笛音は清月に寄り添いて

 清笛の音が耳を掠める。身の内で渦巻く業障が静かに鎮まっていくのを感じた。荻花の月が明るく帰離を照らす。見上げたその月に、かつて共に時を過ごした彼女の顔が浮かんだ。
 彼女は今どうしているのだろうか。あの美しい都は未だに沈黙したまま、その時をあの頃のまま止めている。彼女は使命を果たしたのだろうか。千年に及ぶ試練が、今も続いているのかすら定かではない。彼女は今どうしているだろう。その問いの答えを持つ者など、どこにもいないのかもしれない。
 月が美しかった。璃月はどこも美しいまま、時を刻んでいる。散っていった仲間たちの魂は、帰る場所を見つけられただろうか。『夜叉の魂に帰る場所はない』と口にした伐難の言葉だけが気がかりだった。彼らは安寧を得られたのだろうか。そうだったらいいと思う。
 そんなことを思っていたからだろうか。不思議な気配を辿って、寂れた洞天へと入り込めば、そこはかつて隆盛した彼女の都がそのままに再現されていた。千年前と寸分変わらず、白木蓮は誇らしげに咲き誇り、雪化粧が彩りを添える。彼女の愛した彼女の子どもたちが、賑やかにひしめき合っていた。

「魈」

 息を飲む。記憶の中のそれと変わらず、柔らかな声だった。振り返るのに僅かな躊躇いがあった。幻だと知っていたからだ。けれど、その声を振り払うこともできなかった。

「華瑛……」

 振り返れば、そこには美しい人がいた。羞月閉花の君。如何にも華に勝る美しさ。珠玉のように欠けたるところもなく、月すらも彼女の前では隠れたる。その名に惜しまぬ賛美を集約した、紫朧洛の至宝。華瑛蔽月真君その人だった。

「華瑛じゃなくて、珠蓮って呼んでって言ってるのに……魈ったら、また聞いてくれないのね?」

 その声も、その表情も、その仕草すらも。彼女に違いなかった。拗ねたように唇を尖らせ、呼んでくれと指先で胸を突く。幼い仕草が、ああ、彼女だと強く感じさせた。
――幻だ。そんなことは分かりきっている。ここにいる彼女は、彼女ではないのだ。

「こっちよ」

 それでも、腕を引く手を我は振り払えはしなかった。罠だと疑う心は片隅に。それでも、よくできた幻であったとしても、この邂逅を我はどこかで望んでいたのかもしれない。
 絶えず華めく都が懐かしかった。彼女と歩く見慣れた道筋。何もかもが懐かしく、千年前の光景であるというのに、昨日のことのように記憶に新しい。彼女を呼び慕う民の顔ですら、よく憶えていた。
 不意に前を歩く彼女が振り返る。ふわりと靡く袖と髪が、甘い香りを軽やかに運んで、また一つと記憶を呼び覚ました。

「難しいお顔。私に会えて嬉しくなかった?」
「……」
「……私は嬉しかったのに」

 萎んだ花のような表情に反射的に手を伸ばす。そんな顔をしないでくれと口をついて出そうなのを喉奥へと押し込めた。

「魈……難しいことは考えないで。今目の前にあるものを大事にして」
「……それは……」
「……お願い」

 何もかもが彼女と変わらない。甘やかにねだるような声も、指先を絡めとるその小さな仕草すらも。違うのは、清笛の奏でる音色だけ。失くしたはずの愛しい時間に再び息吹が吹き込まれるように、彼女はもう一度「お願い」だと口にした。

「……わかった。お前がそう願うのであれば……そうしよう」

 珠蓮、と零れ出た声に懐かしさが募る。もう千年と久しくその名を口にしていなかった気がする。雪が降り積もるように溢れ出てくる感情に何と名前をつけようか、悩んだ日々が懐かしい。
 名前を呼ぶ。たったそれだけのことに笑うお前に、我はどうしようもなく、ただ惹かれていたのだと知るには、あまりにも遅すぎた。








「魈、見て。小川にお魚が流れているわ。きらきらして綺麗ね。ねぇ、魈もそう思うでしょう?」

 陽の光を受けた小魚がぱしゃりと跳ねた。たったそれだけのことが面白いのか、くすくすと彼女は笑い声を上げる。相変わらずよく笑うことだ。鈴の音が転がるように、耳に馴染むその声が我は不快ではなかった。

「子どもたちがね、私がお魚が好きだからって、綺麗なお魚をよく獲ってきて見せてくれるの。綺麗ねって言ったらね、今度は虹の色を衣にして、纏ったような……そんな珍しいお魚を手に入れて見せてくれたの。本当に、綺麗だったわ。魈にも見せてあげたいな」

 小川の魚を眺めるその横顔はつい最近のことを話すような語り口だが、それが実際には数年、数十年という凡人にとってはそれなりの月日を重ねた上での話であるのだと、我は知っていた。
 よく覚えている。彼女に特に懐いていた男だろう。彼女の気を引こうと必死で、我を敵視していた凡人だ。この都で生きる凡人が彼女に懸想するのは自然なことだったが、成長するにつれ、その多くの恋は美しい思い出に変わるものだ。けれど、あれの恋は成長してなお、絶えず燃え盛る炎のように。続いているのがよく伺えた。

「我に見せるために仕入れたものではないだろう。気を悪くするのではないか」
「そぉ? せっかく綺麗に生まれてきたのだから、たくさんの人に見てもらった方が素敵だと思うけれど……そうなのかしら? そういうことは、よく分からないわ」

 川のせせらぎに彼女の声が静かに溶けていくようだった。相変わらず残酷な女だと思う。彼女のためだけに与えられたそれを、彼女は惜しみなく他人と分け合ってしまう。知らないのだ、何も。自身に向けられるその感情が特別なものだということを、彼女は何も分かっていない。

「綺麗な笛の音ね」
「……お前にも聞こえるのか」
「ええ。聞こえるわ。この笛の音が……私を……」

 続くはずの言葉は不自然に途切れる。静かに目を伏せた彼女の瞳が再び開く頃には、僅かに垣間見たはずの憂いはどこにもなかった。

「せっかくだもの。一緒にこの笛の音に合わせて踊りましょう」
「……踊り方など我は知らない。知っているのは殺戮のためのそれでしかない」
「舞い方には何も特別なことはないわ。大切なのは、何のために踊るのか……その理由だけよ」

 まるで諭すように柔らかな手が我の手を握った。いつも彼女はこうだった。知らないことばかりで、飽きもせず我にあれは何だこれは何だと問いかけながら、時折達観した一面を覗かせる。嫋やかな手の感触も、花弁が柔らかく綻ぶようなその微笑みにも、我は確かに救われていた。

「下手だと言っても知らないぞ」
「言わないわ、そんなこと。だって私、魈の踊りがとても好きなのだもの」

 それは知らなかった。そうか、お前はあんなものを好んでいてくれたのか。血と埃に塗れてばかりのそれを好きだというのはお前くらいだろうに。本当に変わった奴だ。

「お前の方が余程美しいだろうに」
「気持ちは同じなのよ。璃月を護る為、舞うあなたは素敵だわ。本当に、素敵なの。素敵なのよ」

 そのように言われると落ち着かない。柔らかな、ふわふわとした微笑みが我の胸を騒つかせる。昇る熱を誤魔化すように視線を逸らせば、彼女の小さな笑い声が鼓膜を擽った。
 笛の音に合わせ、彼女の鈴の音のような声と共に、裾が広がり、波を打つ。こんな感じでいいのだろうかと思いながら踊る最中も、自然と彼女に目を惹かれた。美しいと思う。この世の何より、おそらく彼女は美しいのだ。こうも彼女に惹かれてやまないのは、彼女が美しいからなのか。それとも他に理由があるのか。ただ、この時があまりにも美しく、夢のようで……覚めてしまうのが、酷く辛いと感じてしまった。

「悲しいお顔……泣いてるの?」
「泣いてなどいない……ただ、これが幻なのが惜しいと感じただけだ」
「いつかは覚めなきゃいけない。でも、この幻も嘘じゃないわ」

――泣かないで。大丈夫よ、泣かないで……魈。

 泣いてなどいないと言っているのに、彼女はそんなことを言う。我が泣いているように彼女には見えているのか? そうだとしたら、我はどうすればいい? 悲しくないとどうして言えるだろう。この幻が夢のように美しく、あの頃を彩れば彩るほど、お前が恋しいと感じてしまう。取り繕うことすら出来ず、我はお前に未練を残したままだ。

「……醒めてしまえば、お前のいない世界を……暗いと感じてしまうだろう」

 魈、と心配げな声が彼女から零れ落ちる。わかっている。わかっているのだ。必ずそうしなければならないことも。そうあるべきなのも。けれど、たとえ幻でもお前に逢えたことがこんなにも、我は……。

「でも……出ていくんでしょう? あなたは、璃月を放っておかない」
「――ああ」

 このままずっとお前と共にはいれない。たとえお前が、幻でなかったとしても。そうは出来ない。すまないと謝る我に、彼女は眉を下げて首を振った。

「謝らないで。そんな魈が私は大好きよ」
「珠蓮……」
「会えてよかった。あなたがそうやって変わらないでいてくれるから……私もまた、頑張れるわ」

 その言葉に妙な引っ掛かりを覚えると同時、彼女が我の手を取ってくるりと回る。不意に近づいた身体は触れ合いそうで、彼女の吸い込まれそうな瞳がすぐそこにあった。

「しゅ、れ……」

 彼女を形作る最後の音は、柔らかな唇に飲まれた。その感触が懐かしく、我は咎めることすら忘れて、その余韻に呆けてしまった。香る清廉な匂いに、馴染み深い力の波動。その時になって、我は目の前の彼女がただの幻ではないことに気づいた。

「お前は……本物、なのか……?」
「……気づくのが遅いわ。魈ったら、本当に……私のことが、大好きね」

 拗ねたとも、しょうがないとでも言いたげな口ぶりだった。記憶の中の彼女とどうりで重なるはずだ。本人であるのだから、間違いなどあるはずもなかったのだ。

「何故ここに……お前は……無事なのか? 紫朧洛はどうなった」

 我の問いに珠蓮は沈黙したまま何も答えようとはしなかった。何か言えない理由があったのか、言いたくなかったのか、それはわからない。何も言わず静かに微笑むだけで、珠蓮は笛の音を聞き入るようにただ耳を傾けていた。

「優しい笛の音が聴こえてきて、私をここに呼んでくれたの。私は私だけれど、魈が思っている通り、この身体も、この光景も、すべてが幻よ」

 珠蓮の双眸は幻である紫朧洛に向いていた。しっかりとその美しさを目に焼き付けるように、暫く沈黙すると、改めて決意を固めたような眼差しで我へと視線を戻した。

「私、きっと、きっとやり遂げてみせるわ。この美しい都の守り神として。きっと必ず、報いてみせるわ」

 それは未だに珠蓮に与えられた試練が道半ばであることを意味していた。千年、千年経っても、珠蓮の苦難は終わっていない。我は酷い顔をしていたのだろう。珠蓮の指先が我の目元を掠める。流してなどいないはずの涙を拭うような仕草だった。

「だから、待ってて。必ずまた、私たちは出逢えるから」
「……それがお前の願いなのか?」
「ええ」

 助けてくれとは言わないのだな、と、その選択が珠蓮らしいと感じると同時に、虚しさが募った。そういう甘え方をしたことなど、一度もなかった。珠蓮は……華瑛蔽月真君は、そういう奴だった。

「わかった。お前を……我は待っている」
「――うん」

 笛の音が段々と小さくなっていく。それがこの邂逅の終わりを告げているのを、お互いがよく理解していた。
 珠蓮が我の背に腕を回し、力を籠めるのを我は拒まない代わりに、そっとその背に手を重ねた。

「大好きよ、魈。夢の中でもいいから、私のことをたまには思い出してね」
「……ああ。きっとそうする」

 お前が口にする好意とは我の好意は違うかもしれないが。だが、夢でもいいと、お前に会いたいと思うのは、きっと同じだった。
 笛の音が終わる。眩い光に包まれて、次に目を開けた時には、洞天は跡形もなく消えていた。あれは夢だったのだろうかと思うと同時、唇から伝わる確かな彼女の残り香に、胸の奥が揺さぶられた。
 きっとまた、再会する時が来る。そう約束した。その約束がまた、我を生かすのだろう。いつかまた、お前に会うために。その時まで、今は暫しの別れとしよう。
 あの美しい都で、あの美しい夢の続きを共に描けるように。