華は愛惜に散る
どうか泣かないでと、少女の嫋やかな指先が少年の頬を撫でた。少年は不思議だった。流れる涙などここにはないというのに、少女には何かが見えているらしい。痛ましい表情だった。これではどちらが泣いているのかすら、分からぬほどに。
それは春の夢のようだった。朧に霞んだ、淡い記憶。今はもう、ここにはいない、華ノ夢――。
「ねぇ、帝君、どうして? どうして、こうなってしまったの?」
それはあまりにも幼い問いかけだった。少女の
少女は先日、いくつかの偶然が重なり、一行の仲間入りを果たしたばかりで、長らく俗世から離れて暮らしていたため、大層世事に疎かった。そのため帝君を初めとした仙人らが養育に当たっている最中であり、特に帝君は自身の名前すら忘れてしまった彼女の名付け親となったことで、単なる主従関係には収まらず、また、少女の素養をよくよく評価する帝君は、周囲には随分と目をかけてやっているようにも映った。
「今度はどうした。何か気になる事があったのか?」
「ええ、ええ。そう、そうなのよ。これを見て、帝君。変、変なの。変なのよ」
歌うように紡ぐ声と共に、少女――その名を珠蓮。帝君より直々に賜った仙号は
「……特に変わった風には見えないが……むしろよく世話をされている。これならば来年もまた見事な花を咲かせてくれるだろう。珠蓮よ、お前はいったい何がそんなに気になる?」
帝君の問いに、珠蓮はあからさまに落胆した表情を覗かせた。慌てて成り行きを見守っていた魈が横から咎める。無礼だった。それに更に気を悪くした珠蓮は、いよいよ不満を隠すこともなく、ぷくりと頬を膨らませる。どうしてこんなにも一大事であるというのに、誰も気づいてくれないのだろうと、少女は不思議な様子であった。
「だって、桜は咲いたのに、ねぇ……どうして実らないの?」
詰るような響きには、どこか悲しみが感じられた。何かと思えば、そんなことかと呆れを露わにする魈だったが、帝君はこの問いを面白いと感じられたらしい。くだらないことだと一蹴することもなく、真摯に向き合うことにしたようだった。
「ふむ。そうだな、花というものは目に美しく、一定の周期で再生を繰り返すものだ。その多くは種子に由来し、一般的に花が終わると種を残すものだが……中にはこのように実を結ぶことを目的とせず、花そのものを尊ぶよう人に育てられたものもある」
その語り口は柔らかで、彼女が望むようであれば、いくらでも言葉を重ねるつもりであるかのようだった。魈は敬愛する主の言葉を些事に費やさせるべきではないと、わずかに視線を落とした。
「帝君。そう丁寧に説明してやる必要は……いつもの戯言です。華瑛もそこまで真面目に考えているわけではないでしょう」
「まあ。失礼しちゃう。私だって、ちゃあんとお勉強してるのよ? ついこの間だって、歌塵にお琴を教えてもらったの。今度聞かせてあげる。とっても上手だって、褒められたのよ。今日でもいいわ。きっと感激しちゃうんだから」
何とまあ口の達者なことだろう。いつの間にやらまた交遊を広げていたらしい。見た目の美しさとは裏腹に、やや大雑把なところのある彼女に繊細な琴の音を奏でられるとは思えなかったが、一度言い出せば聞かぬのだから仕方ないと、魈は分かった分かったと頷いた。これも拾ってきた者の定めだと、よくよく言い含められた結果である。気乗りしない子守にも徐々に慣れてきた頃であったが、自分はともかくとして、主たる帝君にまでこうなのだから、魈の心労は溜まるばかりで、ちっとも落ち着く間がなかった。
「それと、魈。私のことは珠蓮って呼んでって言ってるわ」
「……お前という奴は、何と贅沢な。帝君より直々に立派な仙号を授かっておきながら……仙人の自覚がないのか」
「む。華瑛蔽月真君も、綺麗で気に入っているけれど、珠蓮も同じように帝君がつけてくれた、大切な名前だもの。魈だって、そうやって帝君にもらったのじゃない。私が珠蓮にこだわるのだって、同じように大事にしていることの証明に他ならないわ」
そう言われてしまえば魈も立つ瀬がない。何せ、彼もまた、護身のためと帝君より賜ったその名を宝としているのだから、こうも綺麗に持ち出されては反論の余地すら与えられず、見事なまでに華瑛に言い負かされた魈は沈黙する他なかった。
押し黙る魈に間を置かず、華瑛は畳みかける。「さぁ、呼んでみて」何とも軽やかで、柔らかな声音だった。この薄紅の花びらによく似ていた。彼女の幼い美貌に、艶が帯びた気がした。強請るような蠱惑な眼差しが、彼女の清らかな佇まいに不似合いで、けれども抗いがたいものがそこにはあった。
「……珠蓮」
「――ええ、ええ。そう、そうよ。忘れないでね、そうやって、いつまでも私のことを呼んでね。魈」
花のように綻ぶ美貌が輝くようだった。誑かされているのだと、感じるほどに。美しい女だったのだと思う。それはあの遠い日の夢のように。花のように可憐で、月のように清らかで、歌うように話す女であった。
甘い香りが纏わりついて離れなくなるほどに、それはあまりにも鮮やかな色をしていた。
それこそが既に答えだったのだろう。帝君は訳知り顔で、少女の問いに新たな見解を示す。
「実りとは何を示すかだったな。種か、果実か、それとも誰かの記憶に残ることか」
夢を見るような眼差しだった。帝君を見つめる彼女の
「花は散る。だが記憶には残る。こうして見事に咲いた花があったことを、人は忘れぬ。それもまた、一つの実り≠ネのだろう」
麗らかな春だった。柔らかく吹いたそよ風が、彼女のたっぷりとした袖を揺らす。木漏れ日が少女の甘い
「どうだ? これでお前の求める答えになっただろうか」
「ええ、ええ。もちろん、もちろんよ、帝君。充分、充分だわ」
すっかり満足してしまった彼女が、ふわりと身を翻す。くるくると回り出した彼女に、帝君の御前で無礼だと魈が咎めようとするのを、他ならぬ帝君が制止した。困惑する魈の瞳に、どこか楽し気な琥珀の色が映りこむ。華瑛がこれから何を魅せてくれるのか、とっくに分かっていたようだった。
「お礼に踊りを踊るわ。お琴もいいけれど、やっぱり踊る方が私は得意だもの。応達が言ってたわ。お礼をするときは、心を込めるものだって。私の一番得意な、一番素敵なものをあげる。いらないなんて、言わないでね」
「ああ、勿論。こんなに贅沢なことはない。思う存分、舞ってみせてくれ」
「ええ、ええ。ふふ、よぉくみててね」
当たり前のように華瑛の舞に合わせ、歌塵の琴が奏でられる。腰を下ろした帝君の横で突っ立っているわけにもいかず、おろおろと視線を彷徨わせる魈に、帝君の微笑みが静かに向けられる。それに背を押されるように、ようやく魈もその隣へと身を落ち着けた。
いつの間にか、辺りには人が集まっており、それは宴と化していた。杯に注いだ美酒を片手に、清らかな琴の音と共に美しい少女の舞姿に皆が夢中だった。
はらはらと、散りゆく薄紅の花びらが、杯に満ちた美酒へと舞い落ちる。実に雅であった。上等な贈り物に違いなかった。
「花は酒に満ち、春は人の胸に落ちる。故にこそ、この一刻は千金にも代えがたい」
お前もそうは思わないかと振られた魈は、僅かな逡巡を巡らせる。返事が出来そうになかった。常ならばすぐに反応するはずの声が届かなかったなどと、認めたくなくて。けれども否定の言葉など終ぞ出そうもなく。やがて観念したかのように、彼はゆっくりと頷いた。
「ええ。とても……美しい光景だと、思います」
それは美しい春の夢だった。泣きたくなるほどに、穏やかな、甘い夢だった。
だからこうなってしまったのだろうかと魈は思う。あまりにも幸福を知りすぎてしまったこの身を咎めるように、数多の悲劇が襲い掛かったのは。
決して自らの犯した罪を忘れるなと刻み込むように、愛する者たちが非業の死を遂げていったのは。
その中に彼女もまた含まれていたのだと知ったときにはもう遅く。彼女が強請って聞かぬからと、仕方なく伸ばしたはずの髪は、彼女が業と共に持って逝ってしまった後だった。
あれほど鬱陶しかったはずの髪が短くなったというのに気は晴れず、何故か律儀に伸ばし続けているではないか。長いのが好きだと言った彼女はもういないというのに。
二千年越しに再会した彼女が、見つけた答えを、受けとめきれずにいるのだと。それがただただ、情けなくて。しょうがなかったのだと思う――。
『泣かないで、泣かないで、魈』
目を閉じれば、歌うように紡ぐ彼女の声が今も鮮明なまでに蘇ってくる。嫋やかな指先が頬を撫でようとして、溶けていくのが物哀しい。余程自分は酷い顔をしていたのだろうか。少女の両手が抱きしめるように背に回る。温もりは感じない。代わりに柔らかな声が耳に溶けた。
『大丈夫、大丈夫よ。大丈夫』
まるで幼子をあやすような響きだった。いつだって守をするのは魈の方であったというのに。いつの間に逆転してしまったのだろう。妙にその姿勢が板についていた。彼女は最初からこうなることが分かっていたのだろうか。きっと、分かっていたのだろう。でなければ、あんな決断ができるはずもないのだから。
「――珠蓮」
その名前を口にするのは随分と久しく感じた。ついこの間呼んだばかりであるというのにだ。二千年の間、敢えて口に出すのを避けていたせいだろうか。そう呼んでしまえば、返事が来ないことを再確認するようで。とてもそんな気になれなかったのだと言えば、彼女は呆れるだろうか。『なぁに?』と返されると言葉に詰まった。この感情を何と言葉にしていいのか分からなかった。分かったとしても、それを口にしたところでどうにもならないことを魈はよく知っていた。
言いたくなかったのかもしれない。ずっと、叶わないことを口にするのも。何かを願うことすらも。願った傍から奪われてしまいそうで。罰を受けるようで。恐ろしかった。
黙り込んだ彼に『大丈夫よ』と声が響く。泣きたくなるような声だった。泣いてなどいないのに、泣きたくなどないのに、泣く気すらもなかったというのに。どうにも彼女は泣いてほしいらしい。何と我儘な女だろうか。何と勝手な女だろうか。けれど、彼女がそう在り続けてしまったのも、他ならぬ自分が折れてきたせいだというのもまた、理解していた。今更それは聞けぬと跳ねのける勇気すら、魈にはなかった。どうしてできるだろう。彼女を傷つけることがこんなにも恐ろしいのに。
「お前が……恋しい」
吐露したのは愛と呪いの言葉だった。どうにもならない愛だった。どうしたって巡り合えない運命だった。どうして共にいてくれなかったと詰る気などなかった。誇りに思うべきだった。誇りに思えた。けれど、それでも夢想する。あの美しい夢のような都で、再びまた笑い合える日が来たのではないかと。
旅人に譲渡された、掌に握りしめた龍珠が、彼女の在るべき頷下で輝いていた光景を。
自らの命と引き換えに、守り神としての使命を果たした彼女の選択を間違っていたとは思わない。思いたくもない。けれども、その果てに彼女を喪ったことを悲しむことは両立していいのだと、最近ようやく思えるようになったのだ。
困らせたいわけではない。詰りたいわけでもない。ただどうしても、探し求めた彼女の面影が恋しくて、愛しくて。気を抜いてしまえば逝かないでくれとみっともなく縋りついてしまいそうだった。
彼女は何も言わなかった。ただ、抱きしめるように頬を寄せた。温度はなく、触れた心地だってしない。けれど、彼女は充分に満ち足りたような
『花は自ら散り、水は自ら流れる。けれど、こうして惜しんでくれる心があったのなら、咲いた意味もあったでしょう?』
――それが、
生き残る道があったのを分かっていて、それでもこの道を選んだのだと、そう宣言されたこちらの気にもなってほしいものだ。あんなにも魈がいなくては駄目なのだと散々に甘えておいてこの仕打ちとは。花は
咲き乱れる花海の中で、目の前を駆けていく彼女が、今も鮮明なまでに目に浮かぶ。幸福を湛えた日溜りが、彼女の微笑みを彩るそれが、愛しくて。花びらを愛でるように撫でる指先が、何より尊く。遥かに遠ざかる影に涙が零れそうだった。
何事かを呟く彼女の声すらも、囁きのように風に解けて溶けていく。そっと、伸びてきた髪に彼女の指先が触れた気がした。
『ぜんぶ、私の――』
芽生えたその感情を何と名付ければよいのだろう。魈はとっくにその名前を知っていたように思う。静かに蓋をして、目を背けたそれに、手を伸ばす。
薄紅に色づいた、淡く脆い、美しい感情が、そっと摘み取られていく。それを魈は拒まなかった。お前が欲しいと言うのなら、元よりそれはお前に捧げたものなのだからと。微かな吐息に散っていく、その想いを。極上の微笑みを浮かべる彼女をただただ、見つめていた。
彼女に会ったのかと問われた旅人は、静かに頷いた。それは彼女のお願いを叶え、龍珠を然るべき場所へと届けた後のことだった。白木蓮が咲き乱れる一等地、立派な御堂が建てられるや否や、その美丈夫は彼の英霊を労いに訪れ、その足跡を目に焼き付けるようにして、二千年前のまま、時を止めたこの美しい都の風景を眺めていた。
その瞳には哀愁が漂っており、僅かながらに親しみのようなものも感じられた。この美丈夫にとっても彼女は特別親しい人物だったのかもしれない。
「先生は華瑛蔽月真君と親しかったの?」
「そうだな、親しいか親しくないかであればそうだろう。だが、俺たちの関係を表すのであれば、もっと適切な表現がある」
「それって?」
「親子の情だ」
それは旅人にとって意外な答えだった。「先生に子どもがいたなんて……」目を丸くする彼に、鍾離はふっと表情を綻ばせる。微笑ましげであった。まったく可愛くて仕方なかったのだろう。
「血を分けた子ではないがな。あの子は生まれてから長らく俗世から離れて過ごしていた。彼女にとって神の座や国と言った争いは大した出来事ではなかったからだ。それよりも、三千年の修練を積み、龍になることの方があの子にとってはよっぽど重要なことだった。それも、巡り合わせによってあの子の運命は変わったが……」
旅人は華瑛に託された龍珠を思い出す。宝石のように輝く紫の真珠は、紫宝明珠によく似ていた。彼女は確か龍珠のことを頷下之珠≠ニ口にし、その通り自身の顎下、喉元に埋まったそれを差し出したのだった。それこそが彼女の龍としての素養だったのだろう。
「彼女の最期を見届けてくれたこと、礼を言う。お前のおかげであの子の願いを叶えてやることが出来た」
アオギリの葉で蝶を作り、清心と白木蓮の花冠を編む。そして杏仁豆腐を一緒に食べる。どれも拍子抜けするほどに簡単で、穏やかな願いだった。華瑛はそれを旅人にねだり、最後に龍珠を然るべき場所へと届けてくれと頼んで消えてしまったけれど。
旅人はその願いを叶えるため、魈に龍珠を渡し、全てを悟った彼は旅人の言う通りにそれらを実行したのがつい先日のことであった。本当に彼女がそうして欲しかったのが誰なのか、そんなことはとっくに分かりきっていたのだから、それらはすべて順調に運んだ。
ただその過程で浮かんだ疑問は、静かな水面に波紋のように広がり、旅人の心の中に微かな漣を引き起こした。
「本当にこれしかなかったのかなって、思うんだ。華瑛は……どうしても助からなかったようには見えなかった」
「……その疑問は概ね正しい。彼女に残された選択は決して一つではなかった。民と土地を切り捨て、戦力として残ることも。或いは、最も危険な賭けに挑み、民と土地、そして自身のどれもを取る選択肢だってあっただろう」
「なら……」
「それでも彼女はそうあることを選んだ。最も確実に民と土地を護る為に。彼女はただ人ではなく、紫朧洛の守り神であることを選んだんだ」
その選択をしたときにはすでに、こうなることを彼女は分かっていたのだろう。全てわかった上で、迷うことなくこの道を選び、いつ明けるかもわからぬ地獄にその身を投じた。
同情しているのかと聞かれれば、旅人は否定できないだろう。二千年にも及ぶ試練の代償はあまりにも大きく、その足跡は痛ましく、どうにかならなかったのかとそう願わずにはいられなかった。
彼女のことを以前から仙人たちから聞かされていたことを抜きにしても、実際に会った彼女はあまりにも無垢で、春の精のように麗らかであったから、余計に可哀想に思ってしまうのかもしれない。彼女の魈を探す声が、笑いかける表情が、どこか片割れに似ていたように感じたのも、きっと気のせいではなかった。
白木蓮の清廉な香りが、そよ風に運ばれて無垢に漂う。それは薄紅の桜より余程、彼女に似合いの花だった。
「全てが形として残るわけではない。だが、残らぬからと言って無価値ではない。お前は美しく咲き、散った花をなかったことにするか?」
御堂の通りは絶えず栄え、行商人が列をなす。見事に並んだ白木蓮を手厚く管理する人々の往来が、活気を呼んだ。彼女が愛した二千年前の民と、今が交差する。間違いなく、それらは彼女が護った先へと続く光景だった。
「……ううん。なかったことにはしないよ。だってこんなにも綺麗なんだから」
「ああ。俺も同意見だ。咲いたという事実こそが、すでに一つの実りだ」
美しく咲いた花は愛惜に散り、実を成すことはできない。けれども、それでも咲いた意味はあったのだと。そう、旅人は定義する。
その傷が癒えるには時間が必要で、もしかしたならば、癒える日は来ないのかもしれない。けれどそれでも、いつかはその痛みごと愛せる日が来るだろう。忘れる方がずっと辛いことなのだと、気づいた時から。きっともう、前に進んでいるのだから。