雪が溶けたら春になる
「ねぇ、魈。雪が溶けたら、何になると思う?」
ぼんやりとした双眸が、無垢に問いかけた。
雪化粧をした白木蓮を啄む少女は、いったい何を考えているのだろう。その問いの真意は遠く、魈の耳に留まった。
「……その答えは既に目の前のそれが示しているのではないか?」
白木蓮にふわりと被さった白雪は、水滴へと姿を変える。わざわざ問いかける必要すらないほどに、その結果は火を見るよりも明らかだった。雪は溶けてしまえば水になる。そんな簡単なことを問う理由の方が、魈には不可解だった。
「魈には、これがどう見える?」
「どうも何も……ただ水になっただけだろう」
ぽたりと、花びらから流れ落ちた雫が珠蓮の嫋やかな指先を濡らす。いけない。寒がりな娘なのだ。凍えてしまうかもしれないと、魈は静かに「濡れている」と手元を拭ってやった。
「……私もそう思ってた。でも、今は……もっと別の見方があるのかもしれないって、思うようになったの」
「別の見方?」
「うん。もっと抽象的で、もっとも本質的なもの。大切なものほど、目には見えないものでしょう?」
紫珠の双眸は、依然として手元の花を見つめている。珠蓮には何が見えているのだろう。帝君や、留雲借風真君のもとで過ごすうちに、新しい見識を得たのかもしれない。いずれにしろ魈の感性とはまた違うのだろう。繊細な玉貌が、ふわりとした雪を被っていた。それだけで十分に美しかったが、魈はやはりその美しさに伴う代償が気がかりだった。この季節はあまり好きではない。
「では、お前ならどう答える? 何になると言うのだ」
「それは──」
上向いた瞳が、ゆっくりと瞬く。唇に舞い降りる白雪が、じわり、と溶けた。
花の香りが響くようだ。夢見るような眼差しで、少女はふわりと花笑む。
「きっと、春になるのだと思うわ」
それは美しい比喩だった。凍える冬を耐え忍んだ後に咲く花々が美しいように。花の香りが記憶の奥で響いている。
魈の中での珠蓮と過ごした記憶は、雪で覆われたように胸にしまわれていた。思い出したくないわけではない。ただ、あの穏やかな時間が宝物であるのと同じくらい、自身には不相応に過ぎた幸福であったと考えたからだ。
冬は好きではない。寒いのを何よりこの少女は嫌うのだから。好きではないのだ。身を寄せ合うときの温もりが、あんなにも心地よいものだと知ってしまったことも。寒いのは好きではない。あの頃と同じようにはもう、温めてはやれないのだと、可哀想でならないのだから。
「春が待ち遠しいか?」
早く、早く温かい、あの麗らかな春が来ればいいと、珠蓮はそう思っているのだろうか。
寒い冬を、彼女は嫌うだろうかという魈の疑念は、すぐに晴れた。
「ううん、そんなに早くはこなくてもいいの」
「? 何故? 寒いのは嫌だろう」
「そうだけど、そうだったけど……今はもう、そうじゃないから」
不思議そうな表情を浮かべる魈に、珠蓮はふわりと笑う。ずいぶんと幼い、あの頃と何も変わらない笑い方だった。
不意に、胸に花の香りが飛び込む。華奢な身体が、すぽりと腕に収まった。
「珠蓮──」
「ねぇ、あったかいでしょう?」
白い息が朧に霞む。甘えるような声は、随分と幼かった。
「きっと、きっとね。冬が寒いのは、こうして人の温もりを確かめるためなのだと思うの」
あったかいね、と息を零す珠蓮に、魈は逡巡を巡らせる。
冬は好きではない。寒いのをこの少女は何よりも嫌うから。寒いのは好きではない。それは孤独と消失によく似ているから。
けれど、珠蓮に熱を分け与えることができるのなら、この季節も──そんなに、嫌いではない。
雪が溶けたら春になる。ふわりとした雪化粧が互いの熱で、静かに溶けていく。温かかった。それは、愛しいぬくもりだった。
静かに頷いた魈に、鈴音のような少女の笑い声が転がる。春だ。確かに今ここに、春がある。