朝が怖いと嘆いたとして、
朝が来るのが怖いのだと、少女は静かに嘆いた。
今にも手折れそうなほど、それは弱弱しい表情だった。風が吹けば、この娘は倒れてしまうのではないだろうかと、そんな心配さえ頭を過る。それほどまでに、憐れな娘であった。
そうであるから、少年の口から出たのはある意味で自然なものだった。可哀想で、憐れで、可憐で。しおしおと己だけが頼りであるかのように縋る彼女に、ほんの少し、情を傾けた。それが、全ての間違いであるとも知らずに。
「そんなにも怖いと言うのなら、もう暫し、我はここにいよう」
その言葉を聞くや否や、少女はそれはそれは満足そうに微笑んだ。凍える冬を耐え凌いだ春の蕾が、咲き綻んだような美しさであった。少年もこの微笑みには満足した。少女の無垢が、少年には最も好ましかったからだった。
ころころと転がる鈴の音が耳に心地よさを運ぶ。囁くように、歌うように紡ぐ舌ったらずなその声が、少年は好きだった。自分が口下手な分、少女がお喋りであるのは少年には随分と助かった。「あのね」「それでね」と、聞いてくれとせがむ様は小鳥のようにも、子猫のようにもみえる。どちらにしても、少年にとっては愛らしいものであることに変わりはなく、時折相槌を打っては穏やかにこの時間を過ごしていた。
やがて陽が昇り、あたりが明るくなると、朝がやってくる。少年は少女に対し、大丈夫かと声をかけようとして、口を噤んだ。少女の表情に再びあの、憐れな翳りが見えていたからだった。「旦那様」そう言って、少女は少年の懐に潜り込む。ふたりの間に未だ契りは結ばれていなかったが、それでも少年はその行動を咎めはしなかった。可哀想に。懐で仔犬のように震える少女は酷く頼りなく、容易く手折られ、踏み躙られてしまいそうな危うさがあった。
「何がそのように恐ろしいのか……我には分からぬが、ここにお前を害する者はいない。物の怪の類であればなおさらだ。我がここにいる限り、お前の身の安全は保証しよう。何一つ、不安に思うことはない」
だから安心するといい。と、少年は潤みを帯びた少女の目元を拭ってやる。くすんくすん。小さく鼻を鳴らした少女は、それでも聞き分けたようにゆっくりと頷いた。
「はい……旦那様。珠蓮はそうします。だから、どうか……こうして一緒にいてくださいね。きっと、きっとですよ」
念を押すようにして縋る少女の背を、少年はあやすようにして軽く撫でる。「ここにいる」そう口にすれば、やっと少女は安心した様子で、身体を小さく丸め、うとうとと寝息を立てだした。
まったく困った娘だと少年は思う。そろそろ多少は女を覚えよと、恩師に連れられた際はあまり気のりはしなかったものの、彼の計らいで少年に宛がわれたのは、この美しい無垢な少女であった。それまで何の苦労もしたことのなかったであろう少女を、見世の姉たちは随分と心配しているようだった。少年は何となく恩師の意図を察し、逃げられないことを悟ると、大人しくこの少女を受け入れることにした。恩師の心遣いを踏みにじるような真似はしたくなかったからだ。
けれど、結果的にそれはよかったのか。少女はその見た目通りに無垢で、素直であり、実に少年に丁度良い釣り合いで、そういう付き合いも始まることになった少年の良い相手となってくれた。一度、あまりにこの娘しか選ばぬからか、恩師に他の娘を勧められたこともあった。少年にその気はなかったが、恩師がそう言うならばと意向に応えようとしたところ、ふと目に入った少女の悲し気な表情に、一瞬でそんな気はなくなってしまった。この娘が良いのだと恩師に伝えれば、彼は意外なほどあっさりと承諾した。むしろ、良い物をみたとばかりに。あの時は、確かこうも言っていただろうか。
『あい分かった。そう悲し気な
これには、いくらなんでも早すぎると少年は返答に困ったものだが、少女の反応は概ね良いものであった。愛らしく可憐に微笑む彼女に気を好くした恩師は、いくらか飴を包んでそっとその小さな掌へと乗せてやっていたのをよく覚えている。そうして、恩師に連れられずとも、ふと彼女のことが気になり、自ら妓楼へと足を運ぶようになるのもこの頃であった。
近頃は大掛かりな戦もあり、少年は店にもなかなか顔を出せずにいた。その間に、少女は何か恐ろしい思いでもしたのだろう。ようやく再会した彼女は、すっかりと、こうして朝を怖がるようになってしまっていた。
少年はもう一度、すっぽりと腕に収まる少女を見つめる。目尻に滲んだ涙の跡が、随分と痛々しかった。ここまでくると、少年の心も、もう決まりつつあった。自分だけが頼りである少女に初めに芽生えたのは憐れみで、決してそれは美しいものではなかったが、それでもこうして過ごすうちに、少年は少女を何にも得がたい宝と感じるようになってしまったのだ。こうなることもまた、自然なことであった。
その朝のことだった。とっくに腹をくくった少年は、天へと高く昇った日の光に、震えるように瞬いた少女に、ひとつの約束を贈った。「我に、お前を身請けされてくれ」と。
少女は僅かに驚くと、それから、花が咲いたように微笑んだ。それは実に色よい返事であった。
「ええ、ええ。旦那様。私、きっといいお嫁さんになります。だから、だから旦那様も、『やっぱりやめた』なんて、悲しいことを仰らないでね。そんなことになってしまったら、私、きっと泣いちゃうわ。悲しくて、悲しくて、死んでしまうかもしれないもの」
だから約束よ、と、しなだれかかる少女の身体を、少年はしかりと受け止めると、さらりと肩に流れた絹髪を、そっと背へと戻す。そうしてあいわかったと滑らかなそれを丁寧に丁寧にと撫でつけた。ともすれば呪いのような言葉を、憐れな
そうして、少女との最後の別れを済ませると、少年はその日のうちに恩師へと話を通し、とんとん拍子に少女を身請けすることに相成った。これ以上なく、円満にまとまった良縁に、見世の姐さん方は喜び、少女を温かく少年の元へと送り出した。
嫁衣に身を包んだ少女は、天女が今しがた舞い降りたかのように美しかった。思わずはっと息を飲んだ少年は、しかし、中身は何も変わらぬ少女に、はしゃいだ様子で抱き着かれる。あまりにいつも通りで、ころころと笑う少女の姿に、少年は柔らかく眉を下げた。
「旦那様」と、呼ぶ響きは何も変わらない。けれども、その意味は、確かに変わったのだった。
朝が来るのが怖いのだと、そう、この美しい少女が涙することがないように、少年はその日から、極力朝を共にしようと心に誓う。もう大丈夫だと、これからは自分がずっとお前を護ってやると、そう慰めながら迎えたはじまりの朝は、意外なほどに、呆気ないものであった。何せ、少女はもうとっくに、朝が来ることを怖がってなどいなかったのだから。
「だって、もう、旦那様は……私だけの旦那様で、いてくれるのでしょう?」
何ともまあ、無垢な眼差しだった。未だあどけなさを残す、輝かんばかりの玉貌に、愛しさという名の毒を、たっぷりと孕ませて。少女は
少女が怖かったのは、朝が来ることではない。憎かったのは、少年と共に過ごすことが出来ない時間。そして、逸ったのは、もう二度と少年に会うことができないかもしれないという不安そのもののことであった。
その両方が解決された今、少女に怖いものなどある訳もなく。無邪気に愛しい夫の腕の中に収まりながら、うっとりと微睡む様子に、少年は完敗した。
「まったく、お前には驚かされることばかりだ」
すっぽりと収まりの良い身体を、少年はそっと抱きしめる。これはとんでもない策士だと、何にも分かっていない少女にふっと笑みがこぼれ落ちた。
少年は知らない。腕の中で子猫のように甘える妻が、一歩間違えれば、新たな火種となっていたことを。
それを憐れんだ恩師が、密かに手を回し、こうして一挙両得を得たことも。
こうして訪れる朝が、当たり前ではなかったやもしれないことを。
何も、知らない――。