明霄、海に昇りて、華は舞う

 ――――海灯祭。それは、一年の最初の満月に璃月で行われる伝統的な祭りである。
これは璃月のために戦った英雄たちを祀るための祭典であり、人々は夜になると霄灯≠ニ明霄の灯≠夜空に放つのだ。
その灯りには「薪が尽きても火は伝わるように、美徳は永遠に消えない」という意味が含められている。人々は夜の海に輝く灯火が、英雄たちの魂を故郷に導いてくれると信じ、この祭りを続けていた。
 此度の祭りは、岩王帝君が逝去して初めて開かれる海灯祭ということもあり、璃月七星と総務司から、岩王帝君と関わりの深かった珠蓮にある提案がなされていた。

「……海灯祭で剣舞を……ですか?」

 普段紫朧洛にいることが多い母が、璃月港にある往生堂にまで珠蓮を尋ねて来たことに対し、珠蓮は海灯祭のついでに寄ったのだろうと考えていたが、どうやら違うらしい。新月幹で食事をとる傍ら、そんな提案がなされたことに珠蓮は小首を傾げた。

「ええ。縁あってこの数年、あなたは帝君の下で過ごし、あらゆる面で造詣を深めた。あなたは人間の両親から生まれた子だけれど、その実態は神獣玄武の血を色濃く受け継いだ先祖返りに他ならない。大恩ある帝君に報いると思って、どうか一肌脱いではくれないかしら」

 珠艶が羽のように軽やかに紡いだ言の葉は、珠蓮の胸に羽よりも幾分か重く圧し掛った。岩王帝君が逝去してからそれほど時は経ておらず、人々は璃月七星指導の下、神が治める国から人の国へと変わりつつある。
帝君が本当に死を迎えたのかは、七星や仙人など極一部が知る事実であったが、そんなことを知る由もない民たちは帝君と共に歩んできた歴史に寂寞を感じる者も多かった。
 ――珠蓮は、紫朧洛の至宝として、岩王帝君と父の交わした契約に基づき、帝君に献上された姫である。それは公然の秘密であると同時に『紫珠に剣を以て舞わすば、右に出る者無し』と称されるほどの舞手であった。
岩王帝君殺害の報で混乱する中、自ら往生堂へと足を運び、その手づから送仙儀式を執り行った彼女が璃月の英雄たちを称える海灯祭で舞を奉納するのであれば、民の心は少なからず憂いが晴れ、亡き帝君も喜色を浮かべるだろうという思惑である。
人々が認識する美しい物語と、真実の差がどうであれ、珠蓮にはこれを断る理由も特になく、頷き引き受けることにした。

「分かりました。帝君方によいものをお見せできるよう、一層磨いておくことに致しましょう」
「引き受けてくれて嬉しいわ。では、そのようにお願いね」

 その答えを珠艶は分かりきっていたように微笑むと、茶器に浮かぶ芳醇な香りを楽しみつつ、その茶の濃厚な甘みを味わうように口付け、嚥下する。

「せっかくだもの。璃月の舞姫に相応しい衣装をこちらできちんと用意しましょうね」

 どこか弾んだ声で珠艶がそう口にすると、珠蓮は目に見えて狼狽えた。

「お、お母様……その称号はあまりにも大袈裟です……私には過ぎたものですので、どうか滅多なことは仰られませんよう……」

 恐縮して小さくなる珠蓮の姿に、珠艶はあらまぁ、と言いたげに口元に指先を当てると、相変わらず生真面目な娘を理解するように頷いて了承する。

「留雲借風真君に弟子入りしても、あなたの性格は変わりそうにないわね。もちろん、お母様はそれも珠蓮ちゃんの美徳だと思うけれど。ええ、もちろん。あなたがそう言うのであれば、母はしっかりとこれを胸にしまっておきましょうね」
「…………はい」

 ころころと淑やかに、どこか少女のように可憐に笑う母に、珠蓮は本当に分かってもらえたのか一抹の不安を抱きつつも、素直に首を小さく縦に振る。それが一層珠艶を快くさせ、連日に渡る商会や揺光ヤオファンの業務による疲れが、まるで朝日に当たる新雪のように溶けていくようだった。

「昔から珠蓮ちゃんを着飾るのはお母様の趣味だもの。海灯祭の楽しみがまた一つ増えたわ。当日が待ち遠しいわね」

 帝君に献上される以前、珠艶は毎日珠蓮を煌びやかに飾り立てていた。珠蓮は大人しくそれに付き合い、その後に剣を手に舞を踊るのが日課であった。
当初は夫が珠蓮に剣を持たせたことに憤慨していた珠艶だったが、何事にも然程関心を持たなかった珠蓮が熱心に舞を学んでいると知ると、次第に寛容になり、彼女の趣味も珠蓮の舞に合わせたものへと変わっていったのだった。
その優しい懐かしさに、まるで咲き始めの柔らかな花びらが、ぽたりと落ちた朝露を受けて綻ぶように珠蓮かんばせを彩る。

「……はい。お母様たちにも楽しんでいただけるよう、精一杯励ませていただきます」

 神が治める国から、人の国へと移り変わろうとも、仙人たちが璃月を見守っていることに変わりはない。人でもなければ、神とも言えないと悩んだ珠蓮が仙人になる道を選ぼうと、人々との関りがなくなるわけもないのだ。
岩王帝君が消えた初めての海灯祭には、様々な意味が込められている。その思いを少しでも遠くの灯りへと運べるよう、珠蓮も剣に磨きをかけるのだった。











 海灯祭で舞を披露すると決まってからというものの、街が活気づいて行くのと比例するように、珠蓮は多忙を極めた。
恩師であり、師範≠ニ仰ぐ鍾離の身の回りに細やかな気を配るのはもちろん。新たに弟子入りすることとなった留雲借風真君の下、仙力について学ぶことも多く、往生堂のある璃月港と真君が住まう奥蔵山の往復だけでも骨を折るところだが、加えて衣装の関係で紫朧洛へと向かうことも少なくなく、珠蓮が人ならざる存在でなければ、今頃海灯祭どころではなかっただろう。
それを知ってか知らずか、少しでも暇ができるや否や、珠蓮は寝る間も惜しみ、舞の練習に励んでいた。

「――――――」

 溶けるような淡い光が差し込む部屋で、舞姫は焦がれるような切なさと、揺り籠の中で夢に揺蕩うような甘さを含ませた旋律を口遊みながら、たおやかな指先に留まるそれが身体の一部であるかのようにしなやかな軌道を描く。艶を帯びて流れる絹のような髪も、仙人の風格を表すふわりと舞う袖も、全てがそれらを一体として滑らかな音を奏でゆく。

「――――――」

 紫真珠の君、誰かがそう喩えた双眸が、静寂を彷徨い、儚げな憂いを帯びる。今にも崩れ、[[rb:手折>たお]]れそうな可憐を傍らに、激流のような厳かさを共にした剣光は、彼女の高貴さを雄弁に語った。

「――――――……」

 風花かざはなの旋律が終焉を迎えると同時に、その舞は帰結した。そっと剣を鞘に収め、僅かに息を吐くと、珠蓮の耳に温かな喝采が届いた。
驚いて音の鳴る方へと振り返ると、そこには珠蓮もよく知る人物の姿があった。

「いつ見てもあなたの舞は見事ね。いいものを見せてもらったわ」
「刻晴さん……」

 ――刻晴、それは璃月七星の一人であり、玉衡ユーヘンの称号を持つ人物である。岩王帝君が去って初めての海灯祭の準備中である今、普段以上に忙しくしているであろう彼女の訪れに珠蓮はやや困惑した表情を浮かべた。

「約束もないのに朝早くに訪ねたりしてごめんなさいね。でも、こうでもしないとあなたは捕まらないと思って」

 無作法に申し訳なさそうな顔をしつつも、刻晴は内心で無事に珠蓮に会えたことにほっと息を吐いた。

(ようやく会えた……本当に捕まらないんだから。璃月は人の力で生きていくと決めたのに、結局この子に頼って……。ただでさえこの子は振り回されてるんだから、これ以上この子に背負わせてばかりいるわけにはいかないわ。しっかりやるのよ、刻晴。大丈夫、シミュレーション通りやれば問題ないはずよ)

 そう静かに気合いを入れ直す刻晴は、最も神を敬わない人物として知られ、以前から契約の名の下に帝君に献上された珠蓮の境遇には同情的で、何かと珠蓮を気に掛け、世話を焼いていた。だが、ただでさえ多忙を極める刻晴が、この更に忙しい時期に自分を探していた様子に珠蓮は首を傾げた。

「何か急ぎの御用でしたか?」
「ええ、それはもう。最優先事項よ」
「最優先……? 申し訳ありません。そうとも知らず……ご足労をおかけしました」

 頭を下げ、畏まる珠蓮に、刻晴は短く首を振る。最優先事項という言葉に嘘はないが、業務連絡の類を伝えに来たわけではなかったのだ。

「いいのよ、気にしないで。私がここに来た目的は、あなたの時間を少しだけ分けて欲しかったからなの」
「私の時間を……ですか? それはかまいませんが……」

 不思議そうにしながらも、珠蓮から了承の返事が返って来たことに、刻晴は内心でほっと息を吐く。

「よかった。今からでも大丈夫? もちろん、他に用事があるのなら出直すわよ」
「大丈夫です。着替えて参りますので、刻晴さんは客間で少々お待ちください」
「ええ、分かったわ」

 珠蓮は華美な装飾が施された剣舞用の剣を刀掛け台にしまうと、使用人に刻晴をもてなすように伝え、足早に着替えに戻った。刻晴が案内された客間で、出された茶と菓子を嗜んでいると、すぐに珠蓮は戻って来た。

「お待たせしました」
「そんなに待ってないわ。お茶もお茶菓子もとても美味しかったから、もう少し遅れて来てもらってもいいくらいだったわ」

 随分急いだだろう珠蓮を気遣うように刻晴が口にすると、珠蓮はぱちりと紫珠の双眸を瞬かせ、常よりも幾分かふわりと雲のような声音で一つ提案した。

「それならば……いくつか包んでお渡ししても……?」
「えっ」

 刻晴は思ってもみなかった提案に一瞬戸惑いが浮かんだようだったが、すぐに合点がいった。珠蓮は謹厳実直、品行方正な人物であると同時に、幼くして帝君に献上されたためか、どこか浮世離れしたところがあり、度々お人好しなどと称されるほど純粋な心を持っていた。
今回も、刻晴が気に入ったのであれば、お土産に渡そうという善意と、けれどこういった贈り物は迷惑になるかもしれない、という不安からこのようなふわりとした言い方になったのだろうと、聡い刻晴は察したのだった。

(ねだったわけじゃなかったけど……せっかく珠蓮が気を遣ってくれてるんだし……断るのも返ってこの子を傷つけそうよね。それに、ここのお菓子は本当に美味しくて、見た目も綺麗だったわ。断る理由もないし……うん、ありがたく受け取ることにしましょう)

 迅速果断。一瞬で思考を固めた玉衡刻晴は、温かに頷いた。

「ええ、是非。ありがとう」
「いえ、お口に合ったのなら何よりです」

 刻晴の英断は珠蓮に柔らかな微笑みを齎し、未だ木枯らしに吹かれ、舞う草木の趣きを感じる気候の中でも、淡雪を溶かす日溜りが顔を覗かせたようだった。
そのまま二人は紫朧洛を後にすると、海灯祭で賑わう璃月港へと足を運んだ。












 璃月港は海灯祭中ということもあり、大きな賑わいを見せていた。
今年の明霄の灯は、移霄導天真君がモデルとなっており、海灯祭当日に飛ばせるよう、作業が進められていた。

「だんだんと形になってきたわね」
「はい。私が前に見た時は、あの方の荘厳な角は今の半分ほどだったように思います」

 明霄の灯を見つめる珠蓮の双眸が、海に反射する光を受け、綺羅りと輝く。その独特な瞳にはその荘厳な姿が映っていた。

「彼の方については、帝君からも、留雲真君からもよく聞き及んでおります。あの立派な角には帝君の力が込められており、それをとても誇りに思ってらしたそうです。ですが、激化する魔神戦争の中で、天衡山が崩れ落ち、麓にいる人々を守るため、真君はその角を折り、支えて下さったのだと。彼の方は最後の血の一滴が流れるまで戦い、その流れた血が今の碧水川なのだとか」

 現在の璃月の地形の多くは、かつての激しい戦いの名残を受けている。帝君が放った岩槍が風化し、孤雲閣が形成されたように、天衡山を支える移霄導天真君の角もまた、長い時を経て同化し、今や天衡山の一部と化していた。その角は主を失って久しくも、変わらず璃月を支えてくれている。

「あれほど立派な角ならば、真君たちもお喜びになられるでしょう。今度お会いしたときにこの明霄の灯についてお話ししようと思います。もっとも、私の拙い語彙では、この明霄の灯の素晴らしさの半分も伝わらぬやもしれませんが……」
「それならいい物があるわ。少し待ってて」
「? はい」

 刻晴はその場を離れ、顔見知りだろう総務司の者と何言かを話すと、すぐに戻って来たが、その手には見慣れない機械があった。

「これを使うといいわ」
「? これは……?」
「写真機よ。最近飛雲商会がフォンテーヌから仕入れてきたの。ボタンを押すとレンズに映ったものを記録することができるのよ。実際にやってみた方が分かりやすいわ。今から私があなたを撮るから、動かないでね」
「はい、わかりました」

 珠蓮は刻晴が構える写真機に不思議そうな表情を浮かべていたが、言われた通り動かずじっとしていた。刻晴がボタンを押すと、写真機から紙が出てきた。刻晴はその写りに満足すると、珠蓮にもそれを見せてくれた。

「! わ、私……?」
「そうよ。こうやってすぐに絵になって出て来ると思えばいいわ。これなら真君に話すときも伝わりやすいでしょう」

 実物と遜色のない映りに珠蓮は僅かに感嘆の声をあげる。百聞は一見に如かず。これならば留雲借風真君にも正確に伝わるだろうと、晴れ間が覗くようだった。

「刻晴さん……ありがとうございます」
「いいのよ、これくらい。帝君も仙人も、璃月のために尽くしてきてくれたのだもの。彼らの英知と勇猛を称える祭典なんだから、張り切らないとね」

 胸を張って、海灯祭に注力する刻晴に、珠蓮は少々、心に驚きが浮かび、はて、と小首を傾げた。

(……礼儀正しい方ではあるけれど、私の知る刻晴さんは、もっと……帝君や真君方に対して、大胆な面のある方だったような……?)

 最も神を敬わない人物、それが刻晴である。やや不遜ともいえる言動を、物怖じせず、直接帝君に伝えたこともあったくらいだ。
今や帝君のみならず、留雲借風真君に師事を受ける立場である自分に気を遣ったのだろうかと思いはしたが、珠蓮は気のせいや考えすぎかもしれないと、深く考えるのをやめるのだった。
 刻晴から借りた写真機を使い、移霄導天真君を模した明霄の灯を写すと、活気づいた声が耳に入った。

「さぁいらっしゃい! 璃月名物、おいしいおいしいチ虎魚焼きだよー!! 他にもエビのポテト包み揚げ、杏仁豆腐なんかもあるよーー!!」
「!」
(杏仁豆腐……)

 宣伝効果は実に覿面であった。二人はどちらともなく顔を見合わせると、お互い言いたいことを察したようだった。

「そ、そろそろ何か食べない? せっかく海灯祭に来たんだし、たまには屋台で食べるのもいいと思うのだけど……どうかしら?」
「私もそう思います。是非ご一緒させてください」
「よかった。それじゃあ、行ってみましょう」

 屋台の前に来ると、店主はまさか刻晴と珠蓮が来るとは思わなかったようで、慌てた様子で接客をした。

「これは、刻晴様に珠蓮様! お二人がおいでになられるとは思いもよりませんでした。お二人が普段口に為されている物には及ばないとは思いますが……何でもお頼みください。メニューにないものでも、誠心誠意心を込めてお作りしますので……!」

 玉衡刻晴と、紫朧洛の至宝――即ち、岩王帝君に献上された噂の姫である――の来店に、店主は緊張しながらも料理人としての腕を遺憾なく発揮しようと畏まる。その様子に刻晴が口を挟んだ。

「そうかしこまらずともいいわ。私も珠蓮も、プライベートで来てるから」
「はい。お祭りで活気づく中、港の風を感じながら食事をするのもいいものです。屋台は賑わいの食。それこそが趣であり、醍醐味というものでしょう。どうぞ、私たちにもいつも通りに接してください」

 些か屋台には不似合いにも見える高貴な少女たちは、席を取りて待ち、店主はそれに促され、気を持ち直したようだった。

「お二人がそうおっしゃるのなら……では、そのように。――いらっしゃいませ! 何をご注文で?」
「エビとポテトの包み揚げで」
「私はチ虎魚焼きを」
「それと杏仁豆腐も二つつけてもらえるかしら?」

 刻晴が付け加えた注文に珠蓮は僅かに反応するが、注文を過るのに気を遣ってか、口を挟むことはなかった。店主はしっかりと珠蓮たちの注文を聞き、確認した。

「へい! エビのポテトの包み揚げ、チ虎魚焼きに杏仁豆腐が二つですね。杏仁豆腐の方は食後で?」
「ええ、それでお願い」
「かしこまりました! 少々お待ちを」

 店主が注文したものを作り始めると、珠蓮は戸惑うように刻晴に尋ねた。

「あの……刻晴さん。先ほどの注文は……私のために……?」
「ううん、私もちょうど食べたいと思ってたのよ。私一人だけデザートを頼むのも気が引けるでしょう? あなたも甘い物は嫌いじゃなかったと思うし……迷惑だったかしら?」
「いえ! そのようなことは……! その……杏仁豆腐は好物なので、嬉しく思います」
「そう。それならよかったわ」

 柔らかな風に花びらを揺すられるように。ほわりとした空気を纏う珠蓮をちらりと横目で見た刻晴は、そっと口元を緩めた。
珠蓮を少なからず知る者は、彼女が修行中の身であるということを理由に、甘い物断ちをしているという話はよく知ったところであった。それと同時に、岩のような生真面目さの中にも、しなやかなに水の流れる道があることも、同じように知っていた。
こうして此度も、少しばかりの親切と心配りにより、珠蓮は甘味を知るのであった。

「珠蓮、あなたに渡したいものがあったの」
「? 何でしょう」
「これよ」

 食事も大体が終わり、杏仁豆腐の柔らかな甘さに舌鼓を打っていると、刻晴がある物を取り出し、そっと傍に並べた。その青く輝く石は珠蓮にも馴染みのあるもので、この海灯祭でも多く必要とされるものだった。

霞生石かせいせき、ですか?」
「ええ。まだ願い事を書いてないんじゃないかと思って、持ってきたの」

 海灯祭では明霄の灯を飛ばすのに、多くの浮上の石を必要とする。中でも貴重な浮上の石の一つが、この霞生石であった。璃月には、この浮上の石に願いを刻み、祝福を願うという習わしが存在しており、珠蓮も今まで習わし通り願いを刻んできたが、この石を前に、微妙な表情を浮かべるばかりであった。

「どうしたの? もしかして、もう書いた後だったかしら……?」
「……いえ。まだ書いてはいません。ただ……今までは帝君の健康を願っておりましたので、今年は何を願えばいいのか……あまり思いつかなくて……」

 まさか、帝君の送仙儀式から間もないというのに、鍾離の健康を堂々と願うわけにもいかないだろうと珠蓮は頭を悩ませる。その様子に、刻晴はとりあえずまだ願い事をする前であったことにほっと胸を撫で降ろした。

「今すぐに決めなくてもいいのよ。浮上の石を寄付する時間はまだあるもの。ゆっくり、あなたの新しい願い事を見つけたらいいと思うわ」
(新しい、願い事……)

 ――それで思い至るものは、一つだけ。朧げな輪郭が水面に浮かぶ。

『我のことは忘れろ。すべては泡沫の夢に過ぎず、我とお前の道が交わることもないだろう』

 悲哀と諦観を湛えた[[rb:黄金>こがね]]色の瞳が、背けるように儺面に隠れ、そのままその少年は蜃気楼のように消えていく。何度砂浜に文字を刻もうと、波が寄せては返し、打ち消すように。その名を呼ぼうとも、風の音がかき消すように。
珠蓮にとって彼は、そういうものであり、それこそが彼の望みであった。

「……そうですね。ゆっくり、考えることにします」

 曖昧な表情ながらも、珠蓮が頷くと、刻晴は帝君が没してからの移り変わりを思い、珠蓮を案じつつも大丈夫だろうと判断し、そっと席を立った。

「それじゃあ、そろそろ私は行くわね」
「え……」

 自分に用事があったのではないだろうかと珠蓮が不思議そうな目を向けると、刻晴はくすりと表情を和らげた。

「あなたも璃月の立派な仙人になるのだものね。こうして人と仙人の間を取り持ってくれるのはありがたいことだけど、あなた自身もお祭りを楽しむ立場にあるってことも忘れないでね。――海灯祭を盛り上げるために、一緒に頑張りましょう。珠蓮仙人?」
「……刻晴さん……」

 海灯祭で披露する剣舞の練習や、その準備。そして仙人として歩むと決めた以上、やるべきことが山積みの日々。その中で刻晴が自分を心配し、こうして息抜きの機会を設けてくれたことに、胸は温かくなるばかりだった。

「あ、でも尊命がつけられるんだったかしら。もう決まってるの?」
「いえ、それはまだ……でも、決まりましたら刻晴さんにもご報告に参らせていただきます」
「ええ、そうしてちょうだい。私も……その、あれから考えを改める機会があって、帝君たちが璃月のために尽くしてくれたこと、その偉大さも前よりずっと分かるようになったわ」

 どこか恥ずかしそうにそう語る刻晴の腰には、僅かに岩王帝君を模した小さなマスコットがついており、そのことに珠蓮は危うく声が出そうなほど驚いた。寸でのところで口元に指先を添え、声を抑えると、刻晴はこほんと一つ咳払いをした。

「それじゃあ、良き海灯祭を。困ったことがあったらいつでも私を頼ってね」
「はい、刻晴さんも……! ありがとうございました!」

 ひらりと手を振ってその場を後にする刻晴に、珠蓮は深々と頭を下げると、貰った霞生石に何を刻もうかと考えるのだった。










 幾度思考を巡らせても、珠蓮は霞生石に刻むべき願いを見出すことができずにいた。
立派な仙人になることや、先人に倣い、人々の役に立つことは、願いではなく目標に過ぎない。何かに願い叶えるものではなく、自身に誓い遂げるものだと結論付けた珠蓮は、天の力を借りて遂げる願いを持たなかった。
海灯祭も永遠に開催されるものではない。海灯祭当日が迫ってきたこともあり、珠蓮はしょうがなく、霞生石を無駄にせぬよう、願いを刻まぬまま、持って行くことにした。

「すみません、浮上の石を寄付したいのですが……」
「ん? あら、これは珠蓮様」

 海灯祭の総括を請け負っている望雅のもとを訪れると、望雅はチャンチャンの面倒を見ているところだった。

「取り込み中でしたか……?」
「いえ、お気になさらず。お守りくらい大したことではありません。寄付ですね。お預かりします」
「お願いします」

 望雅の手に霞生石を渡すと、石を確認した望雅があら、と声を上げた。

「この霞生石、願いが刻まれておりませんが……」
「刻む願いは持ちませんので、このままお受け取り下さい」
「! ……そうですか……」

 浮上の石に願いを刻まぬ人もいるにはいるが、珠蓮のその言葉に邪推をしてしまうのは、やはり珠蓮と帝君の結びつきが強かったからだろう。痛まし気に珠蓮に視線を向けては目を背ける望雅に、珠蓮は言葉を間違えたような気がした。
だが、珠蓮が何かを口に出すよりも早く、高い声が響いた。

「お姉ちゃん、本当にお願いしないの? こんなに立派な石なのに、もったいないよ!」
「チャ、チャンチャン……!」

 純粋故の子供の疑問に、望雅が慌てて口を出すが、珠蓮は気にした風もなくチャンチャンに視線を向け、困ったように語る。

「立派な石だけれど、この石に見合うだけのお願い事が私には思い浮かばなかったの。よかったら、私の代わりにあなたのお願い事を刻んでくれると嬉しいのだけれど、どうかしら?」

 何も刻まないよりは、この霞生石も浮かばれるだろうと珠蓮が提案すると、チャンチャンは首を振った。

「それはお姉さんのものでしょう? ならお姉さんがお願いしないと。チャンチャンのぬいぐるみも、夢であの子が空を飛びたいって言ったから寄付したんだよ! その子がどうしたいかは、お姉さんがちゃんと決めないとダメだとチャンチャンは思うよ!」

 はきはきとした答えに珠蓮がやや圧倒されていると、望雅が困ったように珠蓮に頭を下げる。

「すみません、珠蓮様。この子も悪気はないのですが、如何せんまだ子供ですので……」
「かまいません。子供は時として、大人より真に迫ることがあります。とても利発なお嬢さんですね。物事の道理をよく理解していらっしゃいます。この子の言う通り、もう少しだけ考えてみるとしましょう」

 珠蓮が怒っていないのが分かると、望雅はほっと胸を撫で降ろし、預かった霞生石を珠蓮に返却した。珠蓮は再び手に戻って来た霞生石を前に、どうしたものかと海の方へ行き、思案していると、暫くして旅人とパイモンがやってきた。
旅人とパイモンは望雅に頼まれていた霄灯を作る材料を渡し、その材料が置いてある場所の近くに怪しい者がいたことを報告すると、近くに見えた珠蓮の姿に、パイモンが声を上げた。

「あそこにいるの珠蓮じゃないか!? おーーい! 珠蓮ーー!」

 聞き覚えのある自分を呼ぶ声に珠蓮が振り返ると、大きく手を振ってアピールするパイモンと、軽く手を振った旅人がこちらに寄って来ていた。

「旅人さんにパイモンさん。お二人も海灯祭にいらしてたんですね」
「おう! さっき望舒旅館で話を聞いて、すぐに来たんだ!」

 送仙儀式を共に進め、璃月を救ってくれた二人との再会に、珠蓮は表情を柔らかく綻ばせる。テイワット中を忙しなく駆ける二人が海灯祭に来てくれたことを喜ばしく思っていると、パイモンが珠蓮の手に霞生石があるのに気づき、それに言及した。

「珠蓮も願いごとを刻むところだったのか?」
「……いえ、刻む前の段階ですね」
「前ってことは、願いごとを決められてないってことか?」
「ええ」

 こくりと珠蓮が頷くと、パイモンは驚いたようにやや大げさな口調で旅人に話しかける。

「聞いたか? こーーーーんなお金持ちのお嬢様にも、決められないくらい、たっくさんの願いごとがあるんだぞ? オイラたちの願いごとって、実は結構ちっぽけな願いごとだったのかもな」
「あ、いえ。そうではなく」
「え? 違うのか!?」

 ぎょっとするパイモンに珠蓮が頷くと、決まりが悪そうにそっと真相を口にする。

「お願いできることがなくて、困っていたんです」
「ね、願いがない!? この世にそんな人間がいたなんて……!! いや、先祖返りなんだから、人間じゃないのか……?」

 少し頭が混乱したパイモンだったが、すぐに調子を取り戻し、旅人に話しかける。

「聞いたか旅人! 願いがないなんて、オイラは信じられないぞ! オイラはこの世の全てのおいしいものを腹いっぱい食べたくてしょうがないのに!」
「パイモンの頭の中は、いつでも食べ物のことばかりでしょ」
「食べ物以外のことを考えてないわけじゃないぞ! ほ、本当だからな!」

 いつものことながら、旅人がややぞんざいにパイモンをあしらうと、珠蓮の願いについて思案する。その間も、パイモンが願いごとについて珠蓮に迫っていた。

「珠蓮〜、本当に願いごとはないのか? おいしいものを食べたいとか、たまには昼過ぎまで寝ていたいとか、丸一日休みがほしいとか……」
「どれも特には」
「ええっ!? お、おまえ、留雲借風真君に弟子入りして、甘雨たちみたいに雑草ばっか食ってるから、おかしくなったんじゃないか!? オイラのおやつ、ちょっと分けてやろうか……?」

 あの食いしん坊なパイモンにまで同情され、大事にとっていただろうおやつを分け与えようとしてくるので、珠蓮は慌てて否定した。

「いえ、大丈夫です……! 師範や他の方と食事を共にする際は同じものを食しておりますし、真君も私にそうするよう言いつけたわけではありません。姉様方がそうお過ごしになられたのであれば、妹弟子である私めもそれに倣うのが筋だろうと勧んでやっていることですので、ご心配なさらないでください」
「そ、そうなのか……ストイック、なんだな……」

 パイモンは内心でオイラなら頼まれてもごめんだぞ、と頭を振る。その生活を送ると想像しただけで、パイモンは火も明かりもない、ドラゴンスパンの頂上に一人取り残されたような気分だった。

「でも願いごとがないなんて……まだおまえだって未成年なのに、夢も希望もないなんて悲しすぎるぞ」
「? 夢は己の指針と目標であり、希望は力を尽くした先にある結果に過ぎません。私にもそれらがないわけではありませんが、天に祈って遂げられるような願いは持ち合わせていないだけです」
「な、なんて真面目な奴なんだ……堅物にもほどがあるぞ!!」

 ふらりと頭を抱えたパイモンが、途方に暮れたように旅人に向き直ると、小声でこそっと話をする。

「鍾離は何でも知ってるけど、実は子育ての才能はあんまりなのかもな……いや、確かに珠蓮はいいやつだけどさ……」
(鍾離先生と珠蓮の関係も複雑だとは思うけど……)

 旅人は親子とは言えない二人の関係を思い、内心で首を傾げるが、それ以上に気になることがあり、珠蓮に問いかけた。

「祈っても叶えられない願いなら、あるかもしれない」
「え? どういう意味だ?」

 僅かに反応した珠蓮に旅人がやはりと確信すると、珠蓮は戸惑いながらも頷き、肯定した。

「旅人さんの言う通り、天にも叶えられないであろう願いならば、持ち合わせております」
「な、なんだって!? おまえ意外と強欲だったのか!?」
「強欲……そうかもしれません。これはただの、私の我儘であり、彼の意には反することですから……」

 紫珠の双眸に悲し気な色が翳りを落とす。パイモンが心配して声を掛けると、珠蓮は小さく頭を振り、大したことではないと強がりを見せた。

「なんてことはありません。天と言えど万能ではないのですから、これもしょうがないことです。それよりも今は海灯祭の成功に注力しませんと。此度の海灯祭では、光栄なことに一席の機会を設けていただけまして、剣舞を奉納することになったのです。お時間がよろしければ、旅人さんもパイモンさんも、是非見にいらしてください」

 かしこまった様子で淑やかに旅人たちを招待する珠蓮に、先に望舒旅館でその話を聞いていた二人は明るい表情を浮かべた。

「おう! 望舒旅館のオーナーから聞いてるぞ! ものすごい大役だってな! 璃月の舞姫の名に相応しい、いい舞台になるんだろうな!」
「パ、パイモンさん……! それはおやめくださいとあれほど……!」
「璃月の舞姫の舞台を拝観できるなんて光栄です」
「旅人さんまで……!」

旅人にまでからかわれた珠蓮は、恥ずかしそうに慌てるが、少しだけ湿っぽくなった雰囲気が吹き飛んだのを感じて、二人の優しさがしみわたるようだった。

「……お二人は本当に……いい方たちですね」
「おまえもな!」

 パイモンが元気よく返事をすると、旅人も頷いて肯定する。珠蓮は少しだけ照れたような表情を浮かべつつも、思い出したようにパイモンの願い事について言及した。

「パイモンさんのお願いごとは『おいしいものをたくさん食べたい』でしたね。見習いの身なれど、私も仙人の端くれ。それを叶えてごらんにいれましょう」
「おお! いいのか!?」
「ええ、何でも好きなものをお頼みください。私が全てお支払いします」
「なんて太っ腹なんだ!! よっ! 珠蓮仙人!!」

 送仙儀式からしばらく経った現在も、珠蓮は相変わらず人が好かった。たとえパイモンが瑠璃亭と新月幹それぞれで最高級のコースを頼もうと、珠蓮は嫌な顔一つせずに支払ってくれるだろう。それどころか土産にといくつか見繕ってくれるはずだ。
だが、同じようなことを既に経験したことのある二人は、すぐに懸念が浮かんだ。

「あーえっと、その……気持ちは嬉しいんだが……おまえ、モラは持って来てるのか……?」

 送仙儀式に必要な紫宝明珠を集める際、旅人とパイモンは先に紫朧洛に向かった珠蓮を追い、共に紫宝明珠を探したことがある。その際、珠蓮は同じように食事に招待してくれたのだが、師が師なら教え子も教え子というのか、珠蓮は財布を忘れていたのだ。元より財布を持ち歩く習慣がないという彼女が忘れるのも無理はなく、あの時は実家にツケることができたが、今回のメインともいえる屋台ではそうもいかなかった。

「モラなら…………」

 珠蓮は複雑な装飾が施された優美な衣服に手を伸ばすが、そのどこからも財布はおろか、モラの一つも出ては来なかった。旅人とパイモンの顔が、どんどんしょっぱいものに変わっていく。

「…………お財布が……ない……」
「だと思ったぞ!!」
「……ごめんなさい」

 しゅんと萎れた花のようになる珠蓮に、思わずツッコミを入れてしまったパイモンが慌ててフォローする。

「気持ちは嬉しかったぞ! ありがとうな。またの機会にでも食事に誘ってくれよ。オイラ、おまえの手料理も食べたいんだ」
「私の手料理でよろしいのですか?」
「大いによろしいぞ!! じっくり煮込んだ仙跳牆に、薫り高い松茸の肉巻き。たっぷりの肉汁を閉じ込めた翠玉福袋。それにそれに、絶妙な優しい甘さの杏仁豆腐! また食べたいぞ! えへへへ」

 すっかり舌が珠蓮の手料理の味になっているのか、パイモンは幸せそうな表情を浮かべるばかりで、どこか夢見心地であった。
 それに旅人が声を掛け、パイモンを正気に戻すと、珠蓮は心得たように頷く。

「では海灯祭が終わった後、まだ時間がおありでしたら私のもとへいらしてください。腕によりをかけて振舞わせていただきます」
「本当か!? 約束だぞ!!」
「ええ、もちろんです」

 しっかりと約束すると、旅人とパイモンは不審者の情報を総務司に報告するため、珠蓮と別れる。総務司へと向かう途中、パイモンがなぁ、と旅人に話しかける。

「珠蓮の叶えられない願いって……魈のことだよな?」
「たぶんそうだと思う」

 旅人からも同意を得たことで、パイモンは重たい溜息を吐いた。

「はぁ……相変わらず魈は珠蓮から逃げ回ってるのか。珠蓮はまた魈と一緒にいられるように、立派な仙人になろうとしてるのに……魈はいつまで逃げるつもりなんだろうな。まさか……一生じゃないよな……?」

 その可能性は本当にあり得るかもしれないと不安になったのか、パイモンはそれからしばらく黙っていた。旅人も特に何も言わず、二人は総務司の千岩軍に報告をした。
千岩軍も海灯祭で忙しいようで、帰離原に向かった小隊が戻って来ていないこともあり、すぐには対処できそうになかった。旅人たちは海灯祭を無事に開くため、手伝いを申し入れると、すぐに小隊を探しに帰離原へ向かうのだった。










 旅人とパイモンと別れた後、珠蓮は奥蔵山を訪れていた。
璃月港の住まいに財布を取りに戻り、土産として屋台のものをいくつか包んでもらったものを茶の供に、留雲真君は鮮やかに写った明霄の灯に感嘆の息を吐いた。

「ほう……移霄導天真君が没して久しいが、なかなか……ごほん。うむ、それなりに体裁は保てているようだな」

 やや上からの物言いだったものの、食い入るように写真を見ている辺り、留雲真君から見ても明霄の灯の出来は十分満足できるものだったようだが、未だ真君に引き取られてからそう時が経っていない珠蓮には、その生真面目な性格もあってその言葉通りに受け取ってしまったようだった。

「それなり……ですか……」
「ん?」

 重く沈んだ声に、留雲真君が不思議そうに珠蓮を振り返る。珠蓮の表情はまるで大きな失敗をしてしまったかのように、暗い影を落としていた。

「そう、ですよね……真君方は移霄導天真君の勇ましいお姿を昨日のことのように覚えていらっしゃるでしょうし、実際の真君と比べては、見劣りするのも当然のこと。よかれと思い、真君方にもお見せしようとお持ちしましたが……私の思慮が及びませんでした。申し訳ありません」

 自らの至らなさを恥じる珠蓮を前に、留雲真君はぎょっとし、珠蓮がそれはもう真面目な娘であるのを思い出すと、しょうがなしに訂正をすることにした。

「謝らずともよい。あまりに褒めると……その、妾の立場がないだろう……。さっきはああ言いはしたが、不満などどこにもない。魔神戦争が終わって、随分時が流れたが……これほどよく忠実に再現できるとは正直思っていなかった。この写真とやらもあの時代にはなかったというのにな」

 しみじみと語る留雲真君の声音は、まるで幾千年の時を悠々と駆けるようだった。長い時を生きる仙人の記憶と、人々の記憶には大きな隔たりがある。あの激動の時代を生きた人々は土に還り、璃月の深くに眠っている。共に戦場を駆け、散った仙人もまた、その姿を覚えている人々はいないはずだった。

「人々はよく彼らを伝え遺していってくれたようだ。もしこの明霄の灯を彼らが見たのならば、喜んだであろう。少々照れくさくもあるだろうが、満更でもないはずだ」

 かつての仲間たちの姿を思い出したのか、留雲真君はしなやかな羽を広げ、くすりと笑った。すると珠蓮もその心を察し、柔らかい表情を浮かべた。

「お前は本当に気の利く子だ。屋台の物も新鮮で美味であり、この写真も妾は気に入った。今度はその写真機とやらを持って来てはくれぬだろうか? どういう仕組みなのか妾は気になってしょうがない」
「はい。直ちにお持ち致します」
「そう焦らずともよい。海灯祭が終わった後、ゆっくり過ごし、気が向いたときにでも持って来てくれ」

 しっかりと海灯祭が終わった後、ゆっくり過ごすようにと釘を刺す辺り、留雲真君も珠蓮の性格がよく分かっているようだった。
 珠蓮はその言いつけをよく聞き、確かに頷いた。その後は海灯祭の賑わいや、鍾離の近況であったり、真君に与えらえた課題の進捗などを話し、それらを丸く描いて一周するかのように、話題はもう一度海灯祭に戻った。

「お前が忙しくしているのは重々承知であるが……よもや、まったく祭りを楽しむこともなく過ごしているのかと心配していたのだが、そうではなかったようで、妾は安心した」

 ほっと息を吐く留雲真君に珠蓮は少し決まりの悪そうな顔をすると、素直に白状した。

「……それに関しましては、刻晴さんのおかげです。彼女が私のことを心配し、尋ねて来てくださって……海灯祭に連れ出してくれたんです」
「なるほど、玉衡が……写真も玉衡の機転であったな。面倒見のいい、しっかりした子だ」

 留雲真君が刻晴を褒めると、珠蓮も嬉しそうに表情を綻ばせる。けれど、その刻晴にもらった厚意のことを思うと、未だに願いを刻めない珠蓮の心は少しだけ重くなるのだった。
敏感な留雲真君がそれを見逃すはずもなく、珠蓮を気遣うように声を掛けた。

「どうした? 何か悩みでもあるのか? 妾に話してみるといい。伊達に長くは生きておらん。何か助言できることがあるやもしれぬ」
「真君……それが……」

 珠蓮は途方に暮れたような顔で、ぽつりぽつりと事情を話した。それらを聞き終えた留雲真君は、ふむ、と話をまとめた。

「つまり、玉衡の厚意を無碍にしたくはないが、肝心のお前は石に刻む願いを持たず、かといって叶わぬ願いを刻む度胸もない、と言ったところか」
「概ねそうではありますが、度胸というよりも……人々の願いを乗せ、夜空を羽ばたくであろう真君に、このようなお願いをするのは気が引けてしまうのです……」

 珠蓮の言い分に、留雲真君は珠蓮を弟子に取ってからというものの、そう長く過ごしているわけでもないというのに、数え切れぬほど思った真面目≠フ三文字を再び頭に浮かべた。

「仙人の端くれだからだろうか? お前は先人に対する憧憬が深いのかもな。だが、なればこそあの戦乱の時を生きた仙人ともあろう者が、それっぽっちの願いも聞き入れぬほど、狭量なわけもなかろう。お前の願いも、数多の願いの中の一つに過ぎぬ。その叶わぬ願いとやらも、一緒に天へと届けてくれるだろう」

 そこまで留雲真君に言われてしまえば、珠蓮が否を唱えることなどできようはずもなく、観念して霞生石に願いを刻むことにした。

「真君がそこまで仰られるのでしたら……此度は移霄導天真君の立派な角を借りさせていただくとしましょう」
「ああ、そうするといい」

 そうして珠蓮が霞生石に願いを刻むと、受け付けの時間が迫っているのを理由に、慌ただしく奥蔵山を降りて行った。留雲真君は見送りを済ませると、珠蓮の願いに思いを馳せた。

(……降魔大聖、か)

 珠蓮と魈の繋がりは留雲真君も知るところであったが、そればかりにもどかしくもあった。

(ままならぬものだな。気持ちは同じでも、向かう方向がこうも真逆とは。一朝一夕で片付くものではないが、どうにかしてやれぬものか……)

 写真に写る移霄導天真君を模した明霄の灯を眺めながら、留雲真君は大きなため息を吐くのだった。












 帰離原で小隊の一人と出会い、報告を終えた旅人とパイモンだったが、美味しいものに思い入れのある二人は、無事に海灯祭を開けるよう、引き続きこの件について調査をすることにした。
 魈やガイアの協力もあり、無事に事件が収束したことで、総務司に報告に戻ると、その途中で留雲真君が二人を呼び止めた。

「ここにいたのか。探したぞ」
「留雲借風真君! オイラたちに何か用事か?」
「ああ。少し頼みがあってな」

 留雲真君からの頼みというのに、旅人とパイモンが不思議そうに顔を見合わせる。美食を好む留雲真君であるから、屋台の美味しいものを教えてほしいのだろうかと思ったが、真君の頼みは別のことだった。

「お前たちは降魔大聖とも親交が深く、付き合いの長さだけで言えば、当然、妾たちの方が長くはあるが、お前たちの方が降魔大聖とはよく打ち解けているようだ。お前たちの頼みなら、降魔大聖も無碍にはしないだろう」
「頼みって、魈に関することなのか?」
「左様」

 肯定した留雲真君は、単刀直入に頼みを伝える。それは師の弟子への思いやりであり、古くからの盟友への思いやりでもあった。

「降魔大聖を海灯祭に連れて来てほしい」

 その言葉を聞いた旅人とパイモンは、留雲真君の口からその頼み事が出たことに僅かに驚くが、すぐに合点がいった。この仙人はとても弟子を大事にしており、璃月港に居を構える甘雨や申鶴の様子にもよく気を配っていた。最近迎えた弟子である珠蓮もまた同様で、留雲真君が何故このような頼み事をしてきたのかは一目瞭然であった。

「オイラたちもどうにかして魈にも海灯祭に参加してほしいと思ってたんだ。わざわざ頼まれなくても、そのつもりだぜ! な、旅人!」
「うん、魈にも海灯祭を楽しんでほしいからね」
「ああ! 珠蓮の晴れ舞台なんだから、魈だって何だかんだ気になってるはずだ! その証拠に、普段璃月港に近寄りもしないあいつが、わざわざ海灯祭の様子を見に来てたくらいなんだから! それにそれに、海灯祭で悪さを企んでた宝盗団のやつらも、魈の一睨みでこーーんなに! 小さくなってたんだぜ!」

 魈は妖魔を疑い、璃月港に来ていたのだが、それは裏を返せば、海灯祭が無事に開催されるよう注視していたことに他ならない。共に怪しい者を追っていた旅人とパイモンには、魈が珠蓮を気に掛けていることがよく伝わっていた。
 留雲真君はその話に特に驚いた様子もなく、むしろ分かっていたように頷くと、自身の見解を述べた。

「降魔大聖は殊、珠蓮に関しては慎重だ。その身に纏う業障を理由に、あの子と関わることを極端に恐れている。海灯祭に連れて来てほしいとは言ったが、降魔大聖が璃月港の中心部に来ることはないだろう」
「珠蓮って、神の目を持っているどころか、すっごく希少なな先祖返りなんだろ? そこらの神の目の持ち主よりよっぽど丈夫だと思うぞ……」

 やや呆れたようにパイモンがそう口にすれば、旅人も同意するように頷く。二人の反応に留雲真君は、ふっと口元を緩め笑った。

「そうだな。よっぽど丈夫だ。だが、頭では分かっていても、心配が尽きないのであろう。あの二人は、珠蓮がまだ帝君の下に参る前からの付き合いだと聞く。色々事情もあっただろうが、降魔大聖にとって、あの子はいつまでも大切に慈しみ、守るべき存在なのだろうな」

 留雲真君の見解は尤もであり、実際に旅人とパイモンは、珠蓮に強力な加護が授けられていたのを目の当たりにしている。珠蓮が魈との記憶を失くしていた理由も、魈が珠蓮を避ける理由も、全てが珠蓮を守る為であるのは疑いようもない事実であった。
 だからこそ、旅人もパイモンも二人が可哀想でならなかった。

「かわいそうな魈、かわいそうな珠蓮……こんなにお互いのことを大事に思ってるのに、業障のせいで一緒に笑い合うこともできないなんて……オイラ、涙が出て来たぞ……」

 よよよ、と涙を流すパイモンを旅人が慰めるように背を撫でる。留雲真君は悲しむのはまだ早いぞと言うように、珠蓮の現状について語った。

「業障を完全に消し去ることは出来ないが、それを緩和する方法ならいくつかある。珠蓮はそれを帝君によく学び、妾の下でもそれに関する仙術を既に粗方習得している。飲み込みの早い子だ。降魔大聖の心持ちさえ変われば、すぐにでもその時は訪れよう」
「ほんとか!? 聞いたか旅人! オイラの聞き間違いじゃないよな!? 珠蓮のやつ、本当に頑張ってるんだな!」

 ころっと先ほどとは打って変わり、はしゃぐパイモンに旅人もにっこりと頷く。留雲真君はその流れで、自身が考えている計画について話し出した。

「珠蓮が会得した仙術には、基本的なものから専門的なものにまで多岐にわたる。今回はその中の基本的な仙術を使い、きっかけを得ようという算段だ」
「基本的な仙術……?」
「左様。お前たちは降魔大聖を璃月港の近くにまで呼び出してくれたらそれでいい。後はあの子次第だ」
「え、それだけでいいのか!?」

 てっきりもっと手の込んだことをするのだと思っていただけに、これにはパイモンも拍子抜けだった。だが、魈を璃月港の近くにまで来させることもまた、簡単ではないだろう。もっとも、親しい者の願いならば、別だろうが。

「何、心配はいらない。[[rb:一度>ひとたび]]剣を以て舞わすば、龍鳳りょうほうの心さえ突き動かすのだからな」

 留雲真君は成功を確信しているかのように、それは誇らしげな顔でそう答えるのだった。










 ――そうして、いよいよ明霄の灯が海へと昇る海灯祭当日。
立ち昇っていた日は玉京台へと沈み行き、璃月港は霄灯の温かい光に照らされ、大いに賑わいをみせた。
珠蓮は珠艶が用意した衣装に袖を通し、玉京台の高くに登り、その様子を静かに眺めていた。移霄導天真君を模した明霄の灯が、海空へと羽ばたく時が迫っている。珠蓮はそれをぼんやりとした瞳で見つめながら、小さく歌を口遊んだ。

「ララ〜ラ〜ララ〜――――」

 幾度となく口遊んだ旋律は、もう何を考えずとも自然と流れるものだった。優しい風がそっと触れるように通りゆく。さらりと流れた髪に琉璃百合の花びらが舞い落ちて、それをそっと近づいてきた影が攫う。その慣れ親しんだ気配に珠蓮は振り返った。

「師範」
「ついていたぞ。天然の琉璃百合の花弁とは、随分珍しいな。璃月港まで風に乗せられてきたのか。お前の歌声に引き寄せられたのかもしれないな」

 鍾離は興味深げに指先にとった琉璃百合の花びらを観察すると、十分な香りに感心するような表情を浮かべ、僅かに乱れた珠蓮の髪に手を伸ばし、それを整えてやると、髪飾りに上手くその花びらを食ませた。

「これも大地から舞姫へと捧げられた贈り物だろう。受け取っておけ」
「ぁ…………はい」

 鍾離の口からも舞姫≠ニいう言葉が出たことに、珠蓮は気恥ずかしさを感じ、少し口籠りながらも、敬愛する主君の言うことであるからと素直に頷く。鍾離は珠蓮の心情を察しつつも、美しく飾られたその姿を賛美した。

「お前の玉貌には日々驚かされるものがあるが、今宵は一段と輝きを増し、いっそ眩しいほどだ。その証拠に琉璃百合ですら、お前を前にこのように恥じらっている。今年の海灯祭は、海灯祭始まって以来、最も美しい海灯祭になるだろう」

 確信をもってそう口にする鍾離に対し、珠蓮は身に余る言葉であると恥じらいつつも、しっかりとその期待に応えようと手を合わせ、璃月式の礼をとった。

「勿体なきお言葉、身に余る光栄でございます。そのご期待に添えますよう、最善を尽くして参りますので、どうかご観劇のほど――――」
「ああ、そう硬くならなくてもいい」

 緊張したようにお堅い口上を並べ立てる珠蓮を鍾離が制す。珠蓮が大抜擢された経緯や、自身と珠蓮の関係からそう硬くなるのも無理はないことではあったが、岩王帝君という存在が逝去した今、そう扱われるのを鍾離は遠慮したいようだった。

「今の俺は、ただの凡人だ。むしろお前にこそ頭を下げねばならないだろう。何せ俺は凡人で、お前は仙人なのだから。凡人は仙人を敬うものだ、相応の礼を尽くさねばなるまい」

 それが当然であるかのように、珠蓮の前で礼をとろうとする鍾離に、珠蓮は大いに狼狽した。あまりに恐れ多く、血の気が引く思いだった。

「そ、そんな! 師範は私にとっていつまでも敬うべきお方です! それは今までも、これからも変わるはずもございません。どうかそのようなことはなさらないでください。私はいつまでも、師範の教え子でありたいのですから……」

 紫珠の双眸が、縋るように鍾離を見つめる。それはまるで親から逸れた幼子のような眼差しで、もっと相応しい例えをするのであれば、捨てられた子犬のように憐れなものだった。
これには鍾離も僅かに驚いたように一つ瞬きをすると、慰めるようにその小さな頭を撫ぜた。

「まさか。俺がお前を捨てるはずがないだろう。もっとも、お前が俺から離れたいというのであれば、多少事情は変わってくるが――――」
「嫌ですっ。師範のお傍にいます。契約にだってそうあるはずです」

 駄々をこねるように小さく頭を振る珠蓮の常にない幼い姿に、鍾離は困ったような、けれど満更でもない様子でよしよしとあやすように宥め続ける。
 ――契約。それは珠蓮と鍾離の間で結んだものでなければ、鍾離・・が結んだものでもなかったが、それでもそれは二人の間に絆のような形で結ばれていた。
 もっとも、それを絆と呼ぶのは珠蓮くらいであろう。鍾離にとっては――――。

「お傍においてください。これからもずっと……きっと立派になります。だから、どうか……」

 まったく、どうしてこうなってしまったのか。その道筋をよくよく理解している鍾離は、ころりと自らの掌に渡ったこの掌中之珠を大事に大事に包み込むことにした。

「お前は未だ幼いが、お前がそう思う間はそうすると約束しよう。それは俺が凡人であろうと、お前が仙人であろうと変わらぬものだ。時とは移ろいゆくもので、この璃月ですら長きにわたって形を変える。けれど琉璃百合の香りが今もまた香しいものであるように、それらの雅趣を忘れることもないだろう」

 千岩牢固、揺るぎない。親子とは言えぬ二人にとってそれは少々不似合いであったが、その本質はよく似たものであっただろう。
 たとえ、珠蓮に花を愛でる心がなくとも、鍾離のかつての友が愛した花が、璃月の記憶を刻んでくれるように。この紫真珠の君も岩王が紡いだ言葉を忘れないだろう。

「俺が何になろうと、お前が何になろうと、その本質は変わらない。だからお前も安心して型にとらわれず、自由にやるといい。何のために舞い、何のために詩い、誰に届けたいのか。全部お前の心のままに、好きにやっていいんだ。岩王帝君が生きていたなら、彼もお前にそう言うだろう」
「……師範……」

 紫珠の双眸が動揺するように揺れる。それは、鍾離の許しであり、祈りであり、願いであった。
岩王帝君への奉舞も、民への慰めも、自分が力になれるのならと珠蓮が請け負ったものだ。珠蓮はそこに不満などなかった。そのために練習に励むことも、舞台で舞うことも、何一つ不満などなかった。
 けれど、この舞台に、この海灯祭に、他ならぬ珠蓮自身が願った願いもないわけではなかった。

「……師範も、届くと思いますか……?」

 小さく呟かれたその声は、あまりにも儚く、触れたら溶けて、消えてしまう淡雪によく似ていた。
 耳の良い鍾離は、その主語の無い音にも理解を示し、鍾離先生の顔を覗かせる。

「お前がそう願うのならば、それに相応しい行動をとる限り、相応の結果がついて来るだろう。風はいつもお前を見守っている」

 鍾離の教えに珠蓮は素直にこくりと頷いた。誰に届けたいのか、誰に見て欲しいのか、そう心に問えば珠蓮の中に浮かぶのは、やはりあの少年の姿だった。
 紫珠の双眸がゆっくりと夢想するように閉じて、再び覗かせた時にはもう、迷いは消えていた。それは、夢からの目覚めにもどこか似ている。

「仙事を尽くし、天命を待ちます」

 その答えに鍾離は満足したように頷くと、そっと珠蓮の背中を押した。

「行ってくるといい。お前の晴れ舞台だ。存分に楽しんでこい」
「――――はいっ」

 花が咲くように微笑んだ舞姫が、舞台へとふよふよと踊り出て行く。ふわりと広がった袖とひらひらと靡く裾が、珠蓮の仙人たる風格を表しているようだった。
 元来珠蓮が生まれ持ったあえやかな陶器のような美しさも、きっと後世に語り継がれていくだろう。大輪の満月ですらも、彼女を照らす舞台装置の一つに過ぎなかった。

「弥怒が言っていたな。『裾がなびく姿こそ仙人の気品を感じさせる麗姿=xだと。ああ、まったくその通りだ」

 もしも、彼が生きていたのなら、どれだけ満足したことだろう。彼だけではない、浮舎も、応達も、伐難も、数え切れぬほどの盟友たちが、今の世を見たら喜んだだろう。
 鍾離は高台でその様子を眺めながら、月を見ては華を愛で、その珠玉の美しさを讃え、そうして納得したように筆を執り、仙号を認めるのだった。








 一方、旅人とパイモンは、留雲真君との約束通り、魈を城の近くにまで来させることに成功していた。
 直接的に海灯祭に来ることを誘ったりもしたのだが、魈の意志は固く、それは珠蓮の舞いを持ち出しても、一層頑なになるばかりで、望めそうになく、望舒旅館で海灯祭を開催することで魈にも海灯祭の気分を味わってもらい、珠蓮と魈のことに関しては、最後の作戦に託すのだった。

「なぁ、大丈夫だよな? 結構近くにまで来てもらったし、何とかなるよな?」
「大丈夫だよ。それにいざとなったら、魈を呼べばいいし。危なくなったら呼べって言ってたでしょ」
「なるほど! 危険な目って言うのにも色々あるからな! さすが旅人! 冴えてるな!」

 ご機嫌になったパイモンがくるりと回って笑う。そうして明霄の灯へと向かえば、到着した時間がよかったようで、辺りが段々と暗くなり、明霄の灯に命が吹き込まれるように光が宿り、海に昇った。
 そこからどこからともなく歌が聴こえてきた。風に乗って響くその歌に合わせ、剣が、雅な袖が舞う。ふわりと水面に浮かび、まるで明霄の灯とはじめから一つの存在だったかのように、その舞姫は共に海空を照らす光となった。

「わぁ!」

 上空を舞う明霄の灯と珠蓮にパイモンや子供たちの歓声の声が上がる。
 街から消えた灯りが、通った傍から再び灯されていく。悠々と駆ける明霄の灯と艶麗に舞う仙女。次々と昇りゆく霄灯が、星のように夜空を彩っていく。英雄たちの魂を導くために。数え切れないほどの霄灯が城の外にも届いていた。

「…………」

 初めてその光景を目にした魈は、一驚するように目を瞠っていた。空高く昇る霄灯に、明霄の灯と珠蓮が更に高くへと躍り出る。その姿をしっかりと視認した魈は、思わずその名を呟いていた。

「珠蓮……」

 その声が届いたのか、珠蓮が魈がいる方角へと振り返る。それはただ、そういう振り付けであったようにも思えたが、魈は珠蓮が笑いかけてくれたような気がした。
 歌が聴こえる。遠く離れているのに、心が繋がっているかのように。それは確かな温もりをもって、暗闇に灯りを灯すように、彼女の幼き頃に、共に野原で眠った、あの夢のように。その詩は、あの特別な甘味によく似ていた――。

『魈! ここにいたの? 探したのよ。一緒に遊んで!』
『珠蓮。また来たのか……あれほど我とは関わるなと……』
『そんなのいや! 私は魈と遊びたいの!』
『まったくお前は、本当に言うことを聞かぬのだから……しょうがない、少し遊んだら帰るのだぞ』
『少しじゃいや! いっぱい遊ぶの!!』
『はぁ……何故我なのだか……』

 少しで済んだ試しなど一度もなく、朝から夕暮れまで付き合わされ、いよいよそれ以上は親が心配するだろうと駄々をこねるのを説き伏せ、不服ですという顔を隠しもしない珠蓮を送り届けるのが一時の魈の日常であった。
 魈は珠蓮に振り回されるばかりで、お転婆な珠蓮に困らされることも珍しくなく、けれどその度にしょうがなしに叶えてやった。それが魈にとっては造作もなかったことでもあったというのもあるが、一番はやはり、珠蓮の悲しむ顔が見たくなかったというのが理由だろう。
 魈は昔から、珠蓮に滅法弱かった。

(我を真似て、自分も清心を食すと聞かず、案の定苦いと泣いたこともあったか。我はそら見たことかと呆れつつ、高山に登り、ラズベリーを採ってやり、珠蓮の機嫌をとることにした。するとどうだろう、お前はそれを気に入り、いつも強請ってくるようになり、我はそれを常備する羽目になった。珠蓮の実家を考えれば、あんなものいくらだって用意できた安物でしかないというのに)

 望舒旅館の者は魈に敬意を払っているため、魈が与える物に苦言を呈することなどなかったが、内心で怯えていたことだろう。何せ璃月で最も富める地である紫朧洛一の豪商、揺光の一人娘である。そこらで自生してあるものを食するなど、考えられぬ身分であった。
 魈もこれには思うところがあったのか、間もなく言笑に言いつけ、杏仁豆腐を拵えさせたのだった。それを珠蓮も甚く気に入り、家の料理人にも作らせ、果てには自分でも作り出すようになり、魈は珠蓮が来るたび、杏仁豆腐の品評をさせられる羽目になった。それは魈の業障の悪化を理由に別れが訪れるまで続き、魈と関わる全ての記憶を失くしたはずの珠蓮が、その杏仁豆腐の作り方だけは覚えていたほどだった。

(杏仁豆腐の味は、かつて食らった夢≠フ味によく似ている。では、この詩がそれとよく似ているのは……何故なのだろう)

 その答えを魈は知らない。今も昔も、珠蓮の気持ちが魈には理解できない。分かっているのは一つだけ、珠蓮に健やかであってほしいという、いっそ一途な思いだけであった。
 けれど、今この時だけは、揺り籠の中で揺蕩うように、その詩をもう少しだけ聴いていたいと願うのだった。









 海灯祭が終わった後、旅人とパイモンは約束通り珠蓮のもとを訪れていた。
 珠蓮は二人を笑顔で持て成すと、大きなテーブルが埋まってしまうほどの美食を次々に提供してくれた。

「じっくり煮込んだ仙跳牆に、薫り高い松茸の肉巻き。たっぷりの肉汁を閉じ込めた翠玉福袋。そして絶妙な優しい甘さの杏仁豆腐、でしたね。ご所望のものはもちろん、そうでないものもご用意させていただきました」
「おまえ、オイラが言ってたこと丸暗記してるのかよ……本当に真面目だな。でもでも、本当にご馳走だらけだ……! これ全部食っていいんだよな!?」
「ええ、もちろんですよ。お二人へのお礼を込めたものですので、お好きなだけ召し上がってください」
「やったーー!!!」

 万歳をして喜ぶパイモンが、さっそく何から食べようと身を乗り出す。それを珠蓮が皿に取り分けてやり、旅人にも同じようにしていると、鼻歌まで歌っている妙に機嫌がいい珠蓮に、旅人が首を傾げた。

「珠蓮、何かいいことあった?」
「え? あ、わかりますか……?」
「おう。鼻歌まで歌ってるし、もぐっ、表情も明るいし、機嫌がいいよな!」

 旅人に尋ねられ、驚いたような表情を浮かべる珠蓮だったが、もぐもぐとパイモンがご馳走に舌鼓を打ちながらそう口にすると、珠蓮は照れたように笑い、実はと話をした。

「その、魈が海灯祭に来てくれたのが見えて……お二人のおかげですよね? 留雲真君から急に仙術のテストだと言われて剣舞を少し変えたのですが、まさかこんなに嬉しいことがあるとは思いませんでした。本当にありがとうございます。お二人に、心からの感謝を」

 璃月港に霞生石を寄付しに戻った後、それから間もなく奥蔵山から留雲真君が降りて来て「帝君に捧げる海灯祭なのだから、お前の成長をしかと見てもらうべきだろう」と唐突に仙術のテストが入った時は、もう明日明後日に本番が控えることもあって血の気が引いたものだが、いざ蓋を開けてみれば、留雲真君の機転と旅人とパイモンの思いやり、そして鍾離から背中を押してもらったこと、それら全てが珠蓮にとって得難いものであった。

「刻晴さんから頂いた霞生石に刻んだ願いも、留雲真君の言う通り、移霄導天真君が天へと持って行って下さいました。皆さんの温かさには本当に、何とお礼を申し上げてよいか……」
「ああ、そんなのいいって! おまえたちのことはオイラたちだって、このままでいるのはよくないと思って勝手にやったことだし、それで進展してくれたんならオイラたちだって満足なんだ! な、旅人!」
「うん、パイモンの言う通り。珠蓮が嬉しそうでよかった」
「お二人とも……」

 身体の奥から染み渡るように感動が押し寄せて来て、珠蓮は危うく瞳から真珠が零れ落ちてしまいそうで、それを振り払うように小さく頭を振ると、再び「ありがとうございます」と礼を口にした。
 旅人とパイモンも嬉しいような、照れたような気持ちで顔を見合わせ、そうして再びご馳走に集中するのだった。

 そうしてデザートのよく冷えた杏仁豆腐に相好を崩すと、話題は海灯祭のことに再び戻った。

「明霄の灯と一緒に舞う珠蓮、すごく綺麗だったぞ! 何て言うか、本当に仙人なんだなって……いや、仙人っていうか、天女っていうか……とにかく、すっっっっごく!! 綺麗だった!!」
「そんな……身に余る光栄です。どうやら、お二人にもいいものをお披露目できたようで何よりです。そうだ、仙人といえば……私の仙号が決まったようなのです」
「仙号って……あの、留雲借風真君、とか、移霄導天真君、みたいな名前のことか?」
「ええ」

 頷いて肯定した珠蓮に、パイモンがおお、と声を上げる。旅人も気になるようでじっと珠蓮の続きの言葉を待っていた。

「てことは……正式に一人前の仙人として認められた、ってことでいいのか!? おめでとう! 珠蓮!!」
「おめでとう!」
「あ、いえ、それはまた別の話で……えっと、正確には留雲真君はそれでもかまわなかったようなのですが、私としてはまだまだ仙術も未熟ですし、仙人としての心構えにも欠けています。なので、一人前と認められるのは先延ばしにしていただいているんです」

 真面目くさった顔でそう口にする珠蓮に、パイモンが驚愕の顔を浮かべ、そして項垂れた。旅人も口にこそ出さなかったが、苦笑を浮かべており、気持ちは概ねパイモンと同意のようだった。

「本当に……おまえってやつは超がつくほど真面目なやつだな。一人前って認めてもらえるなら、そうすりゃいいのに」
「一人前になるということは、それだけ責任が伴うということです。未熟なままでは、周りに迷惑をかけてしまいます。なので、ちゃんと一人前になって、人々の役に立てる立派な仙人になれた時こそ、その尊名を賜りたく思います」
「なんていうか……本当に珠蓮らしいな」
「そうだね。すごく珠蓮らしいと思う」

 どこまでも真っ直ぐな珠蓮に、二人もそれでこそ珠蓮かもなと納得した表情を浮かべる。この杏仁豆腐のこだわりの味も、テーブルに並んだ美食の数々も、その真面目さが高じてこの天下の美味へと転じたのだ。それもいいことだと思いながら、話を続けた。

「てことは、おまえも仙号は知らないんだよな?」
「ええ。師範から決まったことだけ教えていただきました」
「じゃあなおさら一人前になるのが楽しみだな! 分かったら教えてくれよ。気になるけど、鍾離の口からじゃなくて、おまえの口から聞きたいからな!」
「もちろんです。きっとお二人が璃月に来るのを待ちきれず、手紙を出すと思います」

 その時が待ち遠しそうに珠蓮は微笑みを浮かべると、それからこれからのことに関して決意を表明するように居住まいを正し、やや畏まって話を切り出した。

「今度の件は、本当に皆様のおかげと言って過言ではありません。私が最初から叶わぬ願いであると諦めかけていたことも、今にして思えば、なんと意気地のないことかと恥じ入るばかりです」

 留雲真君に刻む度胸がないと言われたのも、その通りだと頷く他ないと珠蓮は自らの恥を思いながら、海灯祭の記憶を辿り、仙人になると決めた時まで遡らせた。

「仙人になると決めたのも、やはり一番は魈とまた一緒に過ごせるよう願ったからですのに、ちょっと避けられたくらいで弱気になるなんて、私らしくもありませんでした。昔なんて、逃げ回る魈を追いかけ回しては捕まえて、掴んで離さず、魈を根負けさせたんですから、今だってそうすればよかったのです」

 そんな話を魈からも少しだけ聞いていた旅人とパイモンは、今まで珠蓮にそんな一面があったのかと半信半疑であったが、今の発言で本当だったのかと驚いたようだった。

「人が人事を尽くして天命を待つように、私も仙事を尽くして天命を待ちます。ええ、つまるところ、魈をどこまでも追いかけて捕まえるということです。魈がどれだけ私を避けようとも、どこまでだって追いかけますし、魈が何度逃げたって、その度に捕まえてみせます。そうしていつの日か魈に『参った』と言わせてやるのです」

 常の品行方正な珠蓮からは想像もつかない強気な発言に、思わず旅人とパイモンは圧倒されるように、おおっと仰け反る。
 珠蓮はそれにも大して気にした様子はなく、むしろ宣言したことですっきりしたのか、晴れやかな表情を浮かべていた。

「なので、天も私の願いを聞き届けて下さるでしょう。だって私、まったく一つも折れる気なんてないんですもの」

 そう言って笑う珠蓮は、まるで幼い少女のようで、咲き始めの蕾が膨らんでいるような瑞々しさを感じさせた。
 旅人とパイモンは、この様子に魈の行きつく先を思い、同情するような、それでも思わず笑みが浮かんでしまうような気持ちになった。きっとそう遠くもない未来、魈はこの少女に捕まるのだろう。かつて魈が少女に根負けしたように「参った」としょうがなしに口にする姿が目に浮かぶのだった。