然でないからこそ、当然であれるように人は足掻くのだ。
『千年の試練、君の一笑に及ばず』
かつてどこかの世界、どこかの国で、どこかの時代にそう詠んだ美しい仙人がいた。
美しくも悲しいその儚い物語が時を経てどこかの世界で続きを描き始めたのならば、それは素敵な物語であるべきだ。二千年にも及ぶ試練がたった一人の愛しい者の笑みで満たされることを知る少女は、きっと今もほんの些細なことで幸せを見出しては笑っているはずなのだから。
「魈、やっぱりそっちをちょうだい」
「!? もう皮だけだぞ……」
「それがいいの」
はむっと噛り付いては花が咲いたように笑う少女に魈は新たな気づきを得る。
(ああ、そうか……お前は……我のために……)
小麦粉を焼いた生地はどうも昔から苦手だ。ケーキなどのスポンジならまだしも、クレープは正直あんまりだ。杏仁豆腐がまだ残ったクレープが手元に戻って、ほとんど皮だけになったクレープをもぐもぐと美味しそうに頬張るその様子に、魈は胸が温かいもので満たされるのを感じるのだった。
きっと明日も明後日も、珠蓮と一緒に時を過ごすのだろう。当たり前に。ずっと。
それこそが己が望んでいることであることを魈は知っている。手放したくないのは己の方なのだと、優しく頬を撫でる風にそっと言の葉を乗せた。
「 」
風に攫われたその声に珠蓮が不思議そうに首を傾げた。
「魈、何か言った?」
「――何も」
しまっておこうと思うのだ。この想いを、魈は。いつか少女が望んでくれることがあれば応えたいと思う。そうでなければしまっておこうと。
幸せになってくれと魈は心の底から希う。それが譬え、自分の隣りではなかったとしても。
珠蓮が元気で幸せでいること。これ以上魈が望むものはどこにもないのだった。