それは美しい少女の容をしていた。濡れ羽色のしっとりとした光沢を帯びた長い髪が、肩から下にかけて紫がかっている。真珠のようなつぶらな瞳が夢見るように瞬いた。囁くような鈴の音が、まるで花びらのような唇から発せられて、何事かを呟く。そうしてまた、少年は現へと還るのだ――。
「いらっしゃいませ。おや、今日はお連れ様もおいでですか」
港の裏通り、奥まった場所にひっそりと佇む、特別な人形屋。龍の彫刻が絡みつく黒檀の扉に、煤けた朱壁が外とはまるで違う世界のように感じられた。店内には香が焚かれ、何とも形容しがたい不思議な香りが漂っている。沈香に似ているように感じるが、それだけではない。古びた木と絹の匂い。そして、ほんの僅かに花のような甘さが混じっていた。
そこの店主は穏やかな微笑みで鍾離に連れられてきた魈を見つめる。あまり人が得意ではない彼は、居心地が悪そうに静かに視線を逸らして、大人しく鍾離の買い物に付き添っていた。
「ああ、少し気になることがあってな。観用少女を見せてもらっても?」
「ええ、もちろんです。ちょうど名人の逸品、最上級品がございます。そちらをお見せいたしましょう」
店主が奥へと引っ込んでいくのを待っている間、魈は床の木目を数えるようにじっと見つめていた。どこへ視線をやろうにも、ショウウィンドウにはお行儀よく美しい人形が並んでおり、棚には人形を世話するためのドレスやミルクがびっしりと陳列しているのだ。人形屋とは言っても、ここにいるのはただの人形ではない。貴族の愉しみとして注目を集めたこの人形は、全て文字通り生きたものなのだ。安易に目覚めさせてしまうようなことがあってはいけないと、眠る人形たちの間を渡る香のように、魈はそっと息をひそめた。
「お待たせいたしました。こちらでございます」
店主の招きを得て、奥へと進む鍾離の後ろをそっとついていく。先ほどよりも部屋には豪奢な装飾が施されていた。ぼんやりとした月明りにも似た光が天井から差し込んだように感じる。それがシャンデリアなどといった類ではなく、上等な椅子に座らされたドールから放たれているものだと理解したとき、魈ははっと息を飲んだ。そのドールが、夢の中の少女とあまりにも似ていたからだった。
「最上級品月華≠ノなります」
「ほう……随分と美しい少女だ」
未だ微睡むように瞳は閉じたままであったが、それでもその美しさは最上級品と謳うに相応しく、月華を冠するに十分に値するものだった。
それは鍾離の目から見ても確かで、惜しみない賛美を彼はこの少女に贈った。
「この髪の色。夜露を吸った濡羽のような深みがある。肩にかけて紫を帯びるのは、夜明け前の空の色を彷彿させ、肌は雪より白く、微かに金を含む。これは花ではないが、だが花よりも儚く、美しい。人が手にできぬ夢を、この少女に封じたのだろう。見事な職人業だ」
「流石は鍾離殿。お目が高くいらっしゃる」
店主は鍾離の目利きに微笑み、まるで高貴な姫君に傅くように少女の足元に跪く。ふわりと閉じた目元を見つめる瞳には、慈愛すら感じられた。
「これほど良いものだ。選ばれるのも容易ではないだろう」
「ええ。店に卸す際にも、名人が随分と渋りましてね。適うことなら手元に置いておきたかったようなのですが……そうもいかなくなりまして」
「――と、言うと?」
鍾離の含みのある表情に、店主は御分かりでしょうと困ったような微笑みを浮かべる。そう、とんと困ってしまったのだ。出来ればもう少し手元に置いておきたかっただけに、こうも訪れが早いとは思いもしなかったのだから。
「とっくに、選んでしまっていたようで」
ふわりと、羽のような睫毛が揺れる。閉ざされていた紫珠の双眸が覗き、ぱちりと瞬いた。そうしてそのまま、鍾離の後ろで固まったままの魈へとぎゅうっと抱き着いては、極上の笑みを浮かべる。
――観用少女。それは、生きた人形。夢のように美しい少女を模った、極上の逸品。
「お前は、何故……っ、離せ」
少女から離れようとするも、少女は嫌がるように首を振って、更にきつく抱き着いてくる。困った様子の魈を他所に、鍾離はさっそく店主と少女を購入する手続きを進めていた。その様子に魈は慌てて思いとどまるよう鍾離に声をかけた。
「お待ちください鍾離様! 我は買うなど一言も……」
「だがこれは少女だ。目覚めさせたのはお前なのだから、お前が引き取るのが道理だろう」
「ですが……っ、これほど高価な物を……」
依然腕の中で甘える少女を魈は複雑な目で見つめる。夢のように美しい少女が、待ちわびたように抱き着いて離れてはくれなかった。
貴族の愉しみと言うだけあって、観用少女というものはそもそもが高価な品であるため、一般人の所有はそう適うものではない。その上この少女は名人の逸品の中でも、最上級品と称される傑作である。品代だけでもその値は天井知らずであった。
魈はそう易々と迎えられるものではないと、少女の甘やかな瞳に胸を痛めながら離れようとする。けれど、その時にはとっくにそれらの懸念など無用であるとばかりに、鍾離によって小切手が切られていた。
「だからこそだ。何せこの少女は長年のお前の不調をあっさりと解決してくれた恩人なのだからな。受けた恩を返すと思えば、安いくらいだ。そうだろう、店主?」
「彼女が自分の意志で選んだ御方ですからね……こちらとしてもその道理は尊重されるべきです。勉強させていただきますよ」
このくらいでどうでしょう、と少女の値が決着を見せたところで、とんとん拍子に進んでしまった大きな買い物に呆然とする魈に店主は和かな微笑みを浮かべる。
「夢でお逢いになられたのでしょう。この子が目覚めてから、ずっと私どもはあなた様をお待ちしていたのですよ」
「夢……」
何を馬鹿なことをとは一概に言えはしなかった。名人の逸品であるそれは、持ち主を選ぶ≠烽フであることを魈も知っていたからだ。
生まれてこの方、緩やかに魈の身体は何かに蝕まれていた。どれほど腕のいい医者に診せても解決した試しはなく、原因すら不明であるときた。このまま一生終わることのない苦痛を抱えて生きていくのだと、半ば諦めていた時だった。夢の中で、不思議な少女と出逢ったのは。
少女は突然魈の世界に現れたかと思うと、夢見る眼差しで魈を見つめ、柔らかに微笑みかけた。祝福を贈るように額にキスを落とし、何事かを囁いた。それが覚醒を促したように目覚めると、魈はこれまで沈殿していた重苦しい痛みがさっぱりと消えていたことに気づいた。身体の隅々まで清らかな光が満ちていくような、そんな、長い夜が明けた感覚に僅かな奇蹟を想起した。
「……我を、ずっと待っていたのか?」
腕の中の少女にそう問いかければ、少女は極上の笑みを浮かべる。その微笑みが何よりの答えだった。
それならばもう仕方ないと、魈は漸く観念したように眉を下げた。困っているようにも、どこか安堵しているようにも受け取れる繊細な表情をしていた。
観用少女の世話はそう複雑なものではない。日に三度のミルクと、週に一度の砂糖菓子。後は目一杯の愛情を注いで育てるだけ。鍾離というこだわりの強い人間の手で、一級のもので整えられた環境は少女を育てるのにこれ以上ないほど適していた。何の憂いも問題もないと思われたが、魈は少々困ったことになっていた。
「……珠蓮。また飲んでいないのか?」
「……」
珠蓮と名付けられた少女は、カップにそそがれたミルクをそのままに、もの言いたげに魈を見つめていた。せっかく温めてやったはずのミルクは、もうとっくに冷え切り、静かに沈黙している。何度目かもわからぬ無言の抗議に、魈は頭を悩ませた。
「温め直してくる。少し待っていろ」
カップを引いてキッチンに戻る魈を、珠蓮はまた、もの言いたげに見つめている。その視線に魈も気づいていたが、何も言わなかった。ただ、何度カップを上等なものへと変えても、変わらない彼女にどうしたものかと悩みを募らせる。小鍋で新しく温めたミルクに映る自分の顔は、随分と悩んでいるように見えた。
「ほら、温めてきたぞ」
「……」
コトリと珠蓮の目の前に新しいティーカップを置く。珠蓮をそれに手をつけず、無言で魈を見つめた。先程と何一つ変わらぬその仕草に、魈はため息を吐いた。
「珠蓮。何度も言っているが、いい加減自分で飲めるようにならなくては。以前は自分で飲んでいたのだろう? いつまでも甘えていてはいけない」
そうやって宥めるように魈が諭せば、珠蓮は『でもでも、だって』というようにいやいやと首を振る。今にも泣きだしそうな、憐れな表情で見つめる珠蓮に、魈はまたしてもとんでもない意地悪をしているような気になってしまう。その静かな攻防が数分ほど続き、そうして再び、魈は敗北した。
「こんなにも手がかかるのはお前くらいなものだ。今は我もお前の世話を焼いてやることが出来るが、これから先はどうなるのか分からないのだぞ。その時のためにも自分で飲めるように――って、聞いていないな」
ティースプーンで掬ってやったミルクをちびちびとなめる珠蓮に、魈はやれやれと肩を竦める。どういうわけか、珠蓮はいくら上等なカップやミルクを用意してやっても、魈がこうして手づからティースプーンでちまちまと与えてやらなければ飲んではくれないのだ。最初はそれも仕方ないと、徐々に自分で飲めるように教育しようとしていたのだが、ミルクを買い足すにあたって何気なく店主に零したところ、以前は自分で飲んでいたというのだから、魈は驚いた。まさか、甘えているだけとは思わなかったのだ。
また負けてしまったと頭を痛めながら珠蓮にミルクをやる魈に、静かに攻防の行方を見守っていた鍾離はくすりと笑った。
「この子は本当にお前が好きらしい。お前に構われたくてしょうがないのだろう」
「鍾離様……ですが、我もいつまで付きっきりでいられるかは分からぬ身です。今のうちに珠蓮には覚えてもらわねば……」
「その時はその時でこの子もそれなりにやるんじゃないか? この間は俺が温めたミルクを渋々なめていた」
「し……!?」
魈は勢いよく振り返り、咎めるように珠蓮を見つめた。叱られる気配を感じたのだろう、先ほどまであれほど見つめてきていたというのに、今は目を逸らしている。魈は呆れたように「この贅沢者め」と呟き、ミルクで濡れた口元を拭った。
「観用少女は選んだ人間の愛情を受けて花開くもの。その点でいえば、この子は間違いなく極上品だな。このとおりお前しか目に入っていない様子だ」
惜しみない鍾離の賛美に『そうでしょう』と同調するかのように珠蓮はにこにこと極上の笑みを浮かべる。少女に惹かれて迎え入れた主人たちは、皆その自分だけに向けられる極上の笑みを心待ちにし、生き甲斐すら見出すものだが、魈はその限りというわけではないようだ。ただひたすらに、彼は困惑していた。自分などより余程素晴らしい方が目の前にいるというのに、あろうことか目もくれず、自分だけを求める少女が理解できないのだ。少女はいったい自分の何を気に入ったのだろう。それはまったくもって見当がつかなかった。
ちびちびと、ティースプーンに掬われたミルクを珠蓮の小さな舌がなめていく。
少女の食事は、日に三度。カップ一杯分の極上のミルク。そして週に一度の砂糖菓子。
珠蓮の食事は時間がかかる。日に三度。カップ一杯分の極上のミルクを小さなティースプーンで飲ませてやらなければならないからだ。砂糖菓子も同じこと。魈の手からでないと、この少女は見向きもしない。鍾離の言う通り、どうしたって魈に構われたくてしょうがないのだ。
「はは、お前の負けだな、魈」
「鍾離様」
「惚れた方が負けとは常々言うものだが、お前ではこのお嬢さんには勝てないだろう。なかなか強かな子だ。この子の押しには敵うまい」
「それは……」
これには魈も反論の術を持たない。ただの一度も、珠蓮の要求を拒むことが出来ていないのが現実であるからだ。自分でミルクを飲ませるどころか、ティースプーンでは時間がかかるからと大きめのスプーンに変えたところ、珠蓮の機嫌を損ねてしまったことがある。ただ拗ねるだけならば可愛らしいものだったが、あまりにも傷ついたような表情に魈は耐えきれず、結局元のティースプーンに戻してしまった。どうもああいった珠蓮の憐れな表情には弱くてならない。稚くて、可哀想でたまらなくなってしまう。『そんな表情をしないでくれ』『我が悪かった』と滑らかな髪や頬を撫でて慰めてしまうのも、一度や二度のことではなかった。
「お前はとんでもない奴だ。観用少女というものはみんなこういうものなのか? それとも、お前が特別なのだろうか?」
まあるい真珠のような瞳が魈を粒らに見つめる。それだけで、吸い込まれるような、そんな意識を感じた。
「ふぁ……」
不意に、珠蓮が欠伸を零す。眠がるように瞳をうとうとさせている。
「眠いのか? ミルクがもう少し残っている。これを飲んだらベッドに連れて行ってやる。もう少し頑張れ」
あまり開かなくなった口を開けるように、魈の指先が珠蓮の唇をなぞる。促されるまま開いた口にミルクを流し込んだ。そうやって数度それを繰り返してカップの中のミルクを空にすると、半分夢の中にいる珠蓮を抱き上げ、寝室へと運ぶことにした。
「珠蓮を寝かせてきます」
「ああ、今日は特に予定もない。そのまま珠蓮に構ってやるといい」
「は……ですが……」
「勉強はもう終わっているのだろう? 休息も時には必要だということだ」
鍾離にそう言われてしまうと、魈は黙って頷くほかになかった。今までは原因不明の病に侵されていたこともあり、勉強するか寝るかの二択しかなかったのだが、夢で珠蓮に会ってからは病も完治したことから、眠る必要がさほどなくなったのもあり、これを機に前々から興味のあった武術をはじめたのはいいが、珠蓮はこれがあまり気に入らないようで、窓越しに鍛錬に励む魈を恨めしそうに見ていることが多かった。鍾離はこれを直射日光は少女には良くないからと、遠ざけたのを拗ねているのだと笑っていたが、魈は本当にそうなのだろうかと疑問を抱いていた。
それからだ。ただでさえ普段から甘えているというのに、輪をかけてかまわれたがるのは。小さな、不思議な恩人を前に、魈は自分がどうするべきなのか分からないでいた。
「何故お前は我に構われたがる……? 我でなくとも、お前なら選び放題だっただろうに」
ベッドに横たえさせた珠蓮にそう尋ねてみても、答えは返ってこなかった。ただ、微睡むような真珠の瞳が魈を見つめていた。
すらりと伸びた珠蓮の腕が、魈の身体を引っ張る。突然のことでよろめいた身体は、いとも簡単にシーツへと沈んだ。
気づけば、鼻先が触れ合いそうな距離にお互いの顔があった。紫色をした、真珠の瞳に吸い込まれそうになる。不意に近づいた彼女の唇が、額にそっと口づけを落とした。
ゆっくりと瞳を瞬かせる魈に、珠蓮は柔らかに微笑を浮かべた。そうして躰を丸めて、ぎゅうっと腕の中へと収まる。まるで小さな恋人の、可愛らしい愛情表現だった。
『この子は本当にお前が好きらしい。お前に構われたくてしょうがないのだろう』
鍾離の言葉が魈の頭の中で反芻する。『まさか』『そんな筈』などといった衝撃が静かに奔った。
「お前は……我のことが……好き、なのか……?」
そんな当たり前のことにようやく気付いたのねと言うかのように、珠蓮の頭がぐいぐいと胸に押し付けられる。他の誰でもない、あなたがいいのだと。未だ言葉を話せない小さなお姫様は必死に伝えてくれていたのだ。この、自己肯定感が著しく欠落している困った彼でもわかるように。それでもまた、こんなにも時間がかかってしまったのだけれど。
「――……っ」
言葉にならない心の叫びを押し込めるように、魈は腕の中の少女を抱きしめた。毎日欠かさずブラシを通した柔らかな髪を崩すのはしのびなく、そっと、そぉっと、撫でた。少女が囁くように鈴の音のような笑い声を上げる。腕の中の温もりを、愛しいと感じた。
「お前には敵いそうにない」
何の憂いもなく、笑って過ごしていてほしいと思う。その微笑みが曇ることがないように。絹のシーツでふわりと包んで、美しいものに囲まれて。そうやって過ごしてくれさえするのなら、そこに自分がいなくとも構わないとすら思っていたのに。このお姫様は、あろうことか王子様にどこの馬の骨とも知らぬ自分を選んでしまったらしい。とっくにそう決めて、掴んで抱き着いて離さぬから。もう、受け入れるほかないのだ。
「待っていたのは……我の方だったのかもしれないな」
甘い匂いがする。絹のように滑らかな髪をゆっくりと撫でる。腕の中の愛しい温もりを離さぬように、少年は少女をぎゅっと抱きしめた。
翌日、当たり前のように温めたミルクを甲斐甲斐しくティースプーンで与える魈を見た鍾離は、ようやく観念したのかと、健気なお姫様にあっぱれと称賛を贈るのだった。