あの子の嫉妬メーカー

の場合

まだ大丈夫
 3700年もの間、神によって統治されていた璃月にとって、神や仙人といった種族は敬い讃えるべき存在である。璃月人でさえ、彼らを直接目にする機会はよっぽどの幸運に恵まれでもしない限りそうないことであるが、一目だけならば目にすることが叶うやもしれぬ仙人が、この璃月では一人だけ存在した。

「こんにちは。金屋蔵矯の霓裳花を一株いただけますか?」

 鈴が転がるような、おっとりとした可憐な声音と共に現れた少女に、博来は目を瞠った。

「! これはこれは、珠蓮様……! わざわざご足労頂かずともお言いつけ下さいましたらお城までお持ちしましたのに。すぐにご用意致します。少々お待ちください」

 いつもより機敏な動きで博来は普段表に出していない、特に品質の良い霓裳花を取り出す。華やかに、けれどもどこか控えめな初々しさを感じさせる花蕊は、まるで深窓の令嬢を彷彿させる。金屋蔵矯の名に相応しいその品を、博来は丁寧に珠蓮のもとへと持ってきた。

「こちらになります」
「ありがとうございます。枝は青々と生い茂り、花蕊の形もよく、色合いにおいてもその名に恥じぬ煌びやかさを誇ったよい品ですね。こちらをいただくとしましょう。お代は――」
「城にお持ちした時のように、私の方で処理をしておきますので大丈夫ですよ。この霓裳花も送っておきましょう」

 一株といえど、彼方此方に持ち運ぶには向いていない花だ。博来がそう申し出ると、珠蓮もまだ見て回るところがあったようで、その心遣いを嬉しく思ったようだった。

「そうしてくださいますと助かります。今回もよいお品をありがとうございました。またお願いしますね」
「もちろんです! お品は責任をもってお運びいたしますのでお任せください」
「ええ、それでは後のことはよろしくお願いします」
「はい、かしこまりました。何かお困りのことがございましたらお気軽にお申し付けください」

 小さく会釈をして優雅に裾を靡かせながら去っていくその後ろ姿に、博来は陶酔したように息を吐いた。
 仙人というものは常人とはかけ離れた魅力を持つというが、これほどまでかと実感せずにはいられない。それで未だ年若い少女であるというのだから、将来を末恐ろしいとすら感じてしまう。

「本当に、日ごとあの御方は洗練されていくな……最近は昔ほどお目にかかることがなくなったと思っていたが……なるほど、道理で」

 この金屋蔵矯のように、あまりにも美しく、可憐であるから、どこかの不届き者に摘まれてしまうことを帝君は案じられたのだろう。きっとそうに違いないと一人納得する博来は、まるで戒めのように自分はそうはなるまいと胸に刻む。もしも、かの姫君に邪な想いを一瞬でも抱こうものならば、これからの商談も露へと消える、財に過ぎないのだから。それを肯定するかのように、博来へと注意深く向けられた黄金色の視線はふっと途絶える。
 掌中の珠を見守るそれは、まるで影のように、そっと少女の束の間の道楽を見守るのだった。



ちょっと嫌かも
 窈窕たる淑女、最も理想的な姫君にして璃月の舞姫と謳われる人。それこそが珠蓮姫その人だ。
 かの岩王帝君の寵愛を一身に受け、帝君殺害の報に世間が騒めく中、見事に送仙儀式を執り行ってみせた彼女は今や、海灯祭での奉舞を経て、神秘のベールで隔たれた天上の存在から、やや身近に親しまれる存在となっていた。

「あ、あの! すみませんっ」
「? はい、何でしょう?」

 珠蓮が和裕茶屋でお茶をしていると、観光客らしい青年に声をかけられる。それに珠蓮が応じれば、青年は緊張した面持ちで僅かに頬を紅潮させながら、がばりと頭を下げた。

「海灯祭での舞い姿、拝見しました! ファンです! もしよかったら記念として一緒に1枚撮ってくれませんか!?」

 あまりの熱意と勢いに珠蓮はぱちりと瞳を瞬かせる。珠蓮の身分を知ってか知らずか、大分命知らずな青年の申し出に周囲はどよめいたが、珠蓮はこれに快く頷いた。

「かまいませんよ。私でよろしければ、是非」
「ほ、本当ですかっ!?」
「はい。遠くからいらしてくださったのでしょう? 海灯祭を楽しんでいただけたようで何よりです。それらの記念になるのでしたら、これほど嬉しいことはございません」

 海灯祭で珠蓮に与えられた役割は、海灯祭の成功を願い、祝うこと。そしてそれらの賑わいを明霄の灯と共に帝君へと届けること。であれば、これらを請け負うのも珠蓮にとっては当たり前のことなのだろう。海灯祭が終わっても、珠蓮の役割が終わったわけではないのだから。

「あ、ありがとうございます! ではさっそく!」

 カメラマンを引き受けてくれる人を探そうと青年がきょろきょろと辺りを見渡す。スタッフがそれを名乗り出てくれ、青年は興奮を隠しきれない様子でカメラを託した。

「何かポーズの指定はございますか?」
「え、えーっと、あんまり近いと逆に変な顔になりそうで……今も十分変だとは思いますが……ふ、普通で、自由にしていただけると……!」
「かしこまりました。ではそのようにいたしましょう」

 近すぎず、遠すぎず、適切な距離で並ぶと、珠蓮はごく自然な、正しく璃月が誇る姫君に相応しい微笑みを浮かべる。対して青年は緊張が隠しきれていなかったが、十分すぎるほど満ち足りた笑顔だった。

「ありがとうございました! 一生の思い出にします!」
「こちらこそ。また是非、海灯祭にいらしてくださいね」
「ええ! 必ず!」

 大きく手を振って別れる青年に、珠蓮は静かに旅の祝福を願う。その旅が良きものでありますように。またいつか、彼が再び璃月に訪れますようにと。
 そうして茶屋での一服を再開すると、優しい風が頬を撫ぜた。少女の祈りは、きっとその風が運んでくれることだろう。
  


流石にだめ
 あの青年とのツーショットを引き受けてからというものの、噂が噂を呼んだのか、珠蓮は観光客から声をかけられる頻度が多くなっていた。
 いずれにも珠蓮は丁寧に対応していたものの、今回ばかりは少々困惑が隠せなかった。

「えっと……瞳を……ですか?」
「はい! 無礼は重々承知ですが、ここはひとつ、どうかお願いします!」

 ぱんっと勢いよく両手を合わせ、崇めるかのように珠蓮に頭を下げるその日の観光客が求めてきたものは、いつもとは違ったものだった。
 てっきり写真かサインのどちらかだろうと思って応じていたのだが、予想に反して彼が求めたものは写真でもサインでもなく、ただただ、珠蓮の瞳を至近距離で見させて欲しいといった、特殊な要望であった。
 聞けば彼は芸術家らしく、珠蓮の紫宝明珠に勝る神秘の瞳にすっかり魅入られてしまったようで、どうも諦めがつかぬようだ。珠蓮は大変に戸惑ったが、人助けだと思い、これを受け入れる寛容さを示した。

「……そこまで仰るのであれば……」
「! ありがとうございます! では、失礼して……」
「え、ええ」

 その勢いにやや圧倒されながらも、珠蓮はなるべく瞬きをしないよう意識してじっとする。けれど最初は節度をもった距離で見つめていたはずが、次第にじりじりと狭まってくるのを感じて、思わず後退りをするも、その分だけすぐに詰められてしまう。困ってしまった珠蓮が助けを求めるように視線を彷徨わせると、不意に加速した鳥が二人の間を切り裂いた。

「わっ!? な、なんだ!? 鳥か!?」

 驚いて飛び跳ねた画家は、そこで初めて自分が夢中になりすぎていたことにも気づいたらしい。思ったよりもずっと近い距離にいた珠蓮に、それはそれは申し訳なさそうな顔をした。

「も、申し訳ない! つい夢中になってしまって……! 平手の一つお見舞いされても文句など言えなかったというのに……どうもすみませんでした」
「い、いえ……お役に立てたなら何よりです」

 平身低頭して謝る彼に、珠蓮が寛容な姿勢を示すと、彼は更に二、三度深々と謝罪をして離れていった。
 珠蓮は急に現れた鳥を両手にすくい、羽を休ませながらひそかに感謝をした。

「少しだけ困っていたの。助けてくれてありがとう」

 その言葉に応えるように「ピィ」と一鳴きした鳥は翼を広げて空へと戻っていく。それを静かに見届けると、胡桃から頼まれていたお使いを済ませるべく、歩みを進めるのだった



もう限界
 基本的に魈は凡人の諍いには関与しない。彼が関与するのは仙と魔の境界であるからだ。それは岩王帝君と交わした護法の誓いを立てて幾千年経とうと変わらぬものであり、それが揺らぐことなどありはしなかった。そう、それが譬え、今まさに、自らの聖域を土足で踏み荒らされていようとも。魈は、揺らがない――。

「杏仁豆腐をお好みであると小耳に挟んだものですから、久しぶりに料理をしてみました。お口に合えばよろしいのですが……」

 控えめな口調ながらも、その目には珠蓮が断るわけがないという過信が見えた。そしてその期待を裏切らず、珠蓮はそれを純粋な厚意と思い、まんまと受け取った。

「お兄様が私のために? とても嬉しいです。是非いただかせてください」

 珠蓮が兄として慕うその人物を、魈はその通りには受け取らなかった。やり手の商人でもあるその凡人は、優しく甘い顔を珠蓮には見せつつも、その瞳の奥に揺らぐ野心を隠しきれてはいないからだ。否、そもそも隠す気など最初からないのかもしれない。
 その人物は決まって魈の目があると知っているかのように、度々わざとらしい振る舞いを続けるのだから。

「珠蓮姫。こうしてあなたを見ていると、この一時ひとときが夢幻のように感じます。時の流れは緩やかで、花は綻び、大輪を咲かせ、祝福する。その澄んだ珠玉の眼差しの一瞥と一笑に、まるで全てを許されたかのような気になるのです」

 歌を紡ぐようにつらつらと美辞麗句を並べ立てる秦衣の話を黙って聞いていた珠蓮は、不思議そうに首を傾げ、おっとりと微睡むように瞬きをした。

「お兄様は……何か悩みがおありなのですか? 私に何かできることがあるのでしたら、どうかおっしゃってください。お兄様にはとてもお世話になっておりますもの。きっと力になりましょう」

 だから、ねぇ、おっしゃって。と口にする声は、甘えるような響きがある。それは奇しくも魈へと向ける珠蓮の甘え声にどこか似ていた。
 秦衣はその言葉を待っていたかのようにきらりと瞳を輝かせると、一瞬にして微笑みの下に喜色を隠し、「それでは」と続けた。

「ほんの少しだけ、姫のお時間を私めにいただけますと幸いです」
「……? それだけで良いのですか?」
「ええ、姫の貴重なお時間を頂くのです。璃月どころか、テイワットの誰しもに羨まれる誉ですよ」
「まぁ。お兄様はお上手ですね」

 くすりと笑った珠蓮に「とんでもない、本心ですよ」と笑う秦衣の顔は、全く冗談を言っているようには見えなかった。
 快く了承した珠蓮を秦衣はまるで皇子にでもなったかのようにエスコートをする。白木蓮が咲き誇る花道を辿って、小鳥が囀る青空の下を歩んでいく。そうして辿りついたのは、幼い頃珠蓮がよく遊んだ湖だった。
 秦衣はそこで、共に魚を眺め、花を折り、花冠を作っては珠蓮の頭に被せ、笹の葉で小舟を作り、水面に浮かべた。そうして最後に、ころころと小さく笑う姫君に今日の礼だと言って赤く実った苺を籠いっぱいにして渡したのだ。

「なんだか、私の方が良くしていただいてしまいましたね……?」
「まさか。こうして姫君がご協力くださらねば、何も始まりませんでしたよ」
「? そう、ですか?」
「ええ、間違いなく……ね」

 珠蓮にとって秦衣の言葉は少々難解だ。その真意は分からなかったが、機嫌の良い秦衣を前にお兄様が楽しめたのならよかったとにこにこと笑うばかりだ。
 ちょうど留雲真君から仰せつかった課題があったため、珠蓮はそこで秦衣と分かれたが、珠蓮が去った後の秦衣の表情は先ほどとは打って変わってぞっとするものがあった。

「色褪せぬ――記憶の欠片、胸に秘め。然れど流水――巡る月日――花白む」

――どれほど色褪せぬ美しい思い出であろうとも、月日というものは残酷で、流水に花弁を散らされるように、脆くも儚く消えゆき、やがて新たな思い出に上書きされていくものだ。
 言外にそう伝える秦衣のそれを、魈は警告と受け取ったが、だからといって秦衣に何かしらの対応をすることはなかった。

『しょう。きょうもね、しゅれんとね、いっしょに、あそぶの』

 今でもその舌ったらずなおっとりと運ぶ声が鮮明なまでに耳に残っている。
 湖で水遊びに興じる珠蓮を見守るのも。暑がる珠蓮に涼を取らせるため、清心で花冠を編んでやったのも。お守り代わりにとアオギリの葉で蝶々を作ってやるのも。絶雲の間の限られた高山にだけ自生する赤いラズベリーを常備してやるのも。杏仁豆腐を一緒に食すのも。全てが全て、魈の中で夢のように輝いたままだった。

(必要ない。何も、かも)

 それがいつしか魈だけの思い出になろうとも魈はかまわない。つい最近まではそうだったのだから。時が経ち、珠蓮の中で風化しようとも魈はそれでいいのだ。
 背を向けて一瞬で去った魈の気配に、秦衣はついと面白くなさそうな顔をする。

「ふむ……出方を見誤りましたかね」

――上書きされることより、あなたの中で最も輝くその記憶を奪い去った方が、余程効果がありそうだ。

 そんな物騒なことを思い浮かばせながら、次の演目は何にしようかと秦衣は静かに思案するのだった。





珠蓮の場合

まだ大丈夫
「ある日森でかっこいい仙人のお兄さんに会ったんだ。本の中と同じくらいかっこいいの!」

 そう語るのはヒルチャールに取られた人形を魈に返してもらったという幼い女の子だった。旅人の薬草の採取に同行していた珠蓮は、それを聞くと微笑まし気な表情を浮かべ、女の子の話に相槌を打つ。

「それで、そのお兄さんはどうしたのでしょう?」
「彼に笑顔を見せたけど、全然笑ってくれないの……」

 その光景が鮮明に想像できた珠蓮は女の子と一緒に眉をしゅんと下げた。女の子は返してもらったという人形を抱きしめ、珠蓮に尋ねた。

「でもヒルチャールに取られた人形をわたしに返してくれた……お兄さんはわたしのこと好きじゃないと思う?」

 不安そうに口にした女の子に、珠蓮は柔らかい表情を浮かべた。慈愛ともとれるその温かさは、まるで柔らな日溜まりのようだった。

「彼も、あなたのことが好きだと思いますよ」
「ほんとう……?」
「ええ。嘘偽りなく」

 そうでしょう、と心の中で呼びかけた声に応えるように、柔らかな風が少女の頬を撫でる。安心したような表情を浮かべた女の子は、すっかりと元気を取り戻したようで、「ありがとう、お姉さん!」と再び野山を駆けまわっていく。珠蓮はそれに小さく手を振って見送ると、後ろを振り返ってくすりと笑った。

「本の中と同じくらい、かっこいいんだって」

 その言葉に、木の上に立っていた魈は、怪訝そうな顔を浮かべる。

「……何が言いたい」
「そんな風に魈を思ってくれる子がいて、嬉しいなって、思ったの」

 まるで魈を好きになってくれる人が増えて嬉しいとでもいうように。自分の事のように喜ぶその感覚があまり理解できず、魈は溜息まじりにそっぽを向いた。

「……我にはよく分からぬ」

 けれど、嬉しくないわけでもないことを知っている珠蓮が微笑みを浮かべ、小さくヒルチャールの歌を口遊むのに魈は静かに耳を傾ける。
 透き通った可憐な鈴の音のような歌声が耳に心地よく、いつの間にか魈が眠ってしまったのに気づいた珠蓮は、くすりと笑うのだった。



ちょっと嫌かも
 それは珠蓮にとって初めて抱く感情だった。
 珍しく珠蓮が呼ぶより早く、魈は望舒旅館の露台に姿を現していた。それを珍しいとは思いつつも、いつものように名前を呼んで駆け寄ろうとしたところ、不意に聞こえて来た声に珠蓮は足を止めた。

「ねぇ、さっきから露台にいる彼、すっごくかっこよくない!?」
「うんうん! 今まで見てきた中で一番かも!」
「あれだけかっこいいんだもん。恋人とかいるのかな?」

 色めき立つ女性たちの視線の先にいるのは魈だった。珠蓮は魈の容姿を賛美されていることを理解するのにやや時間がかかり、そうと分かると、戸惑いのようなものが胸の中で渦巻く。そんな気持ちになるのは初めてのことで、珠蓮は随分と戸惑っているようだった。

「声かけてみる?」

 その声がやけに響いて聞こえた。反射的に俯いていた顔を上げたが、連れの女性は首を横に振った。

「やめとこ。何か只者じゃないオーラだし。年も離れてるしね。子供を揶揄うのはよくないっしょ」
「それもそうね」

 そう言って離れていく女性客たちは「眼福眼福〜」とご機嫌な様子で露台を後にする。珠蓮はそれにほっとするような、胸がもやつくような形容しがたい感覚に静かに眉を寄せた。

「さっきからこんなところで何をしているんだ?」
「しょ、魈……! あっ」

 突然声をかけられ驚いた珠蓮は、反射的に仰け反り、そのままするっと足を滑らせてしまう。きゅっと目をつぶって衝撃に備えるも、身体に触れたのは硬い床ではなく、意外にもがっしりとした腕だった。
 おそるおそると瞳を開けて、僅かに驚く珠蓮に、魈はどこか心配げな様子で眉を静かに寄せた。

「気をつけろ」
「あ、うん……ごめんなさい、ありがとう」
「謝らなくていい。何もなかったなら、それで構わない」

 珠蓮をがしっかりと立ったのを確認すると、魈は珠蓮を支えていた腕を放す。いつになくぼんやりとした様子に魈が「何かあったのか?」と声をかけるも、この複雑に渦巻く感情を言語化できない珠蓮は、緩く首を振るだけだった。

「ううん、何でもない。今度から気をつけるね」

 魈は本当に何でもないのか気になったが、珠蓮がそれ以上話す気配がないので、「……そうか」とそっとしておくことにした。
 珠蓮の用事に一緒に付き合っているうちに、珠蓮もすっかり元の調子を取り戻し、魈はこれに安堵するも心配が拭えず、その日は少し遅い時間まで共に過ごすことに決めた。いつもは「もう遅い」と帰宅を促す魈がそうしてくれたものだから、珠蓮は大いに喜び、最初に感じたあの形容しがたい感情もいずこかへと吹き飛んだようだった。

「夕餉も一緒に食べてくれる?」
「……今晩だけなら」

 ぱっと表情を華やがせた珠蓮は「期待しててね」と口にすると、時間がもったいないとばかりに魈の腕を両手で引いて、はやくはやくと促す。魈はその無垢な幼子のような仕草に軽くため息をつきながらも、僅かに目元を和らげ、静かに足を動かすのだった。



流石にだめ
――珠蓮の好物は魈で構成されているといっても過言ではない。
 絶雲の間の高山でのみ採れる赤いラズベリーに、胡椒の控えめなチ虎魚焼き。りんごが加えられた満足サラダ。そして夢のような口どけの杏仁豆腐。

「魈! ここにいたの? 探したんだよ」

 いつも望舒旅館にいるときは露台にいる魈だが、今日は旅館から少し離れた樹の上で休んでいるようだった。ふわりと浮遊した珠蓮が魈を見つけてご機嫌な様子で顔を覗かせれば、魈は僅かに決りの悪そうな表情を見せた。

「珠蓮……」
「ん? 甘くていい匂いがする。魈、何か食べた?」

 ほんのりと甘い、優しい香り。くんくんと匂いを嗅ぐ珠蓮の顔が近づいてきて、魈は咄嗟に後退る。するとそこに置いていた皿が落ちようとして、魈は慌ててそれをキャッチした。

「あ、やっぱり何か食べてたのね。ねぇねぇ、何を食べてたの? いい匂いがするの、ねぇ、教えて?」

 甘い匂いに誘われるように、夢を見るような瞳が至近距離に迫る。このままでは唇が触れ合ってしまうと、魈は顔を背けると言いづらそうに口にした。

「……杏仁豆腐を、食べていた」
「……杏仁豆腐?」
「ああ」

 それは珠蓮にとっても一番の好物であるから、意図せず独り占めしてしまったようで魈は口にするのが心苦しいと感じた。言笑に言って作ってもらおうかと口にしようとすると、珠蓮は不思議そうに目を瞬いて首を傾げた。

「私、魈にあげてないわ」
「……望舒旅館で作られたものだから、それはそうだろう……」
「旅館のを食べたの?」
「そうだが……」

 ずいっと身を乗り出して迫ってくる珠蓮に、魈は困惑しながらも答える。珠蓮はそれを聞くや否や、更に顔を近づけて、魈に問いかけた。

「私が作る杏仁豆腐と、どっちが美味しい?」

 その問いを聞いた瞬間、魈は何を、と何故そのようなことを尋ねられるのか意味が分からなかった。魈が即答しなかったことに機嫌を損ねたのか、「ねぇ、聞いてるの?」と小さくむくれた珠蓮の顔がすぐそこへと迫る。魈は控えめに距離を取ろうとするが、珠蓮の追撃は止まず、仕方なしにその問いに答えることにした。

「あの料理人もお前もそれぞれに違った良さはあると思うが……我が好むのは……」
「好むのは?」
「……お前の方だ」

 ほとんど言わされたような形ではあるが、それも間違いではない。何せ、望舒旅館で作られる杏仁豆腐のレシピは珠蓮が開発したものであり、魈と珠蓮のお互いの好みを反映された唯一無二のレシピだからだ。それから更に腕を上げた珠蓮が作る杏仁豆腐は華美なものへと変わり、魈には華やかすぎるものになってしまったが、それでも一番美味だと感じるのは珠蓮が作ったものに変わりはなかった。

「ふふっ、うれしい。本当はね、私も作ってきたの。魈はもう食べちゃったけど、おかわりできるでしょう? 私と一緒に食べよう?」
「……ああ、いただこう」

 並んで杏仁豆腐を食す珠蓮は、まるで美しい夢の中にだけ存在する妖精のように可憐だ。ふくふくとご機嫌に笑う珠蓮に魈はほっと安堵の息を吐く。
 先ほどのあれは何だったのか、魈には分からず仕舞いだ。

「魈、お口開けてあーんして?」
「? 自分で食べれる。それにそれはお前の分だろう」
「いいから! あーんっ」
「……」

 全くもって分からない。この行為に何の意味があるのかも。そうやって疑問の中にいたからか、大人しく杏仁豆腐を口にした魈が慌てるのは、すぐのことだった。
 何の躊躇いもなく、魈の口に放り入れた匙を再び使い、杏仁豆腐を口にする珠蓮に魈の悲鳴じみた声が響き渡る。

「珠蓮っ!」

 きょとんとした珠蓮が杏仁豆腐を咀嚼と共に飲み込み「怒っちゃやぁだ」と笑うのを見た魈は、姫君のお転婆に静かに頭を抱えるのだった。



もう限界
 魈が珠蓮に与えるラズベリーは、このテイワットの中でも希少なものである。テイワットの各地にラズベリーは自生しているが、そのどれもが黄色かオレンジ色に色づいたものだ。けれども、魈が珠蓮に贈るものは赤い実をしており、これは絶雲の間の限られた高山にしか自生しない。
 標高の高い山で大自然と仙の恩恵を受けて育ったその実は格別に甘く、非常に高い栄養価を誇る。魈は珠蓮と再び交流を持つようになってからというものの、これを昔ほどではないにしろ珠蓮に渡すために採取することが度々あった。

「魈、魈……魈っ!」
「? 珠蓮?」

 自分を呼ぶ珠蓮の声が、どこか涙声のように聞こえて魈は何かあったのかと眉を寄せる。すぐに珠蓮の声を辿って目の前に現れれば、そこには今にも泣きそうな顔をした珠蓮がいた。

「魈っ!」

 勢いよく抱き着いてきた珠蓮を今日ばかりは魈も咎めなかった。むしろ何かあったことは明白で、何者かに害されたのかと険しい表情を浮かべた。

「どうした、何をされた? 何故泣いている。お前を害したのは何だ」

 それさえ分かれば魈は今すぐにでも報復に向かっただろう。凡人が珠蓮をそう害せるとも思えず、魈はそれが妖魔や魔物の類だと考えていた。けれど、珠蓮の口から出たものは予想外のものだった。

「しょ、魈……」
「ん?」
「魈、が……魈……が……っ、ううっ、うわーんっ」

 はっきりと魈と口にして泣き出した珠蓮に魈は呆然とする。珠蓮を害したのは妖魔でも魔物でもなく、自分だという。いったいどうしたのだと、怪しい術にでもかかったのだろうかと魈は珠蓮の顔を掬い上げ、じっとその双眸を見つめたが、その気配はなかった。

「珠蓮……すまない、我は一体、お前に何をしでかしたのだ……」

 こんなにも珠蓮が泣くことなどそうそうないことだ。それだけのことを自分がしたのだという罪悪感と共に、記憶を探ってみたが、それこそ珠蓮から己の記憶を勝手に封じたことくらいしか思い当たらなかった。
 魈の黄金色の双眸は、気遣うように珠蓮へと向けられる。ぽろりと零れ落ちる真珠になる前の涙を拭ってやることすら、今の魈には憚られた。

「ひっく、ひくっ……らず、べりー……」
「? ラズベリー?」
「ん……しょうが、わたしにって、とってきてくれたのに……しょう、ほかのひとに、あげちゃった……」

 わたしの、だったのに。とぽろぽろと涙を零す珠蓮の話を聞いた魈は、怪訝そうな顔をした。記憶上、魈が誰かのためにラズベリーを摘んだのも、それを与えたのも、珠蓮の他になかったからだ。記憶違いをしているのか、幻覚でもみたのか、単純に誤解をしているのか、混乱している珠蓮を宥めるように魈はそっとその涙を優しく拭ってやった。

「ぐすっ、しょう、ほかのひとに……もう、あげない……?」
「もうも何も、我がやったのはお前にだけだ。これからもそのような予定は特にない」
「ほんと? しゅれんにだけ?」

 今ではめっきり言わなくなった拙い確認に、魈はどこか懐かしいものでも見るかのような目で頷いた。

「ああ、お前にだけだ」

 だから何も心配しなくていいと、幼子のように縋りついてくるその背を撫でて、昔のように魈は寝かしつける。きゅっと丸まった身体が安心したように力を抜き、寝息を立て始めると見計らったように留雲真君が現れた。

「落ち着いたようだな」
「留雲真君……」
「夢見が悪かったようで、起きるなり降魔大聖を探しに飛んで行ってしまった。よほど受け入れがたい悪夢だったのだろう」

 普段は留雲真君への礼を欠かさない珠蓮であったが、今回ばかりはそれも彼方へと追いやられてしまったらしい。そんなにも嫌だったのかと意外そうな顔をする魈に、留雲真君は一つ助言をした。

「降魔大聖が思っている以上に、この子にとって降魔大聖との思い出は大事なものなのだろう。どうかそれを忘れないでくれ。そなたにとっては何気ないことでも、この子にとっては宝物も同義なのだから」

 そなたがこの子を思うのと一緒だと穏やかな目で語る留雲真君を一瞥した魈は、その意味を考えるように視線を落とす。最初は眠る珠蓮を留雲真君に預ける気だったが、ようやく安息を得たように眠る珠蓮にそうすることは残酷なような気がして、仕方なく自分で運ぶことにした。
 けれども「寝所に運ぶだけ」が「起きるまで共に」に変わるまでそう時間はかからず、珠蓮が再び目を覚ますまでの間、悪夢が再び珠蓮を害さぬようにと気を張っていたのは言うまでもない。
 そうして暫くの間、密やかに少女の安眠を見守るものだから、鍾離と留雲真君の茶会も話の種には当分困りそうになかったのだった。