春宵酩酊

 どこか熱が籠った声だった。蝶を捕まえるように、唐突にかいなに珠蓮を抱きとめた魈は、ぽつりぽつりと、その名を呼ぶ。まるで焦がれるように、愛しさを存分に含ませたその声は、常の魈には些からしくないものがあった。

「? どうしたの?」

 珠蓮も魈の様子がどこかおかしいことに気づいているようで、不思議そうに瞳を瞬かせる。ぱちりと閉じては開く長い睫毛が愛らしく、魈はぽうっと熱に浮かされるがままに、口を開いた。

「お前を……愛でたい」

 いいだろうかと、すりっと首筋に頭を寄せる仕草は、どちらが甘えているのかも分からない。甘い桃花の果実のような香りと、清廉な白木蓮を彷彿させる清らかな匂いが鼻腔を擽って、余計に心を落ち着かなくさせた。

「いいけど……」

 変な魈、と珠蓮が口から零すより早く、了承を得た魈はまるで腹を空かせた獣のように、珠蓮の身体を抱きすくめる。膝に座らせて、きょとんとした少女の頬に、すっと手を添えた。

「……愛い」

 ぽつりとしたその声が耳に溶けていく。優しく頬を撫でつけていた手が、徐々に下がり、紫色に染まった髪を捕らえては、するりと滑る。不思議そうに魈を見上げる珠蓮の頭に静かに唇を落とした。

(何故こうも……お前は愛いのか……)

 頭の天辺から爪先まで、余すことなく可憐な容をした少女は、美しい夢の中にだけ存在する精霊のように愛らしい。羽を繕うように幾度となく口付けを繰り返すと、くすぐったがるように鈴のような声が転がった。

「ふふ、変な魈。今日は甘やかしてくれる日なの?」

 不思議な匂いがする、とくんくんと匂いを嗅ぐ珠蓮に、魈はほんの少しだけばつの悪そうな顔をした。とある恩人が璃月に訪れたと聞いて、会いに行ったところ、酒を勧められ、それを受けたはいいものの、勧められるがままに飲みすぎてしまったのだ。無論、それは彼の酒であったから、という理由はあるのだが、失態には変わりなく、こうして無性に愛しい少女を愛でたくてしょうがなくなってしまったのだから、不甲斐ない結果には変わりなかった。

「……いやか?」
「ううん、すっごくうれしい。毎日でもいいよ。魈がかまってくれるの、すごく嬉しいの」

 璃月の平和を守るために忙しくしている魈だ。そうでなくとも、自らが纏う業障を重く受け止めすぎるあまり、不用意に触れてくることもないのだから、こうして魈から戯れに来てもらえるというのは、珠蓮にとって喜ばしいものだった。

「でも、ねぇ、愛いって、なぁに? どういう意味なの?」
「……愛らしい、愛しいという意味だ」
「じゃあ、可愛いってこと……?」

 耳馴染みのない言葉に、魈は「可愛い……?」と怪訝な表情を浮かべる。珠蓮が「同じ意味だよ」と口にするので、凡人たちが新たに生み出した言葉だろうと合点がいったようだった。

「愛いより……可愛いがいい。ねぇ、魈。可愛いって、言って?」

 ぐっと息が詰まったような心地になるのは、随分とその言葉がふわふわと実体のないもののように感じるからだろうか。けれども期待したような眼差しでじっと上目に見つめてくる双眸には敵わず、魈は小さく口を開いた。

「……可愛い……」

 そう呟いた途端、花が綻ぶような珠蓮の微笑みに時が止まったような心地になる。見惚れる、など、そんな容易いものではない。ぐっと心を鷲掴みにされるような、鮮烈な恋であった。

「……可愛い……可愛い、珠蓮……」

 熱に、浮かされる。酔いが回って仕方ない。酩酊するこの意識は、酒のせいなのか、それともこの春の宵のせいなのか、到底区別などつかなかった。
 華奢な体躯を掻き抱くように、ぎゅっと抱きしめる。可愛い、可愛いと、焦がれるような愛しさを言葉に乗せたまま、頭を撫で梳かし、柔らかな頬に指先を滑らせた。
 不意に珠蓮の嫋やかな手が魈の手を取る。どこか不満そうに眉を下げた少女に魈はどうしたのだろうと動きを止めた。

「手袋……取って。直に触って欲しいの」

 それが不満だとしゅんとする珠蓮に、魈は暫し驚いたものの、分かったと手袋を取り払う。覗いた素肌に、今度は珠蓮から自らを差し出すようにつんと顔を向けた。

「お前は……本当に、可愛いことをする」

 そうやって、触れることを許してくれるばかりか、望む姿勢を示してくれるのが、たまらなくほっとする。触れてもいいのだと、望んでくれているのだと、それがこんなにも嬉しいことだと知ったのは、珠蓮と出会ってからだった。
 珠蓮と出逢ってから、今の今まで、魈は、珠蓮に救われている――きっと、これからも。

「ふふ、いっぱい触ってね。魈が触ってくれるの、すっごく嬉しいのっ」
「……ああ」

 いつか、酒の力を借りずとも、こうして素直に、思うがままに触れることが出来る日が来るだろうか。そうなれば、そうあれたらいいと魈は思う。
 珠蓮がそうしてくれるように、自分も――。

 後日、すっかり酒が抜けた魈に対し、珠蓮が「もう可愛いと愛でてはくれないの?」といじらしく強請ってきたことで、また一歩近づくことになる。
 二人が想い合うがままに振舞えるようになるのは、そう遠くない未来なのかもしれない。