華々しき流年
ふわりとした雪がちらつく中、珠蓮は望舒旅館の厨房を借りて甘い匂いのする甘味を作ると、それを器に二つ分注いで上の階へと昇っていく。阳台の上で大人しく腕を組んで待っていた魈の傍に駆け寄ると、にこりと笑ってふわふわとした湯気が立つそれを差し出した。
「お待たせ、魈。はい、出来たよ」
「……これは?」
「湯圓。もちもちしてて美味しいの。中に餡が入ってて、熱いから気をつけてね」
匙ですくった白玉にふーっと息を吹きかける珠蓮の様子を魈は見つめる。十分に冷まして口に含もうというのに、珠蓮にはどこか熱そうに見える。もう少し冷ましてからの方がいいのではないかと進言しようと口を開くが、その時にはもう珠蓮の小さな口の中に白玉が転がり込んだ後だった。
「は、はふ……っ」
思わずと片手で口を覆う珠蓮に魈は遅かったかと僅かに眉を下げる。こうなっては仕方ないと珠蓮の手から器を取り上げ、「もう少し冷ましてからにしよう」と声をかけた。
「お前は熱いのも冷たいのも得意ではないだろう。慌てて食べる必要はない。ゆっくり食べるといい」
「う、うん……」
幼子のように聞き分け良く小さく頷いた珠蓮の様子は、常の窈窕たる淑女、璃月が誇る姫君の姿からはやはり遠い。他の者の前では決してこのような失態を犯さぬ姫君が、こうもしおらしくなってしまうのは魈の前だからだろう。
未知の料理を前に、観察に入った魈を珠蓮なりに気遣ったのもあるやもしれない。落ち着いた珠蓮が再び器を魈のもとから手に戻すと、魈は匙ですくったその未知の味をほろりと口にした。
「……」
温かいシロップに浸された白玉は弾力があり、仄かな甘みを感じる。咀嚼すれば白玉の中から熱々の餡がとろりと流れ出てきて、木の実や胡麻の華やかな香りが鼻腔を擽った。ほろほろとしたその甘みと温もりが身体の芯から温めるような、そんな甘味だった。
「……どう?」
「うむ。中々に美味だ」
「ほ、本当……?」
「ああ。我は嘘はつかぬ」
魈の肯定にふわりと花が綻ぶように珠蓮の表情が華やぐ。「よかった」と笑うのも何度目だろうか。毎度のことではあるが、一度として魈は珠蓮が作る美味を美味くないなどと言ったこともなければ、美味だと肯定するというのに、何度と繰り返しても珠蓮の反応は新鮮なものだった。
「あのね、湯圓はね、まんまるで、お月様に似ているでしょう? 円満の意味が込められた縁起のいい食べ物なの。目出度く新年を迎えたから、そのお祝いに親しい人と一緒に食べるものなんだよ」
「そう、なのか……」
改めて器の中にある白玉に視線を向ける。白く、まあるいその玉は、魈には月というよりも真珠を彷彿させた。欠けたるところもなしとシロップの艶を帯びる白玉は、確かに縁起が良さそうだ。一緒に食す親しい相手が、この上ない人物であるのだから、なおさらに。
無意識に僅かに綻んだ魈の口元に気づいた珠蓮が柔らかく笑うと、間近に迫る海灯祭について話を切り出した。
「それでね、魈。今度の海灯祭なのだけれど……私と一緒に、過ごしてくれる……?」
「……我と?」
こくりと小さく頷いた珠蓮はいつもより数段としおらしい。控えめな眼差しで「だめ……?」と伺うものだから、魈は若干の戸惑いを覚えながらも当初の役目について、冷静に言及した。
「……剣舞を奉舞するんだろう。お前にそんな時間があるのか?」
「あっ、あるっ、あるものっ」
常のおっとりとした珠蓮にしては早い返事だった。ちゃんと時間はあるのだと訴える珠蓮に魈は少々面食らいながらも僅かに視線を落とす。魈の小さくはない苦悩がその仕草にはよく表れていた。
「海灯祭の期間中は妖魔が活性化する。そう長く付き合ってはやれない……」
「それでもいいよ。長くなくても、ほんの少しでも。私は……魈と海灯祭を一緒に過ごしたい」
だからいいでしょう、とでも懇願するように。吸い込まれそうなほど純粋な煌めきを湛えた紫珠の双眸が魈をじっと見つめる。これを跳ねのけることなど、魈には到底出来そうにはなかった。
「……分かった。そうしよう」
「! ほ、本当!?」
「本当だ。もっとも、そう長くは一緒にはいてやれぬやもしれぬが――」
丁寧に魈が言葉を付け足すが、珠蓮は一緒に海灯祭を過ごせるという事実にすっかり舞い上がっているようでふくふくと笑っていて、ちゃんと聞こえているのか定かではなかった。
魈は困ったように眉を下げたが、その様子があまりに微笑ましく、無意識のうちにつられたように口元は僅かに綻んでいた。
「嬉しい。当日は私が魈を案内するね。きっと楽しく過ごせるから、楽しみにしていてね」
「……ああ。お前もあまり根を詰めぬように」
「うん、気をつける。張り切りすぎちゃって身体を壊したら元も子もないもの」
くすくすと笑う珠蓮はあまりにも無邪気で、無垢な少女そのものだ。年相応か、それよりも幾分と幼い。まるで聞き分け良く、父兄に返事をするようにいい子に振舞うその様子が、あまりにも魈の知る珠蓮らしいものだった。
二人並んで温かな湯圓をゆっくりと食す。はらりとちらつく雪が美しく、まるで化粧を施すように珠蓮の絹髪に舞い落ちる。「寒くはないか」と気遣う魈の言葉に、無垢な姫君は小さく首を振り、一息を吐いた。
「寒くないよ。だってこんなにも、温かいのだもの」
湯圓からはまだ微かに湯気が昇っている。小さく微笑みを浮かべる珠蓮を一瞥した魈は「そうか」と零し、妙に機嫌の良い珠蓮の様子を不思議に思いながらも、器に残る湯圓に口付けるのだった。
約束の日、魈は舞いの練習のために実家に戻っている珠蓮を迎えに行くため、紫朧洛を訪れていた。
相も変わらず、白木蓮が咲き誇るこの都はこの季節になると特に美しい顔を覗かせる。細やかなふわりとした雪が化粧をするように花々を彩るのだ。寒空に湖は薄氷を張り、澄んだ静けさが心を落ち着かせるようだった。
珠蓮を待つ間、そうして風景を眺めていると、不意に魈の目を何かが覆い、少女の甘やかな声が鼓膜を擽った。
「だーれだ?」
耳によく馴染んだその声を間違えるはずもない。けれどもこの行動の意図が掴めず、魈は何と答えるのが正解だろうと暫し沈黙した。けれども思案しようにもやはり理解は出来ず、戸惑いを僅かに含ませた声で「……珠蓮」と答える。するとくすくすとした小さな笑い声と共にぱっと塞がっていた視界が開けた。
「せーかい。お待たせ、魈」
「……そう待ってなどいない」
気にする必要がないと伝えるはずのその言葉は、戸惑いを誤魔化すためのような響きにも感じられる。まるで無垢な幼子のように振舞うことなど許されぬ姫君は、こうして時折、幼子の真似事をするように魈の前で無邪気な少女へと様変わりしてしまう。
それは孤独を紛らわすためなのか、己の傍を逃げ場としているのか、はたまた記憶を封じたことによる乖離が生じているせいなのか、魈には分からない。ただ、こうしている珠蓮はどこか楽しそうで、姿勢よく閉じていた羽をのびのびと開き、休めるような。そんな自然さを感じられた。
「璃月港に行こう? 海灯祭中の璃月港はすっごく賑わってるの。お店がいっぱい並んで、人々の交流も盛んで……とにかくすごいんだよ。璃月港についたら、魈、びっくりしちゃうかも」
祭りの期間は人々の往来が活発化するものではあるが、海灯祭はやはり別格だ。あまり人混みが得意ではない魈を気遣うような眼差しを向ける珠蓮に、魈は大丈夫だとでもいうように僅かに目を細める。
こうした祭り自体に参加することこそなかったものの、魈とてその賑わいはよく知っている。光るゴミにしか見えなかった霄灯が、夜闇を彩る星の光のように浮かぶその光景を彼は何千年と見てきたのだから、想像するのも容易かった。
「お前が楽しいなら、それでいい」
自然と零れ出た言葉は、紛れもない魈の本心だった。璃月港。もっとも璃月で人々が盛んに交流する地。業障を身に纏い、人々への影響を気にする魈がこうして璃月港に向かう決断をしたのも、それが理由だった。
けれども珠蓮にとってその答えは些か不十分なものであったらしい。きょとんとした顔がぷくりと小さく片頬が膨れた様に変わるのにも、そう時間はかからなかった。
「……何か気に障ることでも我は言ったか?」
「……そうじゃないけれど……」
俯き気味になった顔からはそうではないが、限りなくそれに近いという反応が見て取れる。けれど、本当に不満があるのなら珠蓮はいつものように「魈のばか」と詰ってくることだろう。そうではないところを見ると、魈の返答が珠蓮にとって不十分であったとしか言いようがなかった。
「時間がもったいないから、早く行こう? 一緒に回るところももう決めてるの。回りきれなくなっちゃう」
急かすように魈の腕を取って引っ張っていく珠蓮に、魈はやや面食らう。
「そんなに回るつもりなのか?」
「そうだよ。お祭りなんだから、楽しまないとね」
早く早くと急ぐ珠蓮に導かれるまま、魈は紫朧洛から璃月港までの道のりを歩んでいく。珠蓮を迎えに飛んで来たときには気づかなかった、海灯祭の装飾が璃月のいたるところに施してあるのに、魈はやっと気づいた。目の前でさらさらと揺れる紫がかった長い髪が、まるで共に過ごしたあの幼き日の夢の少女と重なって、眩し気に目を細める。海灯祭は、まだ始まったばかりだった。
荻花州に入った辺りで魈はさりげなく珠蓮と並び立つように前に出ると、そのまま璃月港まで向かった。人の往来が目立ってきたためだ。まだ少し璃月港とは距離があるというのに、橋を渡る頃には海灯祭の熱気を肌で感じることが十分にできていた。
至る所に提灯が並び、活気づいた港の雰囲気がこちらにも伝わってくる。港には、空へと浮かび上がる前の明霄の灯が大きく鎮座していた。
「今年の明霄の灯は浮錦仙人みたい。魈はこの方と交流はある?」
「いや……特段これといった関りはない。留雲真君の方は交流があったと思うが」
浮錦と聞いて思い浮かぶのは、碧水川の大洪水だ。単なる殺し合いだけでなく、とんでもない置き土産を置いて行ったあの魔神の被害は相当なもので、仙人たちは力を合わせて璃月の民たちを災いから守らねばならなかった。
その過程で失ったものは多く、竈の魔神、マルコシアスを始めとする多くの者が力を使い果たした。その中に浮錦の名も刻まれていたことを魈は覚えていた。
「うん、真君からもお話は聞いてるわ。とても優しく、勇気のあるお方だったって。翹英荘のお茶もこの方が齎したそうよ。ほら、前に良茶満月を食べたでしょう? あのお饅頭に使った茶葉がまさにそうなのよ」
美味しかったでしょう、と口にする珠蓮に、魈は「ああ」と頷く。それは茶葉が特別な品だったから美味であったのかは魈には少々悩むところであったが、珠蓮の様子を見る限り今度は問題のない返答だったらしい。そのままにこにことあのね、と話を続ける珠蓮に魈は相槌を打ちながら耳を傾けた。
時折、珠蓮に気づいた人々が挨拶を交わしたり、そっと見守るような眼差しを向ける中で、魈も面識のある厄除けの面を売っている店の子供が善意から二人に面を渡してくれたことから、その礼にと珠蓮が菓子を渡すこともあった。魈はその様子を黙って見ていたが、子供に「お兄ちゃんも海灯祭を楽しんでね!」と声をかけられた際には短くもきちんと返答しており、珠蓮も嬉しそうに表情を綻ばせた。
そうやって歩きながら璃月港を見て回っていると、潮風が頬を撫でる感覚に、珠蓮はいつの間にか港の方まできていたことに気づいた。
「それでね、あ……もうこんなところまで来てたのね」
「……ここにも用があるのか?」
「うん。チ虎岩のところも美味しいけれど、海灯祭ならやっぱりこっちじゃないとね」
一体珠蓮は何が目的なのか、首を傾げる魈だったが、その答えはすぐにやってきた。
港に響き渡る「さぁさぁ、海灯祭名物! チ虎魚焼きだよー!」という声に導かれるように珠蓮は迷いなく足を進め、その声がする屋台の前まで向かう。
突然現れた璃月が誇る姫君に店主はそれはそれは驚いたようだった。
「しゅ、珠蓮様!?」
「こんにちは。以前はご馳走様でした。チ虎魚焼きをお二つお願いしてもよろしいでしょうか?」
「は、はい……! もちろんです! ただちにご用意いたします!」
そうかしこまらなくてもいいと珠蓮は口にしていたが、商人の立場ではそうもいかないだろう。先に椅子に座った珠蓮がぽんぽんと隣の椅子に座るよう魈を促すので、魈も大人しく着席したものの、こういった席は正直落ち着かなかった。
「ここで前にね、刻晴さんがご馳走してくれたの。どれもすごく美味しくて、何よりこうやって出店で食べるのが新鮮だったから、魈にも食べてもらおうってずっと決めてたの」
刻晴という名前には魈も聞き覚えがある。共にオセルに立ち向かった七星の一人だ。彼女の剣捌きは魈も高く評価しており、すぐにその顔が頭に浮かんだ。
「玉衡刻晴が……そうか、よくしてもらったんだな」
「うん。刻晴さんは昔からよく気に掛けてくれて、すごくいい人なんだ」
昨年、舞いの練習に根を詰め過ぎた珠蓮を海灯祭に連れ出してくれたのも刻晴だった。仕事が早く、正確なことを多く評価される彼女だが、珠蓮はその細やかな気配りこそが刻晴の最もたる美点だと思う。おかげでこうして魈を案内できるようになったのだから、刻晴には感謝するばかりだった。
「そういえば……刻晴さん、お菓子を探してたみたいでね。前に私がお出ししたお茶菓子を気に入ってくれて、いくつか作ったりしたんだよ。少しは刻晴さんに恩返しができたと思う?」
日頃の感謝を込めて、七星が仙人たちに新年の挨拶と共に贈り物をする中に、お菓子を探していた刻晴は、以前珠蓮の実家で出された茶菓子をとても気に入り、どこの店のものだったのかを珠蓮に尋ねて来た。けれどそれは店で買ったものではなく、珠蓮が作ったもので、珠蓮はこれを快く聞き、いくつかの菓子と合わせて刻晴に差し出したのだった。
珠蓮にとっては大したことではなくとも、完璧を求める刻晴の仕事を助けたのは言うまでもないことであり、魈はそれを肯定するようにこくりと頷いた。
「我は刻晴とそう親しいわけではないが、日頃からお前をそう気に掛けてくれているのだから、お前の気持ちは確かに伝わっていると思う」
他の誰よりも珠蓮を仙人でも、姫君でもなく、ただの珠蓮という一人の少女として接する刻晴のことだ。きっと珠蓮の思いは届いているに違いなかった。
魈の肯定に優しく背中を押された心地になった珠蓮は、ふっと表情を柔らかく綻ばせながら「そうかな? そうだといいな」と微笑んだ。
「それでね――」
珠蓮が何か話そうとしたのを魈が控えめに名を呼んで制する。魚を焼いたり、揚げ物の油が跳ねる音が止んだため、会話を遮断する音がなくなってしまったのだ。
人前でこうも幼い珠蓮の姿を見られることをあまりよく思わぬ魈は、それを気遣ってやや畏まった様子で珠蓮に話しかけた。
「もう出来ます故、お話はこの辺にいたしましょう」
「……え?」
急に変わってしまった魈の態度に珠蓮は困惑し、ぱちりと瞳を瞬かせた。しょう、と形作るはずの唇は、店主の「お待たせしましたー!」というよく通る声にばらけてしまった。
「ご注文のチ虎魚焼きに、こちらは私からのサービスで、エビのポテト包み揚げになります。後ほど杏仁豆腐も持って参りますので、ごゆっくりお楽しみください」
「え……ま、待ってください。そんなにサービスをしていただくわけには……そちらもお支払いさせてください」
民たちと同じように出店に来たつもりが、思わぬサービスに珠蓮はまた別の意味で困惑した。店の利益どころか、これでは間違いなく赤字だろう。そういったことに疎い珠蓮ですら、十分に察することができた。
けれども店主はどこか誇らし気に胸を張り、煌めくような直向きな眼差しを珠蓮へと向けてくるではないか。珠蓮は戸惑うように僅かに口を動かした。
「いえいえ! まさか今年もいらしてくださるとは思わず……! こうして再びご来店いただけただけでも誉というもの。どうかここは私めの顔を立てていただけますと幸いです。それに、珠蓮様から不当にモラを取ったりなんてしたら、商人としても、璃月人としても、岩王帝君に顔向けができませんからね」
何度目かも分からぬこの対応に、珠蓮は内心で頭を抱えた。以前は刻晴がいてくれたので店主も規則通りモラを受け取ってくれたのだろう。魈は見るからに珠蓮が招いた客人であるため、店主は最初からこうするつもりのようだった。
「……帝君は契約の神です。その契約から見逃される者など、誰一人として存在しません。それは私も同じこと。帝君はご自身にすらその契約を適応なさいました。私が一方的に商人の利益を損なうようなことがあれば、帝君は私をお叱りになりますでしょう」
珠蓮の言う通り、岩王帝君はこの世で最も契約に重きを置いている。帝君にとっても予想外に献上された珠蓮を受け入れたのは、そういった契約が既に帝君と珠蓮の父の間で結んだ後だったからだ。
「ですので、ここは規則通り、是非私にお支払いさせてください。あまり自分でモラを使う機会がないので、実はこういったやりとりに少し憧れていたのです」
珠蓮の説得は店主の理解を得られたようで、店主は珠蓮の申し出を受けることにしたようだった。
「珠蓮様……そういうことでしたら、そうしましょう。けれど、サービス分は私が勝手に付け加えたものですので、チ虎魚焼き二本分だけで勘弁していただけると……押し売りは私の方が罰せられますから」
「では、そちらはありがたくいただきますね。どうもご親切にありがとうございます」
「いえいえそんな! どうぞ、冷めない内に召し上がってください」
店主の勧めに、ほくほくと湯気が立ち上る串を手に取り、ぱくりと口付けた珠蓮を見てから魈も串を取る。ほろりと魚の身が口の中で解れて、胡椒が香る。潮風を感じる屋台で食したそれは、いつもとは確かにどこか違っていたかもしれない。
店主は高貴な方の食事を邪魔をしないようにと気遣ったのだろう。何かあれば呼んでほしいと声をかけると、料理の仕込みに戻り、すぐにまた包丁がまな板の上で刻む音や、炒め物の油の音が辺りに広がった。
「どう? 美味しい?」
「ああ。美味い」
「よかった。こっちのエビのポテト包み揚げも食べてみて。前も食べたのだけれど、美味しかったんだよ」
その口振りから、魈は店主が珠蓮たちが注文した品をよく覚えていたことを察すると、珠蓮に差し出されるまま、「いただこう」とエビのポテト包み揚げに箸を伸ばした。さくっとした黄金色の衣の中から、ほくほくとしたじゃがいもとプリッとした海老が口の中に溢れ出す。少し濃いめの味付けが、屋台の雰囲気と合っていた。
「なるほど。ここで食べるのとお前が作るものとでは、やはり違うな」
「でしょう? お祭りだもの。特別な気分を味合わないとね」
「……そうだな」
珠蓮が作るエビのポテト包み揚げは、もっと繊細な味がする。一方こちらは雑味を多く感じるが、その雑味がこの璃月港の賑わいを彷彿させる。
普段から食べたい味だとは魈は思わなかったが、こういった催し事が行われる度に、きっとこの味を思い出すだろう。この少女と共に味わった、思い出と共に。
それからデザートの杏仁豆腐までを食したところで、珠蓮は会計を申し出た。魈は珠蓮に払わせることに難色を示したが、「私が魈を案内するの」と言って聞かないため、魈は渋々それを了承することにした。
「チ虎魚焼き二本で八百モラになります」
「はい、八百モラですね……ん?」
財布を取り出そうとポケットを漁る珠蓮だったが、そこにあるはずのものがないのに気づき、首を傾げる。別のところだろうかと高貴な姫君らしく、豪奢な衣装の思いつく限りの場所に触れていくが、探せど探せど、それは見当たらなかった。
魈も店主も珠蓮の様子がおかしいことに、まさかと思い至るが、やはりそのまさかであった。
「……お財布が……ない……」
もしここにパイモンがいたのなら、お馴染みの「やっぱりそうかよ!?」と叫び声が響いていたことだろう。度々真面目過ぎると言及されることの多い姫君だが、こういったところは育ての親によく似てしまったようだ。
「も、申し訳ありませんっ、お財布をお家に忘れてしまったようで……すぐに取りに戻ります。えっと、こういうときは……何かを代わりに置いていくのですよね……? 私の命ともいえるこの剣を……あ、屋台に剣があるのはあまり――」
どうしようと頭を抱えている珠蓮に、魈は反射的に落ち着けと出そうになった声を飲み込み、やはりどこか畏まった様子で口を開いた。
「姫君。どうか落ち着いてください」
「しょ、魈……」
「大丈夫です。モラならば我が持っておりますので、何の問題もありません」
珠蓮が何かを言うよりも早く、魈は「確認してくれ」と店主にモラを差し出す。店主も最初はどうするべきか戸惑っていたようだが、そのモラを見た瞬間、驚きの声を上げた。
「お、お客さん! これは……っ、もし間違いでなければですが、大分古いモラではありませんか!?」
「そうだが……何か問題でもあるのか?」
通貨は変わらずモラであるため、魈は利用期限などはないと認識していたが、違っただろうかと僅かに眉を寄せる。店主は慌てて言葉を付け加えた。
「いえ、特に利用には問題はないのですが……コレクターなど一部では古いモラや珍しいモラは本来の何倍、何十倍にも価値が膨れ上がるんです。このモラは状態もいいですし、これはここでは使わず、取っておいた方がよろしいでしょう」
そう言って丁寧に店主が魈にモラを返そうとすると、魈はそれをそっと制するように手を向ける。
「かまわぬ。生憎手持ちはこれだけだ。我はそういった俗世の事とは無縁故、どこで使おうとそう変わらぬ」
「ですが……」
受け取る様子のない店主に魈は僅かに沈黙すると、珠蓮に聞こえぬよう声を潜めた。
「……お前がこれを受け取らぬのならば、姫君はモラを取りに戻らねばならなくなる。すでに契約は履行されているのだ。ここはこれで収めてくれ」
「あ、それは……その、ではおつりを……!」
「構わぬ。正当な利益だ。お前が受け取るといい」
魈はモラを台に置くと、椅子から立ち上がり、珠蓮が立ち上がるのを手伝うように手を指し伸ばした。珠蓮は常の魈らしからぬその仕草にやはり困惑しているようだったが、大人しくその手を取った。
「魈……」
「支払いはすみましたし、あまり潮風に当たるのもよくありません。少し移動しましょう」
まるで鍾離に接する魈を見ているようで、珠蓮は何も言えず、こくりと頷く。店主の「ありがとうございました!」という明るい声に反応を返すと、二人は璃月港から少し離れた平原へと向かい、そこで話をすることにした。乾いた岩肌に腰掛けた珠蓮は、俯きがちに、ややきまりが悪そうにぼそぼそと口を開く。魈は岩肌に背を凭れながら静かに耳を傾けた。
「魈……その、さっきはごめんなさい。お財布、忘れないように昨日何度も確認したはずなのだけど……あんまりに出し入れをするものだから……きっと、どこかで間違って置いて来ちゃったんだと思う……」
今まで幾度も財布を忘れて来た珠蓮は、己の性質をよく理解している。魈と海灯祭を一緒に過ごすと決まってから、いや、決まる前から、珠蓮はこの日を楽しみに財布を新調したり、財布が入っていることを確認したものだが、返って事態を悪化させてしまったようだった。
すっかり気落ちしてしまった珠蓮を慰めるように魈は気にしていないと頭を振った。
「そういう時もあるだろう。次は気をつければいい」
「次……次も一緒にお祭りを回ってくれるの?」
魈にとってその言葉には特に深い意味はなかったが、珠蓮の無垢な眼差しに否と言えるはずもなく、僅かな沈黙の後に頷いた。
「お前がそれを望んでくれるのなら。我は応えよう」
「! うんっ」
途端に萎れていた花びらが可憐に綻ぶように。満面の笑みを浮かべる珠蓮に魈は安堵した。何ら大したことはないのだ。この少女の平穏を護れるのであれば、何だって。魈にとっては苦労などと思うこともないのだから。
「そういえば、さっきの魈、急に変な話し方だった。どうして?」
変な魈、と顔にありありと書かれているような表情をする珠蓮に、魈は穏やかに答える。
「いずれお前にも分かる時が来る。そう気にすることはない」
「気になるのに……」
魈が答えないことに珠蓮はやや不満そうな顔を浮かべたが、魈の珠蓮を見つめる黄金色の瞳が、優しい温もりを宿している事に気づいて、何も言えなくなってしまう。ぼそりと「変な魈」と呟くだけ呟いて、珠蓮もくすりと笑う。珠蓮にとっては魈が変≠ネことなど、今に始まったことではないのだ。
岩に括りつけられ、空へと浮かび上がる前の明霄の灯がここからもよく見える。珠蓮はしまっていた霞生石を二つ取り出すと、その一つを魈に差し出した。
「はい。これは魈の分」
「霞生石か? 何故これを……」
「海灯祭ではこの浮上の石に願い事を刻んで、明霄の灯と一緒に空に飛ばすのが伝統なんだよ。魈もちゃんと願い事を刻んでね」
鈍く青く光るその石は魈も見覚えのあるものだったが、まさかそんな伝統があるとは知らなかった。二千年以上も生きているというのに、こういったことは知らないことばかりだ。霄灯の編み方だって、結局分からず仕舞いで、屋台の味も今日知ったばかり。魈に新しいことを教えてくれるのは、いつだって珠蓮だった。
「今年も忙しくて霄灯は編めなかったから……せめてこれだけはちゃんとしようと思って。どんなお願い事をしても大丈夫だよ。だって、皆の願い事を届けてくれるのは、仙人たちなのだもの。きっと魈の願い事も叶えてくれるよ」
直向きな、先人たちへの珠蓮の信頼が魈には眩しく、そして温かく感じる。魈はふっと表情を綻ばせると「そうか」と答えるのだった。
願い。それは魈にも存在する。そう言ったことを軽々しく口にするのを魈は好まないが、こうして刻むことを魈は受け入れることにした。言葉にしてしまえば叶わなくなりそうで、けれど、こうした思いに応えることを、願うことの意味を、魈はちゃんと知っているのだ――。
その日の夕餉は、鍾離の目から見ても、随分と豪勢なものだった。海灯祭期間中とはいえ、これほど手間のかかった料理を並べる家庭もそうはないだろう。瑠璃亭や新月幹といった老舗が誇るフルコースにさえ勝るような食卓は、正に錦衣玉食といって差支えないものだ。魈と出掛けるとは聞いてはいたが、なかなか有意義な時間を過ごせたことはこれだけで一目瞭然であった。
「随分と充実した時間を過ごせたようだな」
「はい、お陰様で。師範に勧めていただいた場所を回ったところ、魈もとても楽しそうでした」
「そうか。力になれたのなら何よりだ」
鍾離には見るからに楽しそうにはしゃぐ魈というのは想像しづらく、実際そう大袈裟なものではなかっただろうが、珠蓮にはそう見えたのだろう。であれば、はしゃいでいたのは珠蓮の方であり、その姿を見守っていた魈の雰囲気が和らぐのも自然なことだと、正確にその状況を読み取っていた。
「魈が璃月港に来るのは珍しいからな。人と関わるいい機会だと思ったが、実のところ同時に少し心配もしていた。だがその様子を見るに、その心配も杞憂だったようだな」
「はい。口数こそ少なくありましたが、魈は人々との交流もきちんとしていました。そういえば、お面の出店のところのお嬢さんとは知り合いだったようで、お面もいただいたのですよ」
もらったというお面を珠蓮が「これです」と両手で掴んで見せる。魔除けとして親しまれるその面は、海灯祭でよく見る様式のものだった。
「いいものを貰ったな。大事にするといい」
「はい、勿論です」
大事に飾っておこうとする珠蓮の様子を後目に、料理に舌鼓を味わう鍾離は、二人が海灯祭で璃月の美食をどう味わったのか気になり、そちらに話題を広げる。
「昼食はどうした? お前が作ったのか?」
「いえ、せっかくの海灯祭ですから、屋台のものをいただきました」
「それはいい。祭りの期間に食べる屋台はなかなか趣のあるものだ。特に、埠頭付近で潮風を感じながら食べるものは格別なものがある。お前も当然、そうしたことだろう」
鍾離が言う通り、そう行動した珠蓮は「はい」とこくりと頷く。けれど同時に、あの苦い失敗が脳裏を過り、どこか沈んだ表情を浮かべた。
「どうした? 何かあったのか?」
「それが……その、ちゃんと入れたつもりだったのですが……お財布を忘れてしまって……」
消え入りそうな声でしゅんと萎んだ珠蓮に鍾離はぱちりと瞳を瞬かせる。何度も確認する様子を鍾離もみていただけに、なるほどという気持ちもあった。
「そうか。それでお前はどうした? 財布を取りに帰ったのか?」
「いえ……そうしようとはしたのですが、魈が代わりに払ってくれたのです」
「魈が?」
「はい……私がちゃんと案内するはずでしたのに……面目ないです」
項垂れる珠蓮を前に、鍾離はふむ、と何やら思案する。珠蓮はそれからもまるで懺悔でもするかのようにぼそぼそとその話の続きを語った。
「お店の方が言うには、魈が持っていたモラは大分古いものらしく、とても価値のあるものだったようです。その店主はおつりを申し出ましたが、魈はこれを断り、そのまま通常のモラと同じ値として払っていました」
魈に迷惑をかけてしまったと反省する珠蓮だったが、鍾離は今の言葉でそのモラの起源の確信に至り、在りし日を思い出すかのように懐かしそうに目を細めた。
「そうか……まだ使わずに持っていたのだな……」
「え……?」
不思議そうに首を傾げる珠蓮に、鍾離は昔話をするように温かい目でその経緯を語り始めた。
「まだモラが人々に馴染むより前の話だ。俺は契約≠結ぶための手段として、共通の通貨を作ることにした。神の心を使い、モラを鋳造し、それに意味と価値を与えるまでにはやや苦労をしたが、その過程で俺はいつか仙人たちにもモラが必要になる時が来るだろうと、いくつかのモラを彼らに与えたのだ」
もっとも、仙人の多くは魔神戦争が終結すると俗世から離れ、静寂を好んだがために、そのモラが使われる機会はそうなかったのだが。それでも、その時岩王帝君から賜ったモラを仙人たちが無意味に手放すこともなかった。
「まさか、未だに使わず持っていたとはな……実にあいつらしい」
モラを与えた際にも、魈は『このようなもの、我には不要です』と首を横に振ったのだったか。『俺が作ったものが気に入らなかったか?』とわざと問えば、魈は滅相もないと僅かに焦りをみせた。そうして説き伏せて、半ば無理やり渡したモラが、こうして二千年以上経って日の目を見るとは、やはり何があるかわからないものだ。
けれど、その話を聞き終えた珠蓮の顔は、その時の魈よりも遥かに血の気を失くし、青白くしたものだった。
「珠蓮……?」
「ど、どうしましょう! わ、私、そんな……っ、そんなに、大切なものだったなんて……!」
明らかに動転している珠蓮を落ち着かせるように、鍾離が優しく声をかけるが、珠蓮はそれどころではなかった。
「魈はそのモラを一等大事にしていたはずです……! だって帝君から頂いたものなのだもの! なのに、なのにっ、こんな、こんな使い方……っ!」
今にも紫色の瞳からぽたぽたと涙が溢れて来そうな表情だった。きゅっと噛みしめた唇が痛々しく、傷になってしまいそうで、鍾離は箸をおいて珠蓮を宥めようとしたが、常の淑やかな様子とかけ離れた彼女は、平静を欠いていた。
「珠蓮――」
鍾離が声をかけたところ、彼が何かを言う前に珠蓮が勢いよく立ち上がる。
「私っ、今からお店に取り換えていただけないか相談しに行ってきます……!!」
「待て、珠蓮。もう遅い。それは明日に――」
「すぐに行かないと! 明日じゃ間に合わないかもしれませんもの!」
そう言って鍾離の制止を振り切り、まるで風のように財布を手に去っていく珠蓮の残像を鍾離は見送る。言っても聞かぬことなど、事情は違えど杏仁豆腐の作り方くらいだったように思ったが、よくよく考えてみれば、先祖返りの仙人として、武神玄武の在り方として思い悩んでいた頃の珠蓮もこのような傾向はあったのを思い出す。
まさかそれがモラにも適用されるようになろうとは、本当に何があるかわからないものだ。もっとも、この場合は魈が絡んでいるため、そう単純なものではないだろうが。
鍾離は残っていた茶を口に含み、飲み込むと、腰を上げて珠蓮の後を追うことにした。よもや璃月港で珠蓮に何かあるとは思わなかったが、彼は間違いなく彼女の保護者なのだ。珠蓮が伸び伸びと過ごせるよう気を配る一方で、根を詰め過ぎぬようにと見守る責任もある。夜の散歩もこの海灯祭期間ならば更に良いものだと、街並みを眺めながら歩みを進めるのだった。
「え……な、なくなった……?」
呆然とした珠蓮の呟きが夜風に攫われる。ふわりと靡く髪が、なおさら彼女の物悲しさを物語るようだった。
店主はそれはそれは申し訳なさそうな顔でこれまでの経緯を語った。
「はい……私としてもあのモラの価値は相当なものだと思い、黙って懐に収めるのには気が引けまして、総務司に然るべき場所に収めていただこうと考えたのですが、ちょうどお客さんが次から次へと見られまして……モラを避けておいたのですが、客足が途絶えていざそちらを見てみますと……なくなっていたのです」
時間にして一時間程だろうか。貴重なモラだからと確かに引き戸にしまっておいたはずが、総務司に届け出ようとしたところ、覗いてみたらモラはなかったのだ。
「誰かに盗まれたのかと思い、千岩軍には既に通報しておりますが……いつ見つかるか、そもそも見つかるかどうかも……申し訳ありません」
「謝らないでください、あなたは何も悪くないのですから。こうして払ったモラを取り変えてほしいとお願いするのも不躾なことなのですから……」
倍額で引き換えを申し出た珠蓮が現れなければ、この店主もここまで落ち込みはしなかっただろう。儲けを得ることが出来たというのに、わざわざ総務司に届け出ようとするような善良な商人だ。珠蓮は自分が衝動的に突っ走ってしまったことを後悔した。
「いえいえ! とんでもないです。本来ならばあれほど価値のあるものはそうありませんから……ご一緒だった方も、さぞご高名な御方なのでしょう。こちらこそこのような結果になって、不甲斐ないばかりです。もし例のモラが見つかりましたら必ず珠蓮様にお渡しさせていただきますので……! 今暫くお待ちください」
両手を合わせて頭を下げる店主に、珠蓮は慌てて頭を上げるように口にした。
「どうか頭を上げてください。私もモラの行方を探してみますので、そう落ち込まないでください。大丈夫です、きっと見つかりますから」
「珠蓮様……」
とはいっても珠蓮にも手掛かりがあるわけではない。一先ずは千岩軍と情報を共有し、ここら一帯を調べる他ないだろう。それで何か手掛かりが出てくるといいが、出てこなかった場合は手当たり次第に当たっていく他ない。不安はあったが、それを悟らせぬように、珠蓮は気丈に微笑んだ。
「では早速――」
「それは明日にしよう」
「し、師範!」
今すぐにでも探しにいこうとした珠蓮を止めたのは、追いついてきた鍾離だった。
鍾離も話は概ね把握しているようで、空を見上げては、満月へと形を近づけている月を見て、ふっと表情を緩める。
「こうも遅い時間では見えるものも見えなくなってしまう。それよりも早く寝て、早くに起きて活動する方が効率的だろう。時を急ぐのは簡単だが、返って停滞することもある。時には一度足を止め、状況を見るのも大切なことだ」
鍾離がそう諭すと、珠蓮もようやく冷静になってきたようで、こくりと頷いた。
「師範……その通りです。今日はゆっくりと休み、明日に託すことにします」
「ああ。それでいい。店主、世話になったな」
「いえ! 大したお構いもできませんで……」
気にすることはないと鍾離と珠蓮が首を振り、何かあれば情報を共有すると約束して、二人は店主と分かれ、帰路を辿った。
その間、珠蓮が思考をモラでいっぱいにせぬようにと気遣った鍾離が、出店で出ているフルーツ飴や綿菓子などを買い与えようとしたのだが、今度は鍾離が財布を忘れていることに気づいた。幸い、珠蓮が財布を持ち出していたため、無事に支払いを終えたのだが、これが昼の出来事と重なって珠蓮も思わずくすくすと笑い声をあげた。その様子を鍾離も微笑ましそうに見つめ、その日は明日に備えて早くに眠ることにした。
一体モラはどこに消えたのだろう。その謎はまだ、始まったばかりだった――。
まだ朝陽が昇りきるより早いうちから屋台の周辺を探っていた珠蓮だったが、これといった異変は見つからなかった。千岩軍とも情報を共有しようとしたものの、そちらにもこれといった収穫はないようで、あのモラが珠蓮と関係のあるものだと発覚したことで、優先的に人員を割いてくれることにはなったものの、具体策も思いつかないままだった。
珠蓮は一抹の不安を抱きながらも、今日の舞いの稽古を終え、日課をおろそかにするわけにもいかず、美食を届けるために留雲真君のもとを訪れることにした。
「真君。本日の美味をお持ち致しました。あら……申鶴姉様……? 姉様もいらしていたのですか?」
奥蔵山には留雲真君の他に、申鶴の姿があった。申鶴は珠蓮と殆ど入れ替わる形で璃月港に移り住んだ留雲真君の弟子だ。人の身でありながら、その気質は仙人に限りなく近く、交流する機会こそあまりなかったものの、珠蓮は彼女を姉弟子として慕っていた。
「ああ。この時期になると、人々は親しい者に食べ物を届けると聞いてな。我もそうすることにしたのだ」
「甘雨もいたのだが、あの子は仕事があるとかで慌ただしく出て行ってしまった。少し前までは玉衡も旅人も来ていたのだが……惜しかったな」
それを聞いた珠蓮は残念そうに眉を下げる。常から忙しくしている姉弟子や刻晴と共に時間を過ごすのはそう簡単ではないが、どこにいるかもわからない旅人と合うのは、更に難しいことだ。
唯一の救いは、この時期に璃月を訪れたということは、海灯祭を目当てに来ているはずなので、もう暫くは璃月に滞在するであろうことが察せられることくらいだろうか。
「ん? 珠蓮も食べ物を持ってきたのか?」
「はい。こちらはあまり時期などは関係ないことではあるのですが……」
持ってきた包みを二人の前に広げると、中から良茶満月が現れる。茶の香りが豊かに香り、艶やかな深緑が美しい輪郭を保っていた。
「よろしければ姉様も召し上がってください」
「いいのか? 美味そうだ。いただこう」
「どれ、妾も……」
ぱくりと口に咥えると、中から甘い餡とほろりとした黄身が綻ぶ。断面を見ればその名に相応しい月が見え、真君らの目をも楽しませた。
「今日もさすがの品だな」
「うむ、美味だ」
滅多に表情の変わらぬ申鶴の口元が僅かに綻んだのを見て、珠蓮も嬉しそうに微笑む。この菓子は二人の口に合ったようだ。
豊かに鼻に留まるその香りに、留雲真君はこの菓子に使われた茶葉に覚えがあることに気づき、感慨深げに目を細めた。
「優れた料理人とは、ただ腕が良いというだけでなく、相手の趣味嗜好や、大切にしているもの。果ては趣に機転を利かせるものだ。その点、お前は本当に優れた料理人だといえよう」
「真君……」
留雲真君の思慮深い眼差しは、璃月港の方角へと向き、明霄の灯に思いを馳せていた。この海灯祭期間、絶雲の間に残った仙人は留雲真君だけだったが、それでも弟子の差し入れと七星からだという贈り物によって、十分にその雰囲気を楽しむことができていた。
「そういえば、珠蓮よ。降魔大聖と祭りは楽しめたか?」
珠蓮から魈と海灯祭に出掛けることを聞いていた留雲真君は、結果が気になるようで、珠蓮からその話を聞き違った。だが珠蓮はというと、その話題が出た瞬間、モラのことを思い出し、困ったように眉を下げた。
「その……楽しく過ごすことは出来たのですが……私がうっかりしてしまいまして。お財布を忘れてしまい、魈に代わりに払わせてしまいました……」
しゅんとする珠蓮に、留雲真君は何だそんなことかと片翼を広げた。
「そんなもの払わせておけばよいのだ。降魔大聖のことだ。どうせモラを使うこともなく無意味に貯め込んでいるのだろう。ようやく日の目を浴びたのだから、むしろ良い事だろう」
――それに、他ならぬお前に使うのだから、出し惜しむようなこともあるまい。とは、さすがの真君も口にはしなかったが、真君には何を憂うこともないように感じられた。
けれどもそのモラの経緯を知ってしまった珠蓮としては、そこで素直に頷くことはできなかった。
「ですが、魈が使ったモラは……モラを製造された当初、帝君から賜ったものだそうなのです。魈はきっと、今までそれを大事にしてきたはずで……こんな形で手放すことになるなんて……」
再びしょぼしょぼと萎れていく珠蓮に留雲真君は内心で慌てた。常々真面目過ぎる娘だと思ってはいるが、今回ばかりはそうも言って終わらせるわけにはいかない――真君が実際にその一言で終わらせたことなどないのだが――心の優しい娘だ。魈のことを思って自責の念に駆られる珠蓮に、真君は何といったものかと思案した。
(珠蓮に降魔大聖は後悔していないだろうことを伝えても、あまり意味はないだろうな……。降魔大聖にとって、帝君の存在は大きい。それを珠蓮はよく知っている。知っているからこそ、このように思い悩んでいるのだから、どう言ったものか……)
留雲真君がそうやって慎重に言葉を選ぼうと頭を悩ませている横で、良茶満月を食べ終えた申鶴が不思議そうに口を開いた。
「モラは物品と交換するための品だと聞いたが……違っただろうか?」
「それは、確かにそうですが……」
「なら何の問題もないのでは? 使わぬモラは、ただのモラでしかないのだから」
随分とばっさりと言い切る申鶴に留雲真君が慌てて「し、申鶴……!」と声を上げる。一瞬呆然としていた珠蓮もはっとして「そ、そうかもしれませんが……」と控えめに口を開いたが、姉弟子に口答えをするようでそれ以上口に出すのは憚れたようだった。
「ん? もしや……それを眺めて飾っておくつもりだったか? 璃月港で何度か骨董品を目にした。それらの価値は我には分からなかったが、皆大事そうに飾っていたように思う」
骨董品と帝君から直々に賜ったモラを一緒にしていいものかと留雲真君と珠蓮は頭を悩ませたが、俗世に疎い申鶴がそういった璃月港での営みに目を向けているのはいい傾向だろうと結論付け、珠蓮は少々それに言葉を付け足すことにした。
「品々には、思い出が宿るものです。遠い昔のことでも、その頃を思い出す何かがあれば、その思い出は永遠になります。例えば、すぐそこにある石を私が持ち帰ったとしましょう。であれば、私はこの石を見る度に今日のことを思い出すはずです。物には遠い過去と今を繋ぐ、力があるのですよ」
それが何の変哲もない石だとしても。物に意味を与えるのは生きている者の特権だ。それをただの石ころと決めるのか、何かの意味を持たせるのかは当人の自由であり、権利でもある。珠蓮の話を聞いた申鶴は素直にそれを聞き入れ、立ち上がるとすぐそこにあった石ころを拾った。
「そうか。ならば我もそうすることにしよう」
「申鶴……」
「よく見てみれば、この石は丸い形をしていて、先程食した良茶満月をどことなく想起させる。珠蓮が言った通り、我はこれを見る度に、ここで師匠と良茶満月を食したことを思い出すだろう。それはいい思い出だ。いい思い出は何度思い出しても心を温かくしてくれる」
いいことだと口にする申鶴の様子に、留雲真君も珠蓮も心が温まるような心地になる。申鶴の言葉はいつも真っ直ぐで、穢れがない。はっきりといい思い出だと言い切った申鶴にお返しするように、珠蓮も真心を尽くした。
「では、もしまた良茶満月が食べたくなったら私にお言いつけください。そうなれば、私は今日と同じに腕によりをかけて、今度は甘雨姉様の分もお作りして皆様方をおもてなしいたします」
「それはいい。お前の作る美食は疲労を彼方へと吹き飛ばしてくれる。多忙な甘雨も落ち着くことができるだろう」
「ああ、我も楽しみにしている」
満面の笑みで「はい」と頷いた珠蓮に、今度は留雲真君が新たな提案をする。モラを対価に有意義な時間を過ごすことは出来ただろうが、それでも気に病むのなら、別の物を探すことを思いついたのだ。
「降魔大聖のモラだが……使ってしまったものはしょうがない。なれば、お前が何かモラに代わる品を用意するのはどうだろう?」
「モラに代わる品……」
そう言われて想像してみた珠蓮だったが、静かに首を振った。帝君に賜ったモラと引き換えられるものなど、珠蓮にはやはり思い浮かばなかったのだ。
「そのような品は思いも付きません……やはり、モラを見つけるしかないでしょう。実はこの経緯を知った後、店主にモラを引き替えていただけないか尋ねたのですが、件のモラが紛失したそうで……行方を探している最中なのです」
新たな情報にそうだったのかと話を聞いていた留雲真君であったが、紛失というただならぬ事態に眉を顰めた。
「紛失? それはいったいどういうことだ?」
「店主が希少なモラなので、総務司に届け出ようとしたところ、少し目を放した間になくなっていたそうで……」
「それはまた……」
ややこしいことになったものだと留雲真君は頭を悩ませた。窃盗だろうか。ただ失くしたというには希少価値がありすぎて、そちらを疑う方がよっぽど自然な流れだった。
どうりで珠蓮が落ち込んでいるわけだ。原因が判明したことで、留雲真君は愛弟子のためにこの状況をなんとかしてやろうと一肌脱ぐことにした。
「窃盗だと決まったわけではないが……もしそうであった場合、犯人は現場に再び戻る傾向がある。妾の絡繰りを貸してやろう。きっと役に立つはずだ」
「それなら我も一緒に璃月港に戻ろう。一人より二人の方が見つかりやすい」
「真君……申鶴姉様も……ありがとうございます」
二人の温かな心遣いに胸がじんわりと温まっていく。留雲真君はすぐさま洞府の中へと戻り、珠蓮に貸す絡繰りを取りに戻ってくれ、絡繰りの説明を一通り聞いた後、申鶴と共に璃月港へと戻るのだった。
同時刻、珠蓮が奥蔵山に足を踏み入れた頃、旅人たちは望舒旅館に到着していた。七星からの贈り物を今度は魈に届けに来たのだ。
運よく魈は望舒旅館にいたようで、旅人たちの前に姿を現してくれた。
「オイラたち、おまえに海灯祭の贈り物を届けに来たんだ! ほら、美味しいもんがいっぱいあるぞ!」
山積みになった品々はどれも一目見て高級品と分かるものだった。魈はそれをゆっくりと楽しむこともなく、すぐに断りを入れた。
「このような贅沢な品、我に渡す必要はない。無駄になる」
「七星が特別に用意した物なのに」
「……。妖魔退治は我らが責務、礼などいらぬ」
魈にとっては当たり前のことをしているに過ぎないのだろう。二千年以上も妖魔退治をすることで、己の身に蓄積された魔神の残滓を影響を気遣うように、魈は距離を取ろうとしているようだった。
「「業障」は人には毒だ。たとえ凡人を遥かに超える身体能力を持つお前たちでも……我に気安く近寄らない方がいい」
「おい待てよ! もう行っちゃうのか?」
すぐさま去ろうとする魈を引き留めるようにパイモンが声をかける。
「うぅ、もうすぐ海灯祭なのに、ゆっくり休んだりしないのか?」
「一緒に璃月港で花火を見よう」
常ならば「……騒がしい場所は我の好みではない」と口にしていただろうが、魈は僅かに迷うような素振りを見せた後、静かに答えた。
「……海灯祭なら、十分すぎるほどもう楽しんだ」
「え!?」
驚きを露わにするパイモンと旅人だったが、旅人はすぐに心当たりが浮かび、もしかしてと口を開いた。
「珠蓮と一緒に行ったの?」
「……ああ」
魈の肯定に旅人の口元に微笑みが浮かぶ。これにはパイモンも大いに納得したようで、「仲が良さそうで何よりだぜ!」と満面の笑みを浮かべた。
刻晴はこれを好機と見て、事前に甘雨と相談しながら決めていた通り、一気に畳みかけた。
「その、贈り物の中には光栄なことに珠蓮姫にご協力いただいた甘味もございます。よろしければこのお品だけでも受け取っては頂けないでしょうか?」
仙人に対して七星代表として礼を尽くす刻晴だったが、今回はその礼節にも一等気を配り、言葉によくよく気を付けているようだった。
(降魔大聖はあまり礼節に重きを置く方ではないようだけれど、殊、帝君と珠蓮が絡むことだけは別。決して押しつけがましくないように、礼節を尽くさなければならないわ)
全ての七星の顔に泥を塗らないよう、人と仙人の関係をより良いものにできるようにと細心の注意を払う刻晴の様子を黙って見ていた魈だったが、その贈り物には心当たりがあった。
(珠蓮が言っていたのは……これか)
刻晴が菓子を探しているといっていたのは、どうやらこのためだったらしい。あの様子を見るに珠蓮はよく知らぬようであったし、刻晴がわざと隠して頼むとも考えられず、大方珠蓮の善意から差し入れたものだろうと魈はその経緯を正確に解する。
であれば、これを受け取らぬとなるとその菓子の行方や、刻晴と珠蓮の関係を踏まえた末に、魈が採れる行動など一つしかなかった。
「分かった。受け取ろう」
魈の承諾に刻晴が内心でほっと息を吐いたのと同時、パイモンが待ちきれないとばかりに贈り物の方に飛んでいく。
「わぁ! なぁなぁ! オイラ、珠蓮の作ったお菓子がどんなやつなのか気になるぞ! よかったら開けてみせてくれないか!?」
「ちょっとパイモン」
「構わぬ。開けてみよう」
そちらも承諾した魈は布に包まれた包みを開ける。甘い匂いが香って、パイモンの口の中にはすでに涎が溢れ出てきていた。
中には色とりどりの小さな菓子が入っており、端正な見た目が心のこもった品だということを感じさせ、食べるのを惜しく思うほどだった。隣からぐぅ、と腹の虫が鳴る音が聞こえ、魈はその包みごと「ほら、食べるといい」とパイモンに差し出した。
「い、いいのか!?」
「ああ。斯様に美しくとも、菓子である以上はいつか食さねばならない。腹が減っているのならちょうど良いだろう」
「で、でも、おまえのものなのに……」
いくら腹が減っていようと、どれだけ美味しそうでも、魈に贈れたものであり、なおかつその贈り主が珠蓮であるということもあって、パイモンの中での天秤が食欲にギリギリ打ち勝った瞬間であった。
けれど魈は全く惜しむ様子もなく、むしろ何かを噛みしめるように言葉を発した。
「一人で独占するより、分け合った方がこういった場合は数段美味く感じるものらしい。我はこれを適切に食す必要がある。その手伝いをすると思ってもらえれば構わない」
「え……それって……」
もしかしなくとも、魈に諭したのも珠蓮だろう。旅人と顔を見合わせたパイモンは、旅人のゴーサインを受けてパッと魈の方へと飛びついた。
「おまえたちって本当にいい奴らだよな! オイラ、喜んで手伝うぞー!!」
はむっとパイモンが菓子に食いつくのを見届けると、魈は旅人と刻晴にも菓子を分け与える。旅人は素直に受け取ったものの、刻晴には一瞬遠慮が見え、どうするべきか最適解を算出するとそっと受け取った。
(まさか……我がこうして、お前以外とも食事を共にする日が来るとはな……)
きっとそれを珠蓮が知ったら驚きつつも喜んでくれるだろう。それがお前の作った菓子だったど言えば、なおさらに。
そうして刻晴の巧みな話術と誘導により、贈り物の内容を説明されると、それが魈自身には直接必要ではなくとも、多くに活用できる品であることに納得し、魈はとりあえずこれを受け取ってくれることになった。
中でも彼の目を惹いたのは美しい絹織物で、それが誰の為であったのかは――ここにいる全員が察することであったのは、言うまでもない話である。
璃月港に戻った珠蓮と申鶴は、留雲真君の言いつけ通りモラがなくなったとされる屋台の近くまで来ると、珠蓮たちを見つけた店主が駆け寄ってきたので事情を軽く説明し、絡繰りの使用と屋台を調べる許可を得ることに成功した。
犬のような見た目をしたその絡繰りは辺りの匂いを嗅ぐような仕草を見せながら、ゆっくりと歩いていく。留雲真君曰く、モラ自体は古いというだけでその構造は同じであるが、魈に長い間保管されていたモラには少なからず彼の仙力が付着しているとのこと。絡繰りはその仙力を辿るための絡繰りであり、この絡繰りが示した方にモラがある可能性が非常に高かった。
「あ、反応が……」
「ふむ、荻花州の方か」
絡繰りが反応したのは荻花州の方向だった。二人は絡繰りに導かれるようにその後についていく。時折匂いを嗅ぐ動作が入るが、概ね順調に進んでいた。
だが、絡繰りが進む道はまるで小動物が通るかのような狭い道が多く、珠蓮と申鶴でなければやや苦労する道のりであった。
草木をかき分け、軽い身のこなしで進む二人を絡繰りが導いた先は、軽策荘に近く、何やら人が揉めているのが見て取れた。
「あれって……刻晴さん?」
「旅人たちもいるようだ」
二人が近づいていくと、刻晴たちも気づいたようで、パイモンが驚いた声を上げた。
「珠蓮に申鶴!? おまえたちも宝盗団を追っていたのか!?」
「宝盗団……?」
きつく手足を縛られて団子になっている人々に目を向けると、確かにそれは宝盗団だった。珠蓮の姿を見た宝盗団はそれはそれは慌てた様子で必死に弁解した。
「まさか! 俺たちはただ花火を盗んだだけだ……! 珠蓮様の持ち物に手を出したりなどはしていない!!」
「まぁ、花火を城内に持ち込んで火はつけようとしたけど……」
「しっ! 余計なことを言うな!」
ぽろっと口を零した団員を慌てて𠮟りつける頭領だったが、しっかりと耳にした刻晴の目は静かに吊り上がる。素直に告白するしか彼らの道はないようだ。
「……花火は強い光を放ち、爆音を響かせる。だから火をつければ騒ぎが起こるだろ? その隙に城内に入って、一稼ぎしようとしてたんだ……」
けれどもそれには花火の数が足りなかったらしく、宝盗団は軽策荘の子どもやお年寄りに届けられた花火を盗み、悪だくみをしていたところ、その中の一人が飛雲商会に捕まったことで官府に連れて行かれ、捕まった仲間が全てを自白するのではないかと心配していた中で、自分たちも刻晴らに捕まったというわけだ。以前捕まえた宝盗団の口を千岩軍が割ったこともあり、その動きは実にスムーズだった。
だが気になるのは絡繰りが珠蓮たちをここに導いたことだ。絡繰りは暫く沈黙していたが、何かに反応を示すと、宝盗団がまとめた物資に寄って行った。
「ところで……それは何なんだ?」
「真君からお預かりした絡繰りです。とあるモラを探していて、その手伝いをしていただいてるんです」
「モラ?」
不思議そうに首を傾げるパイモンとは反対に、頭領は何か心当たりがあるようで、すぐにまずいといった表情を浮かべる。それを見逃す旅人と刻晴でもなく、すっと眉を吊り上げて「何か知ってるのね?」と威圧した。その威圧に耐えられず、頭領はしどろもどろになりながらも口を開くと同時、物資の中から何かが飛び出て来た。
「わ! 宝盗イタチだ!! 何か持ってるぞ!」
「あれは……魈のモラ……!」
「え!? 魈のなのか!?」
ぴょんと飛び回る宝盗イタチを申鶴がひょいと掴み上げる。じたばたと暴れていたが、やがて大人しくなり、首にかかったモラを取り上げると、申鶴はそれを珠蓮へと渡した。
「ありがとうございます、申鶴姉様」
「やけに入り組んで狭い道を通るものだと思ったが、こやつの仕業であったのなら納得だ」
「ええ、本当にそうですね」
きらりと両手の上で輝くモラに視線を落とした珠蓮は、ほっと安堵の表情を浮かべる。珠蓮たちの探し物が終わったところで、パイモンが事情を尋ねてきた。
「なぁ、おまえたち、魈のモラを探してたのか?」
「正確には魈が払ったモラ……なのですが、これを探していたのは事実です」
珠蓮はここまでの経緯を旅人らに説明すると、最初は三人とも驚いていたものの、概ね珠蓮らしいといった感想に落ち着いた。珠蓮の冒険はここで一段落ついたところだが、刻晴らの仕事はまだ終わってはいなかった。
「このイタチは宝盗団で躾けられた動物よね? ペットの不始末は飼い主であるあなたたちの責任。当然、これも含めて正当な罰を受けてもらうわ」
「そ、そんな……!」
まさか珠蓮と関係があったとは宝盗団も思わなかっただろう。稀に見る価値の高いモラをイタチが持って帰ってきたと喜んだのもつかの間、更なる罪を重ねることになった彼らは随分と項垂れていた。
彼らは新たに窃盗の罪を加算された上、官府で正当な裁きをうけることだろう。
「まぁ、何はともあれ……おまえたちの方も片付いたようで何よりだぜ。一件落着だな!」
「ええ、これも姉様や留雲真君、そしてこちらで対処をしてくださった皆様のおかげです。どうもありがとうございます」
珠蓮が頭を下げて丁寧に礼をすると、申鶴が「何か手伝うことはあるか?」と刻晴に尋ねる。賊を捕まえたことで人手がいると思ったのだろう。刻晴は首を横に振り、その必要はないと口を開いた。
「千岩軍がいるし、旅人も手伝ってくれてるから十分よ。申鶴は珠蓮についててあげて。道中まだ宝盗団がいないとも限らないし、無事にモラを持ち帰られるよう、注意を払ってね」
「承知した。護衛は我に任せろ」
「頼んだわ」
珠蓮は一瞬戸惑いを見せたが、刻晴の意図を汲んでこくりと頷き直す。刻晴も珠蓮が武に秀でた仙人だということを承知であるが、七星として、まだ残党が潜んでいる可能性がある一帯を不用意に一人で進ませるわけにもいかないのだ。後々問題にならぬためにも、千岩軍の人員を割くより申鶴に任せたほうが賢明だろう。二人は旅人たちに軽く挨拶をすると、璃月港へと戻るのだった。
璃月港に戻った珠蓮と申鶴は、まず店主にモラが見つかったことを報告した。店主は最初に言った通り、珠蓮にそれを渡してくれ、珠蓮は遠慮する店主を説き伏せて適切なモラに加え、御守りを一緒に交換させた。上質な布と金糸で作られたそれは珠蓮の手作りであり、中には彼女の仙力の証でもある真珠の涙が閉じ込められている。
姫君からこの誠実な商人への実に些細な贈り物であった。
一件落着したところで、総務司にも発見の報告をしようとしたところ、これを申鶴が代わってくれ、魈のもとに行くように促してくれた。真君に借りた絡繰りもきちんとお返ししなくてはならないと慌てる珠蓮に、申鶴はそれも任せろと申し出た。曰く、「姉は妹を助けるものであり、妹は姉を頼るものだと師匠が言っていた」とのことだ。これに珠蓮が否を唱えることなどできるはずもなく、深々と頭を下げて申鶴に感謝するのだった。
そうやって師姉の助けを得て望舒旅館にやってきた珠蓮は、阳台へと向かい、風の流れる音を感じながら魈の名をようやく口にした。
「魈」
「何だ?」
すぐに珠蓮の傍に現れた魈に、珠蓮は一瞬言葉に詰まってしまう。すぐにでもモラを返したいのに、いざ魈を目の前にすると感情が複雑に込み上げては絡み合って、彼をまっすぐに見つめることすら難しく、きゅっと口元を引き結ぶので精一杯だった。そうでもしなければ、声が裏返ってしまいそうだったからだ。
「珠蓮……?」
どうした、と魈がどこか心配げな表情で珠蓮を見つめる。常は鋭い光を放つ黄金色の瞳が今はこんなにも温かく、珠蓮へと向けられていた。珠蓮はもう一度だけ唇を嚙みしめると、ふっと力を抜いて両手に大切に持ったモラを魈へと差し出した。
「これは……我が持っていたモラか?」
「うん」
「何故ここに……何か不備があったのか?」
「ううん。そんなことはないよ。何も、何一つ、不備なんてないの」
何か不備があったというのなら、それは魈にではなく自分だと珠蓮は自責する。何も知らずに、何も知らなかったまま、今回も自分は魈に助けられたのだ。そのために、魈がどれだけのことを自分にしてくれたのかもわからないままに。
いつだって珠蓮はそうだった。魈が綺麗に整えた箱庭で、何も知らないままに美しい世界だけを見つめている。魈のことを忘れたまま、知らないままで。たとえそれが魈の望みであるとしても、珠蓮はその形に頷くことはできなかった。
「このモラは……帝君から賜った大事なものだったって、師範から聞いたの」
「! それは……」
察しのいい魈はそれだけで珠蓮がどういう行動をとったのか大方予想がついた。魈が何かを言わねばと思案するうちに、珠蓮はもう次の言葉を放っていた。
「きっと、魈はこのモラを昨日手放すことになるまで、大事に大事にしてたと思うの。帝君から賜ったものだもの。本当に、大事にしていたでしょう?」
「……」
否定も肯定も出来ず、魈は珠蓮から静かに視線を逸らす。唯一の救いと言えば、珠蓮が泣きそうな顔を浮かべてはいなかったことだろうか。穏やかに語るその口調は、常よりも柔らかく、温かさを孕んだものだった。
「そんな大事なものを思いがけず手放させることになってしまって……ごめんね。大事なものを手放す時は、ちゃんとじっくり考えないといけないのに……」
勇気がいったでしょう、と労わるように魈の頬に手を添えた珠蓮は、そのままそっと撫でる。魈の瞳は細かな揺らぎを見せたが、その優しい少女の温かな手を拒絶することはできず、けれど少女の憂いをそのままにもしたくなく、はっきりと自らの思いを口にした。
「珠蓮、我はモラを使ったことを悔やんでなどいない」
もう一度、念を押すように魈は真っ直ぐに澄んだ紫珠の双眸を見つめた。何一つ、悔やんでなどいないのだと。悔やむことなどなかったのだと。伝えるように。
「お前が楽しめたなら、我はそれでいい」
その言葉に嘘偽りなど何一つとして存在しない。
何者にも害されず、健やかに過ごして欲しい。
僅かな憂いの露さえも払いのけてやりたい。
その微笑みが曇ることがない様に。
そのためなら、魈は、何だって――。
「私は……魈も楽しくないなら、いらない……何も、何も……」
黄金色の瞳が大きく揺らいだ。どこか悲し気に眉を下げて見上げてくるその顔が胸を締め付ける。それと同時に、祭りの出発前に珠蓮が見せたあの顔の意味をやっと魈は理解した。
珠蓮を曇らせていたのは、他でもない、自分だったのだ。ただ、足りなかった言葉のせいで――。
「我も……」
我も、と続く言葉を何と伝えたらいいのか。迷ったのは意外にも一瞬だった。
「お前のおかげで……楽しく過ごせた」
一緒に璃月港を見て回ったのも、はしゃぐその様子を近くで見ていられたのも、屋台で食べた祭りの美食も。
そして、珠蓮が繋いで、教えてくれた。誰かと共に食べる甘味の美味しさも。どれも今まで魈が味わったことのない、楽しみだった。
「お前とようやく約束を果たせた。それがこんなにも楽しいことだとは、我は思わなかった。――礼を言う」
はっと珠蓮が驚いたような表情を浮かべる。
「魈……覚えてたの?」
「忘れるわけがないだろう。他ならぬお前と交わした約束なのだから」
我は約束を違えない、とまるで祈りのように口にする魈に、感極まった珠蓮が勢いよく抱き着く。
「魈!」
危なげなくその華奢な体躯を抱きとめた魈は、困った様子で息を吐くように呟く。
「まったくお前は……手がかかる」
けれどもその言葉と裏腹に、その声に乗る温度も、抱きとめるその腕も、まったく嫌がる素振りはなく、むしろどこまでも温かく受け入れるものだった。
ぽろりと瞳から雫が零れ落ちるのを堪えるように、きゅっと瞼に力を入れた珠蓮が安心したように口にした。
「いいの、いいの。だって魈にしか、しないのだもの……!」
それがいいのか悪いのか、魈は判断のつかないまま、まったくしょうがない奴だと僅かに苦笑を零すのだった。
海灯祭がやってくる。明霄の灯が夜の海に浮かび上がり、霄灯が明かりを灯す。璃月の舞姫たる仙女は、祝福を与えるように一舞を献じ、花火の光と熱と共に奏でる轟音が魔を払う。
その様子を璃月港の近くで見ていた魈は、明霄の灯に乗せた願い事に思いを馳せ、それが早くも叶ったことに僅かに微笑みを浮かべるのだった。